2018/09/01 千石散歩 01 茗荷谷駅/筑波大学/旧守山藩邸碑文/窪町東公園/湯立坂/旧磯野家住宅/占春園

24時間勤務アケで、茗荷谷から巣鴨まで散歩。
この日記のエリアは北東方面に向かって進む。
今まで何度か茗荷谷で降りて散歩しているが、こちらに進むのは初。



茗荷谷駅



筑波大学



◆旧守山藩邸碑文(筑波大学内)




 東京教育大学大塚の敷地は、其の昔、水戸家の分家である守山藩主松平大学頭の上屋敷であった。文政十年(西暦1827年)に小石川水戸中納言の礫川邸が類焼し、当主八代目の斉修(ありのぶ)公(水戸烈公の兄)は婦人峰姫と共に駒籠邸に難を避け、そこから大塚吹上の松平大学頭の屋敷に移った。これを迎えた松平大学頭褚愼公はよく斉修公(天然子)を待遇したので、公はその厚意を謝し、吹上邸の庭(占春園)の景観を称えて読んだのがこの碑文で、格調高いものである。



丁亥之冬、噪川即罹災。以
幕府之命、與夫人屋 烟漂居於
守山侯次上印。气中多山水之
勝。園之東有梅林。明年、春、
遊于林中賞花、烟忘舊歲之受。
因賦一律、以搶懷云

吹上即中山苑東幾株梅樹遠連空
落英溪畔千林雪 新月樓頭一笛圓
疎影を留舞鶴 清香馥郁伴詩詞
人間何處無春色春色項從此地融




◆窪町東公園









湯立







我方を思ひふかめて小石河いつをせにとかこひわたるらん
道興准皇「廻国雑記」(文明十八年(1484)六月から翌年三月までの北陸、関東、奥州諸国の遊歴見記)より。





 「里人の説に 往古はこの坂の下は大河の入江にて 氷川の明神へは河を隔てて渡ることを得ず。故に 此所の氏子ども 此坂にて湯花を奉りしより 坂の名となれり。」(御府内備孝)




◆旧磯野家住宅

いつも文化財ウィークのときにだけ一般公開される場所。
今年こそは中を見てみたい!




 実業家の磯野敬(1868〜1925)が建設した住宅で、銅板葺の屋根や銅板が張り廻された外観から通称「銅御殿」として知られる。主屋および表門の2棟が国の重要文化財に指定されている。
 主屋は明治末期に着工、大正元年(1912)に竣工された。車寄を備えた書林棟、3階建ての応接棟、旧台所棟などからなる。表門は大正2年竣工で、尾州檜の太い丸太材を用いた四脚門である。主屋、表門ともに材料にはよく吟味された木材がふんだんに使われており、建具や欄間などの意匠や造作から熟練した木造建築技術の一端が窺われる。
 伝統的な木造建築の技術と明治以降の大工技術の創意とが融合した近代和風建築の作品であり、東京に残る明治末期から大正初頭にかけての数少ない邸宅建築のひとつとして重要な文化財である。




この建物もそうなのかな???




◆占春園




 この辺りは、幕末までの200年ほどの間、徳川光圀 の弟を藩祖とする陸奥守山藩松平家 の上、中屋敷の地であった。占春園 は、この屋敷内にひらかれた庭園の名残りである。
 「林には鳥、池には魚、緑の竹と赤い楓、秋の月、冬の雪」と、四季それぞれの庭の美しさでその名が知られ、当時の江戸三名園 の一つに数えられていた。
 明治36年(1903)、東京高等師範学校(戦後の東京教育大学筑波大学に改組)が、湯島からこの地に移り、占春園は、校地の一部になった。現在は、筑波大学附属小学校の自然観察園として、同校が管理し、区民にも公開されている。








占春橋跡




どれがどうなのかよくわからなかった。







続く。

2018/09/01 千石散歩 02 行幸記念碑/旧守山藩邸碑文/嘉納治五郎先生像/網干坂/簸川神社/簸川坂/明治天皇行幸記念碑 旧土方久元邸

この日記のエリアは前の日記の占春園の敷地内のが三つある。
その後はやはり北東方向に進む。
坂だらけできつくなる(汗



行幸記念碑(占春園内)



昭和六年一○月三〇日、東京高等師範学校創立六○周年記念式典に天皇陛下行幸を仰ぎ、それを記念して建てられた。行幸に当たり、「健全ナル国民の養成ハ一二師表タルモノノ徳化ニ竢ツ事ニ教育ニ従フモノ其レ奮励努力セヨ」との直後を賜った。




◆旧守山藩邸碑文



 この碑は、延享三年(西暦1746年)春三月に建てられたといわれるから、今から230年ほど前になる。ここ吹上邸を上屋敷とされた守山藩主松平頼寛(三代目)が、その臣岡田宜汎に命じて記させたもので、高さ1.4m、幅0.77mの鉄平石に刻まれた碑である。この碑文には、藩祖頼元より頼寛に及ぶ三代の占春園にまつわる記事があり、特に占春園と命名された由来を持つ古桜樹や、桜花の春に催された佳会の盛宴などが興味深く記されていて、往時の大学頭邸の景観と歴史が追憶される。



 我公之園、名占春。其中所観、梅桜桃李、林鳥池魚、緑竹丹楓秋月冬雪、凡四時之景、莫不有焉。而名以占春者何也。園旧有古桜樹、蔽芾数丈。春花可愛、夏蔭可憩。先君恭公之少壮也、馳馬試剣、毎繁靶於此樹而憩焉。因名云駒繋。至荘公之幼也、猶及視之。於是暮年、花下開宴、毎会子弟、必指樹称慕焉。我公追慕眷恋、専心所留、遂繞此樹、増植桜数百株、花時会賓友、鼓瑟吹笙、式燕以敖、旨酒欣欣、燔炙芬芬、殽核維旅、羽觴無算。豈啻四美具乎哉。物其多矣、維其嘉矣。偕謡既酔之章、且献南山之寿。我公称觴、顧命臣宜汎曰、是瞻匪亦所為。後世子孫、徒為游楽之場是懼焉。子為余書於石。宜汎捧稽首曰、桑梓有敬、燕胥思危。誦美有辞、陳信無愧。謹寿斯石。万有千載、本支百世、永承景福之賜。



 占春園は春爛漫たる桜樹を始めとして四時の美をそなえた名園で、杜鵑も巣を作るという野趣に富み、冬春の候には多くの鴨が園池に聚まり、青山の池田邸、溜池の黒田邸と合わせて江戸の三名園と称されたという。
 本学は、その史実をここに記して占春園を永久に記念するものである。



漢文かな?
全く読めません・・・・・。
IMEパッドを駆使したがちゃんとあってるかどうかわかりません・・・。




嘉納治五郎先生像



明治二六年九月より、大正八年まで、再度にわたり通算二〇余念の長きにわたり、東京高等師範学校校長の要職にあられ、わが国師範教育の振興に大きな功績を残された。また講道館柔道の創始者、国際オリンピック委員としての活躍と功績は、あまりにも有名である。





網干



 白山台地から千川の流れる谷に下る坂道である。小石川台地へ上る「湯立坂」に向かいあっている。
 むかし、坂下の谷は入江で舟の出入りがあり、漁師がいて網を干したのであろう。明治の末頃までは千川沿いの一帯は「氷川たんぼ」といわれた水田地帯であった。
 その後、住宅や工場がふえ、大雨のたびに洪水となり、昭和9年に千川は暗渠になった。なお、千川は古くは「小石川」といわれたが、いつの頃からか千川と呼ばれるようになった。





◆簸川(ひかわ)神社

再訪したので新しいのとまとめました。
2023/12/17 簸川神社 - ovanの社会科見学






◆氷川坂/簸川坂


簸川神社・氷川坂(簸川坂)

・簸川神社
 社伝によれば、当神社の創建は古く、第五代孝昭天皇のころと伝えられ、祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)である。
 源義家(1039〜1106)が奥州平定の祈願をした社といわれ、小石川、巣鴨の総社として江戸名所の一つであった。
 もとは現在の小石川植物園の地にあったが白山御殿造営のため、元禄12年(1699)この地に移された。社殿は、さきの空襲にあい全焼失したが、昭和33年(1958)に再建された。
 境内の幟建一対は江戸時代、善仁寺門前町氏子中により奉納された貴重な石造物である。なお、1基は平成12年久堅町民会の尽力で修復されたものである。

・氷川坂(簸川坂)
 氷川神社に接した坂ということでこの名が付けられた。氷川神社の現在の呼称は簸川神社である。坂下一帯は、明治末頃まで「氷川たんぼ」といわれ、千川(小石川)が流れていた。洪水が多く、昭和9年(1934)暗渠が完成し、「千川通り」となった。神社石段下には千川改修記念碑がある。





明治天皇行幸記念碑 旧土方久元邸

WEBで調べたが、情報がないね・・・・・。



wikiで、「土方久元」を調べた。
天保4年10月12日(1833年11月23日) - 大正7年(1918年)11月4日)は、日本の武士(土佐藩士)・政治家である。爵位は伯爵。幼名は大一郎。通称は楠左衛門。号は秦山。 』
とのことだった。





続く。

2018/09/01 千石散歩 03 氷川下セツルメント草創の地/太田胃散/旧氷川下町/智香寺/全日本かるた協会/大塚窪町公園/白鷺坂

どんどん北東に進む。
やっぱり坂が多い。
文京区は坂だらけだねぇ・・・・。



◆氷川下セツルメント草創の地




1953年この地にセツルメント・ハウスが設立された。戦災で疲弊した地域で健康・生活・文化の向上を求める活動は、当施設開設の礎となった。


WEBで「セツルメントハウス」を調べるとイロイロ出てくるね。
慈善活動の拠点ということでいいのかな?
今度ゆっくり勉強してみようと思う。





◆太田胃散

薬の名前だと思っていたら、社名だったんだね。
上場はしてないみたいかな?




◆旧氷川下町



 もと、小石川村であった。元禄年間(1558〜70)北条氏の家臣島津孫四郎の土地および法林院領があった。
 江戸時代に入って新田を開き、初め伝通院領であった。のち上地して、砂礫(されき)を取って護国寺造営の用に当てた。享保年中(1716〜36)その跡地を開墾し、氷川たんぼとなった。
 旧米農地で、氷川たんぼと称した。明治24年、御殿下、氷川下を氷川下町と改称した。町名は、氷川台(簸川神社のある台地)の下の低地にあるので、氷川下町と名づけた。
 氷川たんぼは、明治30年代に埋め立てられて、人家がたち工場が設けられた。谷を流れる千川(小石川)は洪水が多く、昭和9年暗渠となった。





◆智香寺






◆全日本かるた協会

そんな協会があるんだ!
と思って調べてみた。
wikiには『小倉百人一首を使用したスポーツ競技である競技かるた大会の開催などを行う法人』とあった。




◆大塚窪町公園




◆白鷺坂



 このあたり一帯は,かつて伊達宇和島藩主の下屋敷であった。近くの区立大塚小学校地は,池を中心とした 伊達屋敷の庭園部に相当すると伝えられる。明治時代を迎えて荒廃するが,「古木老樹がうっそうとしげり 白鷺の集巣地となって日夜その鳴声になやまされたものである。」とは土地の古老の話である。
 この白鷺にみせられた アララギ歌人 古泉千樫は,ここに毎日通いつめて白鷺を題材とした短歌をつくったといわれる。
 明治末期の東京市区改正に伴う道路整備によって 不忍通りの前身が伊達屋敷内を貫通したため 往時をしのぶものもなく,そこにできたこの長い坂道にも坂名のないままであったが 誰いうとなく 白鷺にちなんだ坂名が愛称となった。
 大正から昭和にかけての人によってつけられた坂名といえる。
    鷺の群 かずかぎりなき鷺の群
       そうぜんとして寂しきものを   古泉千樫(1886-1927)



続く。

2018/09/01 千石散歩 04 猫又橋/旧鈴木貫太郎亭/稲荷神社/旧丸山町/砂利場坂/宮坂/さいとう坂

この日記のエリア後半の坂は、説明板がなくちょっと曖昧になってしまったかもしれない。
間違いがあったらご指摘ください。
(o*。_。)oペコッ




◆猫又橋/猫又坂




猫又橋 親柱の袖石(そでいし)




 この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。
 江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫貍(ねこまた)橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。
 昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。
 大正7年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造りとなった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和9年千川は暗渠 になり道路の下を通るようになった。
 石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。
 ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
 騒がしき蛙は土に埋もれぬ 人にしあれば 如何に恨まん





猫又坂




 不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在通りには大正11年(1992)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。
 また、『続江戸砂子』には次のような話がのっている。
 むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊っているという話があった。ある時、若い僧が食事に招かれての帰り、夕暮れの時、すすきの茂る中を白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋、猫貍橋、猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。





◆旧鈴木貫太郎

google mapにあったので来てみたが、説明板らしきものは見当たらなかった。

鈴木貫太郎は「第42代内閣総理大臣
場所はここで合ってるのかどうかわからなかった。





◆稲荷神社




◆旧丸山町



 もと、小石川村の内であった。宝永7年(1710)町屋を開いた。
 これより先、火の番役の武士が多くいたので、小石川火の番町といった。
 明治2年武家地を多く合併して小石川丸山町とした。名称の由来は、はっきりしない。




◆砂利場坂

google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。




◆宮坂

google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。



◆さいとう坂

google mapにあったので来てみたが、説明板などは見当たらなかった。






続く。

2018/09/01 千石散歩 05 文京宮下公園/子育て稲荷神社/巣鴨大鳥神社/大鳥神社商店街/徳川慶喜巣鴨屋敷跡地/巣鴨橋/巣鴨駅

この日記のエリアはもう巣鴨駅周辺。
巣鴨大鳥神社と商店街までは文京区。
巣鴨駅のワリと近くまで文京区なんだねぇ。



◆文京宮下公園




◆子育て稲荷神社






巣鴨大鳥神社






大鳥神社商店街






徳川慶喜巣鴨屋敷跡地








 徳川幕府15代将軍徳川慶喜天保八年〔1837〕〜大正二年〔1913〕)がこの巣鴨の地に移り住んだのは明治三十年(1897)十一月、慶喜六十一歳のことであった。大政奉還後、静岡で長い謹慎生活を送った後のことである。翌年三月には皇居に参内、明治三十五年(1902)には公爵を授けられるなど復権への道を歩んだ。
 巣鴨邸は、中山道(現白山通り)に面して門があり、庭の奥は故郷身とに因んだ梅林になっており、町の人からは「ケイキさんの梅屋敷」と呼ばれ親しまれていたという。慶喜巣鴨に居住していたのは明治三十四年(1901)十二月までの4年間で、その後小日向第六天町(現文京区小日向1・4丁目付近)に移った。その理由は、巣鴨邸のすぐ脇を鉄道(目白〜田端間の豊島線、現在のJR山手線)が通ることが決まり、その騒音を嫌ってのこととされている。



ということは、前に散歩した小日向に移ったってことだね。
2018/07/07
http://d.hatena.ne.jp/ovanrei/20180707/1531045548





巣鴨





巣鴨橋のすぐ脇に駅に通ずる橋があった。





巣鴨

ゴールのJR山手線巣鴨駅。
気温が低く、曇っていたんだけど、蒸し暑かった!
まだまだ散歩するには過酷だね(w
文京区は本当に坂が多く、暑いとやる気をかなりそがれる(www