Hatena::ブログ(Diary)

ovanの社会科見学

2018-11-11

ブログを引っ越しました。

はてなより・・・・

2019年春「はてなダイアリー」終了のお知らせと「はてなブログ」への移行のお願い』

とのことで、「はてなブログ」へ引っ越ししました。


今度からは「はてなブログ」での更新になります。

URLはコチラ↓

http://ovanrei.hatenablog.com/


使い慣れたところが終了するのは痛いなあ。

引っ越し作業はずいぶん簡単で、こちらで書いた日記は全て引っ越しできた模様。


ほとんど読まれていないブログでしたが、お付き合いくださった方ありがとうございました。

これからもよろしくお願いします。



2018年11月11日

管理人「オヴァン

2018-11-03

2018/11/03 ジャパンバードフェスティバル/常総線の旅

24時間勤務アケで、細君とデート。


ジャパンバードフェスティバル

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バードウォッチングする人のためのイベントだね。

場所は我孫子

鳥さんグッズが売られていたのと、ものすごく高いバードウオッチング用の道具(双眼鏡など)が売られていた。

屋台も出ていて美味しそうなものがたくさん並んでいた。



手賀沼

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我孫子駅のホームで食べた唐揚げそば

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我孫子駅前のオブジェ

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そういえば、こちら側に降りるの始めてだ!




その後は取手から常総線の旅

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寺原駅

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ローカル線の旅だった。

スイカが使えるようになっていてビックリしたが、全部の駅がスイカ使えるわけではないからご注意ください。

2018-11-01

2018/11/01 新宿西口イベントコーナー「計量の日」/国立公文書館「プロジェクションマッピング」

24時間勤務アケで、細君とデート。


まずは新宿西口へ。

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11月1日は「計量の日」ということで、新宿西口イベントコーナーでイベントをやっていた。

マリンバの演奏をやっていて、全部聞いていたらイベントが終わってしまった(w

でも、良い演奏が聴けて良かった♪

「なつかよ」さん。

覚えました!!



次は国立公文書館

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プロジェクションマッピングをやっているというので来てみた。



動画はコチラ↓

D

映像はとても綺麗だった。




最後は高円寺の「ニカイ食堂」でディナー。

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手羽先がとても美味しかった。




良い誕生日になったよ♪

2018-10-30

2018/10/30 駒込散歩 07 潮泉寺/大圓寺/向丘一丁目児童遊園/一音寺/妙清寺/白山駅

本駒込駅付近から南西方向の白山駅まで歩く。

歩くと大した距離がないんだね。



◆潮泉寺

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縁引地蔵尊

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大圓寺

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ほうろく地蔵

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 「八百屋お七」にちなむ地蔵尊天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた?お七″を供養するために建立されたお地蔵様である。

 寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した焙烙(素焼きのふちの浅い土器)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。

 その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。

 お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。



山門

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高島秋帆(たかしましゅうはん)の墓

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斉藤緑雨(さいとうりょくう)の墓

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説明板

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高島秋帆(たかしましゅうはん)の墓>

秋帆、1798〜1866年(寛政10〜慶応2)。長崎の人。諱(いみな)は茂敦、通称四郎太夫。秋帆は号。幕末の砲術家アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に様式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(とくまるがはら)(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。

 翌年、鳥居耀蔵(ようぞう)のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝蔵番兼講式処砲術師範役を命ぜられた。


斎藤緑雨(さいとうりょくう)の墓>

 緑雨、1867〜1904年(慶応3〜明治37)。三重県の人。名は賢(まさる)。別号を正直正太夫(しょうじきしょうだゆう)。明治時代小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。

 かたわら種々の新聞に関係して文筆を振るう。終生妻子を持たず、俗塵(ぞくじん)に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外幸田露伴とともに「めざまし亭」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。  墓碑銘は幸田露伴




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道路を挟んだところに墓地があり、その中にお墓があった。

説明板は山門の前に建っていた。





◆向丘一丁目児童遊園

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◆一音寺

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◆妙清寺

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稲荷社

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白山駅

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ゴールの都営三田線白山駅



坂の多いイメージの文京区だが、今回散歩したエリアはほとんど坂もなく歩きやすかった。

エリア内にある東洋文庫で面白い企画展やっているので、細君と今度行く予定。

また駒込駅スタートになるね!

2018/10/30 駒込散歩 06 旧駒込浅嘉町/駒込出張所/定泉寺/本駒込歩道橋/竜光寺児童遊園/徳性寺

ほぼ本郷通り沿いに南下し、本駒込駅前まで来た。

少し歩き足りなかったので、白山駅まで行くことにする。



◆旧駒込浅嘉町

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 もと、駒込村のうちであった。

 天和2年(1682)の大火で、黒鍬(くろくわ)の者(江戸城内の作事、防火、城番などの雑事)の屋敷が、神田から青山浅河町に移ったとき、土地が不足で、この地で補った。青山の浅河と浅嘉が同音なので、駒込浅嘉町とした。

 江戸三代市場駒込の土物(青物市場)があった。




駒込出張所

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本郷消防署 駒込出張所




◆定泉寺

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本駒込歩道橋

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◆竜光寺児童遊園

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◆徳性寺

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続く。

2018/10/30 駒込散歩 05 旧駒込吉祥寺町/吉祥寺/旧駒込片町/南谷寺/養昌寺/洞泉寺

まわる順番を間違えて本郷通りを北に南に(w

坂がないので歩きやすいね。



◆旧駒込吉祥寺町

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 むかしは駒込村の農地であった。江戸時代初期に、越後村上城主堀丹後守の下屋敷となった。

 明暦3年(1657)の振袖火事(明暦の大火)後、水道橋(もと吉祥寺橋)の北側一帯にあった吉祥寺が映ってきた。そして岩槻街道日光将軍御成道)に沿って門前町屋が開かれた。延享2年(1745)から町奉行支配となった。

 明治2年吉祥寺門前町吉祥寺境内の全域を併せて、駒込吉祥寺町とした。

 江戸時代吉祥寺には栴檀琳(せんだんりん)といって、曹洞宗学問所があった。学寮・寮舎をもって常時1000人余の学僧がいた(現在の駒澤大学に発展)。二宮尊徳榎本武揚(たけあき)、鳥居燿蔵(ようぞう)、川上眉山や(びざん)らの墓がある。





吉祥寺

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 長禄2年(1458)太田道灌江戸城 築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一宇を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。

 天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりにあった橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。

 僧侶の養成機関として栴檀林(せんだんりん)(駒沢大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当時の幕府昌平坂学問所と並び称された。

古い堂塔

 山門 享和2年(1802)再建、江戸後期の特色を示す。

 経蔵 文化元年(1804)再建、栴檀林の図書収蔵庫。文京区指定文化財

墓所

 二宮尊徳江戸末期の農政家)         (墓地内左手)

 鳥居耀蔵江戸南町奉行)           (墓地内左手)

 榎本武揚江戸末期の幕臣、明治時代政治家) (墓地内右手)

 川上眉山(小説家)              (墓地内右手)



縁結び吉祥観音

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茗荷稲荷

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鐘楼

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経蔵

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 江戸時代、この寺は曹洞宗の修行所、栴檀林(せんだんりん)として知られ、経蔵は図書収蔵庫であった。現在の経蔵は、焼け残った旧経蔵の礎石をもとに、1804年(文化元)ふるいきまりによって再建したものと考えられる。

 旧経蔵は、1686年(貞享3)に建造し、1778年(安永7)に焼失と伝えられる。1933年(昭和8)に大修復を行った。

 屋根は、桟瓦葺、屋根の頂に青銅製の露盤宝珠(ろばんほうじゅ)をのせた「二重宝形(ほうぎょう)造り」である。外側の各所に彫刻を施し、意匠と技術に粋をこらしたみごとなものである。

 蔵内に、経典を収蔵する八角形の輪転蔵(てんりんぞう)がおかれている。建造物としての価値とともに、東京都内に残る江戸時代建造の経蔵として貴重である。



小出浩平先生顕彰歌碑

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こいのぼり



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河村光陽先生記念碑

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「かもめの水兵さん」



大仏

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二宮尊徳の「墓碑」

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 天明七年(1787)〜安政三年(1856)。相模の人。通称、金次郎。江戸末期の農政家。

 人物を認められて小田原藩下野国桜町の荒廃を復興したことで知られる。

 その後、常陸その他の諸藩の復興に農政家として、また政治力によって寄与するも、日光神領の復旧に従事中病死する。彼の思想・行動派後に「報復社運動」として展開するようになった。




川上眉山の墓

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 明治二年〜明治四十一年(1869〜1908)。

大阪の生まれ。名は亮あきら。小説家

東大を中退して尾崎紅葉や山田美妙と交わり硯友社に参加。

また「文学界同人とも交わる。

明治二十八年には社会批判を含んだ「書記官」などの作品を発表する。

後年、自然主義を取り入れようとするが行きづまり、ついに自ら命を絶った。



山門

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吉祥寺通用門

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通用門の後ろの隅にお地蔵様がいらっしゃった。






◆旧駒込片町

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 むかし、駒込村の内であった。後、麟祥院(りんしょういん)(春日局菩提寺)領の農地となった。

 元文2年(1737)町屋を開き、岩槻街道(将軍御成道)をはさんで、吉祥寺の西側の片側町であったので駒込片町と称した。

 明治5年までに、駒込浅嘉町の一部と、南谷寺(なんごくじ)や養昌寺(ようしょうじ)などの寺地を合併した。

 同24年、元下駒込村の内神明原(しんめいばら)の内を併せた。

 南谷寺目赤不動は、もと動坂にあったが、寛永のころ(1624〜44)三代将軍徳川義光が鷹狩りの途中立寄り、目黒目白に対して目赤不動と命名し、寺を現在地に移した。養昌寺(ようしょうじ)に、樋口一葉の思慕(しぼ)の人平井桃水(ひらいとうすい)の墓がある。



南谷寺

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目赤不動尊

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 この不動尊は、もとは赤目不動尊と言われていた。元和年間(1615〜24)万行(まんぎょう)和尚が、伊賀国(いまの三重県)の赤目山で、黄金造りの小さな不動明王像を授 けられ、諸国をめぐり、いまの動坂の地に庵を結んだ。

 寛永年間(1624〜44)、鷹狩りの途中、動坂の赤目不動尊に立ち寄った三代 将軍家光から、現在の土地を賜わり、目赤不動尊とせよとの命を受け、この地に移った。それから目赤不動尊として、いっそう庶民の信仰を集めたと伝えられている。

不動明王は、本来インドの神で、大日如来の命を受けて悪をこらしめる使者である。 剣を持ち、怒りに燃えた形相ながら、お不動さんの名で庶民に親しまれてきた。江戸時代から、目赤、目白、目黄、目青、目黒不動尊五色不動として、その名が知られている。

目白不動尊は戦災で豊島区に移るまで区内の関口二丁目にあった。



江戸五色不動

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◆養昌寺

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半井桃水(なかいとうすい)の墓

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 万延元年〜昭和元年(1860〜1926)。対馬に生まれ、名は洌(れつ)。桃水は号。別号は菊阿弥(きくあみ)。

 共立学舎に学び、明治21年東京新聞社に入社して、新聞小説作家として活躍した。「天狗廻状」「胡砂吹く風」などの時代小説を著した。

 桃水は、樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。

 墓は、墓地を入った突き当たりにある。


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◆洞泉寺

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源氏墓所

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近くに「文化財ウィーク」ののぼりが立っていた。

この期間じゃないと見られないのかどうかはわからない。



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 「先哲叢談(せんてつそうだん)」を著した原念斎をはじめ、江戸時代中・後期の著名な儒学者を出した原一族四代の墓所で、当時のまま現存しており、墓域は円頂角柱形墓石十基からなる。

 雙桂(そうけい)(1718年〜1764年)は、肥前唐津藩(後に下総古河に転封)の儒医であったが、五十歳で致仕し江戸で病死した。著書に「桂館漫筆(けいかんまんぴつ)」「過庭紀談(かていきだん)」などがある。

 敬仲(けいちゅう)(1748年〜1793年)は、雙桂の次男で古河藩儒となったが、のち江戸に出て幕府に仕え、寛政五年四十六歳で死去した。

 念斎(ねんさい)(1774年〜1820年)は、敬仲の子で折衷学派の山本北山に学んだ。文化十三年(1816)に著した「先哲叢談」は、儒学者の言行・逸話・詩などを資料として記述した歴史書で、近世儒学史の名著として知られている。著書はほかに「史氏備考」「念祖斎遺稿」などがある。文政三年三月十九日病死した。享年四十七歳。墓碑銘は佐藤一斎(坦(たいら))の書いたものである

 徳斎(とくさい)は、志賀理斎の子で京都に生まれ、念斎の養子となり北根岸村に住んだ。啓蒙的著作に「先哲像伝」がある。生没年不明。




続く。

2018/10/30 駒込散歩 04 天然寺/長源寺/教元寺/圓通寺/大運寺/講談社FSビル/旧岩槻街道と文学の道

先程のエリアからまだ本郷通り沿いに南に向かう。

このあたりも以前来た場所なんだろうけど、覚えがあんまりない・・・。



◆天然寺

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◆長源寺

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◆教元寺

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◆圓通寺

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◆大運寺

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講談社FSビル

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色鉛筆のオブジェがいいですな!




◆旧岩槻街道文学の道

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吉祥寺前の本郷通りは、人形の町岩槻に続く道である。江戸時代、将軍が日光東照宮へ向かう日光御成道としての役割を果した旧岩槻街道にあたる。絵図で見られるように、多くの店店が軒を連ねていたこの街道は、東京の大地の一つである本郷台地の中央を通っている。

 この尾根筋の道に対して、台地の縁にある根津神社から団子坂へ抜ける薮下通りは、明治の文豪たちの散歩道であった。

 付近には「吾輩は猫である」の舞台になった夏目漱石の旧居(猫の家)をはじめ、居宅2階で海を眺められたところから名付けられた森鴎外の観潮楼(かんちょうろう)の跡などがあり、この地と文学のかかわりの深さをしのぶことができる。



続く。

2018/10/30 駒込散歩 03 富士前小学校跡/駒込富士神社/江岸寺/旧駒込上富士前町/建設省土木研究所発祥の地/岩槻街道

この日記のエリアも10数年前に一度来たことがある。

たぶんmixiに・・・・・・

先程のエリアから少し西へ移動。

ほぼ本郷通り沿いとなる。



◆富士前小学校跡

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 明治27年9月、旧富士前町10番地この地に東京市立藤前小学校が創立された。3教室の校舎で、児童97名であった。校名は、富士神社の前であり、また町名から名付けられた。

 地域の発展は、児童数の大幅増となったが、校地がせまく、大正5年、遠くの旧神明町435番地あたり、現在の区立九中の敷地の一部を買収して新校舎を建設して移った。当時児童数は1050名であった。

 昭和3年富士前小学校旧校舎に昭和小学校が開校し、翌年現在地に校舎を新築して、富士前小学校から児童600人が移った。

 なお、富士前小学校には次の学校が付設された。

 〇尋常夜学校・大正7年開校。経済的な家庭の事情で昼間小学校に通学できない児童のために設けられた。修業年限2か年。

 〇本郷区第一実業女学校大正7年開校。昭和10年には本郷区高等家政女学校となる。

昭和20年2月25日の空襲で、文京区内小学校では最初に校舎が焼失した。本郷区最北部の小学校として設置された本校は、同21年3月31日をもって廃校となり、その輝かしい歴史を閉じた。

 校歌(第一節)

富士の高嶺の名も清き   学びの庭の朝夕に

   仰ぐ雲井の姿こそ    やがて我等が  かがみなり




駒込富士神社

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 富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。

 寛六年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。

社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。

 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。

 山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区では、「駒込のお富士山」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。



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富士神社は、この富士塚の上に建っている。



駒込富士神社

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駒込ナス

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 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。

 このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。

 とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり。タネ屋に卸していました。現巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込滝野川など周辺の農家が優良品種の採種に大きく貢献していました。



鳥居

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◆江岸寺

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 曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政 である。以後当寺は鳥居家の江戸菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦 等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(しもうさやはぎ)(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い では、家康から伏見城 の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成 等の総攻撃を受けた。これが関が原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力付討死し、城も落ちた。

 その子忠政は大坂の陣では、江戸城留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英(ただてる)の時、下野国壬生(しもつけのくにみぶ)4万石に移封された。

 鳥居氏の子孫、鳥居忱(まこと)は壬生藩の江戸の大名屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(こうしんせい)(藩の奨学生)として大学南校東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。

 東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詞をてがけた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎 の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居忱(まこと)はここに眠っている。



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◆旧駒込富士前町

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 もと伝通院領の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延享2年(1745)から町奉行支配となった。

 富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上(かみ)の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。

 明治維新後、きょう柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。

 町内に都立六義園がある。柳沢吉保(よしやす)(5代将軍綱吉の御用人・大老格)が、元禄十五年(1702)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。

 明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。




建設省土木研究所発祥の地

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 大正11年, この地に, 私たちのくらしをまもる土木技術の研究開発を推進するため, 内務省土木試験所が設置されました。昭和23年建設省土木研究所と改称, 昭和54年筑波研究学園都市に移転しました。

 現在も, わが国の土木技術に関する研究及び開発を総合的に実施し, 災害を防ぎ, 豊かな国土と快適な生活環境をつくるため, たゆみない努力をつづけております。




岩槻街道

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 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから”将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で“岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。

 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は”本郷通り”である。



続く。

2018/10/30 駒込散歩 02 稲荷坂/新明公園/駒込名主屋敷/縁結び子育て地蔵尊/駒込天祖神社/富士神社とその周辺

この日記のエリアは10数年前に一度来たことがある。

日記はmixiに残っているはず。

前の日記のエリアから南下していく。



稲荷坂

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 坂の名は、かつてこの辺りにあった「宗十郎稲荷」に由来する。伝承では、この宗十郎稲荷は「おこり」(瘧:間欠熱の一種で多くはマラリアを指す)にご利益があり、「おこり」の罹患者が平癒の願をかけ、全治すると履いてきた草履を脱いで宗十郎稲荷の祠前に奉納したという。またこの坂道は宗十郎稲荷の杉林の中にできた道であり、坂下の田端方面から駒込朝嘉町の駒込土者店(つちものだな)へ野菜等を出荷するために、百姓が毎朝急いで通った近道であったという。(安政年代駒込富士神社周辺之図図説)




◆新明公園

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駒込名主屋敷

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拾年くらい前に来たことがあるが、その時は敷地内に入ることができなかった。

今回は文化財ウィークのおかげなのか、いつも入れるようになっのかは不明だが、敷地内には入ることができた。

建物の中には入ることができず、残念だった。


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写真には見えないが「文化財ウィーク」ののぼりや案内があった。


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 高木家は慶長のころ、当時伝通院領であった駒込一帯の開拓を許可され、そのまま土着したといいます。武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」(1830年完成)に紹介されており、草創(くさわめ)名主として位置づけられます。代々嘉平治(かへいじ)を襲名し、農産のかたわら上駒込村(現在の駒込地区の北半)の名主役を務めていました。

 薬医門形式の表門は宝永年間のものと伝えれラれています。家屋も宝永年間の創建とされますが、火災にあって享保二年(1717)に再建されたと伝えられます。式台つきの玄関は、一般の町屋では許されず、格式の高いものです。

 名主屋敷跡として全体の遺構をよく保存しており、貴重な文化財と言えます。指定面積は1552.56?で、表門、主屋、土蔵などが含まれています。




◆縁結び子育て地蔵尊

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駒込天祖神社

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稲荷神社

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神社/須賀神社/戸隠熱田神社

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神社裏にあった庚申塔

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鳥居

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 江戸時代駒込の氏神として、神明さまと呼ばれ、里人に親しまれてきた。社伝によると、文治5年(1189)源頼朝が奥羽征伐(藤原泰衡追討)の途中、この地に立ち寄り、夢のお告げで、松の枝に大麻伊勢神宮のおふだ)がかかっているのを見つけた。頼朝は、討伐のよい前触れと喜び、この地に神明(天照大神)を祭ったのが、この神社の起源と言われる。社殿の様式は、神明造り。

大麻のかかっていた大木は、神木として崇められ、さしわたし4尺(12m)もある大木と伝えられている。(『江戸砂子』から)

その後、宮守もなく神木の根元に小さな祠を残すだけとなったが、1650年頃、堀丹後守利直によって再興された。神木は、その後枯れたという。

社殿の裏に、都立駒込病院あたりにあった「鷹匠組」の寄進名が刻まれた石柱が、いまも残る。




◆富士神社とその周辺

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 江戸時代、富士神社富士山を神としてまつる振興の拠点として栄えました。社殿は、富士山に見立てた小山の上にあります。今でも7月1日の大祭には、大勢の人でにぎわいます。神社わきの本郷通りは、江戸時代に将軍の通行路としてひらかれた道です。

 近くに、名庭園の「六義園」、古いお寺の「吉祥寺」、江戸時代の「青物市場跡」、少し離れて八百屋お七の墓のある「円乗寺」、「白山神社」など名所・旧跡があります。




続く。

2018/10/30 駒込散歩 01 駒込駅/アザレア通り/駒込日枝神社/木戸孝允駒込別邸跡/新明北公園/新明坂/旧駒込新明町

24時間勤務アケで、駒込から白山まで歩く。

この日記では2018/09/13に日枝神社がうまく写真が撮れなかったので再度訪れることにしたエリア。

http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180913/1537087608

そこから南へ向かって新しい場所を散策する。



駒込駅

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スタートはJR山手線駒込駅



アザレア通り

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駒込日枝神社

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 旧上駒込村字新屋敷の鎮守。東側が開けていたことから江戸時代は「朝日山王宮」と呼ばれていた。

 祭神は大山咋神を主神とし、素戔鳴尊・大己貴尊・少彦尊を合祀している。

 「新編武蔵風土記稿」は、慶長年間(1596〜1614)以前から祀られていたとする説を紹介している。

 風土記稿編纂当時の神主は沢田近江といい、先祖の大江免毛が万治三年(1660)からその任にあったとしている。また、元文元年(1736)に大江大夫橘為稠によって再興されたとする説があるほか、延享元年(1744)に本社が造営されたという記事が「武江年表」・「新編江戸志」などに見られる。

 江戸時代の小日向の僧、津田敬順は、その著書『遊歴雑記』の中で、神主の沢田近江の居宅からの眺望が最もすばらしいと述べている。また、「実に雅人の愛すべき土地」といい、歌人俳人が来訪して宴を楽しみ、自らも沢田の居宅で茶を楽しんだことも記されている。

 境内には、明和二年(1765)の銘がある手水鉢があり、鳥居の脇には、正面に「右朝日山王宮」と刻まれた、文久元年(1861)のものと思われる道標がある。また、「傳中親睦会」と刻まれた石柱があるが、これは古い鳥居の一部である。「傳中」は「殿中」とも書き、上駒込村の字の一つで、六義園柳沢吉保の屋敷だった頃、将軍綱吉の御成を待つ供の様子が、あたかも殿中の様であったことから、その一帯をこう呼ぶようになったという。




稲荷神社

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稲荷神社

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鳥居

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木戸孝允駒込別邸跡

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現地この碑にはこれ以上情報を得ることができなかった。

木戸孝允の旧名は桂小五郎





◆新明北公園

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◆新明坂

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google mapに載っていたので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。




◆旧駒込新明町

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 もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治24年東京市に編入された。

 町名は、駒込の総鎮守天祖神社の旧称である神明社のあることから名づけられた。

 駒込一富士二鷹三茄子   (古川柳)

 藤は富士神社、鷹は鷹匠屋敷で現駒込病院の地にあった。また富士神社裏一帯の畑からは富士裏のなすがとれて、有名であった。






続く。

2018-10-28

2018/10/28 03 武蔵大和散歩 清水神社/清水観音堂/本村橋/狭山公園/西武線

旧吉岡家受託の後は武蔵大和を散歩。

多摩湖などを見る。



◆清水神社

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境内社

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清水囃子 モニュメント

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  清水囃子は幕末に始まったそうです。その当時練習はなかなか大変だったようです。

  農家が暇なのは冬ですから、どうしても練習は寒さが身にしみる時期に行われます。練習場所 は清水神社境内にありました公会堂でした。

 練習には、丸太に荒縄をぐるぐる巻き付けて太鼓に見立てて数人が並んで、テレツク、テレツクと拍子に合わせて打つのですが、昔の公会堂は窓ガラスも割れ、すきまだらけの床からは冷たい風が吹き込んで、蒲(がま)を敷いただけでは、居ても立ってもいられないほどでした。

 毎日寒げいこが続いて、清水神社の森に笛や太鼓の音が響きました。

 戦後の昭和二十八年に、しばらく途絶えていたお囃子が始められ、現在も氏子の皆様のご協力により清水囃子として引き継がれ祭礼や市の催しなどで演じられています。また清水囃子は市技芸の指定を受けています。



鳥居

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◆清水観音堂

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狭山三十三観音霊場 十五番札所 清水観音堂

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 狭山三十三観音霊場狭山丘陵付近に点在し、一説には天明八(1788)年に創建されたといわれている。清水観音堂は、十五番目の札所である。

 観音巡りは、人々の心の支え、安らぎを求めるためのもので、明治の中頃まで盛んであった。

 本尊は「正観世音菩薩」で、高さ一尺五寸(約45センチメートル)の立像が安置されている。

 清水観音堂詠歌(「武蔵野狭山観世音順「ネ豊」記」より)

   清く映れる水の面

     ふかきちらかひを くみてしるらむ 

※「ネ豊」の部分は漢字が出てこなかった。レイと読むとのこと。




清水本村橋の石橋供養塔

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 この供養塔は方柱形石碑で、天保四(1833)年、前川に石橋を架けた際、建立されたものである。

 前川に架けられた清水本村橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。

 建立以来、清水本村橋の南のたもとにあったが、平成十六(2004)年一月、人道橋の設置工事に伴い、現在地へ移された。




砂の橋の石橋供養塔

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 この石橋供養塔は、文化十一(1814)年、清水村の原七郎左衛門母妙智尼が建立したものである。砂の川(空堀川)に架けられた砂の橋の安全や維持、さらには現世と来世の安らかであることを願う、当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。

 大正十五(1926)年、老朽化した砂の橋を架け替える際、清水観音堂敷地内に移設された。




◆本村橋

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狭山公園

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宅部池(やけべいけ)

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 この池のあたりは、葦(あし)の繁茂する湿地帯で、そのほとりの道は、大和村から宅部および埼玉県に通じ、近郷の人びとの交易に重要な道でした。

 村山貯水池が完成間近な1925年(大正十四年)八月、大和村狭山に住む”たっちゃん”(当時10歳)という泳ぎの上手な子供が、この池で泳いでいておぼれてしまいました。工事をしていた人の中に、海軍兵経験の人も何人かいて助けに入りましたが、そのうちの二人も池にのまれてしまったと語りつがれています。

 それ以来、この池を「たっちゃん池」と呼ぶようになりました。




多摩湖

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途中で買ったお弁当を二人で食べる♪





西武線

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帰りは西武線で懐かしの国分寺へ!

すっかり変わってしまった国分寺を少し散歩して帰った。




高円寺到着

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駅からの夕日がきれいだった。



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高円寺フェスでお神輿が出ていた。




細君ととても楽しい一日を過ごせて幸せだった♪

2018/10/28 02 旧吉岡家住宅

淀橋市場の後は買い物したものを一度家に置いて・・・・

武蔵大和にある「旧吉岡家住宅」へ


◇主屋兼アトリエ

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アトリエ

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 主屋の建築は、明治中期のものと考えられます。建築形式は、武蔵野の農家に見られる田の字型の四間取り形式です。室内には欄間のモダンなデザインが見られます。

 昭和19(1944)年には、吉岡が自ら土間をアトリエに改造しました。

 昭和30年ごろには、養蚕のために茅葺屋根の胸に設けられた煙抜きを雨漏りが深刻になったため、撤去しました。

 さらに昭和37(1962)年から38年にかけて大規模な改築が行われ、屋根は低く切り詰められ、瓦葺きに変えられました。玄関の入り口には大理石が敷かれ、2階に上がる階段も付けられました。アトリエも、天井を高くし、採光を考えた造りとなりました。

 アトリエでは、吉岡自身の数多くの作品が生み出されたほか、昭和42年には法隆寺金堂壁画の再現模写作業がこの場所で行われるなど、美術史においても貴重な役割をはたしています。




下屋(げや)下駄

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写真、なんでこんな白飛びしちゃったんだろ・・・(汗


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 下屋の下に丸材で作られた下屋下駄があります。

無節で継ぎ目のない杉の丸太材で造られており、東西方向に長さ8間(約15m)西側に4間(約7m)に及ぶ太い材料です。

 南材と西材が交差する部分は、捻竿鯱(ひねりさおしゃち)の技法を使っており、きわめて難しい宮大工の技です。

 (寺院建築では丸桁(がぎょう)と言い、古刹で良く見ることができます。)



捻竿鯱(ひねりさおしゃち)

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僕が一度解体したら元に戻せなさそうだったのでやめておいた(w




◇中門(ちゅうもん)

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 中門は、東側の道路から屋敷内に入るための門でした。しかし、昭和37(1962)年〜38(1963)年の主屋改修時に表門に長屋門が設けられたので、この場所に移されました。

 現在は、主屋西側に設けられた坪庭への門として使われています。

 中門の形式は、支柱の上に切妻屋根を載せた棟門です。2本の主柱にそれぞれ添え柱のつく、いわゆる「腕木門」で、移設に際して一部の部材が取り替えられていますが、往時の構造をよく残しています。

 屋根は、「起り(むくり)屋根」の構造をしています。これは、日本独自の建築様式で、全体的に柔らかさを出すことができます。





◇蔵

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 土蔵は、江戸時代以降に、城郭で発展した技術が生かされ、火災や盗難防止のために盛んに建てられました。

 吉岡家の蔵の形態は、置屋根で出入り口と窓の開口部に観音開きの防火戸が見られます。内部1回の壁に打ち付けられた木札から、明治17年ごろの建築と判明しました。

 蔵の内部は二階建てです。昭和前期(吉岡が購入する昭和19年以前に)、外側の損傷を補強するためモルタルでこれを覆ったということがわかりました。

 入り口側の壁の上には、「山藤」の文字が掲げられていますが、これは吉岡が家屋敷を購入する前の持ち主である池谷家の藤右エ門の名に由来するものです。




井戸と電気設備

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離れたところに「井戸

そのすぐ裏に懐かしい電気設備が。



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かなり古いね・・・。




長屋門

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 この長屋門が吉岡家に建てられたのは、昭和37(1962)ねんから昭和38(1963)年の主屋改修時です。東村山にあった他家の長屋門の解体部材を用い、現在地に再建しました。

 長屋門日本の伝統的な門形式の一つであり、江戸時代に諸大名の武家屋敷門として多く建てられました。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせましたが、その一部に門を開き、一棟としたものが長屋門の始まりと言われています。

 従って、門の両側部分に門番の仲間(ちゅうげん)部屋が置かれ、家臣や使用人の居所(いどころ)に利用され長屋門と呼ばれるようになりました。

 その後、長屋門は上級武士の住宅の表門の形式として広く利用されるようになり、明治以降は各地の富農の家屋敷にもつくられるようになりました。






吉岡堅二旧宅

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 日本画家・吉岡堅二が、昭和十九年(1944)年に転居してから平成二(1990)年に亡くなるまでの間、日本画創作の場であったアトリエ兼住まいである。

 母屋の建築年代は不明であるが、東側に土間、西側に和室四間をもつ、武蔵野の農家の典型亭的な形式であったと考えられる。移転当初、以前住んでいた東伏見から運んだ部材などを利用して、土間をアトリエに自分で改修した。

 昭和三十七〜三十八(1962〜1963)年に、茅葺屋根を瓦屋根にし、アトリエの天井を高くして明り採りを設け、二階に二部屋を設置し、玄関の土間を大理石に、廊下周りの障子をガラス戸にするなどの主屋の改修を行った。また、それまでの門を主屋西側に移築し、長屋門を新たに移築した。その後もアトリエの改修などを重ね、現在の形となる。

 作品のモチーフにするために、庭にはカキ、キーウィなどの果物や、イチリンソウニリンソウモクレンなどの野草や樹木がみられ、ネコやヤギ、キジカラス、ウコッケイなどの動物を飼っていた。



登録有形文化財・旧吉岡家住宅

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 平成29年5月2日付で、日本画家・吉岡堅二の旧宅(主屋など4件)が国の登録有形文化財に登録されました。

 豪農層の農家の景観を保つ、明治中期の建築物が現存していること、この建物で半世紀近く日本画家・吉岡堅二が創作を行ったという点が評価されたものです。





ボランティアガイドの方も丁寧に解説して下さり、大変良かった。

これからも大事にしていきたい文化財だね!

2018/10/28 01 淀橋市場まつり

お休みで、細君と大久保にある淀橋市場のお祭りに行ってきた。

去年も来たこともあるが、お野菜など格安で販売していてうれしい♪


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去年来たときの様子はコチラ

2017/10/22

http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20171022/1508726013

そういえば雨が降ってたね・・・・。



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宝船

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まつり中は屋台やお店が並んでいるが、普段はギッシリお野菜など取引される商品が並んでいるとのこと。



やきいも

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ホクホクで美味しかった。


おでん

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味噌がとても美味しい!



他に安い商品を買って帰宅。

1か月に一度くらいやってくれないかな(w