3月4日~3月10日(我孫子)

写真
八坂神社@我孫子
旧村川別荘@我孫子
延寿院@我孫子

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3月4日(月)晴

24時間勤務(当務3)

10237歩

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3月5日(火)曇り/雨

24時間勤務アケで・・・。

高円寺整形外科へ行く。
突き指(マレットフィンガー)まだ治らず。
新しく固定具を作ってもらった。

7831歩

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3月6日(水)曇り

休み♪

ビデオ・ブログ作業。

3173歩

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3月7日(木)曇り

24時間勤務(当務1)

7602歩

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3月8日(金)雪/曇り

24時間勤務アケで・・・。
消防訓練。
15:45までかかった。

13487歩

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3月9日(土)晴

休み♪

我孫子散歩 01 高円寺氷川神社/我孫子駅/我孫子駅前/八坂神社/お稲荷さん/祠
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/200000

我孫子散歩 02 慰霊塔/我孫子駅南口東公園/大光寺/従是子神道碑/我孫子宿本陣跡/我孫子市デザインマンホール
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/200000_1

我孫子散歩 03 旧我孫子宿名主邸・小熊邸/我孫子宿、水戸道、成田道追分/金八稲荷神社/子之神 大黒天「山門(開山一千年紀念)」/旧村川別荘
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/210000

我孫子散歩 04 延寿院/名戸ヶ谷あびこ病院/我孫子市役所/我孫子東邦病院/寿商店会/我孫子駅
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/213000

16302歩

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3月10日(日)晴

24時間勤務(当務1)

8799歩

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SONY reader

休み。

2024/03/09 延寿院


『創建年代は不明である。元々は我孫子宿の中心部にあり、子之権現社(子之神大黒天)の別当寺であった。
1918年(大正7年)、別当寺の縁で子之神大黒天の敷地に移転し、一体化することになった。10月下旬になると、「柴燈護摩火渡り」と呼ばれる火渡りが執り行われる。 』
延寿院 (我孫子市) - Wikipedia






奥の院



子の神様と柊(ひいらぎ)
 村上天皇の康保元年甲子年(九六四)正月八日子ノをもって宥敬阿闍梨はじめてここに、仏法の縁地として尊体を安置した。
 源頼朝が下総遊説の途上、我孫子の里で不幸にも脚気に掛かり、沼辺の農家に身を寄せたある日のこと、頼朝の夢枕に大きな白ねずみに乗った白髪の翁がひいらぎの葉を持て現われ、「われはこの地の鎮守子の権現の化身である。今日只今、われ因縁によりて汝を救うところなり」と言ながら、ひいらぎの葉を胸から下半身へかけ三べんお祓いするや、不思議にも快癒した。
 征夷大将軍についたとき、お礼として社殿を造営し、社領を与え、手植えの松と共に柊を植え、神木とした。









七福神









◆かねのわらじ



ここの本尊子之神さまは常に諸病を除去し、一切の宿願を叶えてくれる
威神力を持つ神とされ特に腰下の疾患にはご利益があるとされています。
この胸腰の象徴であるわらじは健全な永い人生の歩みを表したとえどんな茨な道でもすり切れることも無くまして小判の形を踏み残すという云われであります。









大黒堂









◆大師堂38番









◆大師堂43番









◆子の神古墳群

 子の神古墳群は手賀沼を見下す寿の台地に所在し、一墓の前方後円墳と十三基の円墳からなる群集墳で、六世紀初頭から末にかけて造られたものである。
 いずれの古墳も埴輪を持ち、市内でも代表的古墳群である。









◆子之神寄進坂







◆山門









場所はコチラ

2024/03/09 旧村川別荘


『村川は1911年に雑司ヶ谷(文京区目白台)に本邸を建てて住み、その後2か所の別荘に3軒の家を建てた。衣食住のうち「住」に重きを置いたといい、それらは残っている[2]。
文京区目白台にある1911年(明治44年)築の自宅(主屋・洋館)は、1920年大正9年)築の蔵を含め「村川家住宅」として国登録有形文化財[3][4][5]。1926年(昭和元年)に自ら設計し建築された別荘は千葉県我孫子市寿にあり「旧村川堅固別荘」として千葉県の近代産業遺跡となっている。 』
村川堅固 - Wikipedia







◆旧村川別荘「南門」



 旧村川別荘は、村川堅固(東京帝国大学教授、西洋古代史)が大正六(1917)年に設けた別荘です。堅固は、旧制第五高等中学校(熊本)在学中に校長であっ嘉納治五郎(かのうじごろう)(教育者・講道館創設者)と親交を結びました。嘉納は我孫子に別荘を設けており、堅固がここに別荘を設けるきっかけになったといわれています。
 大正一〇(1921)年には、我孫子宿本陣にあった離れを移築・一部改装し、母屋としました。また昭和二(1927)年には、朝鮮半島での古蹟調査に際して、現地の建物から得た印象を元に新館を建てました。 新館は大正一二(1933)年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、銅板葺きとしています。 沼を見下ろす南側の展望を意識した大きなガラス窓や、 寄木モザイクを配したモダンな床の作りが特徴的です。
 堅固は昭和二(1946)年に亡くなりましたが、別荘は息子の村川堅太郎(東京大学教授、西洋古代史)に受け継がれ、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けました。 平成三(1991年の堅太郎没後、別荘は国に物納されましたが、自然環境を残し、別荘地として開けた我孫子をしのぶものとして文化財価値が極めて高いことから、平成一三(2001)年に我孫子市が購入して保存、平成一九(2007)年には市指定文化財となりました。








◆旧村川別荘「竹林」








◆旧村川別荘「沼見のベンチ」



今から百年前の我孫子と旧村川別荘
 旧村川別荘は、標高20mの丘の上から4mの崖下まで起伏に富んだ土地2,981.42㎡ (約903坪) を敷地としています。 別荘建物は丘の中腹に平場を作って建てられ、崖下にはわずかに湧水も認められます。 湧水はかつては流量が豊富で池になっており、あふれた水が手賀沼に流れていました。 現在の邸内には、ケヤキクスノキ、 スギ、サワラなどの樹木が目立ちますが、 別荘が数多く設けられた大正から昭和初期には、一面にマツ林が広がっていた様子が地図や写真類に記録されています。
 村川堅固の長男、 村川堅太郎 (東京大学教授 西洋古代史)は大正7(1918)年、10歳のころの日記にこう記しています。「家で買った地面を見に行った。 一帯この地には松が多くて僕の家で買った地面にも大きな松が三十二本ある。 家の地面は実に眺めのよいところで前が低くなっており下には清水が少しずつわいている。 その下は田地でその向こうに葦が生え沼になっているのである。 左手は子の神境内で大きな松がたくさん湖面にさしかかっている。 お父様 (村川堅固) や綿貫さん (綿貫哲雄=嘉納治五郎の娘婿、 社会学者)は 『あの松に月でもかかったら実に良い景色ですなあ、 歌でもできそうですな』 『なるほど」 などと言っていらっしゃった」松が生え揃った先に広がる手賀沼、はるかに望む富士山をもとめて、多くの文人墨客が我孫子を訪れました。 今もなお、 住宅街のそこここにその面影を偲ぶことができます。








◆旧村川別荘「母屋」








◆旧村川別荘「新館」





旧村川別荘
 旧村川別荘は村川堅固氏と子息の堅太郎氏が別荘として利用していた場所です。1917年(大正六) 堅固氏が当地の土地を購入し、1921年(大正一〇)同地に旧我孫子宿本陣邸内にあった離れ家を購入、移築しました。現在の母屋です。当初は茅葺き屋根でしたが現在は瓦葺きに変わっています。1925年(大正一四)に堅固氏が朝鮮旅行をした時の印象をもとにしてデザインした、ユニークな外観の銅板葺き屋根とモザイク床の建物を建設しました。現在の新館です。
 手賀沼を一望する景勝地として知られた子の神(現延寿院) 境内に隣接していて、樹木が豊かで湧水の痕跡もあり、水と緑が豊かだった昔の我孫子の景観をよく残し
ています。

<略歴>
村川堅固 むらかわけんご 1875~1946
 1898東京帝大文科大学史学科卒。1903~06ヨーロッパ留学。1906東京帝大助教授。1912教授。1935名誉教授。西洋史専攻。
 主な著書 西洋上古史、希臘史、世界改造の史的観察、米国と世界大戦。

村川堅太郎 むらかわけんたろう 1907~1991
 1930東京帝大西洋史学科卒。1940東京帝大助教授。1947教授。1963東京大名誉教授。
 主な著書 地中海からの手紙、ギリシアとローマ、オリンピア、古典古代の市民たち、村川堅太郎古代史論集。



 旧村川別荘 建物の歴史と特徴 村川堅固は 「住食衣主義を提唱す」 という論文を書くほど住まいにこだわった。 大正6 (1917) 年、 現在の旧村川別荘の土地を購入し、 大正10(1921)年、 旧我孫子宿本陣より離れ屋を購入し、 解体部材を活用して現在の「母屋」を建築。書院床脇にガラスの明かり取り窓を採用するなど新しい要素を加えている。 昭和2(1927)年から翌年にかけて建築した「新館」 は、外観は寺社建築を思わせるような立派な破風(はふ)と扇垂木(おうぎだるき)、銅板葺きの大屋根と、意匠に凝り、「朝鮮風」とも呼ばれる。沼への眺望を意識した大きなガラス出窓を配する。 傾斜地に鉄筋コンクリート基礎を据え付け、竹を貼り込んで外観を整えている。 室内は洋風の寄木モザイク床ながら●●天井、竿縁(さおぶち)天井、床の間、ねずみ漆喰の壁を採用し、和洋折衷●●ある。

●は判読不能だった・・・。



和洋折衷式建物と村川堅固
新館は昭和2(1927)年から翌年にかけて作られ、和風とも東洋風とも言える内外観に、洋風の要素を巧みに取り込んだ和洋折衷式の建物です。 大正から昭和の知識人は西洋と東洋、日本との間で新たな価値を創造しようと試行錯誤していました。その一人である村川堅固は西洋古代史の研究者ですが、日米交流史の研究も行っていました。 和洋折衷式のこの建物は村川堅固の思想を象徴するものとして興味深い存在です。



村川堅固 別荘を建てた西洋史学者
 明治8 (1875)年、熊本生まれ。 五高等中学校(熊本)を経て、東京帝国大学文科大学史学科卒。3年間のヨーロッパ
洋行(留学)ののち東京帝国大学教授 (西洋史学) となり、 我が国における西洋古代史研究の確立に尽力。 主著『西洋上古史』(西洋通史)、 『希臘史』 (ギリシャ通史)。 昭和21 (1946)年、逝去。
 第五高等中学校校長であった嘉納治五郎を師と仰ぎ、 嘉納が我孫子に別荘 (我孫子市緑1丁目)を有していたため、 ここに別荘を持ったと考えられる。 我孫子に別荘・居宅を設けたジャーナリスト杉村楚人冠(すぎむらそじんかん)とも親交を結び、 手賀沼の景観保全を図るための「手賀沼保勝会」を結成した。

村川堅太郎 別荘を受継いだ西洋史学者
 明治40(1907)年、 東京生まれ。 第一高等学校を経て、東京帝国大学文学部西洋史学科卒業。 東京帝国大学教授 (西洋史学)となり、 我が国における西洋古代史研究の発展に寄与。日本学士院会員。 主な論文は 『村川堅太郎古代史論集』に収録。戦後のヨーロッパ留学の随想をまとめた 『地中海からの手紙』 (昭和34年)は第7回日本エッセイストクラブ賞を受賞。 山川出版社 「高校世界史教科書」の執筆者の一人としても知られる。平成3(1991)年、 逝去。



窓ガラスについて
母屋新館とも窓ガラスには気泡が入り、厚みが一定でなく、でこぼことしています。 これは明治~昭和初期まで使用された「コルバーン法」 という板ガラス製作技法によるものと考えられます。 ゆがみが生み出す独特な光を浴びながら、 村川堅固はどのような気持ちで足下に広がる手賀沼の景色を眺めていたのでしょうか。



村川堅固・ 堅太郎の交友
 堅固が第五高等学校に入学した頃、 校長として赴任したのが嘉納治五郎 (教育者柔道の「講道館」の創設者) でした。 嘉納には五高の道場で 「巴投げ」を習ったという逸話があり、 大学卒業後は一時期秘書をつとめるなど終生変わらぬ師弟関係を結びました。堅固が我孫子に別荘を設けたのも、 納が我孫子に別荘 (緑1丁目、 アビスタ北側の上)を持ったためと考えられます。は、東京から1時間ほどで美しい手賀沼に臨むを時折訪れては、多忙な研究生活の息を抜き、 趣味の釣りに打ち込みます。 昭和初期に起こった「手賀沼干拓計画」 に対しては、我孫子に住む国際的ジャーナリスト杉村楚人冠嘉納治五郎とともに「手賀沼保勝会」 を作り、環境保全を訴えました。 また堅太郎は我孫子ゴルフ倶楽部でのプレーを楽しみとし、 我孫子在住の郷土家 小熊勝夫 (故人、 旧我孫子宿名主邸所有者) や東京大学教授で東洋史学者、 西嶋定生 (故人、 白山に居住) と親交を結びました。



小さな考古学者 村川堅太郎・正二
 村川堅固の長男 村川堅太郎と次男 村川正二は、大正11(1922)年、 別荘母屋の工事現場を家族とともに訪れ、その様子を小学生であった正二が作文で書いている。
 「汽車に乗って我孫子に行つた。 汽車からおりてにいさん (堅太郎)とねいさんと僕 (正二) だけかひづか (貝塚) と言ふ所に行つて千年いじゃうも前のやきものなどもひろつた」
 かれらが土器を拾った貝塚とは、 我孫子駅南東側にかつて存在した「大光寺貝塚(だいこうじかいづか)」 と考えられる。 大光家は、日本における人類学、 考古学 民俗学の始祖とされるTA 大学教授 坪井正五郎が、 明治30 (1897)年に刊行した「日本石器時代人民遺物発見地名」に「我孫子町大字我孫子大光寺貝塚」と記載され、同32年には坪井が現地を視察し、 「黒土一尺程下には貝殻がギッシリと詰まっている」ことを確認している (『東京人類学会社』 14)。
 村川家には、出土場所の記録はないか、 縄文土器、 埴輪(はにわ)が所蔵されており、 縄文土器我孫子縄文時代中期から後晩期にかけての特徴を示す。 また、 埴輪も千葉県北西部から茨城県南部に分布する 「下総型埴輪」 と呼ばれる特徴を示し 別周辺に展開する子の神古墳群からも下総型埴輪が出土している。
 村川家の縄文土器と埴輪は、 東京の本宅と別荘との往来の合間に堅太郎と正二が旧村川別荘周辺で採取した可能性もあり、今後、市内の出土遺物と比較研究を可能とする貴重な資料である。


一月七日
今日は僕はお父様と一緒に我孫子町へ行く事であつた。それでよ定通り十一時上野發の列車にのり我孫子町へ行った。町へ着くとすぐに綿貫家をおとづれた。綿貫家からは前に手賀沼が見えて実によい景色である。 そこで昼飯をいただいてそれから家で買つ地面を見に行った。 一たい此の地には松が多くて僕の家で買った地面にも大きな松が三二本ある。 小さなのは四五本ある。 家の地面は実に眺めの好い所で前が低くなつて居て坂にはし水が少づつわいて居る所がある。それからしたは外の人の地面でそこは田地になつて居る。 それで其の向があしがはへて居それからが沼になつて居るのである。 それでそこからは手賀沼はよくみえる。左手は根の神の境内になつて居て大きな松が澤山湖面に差かかつて居る。お父様や綿貫さんは『あの松に月でもかかったら實によい景色ですなあ。 歌でも出来さうですな』『成程』などと言って居らつしやつた。 根の神境内には櫻もあるから春の桜の頃もよいと思った。 それから歸つて来て町のはくせい屋にいつてりすのはくせいを一つ買って闘った。
(文ママ)
(大正六年、村川堅太郎 小四)
※綿貫家とは嘉納治五郎の娘婿で我孫子に住居をもっていた社会学者 綿貫哲雄のこと。堅固の友人でもある。

昨日の一日 村川正二
昨日は八時四十五分の汽車で我孫子に行くことにした。お父さんはおとといから行って居らっしゃった。おばあさんとおかあさんとにいさんとねえさんと僕で行ったのだ。
七時十五分ごろ家を出て大塚から電車にのつて廣小路でおりててい車場に行った。
汽車に乗って我孫子にいった。
汽車からおりてにいさんとねえさんと僕だけかひづかと言ふ所に行って千年いじやうも前のやきものなどもひろつた。
だいぶひろつたので家にいつておひるごはんをたべた。
おなかがすいて居たのでづいぶんおいしかった。それから山に行ってきれいなすみれやたんぽぽをとつて来た。それからおかあさんとねえさんとにいさんと僕で船をぬまにうかべてのつてあそんだ。
兄さんがこいでくださった。 ぬまにむかふぎしのもりややまがうつつてきれいだった。ほかの舟の人がぬまにおつこちた。舟をやめて家に行った。
お父さんのかんがへで我孫子にべつさうをたてることにした。まだちっとも出来てないが大工がきてしごとをして居た。それを見たりしてからお父さんと兄さんと僕とでつりにいった。
つりざをが二本なのでお父さんが一本つかつてその一本は僕と兄さんとかはりばんこにつかつた。お父さんが二匹つつて兄さんも三匹つつた。
僕は二匹つつた。みんなで八匹つつた。うちに行つてかへるしたくをして六時五分の汽車にのつて東京の家にかへつた。家にかへつたのがちやうど九時すぎだった。
(大正十一年、村川正二=堅太郎弟 小四)


村川堅固の著作
 村川堅固は、東京帝国大学教授として西洋史の論文や教科書の執筆を行っただけでなく、 一般向けの本にも多くの文章を寄せている。
【『西洋歴史物語』 (昭和5年)】
 児童向けの百科事典的文庫本で、 各巻に一流の学者たちが執筆参加していた。 装丁も凝っており美しい。
【『学生』】(大正5年、 冨山房)
 大正から昭和初期、 立身出世を願って旧制中学や高等学校入学を夢見る若者や学生たちに、 勉学と人生の指針を教える 『青年雑誌』が流行していたが、 その一つ 『学生』 に、 「猫のミイラ牛のミイラ」という記事を書いている。 自宅の西洋館にはピラミッドとナイル川のステンドグラスをはめ込んでいることからも、 村川の関心の深さが分かる。
【『柔道』】 (大正6年、 柔道会本部)
 村川の師、 嘉納治五郎が主宰する雑誌 『柔道 』 には 「学生の勉学精神について」 という文章を寄稿し、 「受験のための勉強でなく、自分の実力養成のために勉強することが大切である。 それは将来の自分や国家のためにも必要である」 と説いている。
【 『大勢』 】 (大正11年講道館文化会)
 嘉納が主催する雑誌 『大勢』 には 「住食衣主義を提唱す」 という一文を寄せ、 「日本の住宅事情の貧困さが国民の生命財産を損ねている。一方、ヨーロッパでは住宅費用をかけずに建築するようになっている。日本でも住宅を重視し、余計な支出を抑えれば、 住みよい住宅を作ることができる」 と説く。 大正 11 年は、ちょうど旧村川別荘母屋を作り終えた時期で、 村川堅固はその頃、住まいをめぐることで頭がいっぱいだったのだろう。



日本の住居は衛生面、生活の安全面からみて非常に貧弱である。「衣食住」というが、「衣食」に比べて「住」があまりに軽視されていると思う。なぜそうなのか?第一に、虚栄心から「衣」に執着したり、嗜好に任せて飲食することにお金を使ってしまう人が多く、住宅環境の改善にまで手が回らないのである。 次に、「衣食」にかかる費用は「住」に比べて少額で済むため、住宅の改善をあきらめて貧弱な住宅に甘んじるのである。今日の文明国での住宅政策では、個人が巨額の費用を投じなくても理想的な住宅を建てることが可能となっている。しかし、いくら賢明な住宅政策を立案しても、国民が衣食偏重では貧弱な住宅を改善することができないであろう。また、隣近所に対して、無遠慮に防火や排水が不完全な家を建てることがまかり通っていることは理解できない。国民が衣食にかかる費用を節約し、住宅に重きをおくようになれば、浮いた費用で公債を購入し、都市問題を改善することができるであろう。このことから私は旧弊を改めるためにも「住食衣主義」を提唱するのである。
(『大勢』第一巻第四号 大正十一年)








◆旧村川別荘「北門」



旧村川別荘
 旧村川別荘は東京帝国大学教授村川堅固 (西洋史学、 『希臘史』 『西洋上古史』 など著作多数)が大正6(1917) 年に購入した別荘です。 堅固は旧制第五高等学校 (熊本) 在学中に校長であった嘉納治五郎(教育者講道館創設者) と親交を結びました。 嘉納は明治44(1911) 年、 我孫子に別荘を設けており、 堅固が別荘を設けるきっかけになったといわれています。 大正10 (1921) 年には我孫子宿本陣にあった離れを移築 一部改装し、 母屋としました(もと茅葺)。 江戸時代後期我孫子宿の建築物をしのぶ資料として貴重です。 また堅固は大正14 (1925) 年に東京帝国大学平壌で行った朝鮮古蹟調査 (石巌里205号墳発掘調査) に随行し、その際に見た建物の印象を元にデザインした新館を昭和2(1927)年に建てました。 新館は大正12(1923) 年の関東大震災を教訓にコンクリート基礎、 銅板葺きとしています。 また沼を見下ろす南側には展望を意識してガラス窓を広く取り、 床には寄木モザイクを配したモダンな作りとなっています。 堅固は趣味の釣りを通じて我孫子の景観を愛し、 昭和初期の手賀沼干拓計画に対し我孫子在住のジャーナリスト杉村楚人冠嘉納治五郎らと共に環境保全を訴えました。 堅固は昭和21(1946) 年に亡くなりましたが、 別荘は息子の村川堅太郎 (東京大学教授、 西洋史学、 「地中海からの手紙』 『古典古代游記』、 高校世界史教科書など著作多数) に受け継がれ、ここで世界的視野をもつ多くの著作が生み出され、学生たちが指導を受けました。 平成3(1991)年の堅太郎没後、 別荘は国に物納されましたが、 自然環境を残し、 別荘地として開けた我孫子をしのぶ施設として文化財価値が極めて高いことから、 平成13(2001)年に我孫子市が購入して保存しています。








HPはコチラ
旧村川別荘:我孫子市公式ウェブサイト




開館日
火曜日から日曜日 9時から16時まで(月曜日はお休みです) ※年末年始は休館します。
とありますが、行かれる方はHPなどチェックしてから行ってくださいネ!




場所はコチラ

2024/03/09 大光寺


『創建年代は不明であるが、本土寺過去帳によれば、室町時代には既に存在していたことが明らかになっている。しばしば火災に遭っており、創建年などの古い記録は失っている。
男性の厄年霊場として知られており、厄除祈願の男性が多く詣でたという。
墓地には、東京歯科大学創設者である血脇守之助の生家の加藤家、我孫子駅の用地を無償提供した飯泉喜雄の墓がある。 』
大光寺 (我孫子市) - Wikipedia






◆鐘楼







◆石塔等










◆山門







◆山門脇の石塔







場所はコチラ

2024/03/09 我孫子駅前






我孫子市観光案内など




我孫子市ゆかりの文化人

 手賀沼利根川に囲まれた田園風景豊かな我孫子市は、古くから文化人たちとゆかりが深い。主な人々を紹介する。
 手賀沼のほとりには、20世紀はじめの大正時代、多くの文人が暮らし、数々の名作を生み出した。沼近くに別荘をもった柔道家嘉納治五郎にみちびかれ、人道主義と理想主義を唱える白樺派柳宗悦志賀直哉、武者小路貫薫が移り住み、交流し、 思索を深め、創作にはげんだ。
 白樺派の人々がいた手賀沼べりには、数多くの友人知人や信奉者が訪れた。 陶芸家のバーナード・リーチや作家の中勘助亀井孝作も沼畔で作品を残している。

 ジャーナリストの杉村楚人冠は、随筆で手賀沼の風物を世に広く紹介した。 手賀沼水草を研究した中野治房は、自然保護を提唱する植物学者となった。 また、沼周辺に生きた、歯科医界の権威血脇守之助は、野口英世の育ての親で知られる。
 利根川べりでは、19世紀後半の明治時代、後に国際的な民俗学者になる柳田國男と気象学者になる岡田武松が、若き日に友情を深めつつ、その人と学問の形成を図った。

柳田國男
やなぎた くにお 1875~1962
 民俗学者兵庫県に生まれる。旧姓は松岡。貴族院書記官長をへて民間にあって日本民俗学を樹立。 「遠野物語」 「海上の道」をはじめ厖大な著作がある。 近代日本を代表する国際的文化人。 我孫子市布佐に実家松岡家があり、青少年時代の利根川べりでの体験は後の彼の人と学問の形成に大きな影響を与えた。文化勲章受章。 柳田には松岡鼎 (医師)、井上通泰 (歌人)、松岡静雄(言語学者)、 松岡映丘(日本画家) たち英才兄弟がいる。

岡田武松
おかだ たけまつ 1874~1956
 気象学者。 我孫子市布佐に生まれる。 中央気象台長。 日本の気象観測事業の確立に貢献した気象界のパイオニア。 岡田の法則や梅雨論などで知られる国際的気象学者。 地元周辺に気象送信所、 気象大学校、気象測器工場などを誘致し、 また、 岡田文庫を開設するなど、地域の振興に貢献した。
文化勲章受章。

中野治房
なかの はるふさ 1883-1973
 植物学者。 我孫子市中里に生まれる。 東京大学教授。 手賀沼も含めた湖沼の植物研究から出発し、 植物生理学や植物生態学理論など幅広い研究活動を展開。自然保護運動や雪国生活改善運動などにも参加。 大正時代に郷土誌を編纂、第2次世界大戦後には地域文化運動を組織し地元村長も務めた。

嘉納治五郎
かのう じごろう 1860~1938
 柔道家 教育家。 兵庫県に生まれる。 講道館を創設して柔道の発展に貢献する。 東京高等師範学校長。 大日本体育協会創立。IOC委員として第12回オリンピック東京大会の誘致に成功(第2次世界大戦のため中止)。 明治時代末に我孫子に別荘を建て、手賀沼別荘文化の草分けとなる。 沼べりの丘に学園建設を構想した。

杉村楚人冠
すぎむら そじんかん 1872~1945
 ジャーナリスト。 和歌山県に生まれる。 本名は廣太郎。 朝日新聞社に入社し、調査部や記事審査部を新設、 縮刷版やアサヒグラフを創刊。 新聞学者としても有名。 大正時代末から我孫子に永住した。随筆「湖畔吟」などで手賀沼周辺を広く全国に紹介。 また、地元に俳句結社をつくり地域文化の育成に貢献した。

バーナード・リーチ
Bernard Leach 1887~1979
 イギリスの著名な陶芸家。 香港に生まれる。明治時代末から大正時代中頃まで日本に滞在し、柳宗悦や富本憲吉、濱田庄司らの民芸運動に参加。 大正5年(1916)、我孫子柳宗悦邸内に窯をひらき作陶に励んだ。 イギリスに帰国後はセントアイブスを中心に制作を続けた。

武者小路實篤
むしゃのこうじ さねあつ 1885~1976
 作家。 東京に生まれる。 雑誌 「白樺」 を創刊。 白樺派の代表的存在。 人生肯定、 人間信頼を唱え、 ユートピアを目指して 「新しき村」を開いた。 代表作に 「お目出たき人」 「人間万歳」 「真理先生」 などがある。 大正5年(1916) から我孫子に在住、 同7年に「新しき村」 建設のため九州へ出発した。 文化勲章受章。

柳宗悦
やなぎ むねよし 1889~1961
 哲学者。 東京に生まれる。 民芸運動創始者。 雑誌「白樺」の創刊に加わり、やがて民芸運動を提唱する。 雑誌「工芸」を創刊。 日本民芸館を設立。 大正3年(1914) から同10年まで我孫子に在住。 我孫子時代、宗教哲学者として自立しながら、朝鮮芸術への関心を深めた。 それはやがて民芸思想の形成に結実した。 妻の兼子は声楽家として著名。

志賀直哉
しが なおや 1883~1971
 小説家。 宮城県に生まれる。 雑誌 「白樺」の創刊に参加する。 感受性と描写力に富み簡潔で格調の高い作風は、「小説の神様」とも称された。 大正4年(1915) から同12年まで、我孫子に在住。 「和解」 「暗夜行路」 「城の崎にて」など志賀の代表作には、 我孫子時代の作品が多い。 文化勲章受章。









◆飯泉喜雄顕彰碑

 飯泉喜雄氏は鉄道なくして町の発展無し」と信じ駅誘致に奔走私財を投じて駅用地を無償提供し明治二十九年我孫子駅開設に成功した。
 さらに我孫子町長千葉県議会議員をつとめ地域の発展に尽力した。
 以来この町は成田線の開通生糸工場進出白樺派文人の来往など発展の道をたどる。氏は激務と心労のため六十二歳で病没した。
 私たちは氏の先見の明と奉仕の精神に満腔の謝意を捧げる●●●精神を奮い起こそう。

●は判読できなかった。
ご存じの方は教えてください。
ぺこ <(_ _)>









◆停車場道碑

碑文
世運ノ進歩ニ伴ヒ凡百ノ事業勃興シ従テ交通機開ノ必要ヲ来スハ自然ノ勢ヒナリ今ヤ當驛日成鐡道ノ分岐点ニ當リ乗客及ヒ貨物等ノ運輸ハ日ニ其ノ繁多キヲ加ヘ形勢為ニ一變セリ然ルトモ道路未タ完タカラス通行轗軻スルモノ亦尠ナカラス是ニ於テ公衆ノ利便ヲ謀リ新道開通ノ事興リ機敏ナル諸有志同心戮力シテ此新道路ヲ開通シ亟ニ其功ヲ竣レリ仍テ茲ニ碑ヲ建テ以テ記念トナス

2024/03/09 我孫子散歩 04 延寿院/名戸ヶ谷あびこ病院/我孫子市役所/我孫子東邦病院/寿商店会/我孫子駅

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/210000







◆延寿院

別のページで。
2024/03/09 延寿院 - ovanの社会科見学







◆名戸ヶ谷あびこ病院







我孫子市役所

『人口は約13万人。健康都市連合加盟都市[1]。白樺派の拠点。江戸時代より水戸街道我孫子宿の宿場町として栄え、数多くの文化人が風光明媚な場所として手賀沼畔に住居や別荘を構える文化都市として栄え[2]、広く「北の鎌倉」と称された。1970年(昭和45年)市制施行。 』
我孫子市 - Wikipedia


血脇守之助が杉山英に贈った伽羅の木



 この伽羅の木は我孫子に生まれ育ち、本の歯科医学創設に貢献し、野口英世を援助して世に送り出したことで有名な血脇守之助(1870~1947)が、小学校の
ときの恩師、杉山英 (1847~1922)が小学校を退職するときに、教え子たちが杉山英のために募った養老基金運動を記念して、公私に渡る恩人である杉山英に血脇守之助が贈ったものです。我孫子駅前の区画整理が始まった際、住宅の整理に伴い我孫子市に寄贈され、ここに移されました。


希望にもえてあかるくたくましく

作品名などわからなかった。







我孫子東邦病院







◆寿商店会

商店街♪









我孫子駅


東京駅でみかけた車両

サフィール踊り子号」
とのこと。


地元駅で撮った富士山







孫子は何度も行ったことがあるのに本格的に史跡をめぐったのは初めてかもしれない。
ご縁のある土地なのでこれからゆっくり巡ってみようと思う。

2024/03/09 我孫子散歩 03 旧我孫子宿名主邸・小熊邸/我孫子宿、水戸道、成田道追分/金八稲荷神社/子之神 大黒天「山門(開山一千年紀念)」/旧村川別荘

前の日記からの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/200000_1






◆旧我孫子宿名主邸・小熊邸

敷地内は非公開とのこと。
参考
https://www.city.abiko.chiba.jp/event/kanko/kankojoho/abiko_guidemap.files/guidemap_course2.pdf









我孫子宿、水戸道、成田道追分



我孫子宿 水戸道・成田道追分
 江戸時代より前、現在、成田街道と呼ばれている道を「水戸道」と呼んでいました。当時の「水戸道」は、東我孫子 湖北、 布佐、利根川を渡って布川へと進み、水戸へと向かう道でした。
 江戸時代になると幕府は、交通が各地方への幕府支配力を高める重要なものと考え、江戸を中心とした陸上・水上交通網の整備に力を入れました。江戸と水戸とを結ぶ水戸道は、 水戸徳川家常陸周辺の大名が江戸との往来に利用し、 東海道などの「五街道」に次いで重要な 「脇往還(わきおうかん)」として発達しました。
 その後、天和二(1682)年ごろになると、陸路・水路の整備が進み、大きく迂回した水戸への道は変更となり、この追分から北上する新たな「水戸道」が生まれました。そして、かつて「水戸道」と呼ばれていた道は、「成田道」と呼ばれるようになり、結果として成田道の起点となりました。 新しくできた「水戸道」は北へと向かい、柴崎神社付近をとおり、青山の渡しを使って対岸へと渡り、取手宿へと進みます。
 追分は我孫子宿の出入口として、地元の人々によって保存され、令和三(2021)年には地元の声が集まり、再整備されました。この整備によって、現存するなかで最古の元禄四 (1691)年の道標を再調査したところ、「水戸海道」「布川海道」と書いてあり、道の変更から約九年後の時点では「成田道」は、「布川海道」と呼ばれていたことがわかりました。また、道標には我孫子宿の人々と思われる寄進者の名前が並んでおり、古くからこの地が人々にとって大切な場所であったことがわかります。


いろんな角度から撮ってみた









◆金八稲荷神社










◆子之神 大黒天 山門 (開山一千年紀念)








◆旧村川別荘

別のページで。
2024/03/09 旧村川別荘 - ovanの社会科見学








続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/03/09/213000