2018/09/11 王子散歩 01 西巣鴨/河合映画巣鴨撮影所跡/正法院/西方寺/盛雲寺/滝野川11号踏切/お岩通り商店会

24時間勤務アケで、西巣鴨→王子→上中里→田端を散歩。
この日記のエリアは西巣鴨駅南東側。



◆西巣鴨

スタートの都営三田線西巣鴨駅




◆河合映画巣鴨撮影所跡



大都映画

大正8年、天然色活動写真(天活)の仮設ステージから始まり、国際映画活動(国活)や河合商会による買収などを経て設立された大都映画は現在の旭中学校があるところに巣鴨撮影所を持っていた。大都映画昭和17年大映に吸収されるまで、「貞操」、「街の爆弾児」、「宮本武蔵」などを制作した。








昭和2年に河合映画会社が設立され、昭和8年には大都映画(株)に発展した。昭和2年当時、廃屋同然だった旧国活会社の巣鴨撮影所を買収して以来、昭和17年大都映画の灯が消えるまでの15年間、この撮影所で映画の製作、配給が続けられた。
戦前の日本映画界では製作本数最多を誇り、配・興行○○体制を堅持し最も大○○○された映画会社であった。


〇の部分は葉っぱが邪魔で読めない・・・(汗




◆正法院




◆西方寺










◆盛雲寺






滝野川11号踏切

都電荒川線の踏切。







お岩通り商店会

なぜ「お岩さん」かというと、近くにある妙行寺にお岩さんのお墓があることに因むという。
お岩さんは四谷怪談のあのお方である。
今回は行かなかったので、機会があったら行ってみよう。






続く。

2018/09/11 王子散歩 02 朝日通り/白泉寺/縈禅寺/朝日公園/西ヶ原四丁目/滝野川8号踏切/道音坂

都電荒川線沿いに北東に歩いていく。
今回ワリと都電車両を見ることができて満足♪



◆朝日通り




◆白泉寺



万倍稲荷大明神











◆縈禅寺

こちらのお寺には手塚治虫さんのお墓があるが、
檀家以外中には入れない。



出世稲荷



赤門






◆朝日公園





◆西ヶ原四丁目

都電荒川線西ヶ原四丁目電停。









滝野川8号踏切









◆道音坂(どういんざか)




 道音坂は,西ヶ原4-29-1地先から 滝野川1-32-6地先まで続く坂道で,旧西ヶ原・滝野川の村境に沿った坂道でした。明治時代の「東京府村誌」に「坂名ハ道音塚アルニ由ル」とあり,江戸時代の地誌には 西ヶ原村内「滝野川地ニアリ」と 塚について記されています。道は浅草道と呼ばれ,本郷と上野の二つの台地を結ぶ道で,中世は鎌倉街道だったと伝えられる古道です。



続く。

2018/09/11 王子散歩 03 月の湯/西谷戸新橋/地蔵/西ヶ原二丁目児童遊園/六石坂/えびす湯/飛鳥山公園

この日記のエリアは王子駅近辺(南東側)
飛鳥山公園には何度も来ているのにその周囲は全然巡ったことがない。



月の湯






◆西谷戸新道




WEBで調べたが検証が必要だねぇ。
暇を見つけてイロイロ調べてみます。




◆地蔵




google mapには「地蔵」とあったが、「青面金剛」の部類だと思う。
あまり詳しくないので、わかる方がいらっしゃったらコメントお願いします。




◆西ヶ原二丁目児童遊園





これは何の花だろう?
一輪しか咲いてなかった。




食べられるかな?(w




◆六石坂






 東京府村誌に「長さ二十四間 広さ三間 元と坂上に租六石を納る水田あり故に云ふ」とある。江戸切絵図には「六コク坂」と記されている。
 この道は岩槻街道(旧日光御成道)で、飛鳥山の前へと続いているため花見時などには賑わいをみせた。
 付近にはこの辺りに鷹狩などに来た将軍の休み場としての御立場(おたちば)もあった。




◆えびす湯




飛鳥山公園

公園のこちら側は来たことがないなあ。


旧渋沢家飛鳥山

 飛鳥山公園の南側一帯には、日本の近代経済社会の基礎を築いた、渋沢栄一の自邸が所在していました。現在、敷地は飛鳥山公園の一部になっていますが、旧邸の庭園であった所は「旧渋沢庭園」として公開されています。
 渋沢栄一は明治三十四年から昭和六年に亡くなるまでの30年余りをこの自邸で過ごしました。当時の渋沢邸は現在の本郷通りから「飛鳥山の3つの博物館」に向かうスロープ付近に出入り口となる門があり、邸内には、和館と洋館からなる本邸の他、茶室や山形亭などの建物がありました。残念ながらこれらの建物は昭和二十年の空襲で焼失してしまい、大正六年竣工の「晩香廬」と大正十四年竣工の「青淵文庫」のみ、「旧渋沢庭園」内に現存しています。「晩香廬」は、渋沢栄一喜寿の祝いとして、「青淵文庫」は傘寿と子爵への昇格の祝いとしてそれぞれ贈呈されたものです。どちらの建物も大正期を代表する建築家の一人で、清水組(現清水建設)の技師長を務めた田辺淳吉が設計監督しています。当時の世界的なデザイン・美術の運動の影響を受けた建築であることが評価され、平成十七年、「旧渋沢家飛鳥山邸(晩香廬・青淵文庫)として二棟が重要文化財(建造物)に指定されました。



続く。

2018/09/11 王子散歩 04 七社神社/西ヶ原一里塚/西ヶ原一里塚の碑/滝野川警察署/ゲーテの小径/東京ゲーテ記念館/熊野坂

この日記のエリアはかなり前に来たことがあるエリア。
mixiにまだ日記が残っているかなあ・・・。



◆七社神社




七社神社の祭神は、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)・伊邪那美(いざなみのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)・市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)・帯中日子命(たらしなかつひこのみこと)(仲哀天皇)・品陀別命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)です。由来については、寛政五年(1793)の火災により、社殿古記録一切が焼失したため、よくわかってません。『新編武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守トス・・・」と記され、また、『江戸名所図会』には、無量寺の高台に描かれ、再建後も別当寺であった無量寺の境内に祭られていたことがわかります。明治はじめの神仏分離に際して現在地である一本杉神明宮社地に移され、西ヶ原村の総鎮守として祭祀されるに至りました。
 末社には天祖神社(一本杉神明宮)・稲荷神社・熊野神社・菅原神社・三峰神社・疱瘡社があります。一本杉神明宮は、もともとこの地にあった寺社ですが、七社神社の移転により、末社となったものです。現在、切り株が残っている杉の切り株は、その神木です。
 旧社務所は、村の青年会の発起で、渋沢栄一古河市兵衛を筆頭とする書士の寄付により、大正九年(1920)に建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。
 この境内から隣地にかけての一郭は、七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器弥生式土器・土師器などが発見されています。



稲荷神社



疱瘡社



一本杉神明宮




 現在の七社神社の社地は、かつては神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治四十四年(1911)に地上3、4メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政五年(1793)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命伊邪那美命天児屋根命、伊斯許理度費命、市寸島比費命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神杜・菅原神社・三峯神社熊野神社・疱瘡社があります。
 



稲荷神社




三峯神社/菅原神社

手前に「歯固め石納所」がある。
お食い初めの儀式で使うものとのこと。



孔子孟子



鳥居


鳥居





◆西ヶ原一里塚



二本榎保存之碑

一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ケ原の一里塚と榎が東京市電の軌道敷設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長滝野川町長、地元住民の努力により保存されたことを記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は。歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。


二本榎保存之碑
公爵徳川家達


府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり
之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
大正五年六月 文学博士 三上参次
阪 正臣書
廣群鶴刻


(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)



西ヶ原一里塚

 慶長九年(1604)二月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。
西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。
 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正5年(1916)6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑は、こうした経緯と、渋沢栄一東京市長滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。




◆西ヶ原一里塚の碑

こちら近づくことができない(w




滝野川警察署





ゲーテの小径




こんにちは、兄弟たち
あらゆる地域、学派、流派の人びとよ!
わたしはワイマール人でありながら、
世界市民
尊敬する皆さんの輪に
英知と美徳をとおして参加してきたが、
いっそよい方法を知っている人があるなら、
ほかのところで、その地慧(ちえ)を求めるがよい。





ゲーテ記念館前ポケットパーク

 このポケットパークは「ふるさと北区のまちづくり」の一環として、ドイツの文豪ゲーテをテーマに整備しました。
 ゲーテをより身近に感じていただくとともに、休息の場として活用していただければ幸いです。



ゲーテ年譜

 ゲーテといえば、「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」に代表されるようにドイツ文学者として有名ですが、その活躍は文学のみにとどまらず多岐にわたっています。それは政治家として、色彩論や解剖学の研究者として、さらに鉱物学や建築学の研究者としてのゲーテです。
 このような多彩な人物であったゲーテの活動の概要を「ゲーテ年譜」としてまとめたものです。


ファウスト

 ゲーテファウストを八十二年間の生涯のうち、二十三歳から八十二歳までの六十年をかけて完成させました。ゲーテの代表作と言えるファウストから抜粋した場面をここに紹介します。
(訳 大山 定一)

森と洞  (第一部より)

ファウスト(ひとり)崇高な大地の霊よ、
 おまえはおれが求めるものを惜しみなく授けてくれた。
 おまえが燃える焔のなかに、
 おまえの顔をあらわしてみせたのも、
 けっして無駄ではなかった。
 うつくしい自然をおれの王国としてあたえ、
 自然を感じ自然を享受する力を
 おれに附与したのは、おまえだ。
 そして、ただ冷たく自然にふれるだけでなく、
 親しい友だちの心の中を見るように、
 自然の隠れたふところへ、
 おれがはいることをゆるしてくれた。
 お前は生きとし生けるものの列をつれて、
 おれのそばを通りすぎた。
 鈴かな茂みや水や虚空のなかに棲む
 おれの兄弟たちともひきあわせてくれた。
 のみならず、あらしが森にわめき、
 かずかずの樅(もみ)の大木をたたき落して
 すさまじい響きが山に丘にこだまするとき、
 おまえはおれを安全な洞窟のなかへみちびき、
 しずかにおれ自身を省察させた。
 おれの胸のなかには、
 神秘な深い奇蹟がとびらをひらく、
 おれの眼のまえを
 清らかに澄んだ月光がやさしく照らす。
 そのとき、絶壁の岩や露にぬれた灌木のあいだから、
 伝説時代のしろがねのもろもろの姿が
 おぼろげに立ちあらわれて、
 おれの瞑想のきびしいなやみを慰めてくれる。



省察(せいさつ)」を調べてみた。
自分自身をかえりみて、そのよしあしを考えること。
1641年に公刊されたフランスの哲学者ルネ・デカルトの著書。
とあった。



◆東京ゲーテ記念館

前に一度中に入ったことがある。
もう10年くらい前だったかな・・・・・。




◆熊野坂



 この坂は,谷田川通りから 西ヶ原3-30の不動院墓地までの坂で,名称は昔,不動院境内にあった 熊野神社に由来します。江戸時代の地図によれば,当時の不動院の境内はこの坂に面していて,その北の隅に 宝永(1704-11)年間にまつられたという 熊野神社が描かれています。つきあたりの道は 鎌倉道といわれ,本郷台地から推定 豊島郡衙跡に至るので鎌倉時代以前の道とも考えられます。



続く。

2018/09/11 王子散歩 05 不動院/西ヶ原貝塚/西ヶ原貝塚広場/東京高等蚕糸学校発祥之地/東京病院/滝野川公園/御殿前遺跡

この日記のエリアは上中里駅南側の滝野川公園付近。
公園で座って休憩する。
やはり歳を感じるなぁ・・・・。



不動院





◆西ヶ原貝塚




 西ヶ原貝塚は、東京都を代表する貝塚の一つで、古く明治一一年(1878)頃にはすでにその存在が知られ、東京近郊だったこともあり、坪井正五郎博士など多くの著名な研究者により調査されて来ました。
 貝塚は、武蔵野台地東縁の海抜23m前後の通称上野台に立地します。東西約150m、南北約180mの馬蹄形を呈する大規模な貝塚です。西ヶ原貝塚からは、縄文時代早期から晩期に至る時期の遺物が出土していますが、貝塚の形成は発掘調査の結果から、中期後半から晩期初頭にかけての時期とみられます。中期後半から後期後半にかけての時期に属する住居跡や墓標なども発見されています。
 貝塚から検出された階の構成種は、調査地点によりやや異なるものの、貝塚の形成が始まった中期後半はヤマトシジミを主体とし、その後、小型ハマグリやカキなどが混じる構成になりまる¥す。好機前半になると大型ハマグリやカキを主体とし、それにヤマトシジミが加わりますが、晩期初頭には再びヤマトシジミが主体となります。




◆西ヶ原貝塚広場




貝塚広場 −西ヶ原貝塚ー>
 西ヶ原貝塚は、明治11年1878年)頃に発見された著名な縄文時代貝塚です。
 貝塚広場は、この場所で貝塚や住居跡などが発掘されたことをお示しするため、それらが保存されている場所の上に造られています。

<遺跡の内容>
■場所
 西ヶ原貝塚は、北区西ヶ原一丁目および三丁目にあります。地形的には武蔵野台地の北東部の橋にある台地(上野台)の上にあります。

貝塚の時期と広がり
 今までの調査結果によると、縄文時代中期後半から晩期初期にかけて断続的に形成された貝層が、東西140m、南北180mの規模で馬の蹄のような形に分布していることが判明しています。

<調査で発見されたもの>
 今回の調査地区では、縄文時代前期前半(今から約6500〜6000年前)の住居2軒、後期(今から約4400〜3200年前)の住居34軒以上、墓20基、貯蔵穴(ちょぞうけつ)6基のほか、多くの柱の穴などが発見されています。
 貝層は、小規模のものかが数多く確認されており、弧を描くように点在していました。これらは、使われなくなった竪穴住居のくぼ地から見つかっているものが多く、層の厚いところでは40〜50cm程あります。貝はハマグリとヤマトシジミが中心となっています。
 遺物については、土器や石器(斧など)のほか、土偶、土製の耳飾り、鹿角(ろっかく)製の銛(もり)・貝輪(かいわ)・貝刃(かいじん)・獣骨・魚骨などが出土しています。
 なお、発見された貝層の一部を標本として建物内に展示しています。



◆東京高等蚕糸学校発祥之地




明治19年10月
  麹町内山下町より移設
  農商務省蚕病試験場
明治29年3月 改称
  農商務省蚕病業講習所
大正3年3月 文部省移管
  東京高等蚕糸学校
昭和15年4月移転
  現東京都小金井市
昭和19年4月 改称
  東京繊維専門学校
昭和24年5月 昇格
  東京農工大学




東京病院




滝野川公園





◆御殿前遺跡




御殿前遺跡は、先土器時代から近世にわたる複合する遺跡です。なかでも奈良・平安時代に造られた建物の跡は、武蔵国豊島郡の郡衙(ぐんか)(地方役所)と推定されています。古代の武蔵国には21の都が置かれ、現在の東京都は豊島郡・荏原郡・多麻(たま)郡にあたります。この豊島郡衙の中心部分がこの一帯です。




続く。

2018/09/11 王子散歩 06 北区防災センター/滝野川体育館/農業技術研究発祥の地/平塚神社/上中里不動尊/蝉坂

この日記のエリアも上中里駅すぐ間近。
駅の南側になる。



◆北区防災センター(滝野川公園脇)



滝野川体育館(滝野川公園脇)




◆農業技術研究発祥の地




 明治二十六年四月 農商務省農事試験場が この地 東京府北豊島郡瀧ノ川村西ヶ原に創設され 我が国の農業技術研究は発祥した
 爾来八十七年 その間 昭和二十五年四月 農業技術研究所 と改称される等 組織機構の 変遷はあったが「西ヶ原」は常に近代農業関係試験研究機関の母体として 多くの輝かしい業績により 農業の発展に寄与してきた
 昭和五十五年一月 国立試験研究期間の筑波研究学園都市への移転に伴い この地での研究を終わる
 「西ヶ原」の栄光の不滅を祈念し ここに記念碑を刻む




◆平塚神社

本殿の裏側に甲冑塚・鎧塚があるが、説明は下の「平塚城伝承地」で。
今回植栽作業中で裏に回ることができなかった。




石室神社(石神明神)


御科稲荷神社/大門先・元稲荷神社


菅原神社(平塚大神社)


楽殿


平塚城伝承地

 平塚神社付近は、平安時代に豊島郡を治める郡衙(ぐんか)のあった場所だと推定されていますが、平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(北区指定有形文化財)の伝承によれば、この時代の末期には、秩父平氏庶流の豊島太郎近義という人物が平塚城という城館をつくります。
 平塚城は源義家後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地で、義家は近義の心からの饗応に深く感謝し、使っていた鎧と守り本尊の十一面観音を下賜しました。近義は義家が没した後、城の鎮護のために拝領した鎧を域内に埋め、この上に平たい塚を築き、義家兄弟の三人の木像を作り、そこに社を建てて安置したと伝えられます。これが本殿裏側の甲冑塚とも鎧塚とも呼ばれる塚で、平塚の地名の起こりともいわれます。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城となりましたが、文明十年(一四七八)一月、泰経の時代に太田道灌によって落城してしまいます。
 江戸時代、上中里村出身の針医で当道座検校でもあった山川城官貞久は、三代将軍家光の病の治癒を平塚明神に祈願し、家光は程なく快復します。感謝した貞久は、みずからの資金で平塚明神の社殿と別当の城官寺を再興し、買った田地を城官寺に寄進します。貞久の忠誠心を暫くして知った家光は感激し、二五〇石の知行地を与え、この内の五〇石を朱印地として平塚明神に寄進させました。


鳥居



蝉坂からの階段



上中里不動尊





◆蝉坂



 六阿弥陀道(ろくあみだみち)の途上でもある蝉坂(せみざか)という名称は江戸時代の後半にはあったようで、幕府の編纂した地誌『新編武蔵風土記(しんぺんむさしふどき)』上中里村の項に「平塚明神ノ傍(かたわら)ニアリ、登り三・四十間」とあり、このあたりから平塚神社の参道に沿って約54メートルから72メートル余を登る坂道だとあります。
 坂を登りきって少し歩くと日光御成道と合流しますが、西ヶ原一里塚の方向へ右折してすぐに左折すると六阿弥陀第三番札所の無量寺へと向かう道に入ります。
 明治時代初期の『東京府志料』では「或云(あるいはいう)攻坂(せめざか)ノ轉訛(てんか)ナリト」と室町時代の平塚城をめぐる合戦を彷彿(ほうふつ)とさせるような坂名の由来を記しています。現在の坂道は昭和18年7月、昔の坂を拡幅して出来た道です。


続く。

2018/09/11 王子散歩 07 上中里駅/滝野川女子学園/車坂跨線橋/モチ坂/ミヤリサン製薬株式会社/上中里歩道橋

この日記のエリアは上中里から京浜東北線、東北上越新幹線沿いに田端駅方向に向かって南東に歩く。
2次元の地図からは想像もできない坂がいっぱいの場所だった(w



上中里駅


飛鳥の小径



滝野川女子学園



◆車坂跨線橋




京浜東北線、新幹線を見ることができる。








◆モチ坂




ここは坂の坂上に位置し、崕雪頽(がけなだれ)という急斜面を蛇行して下る坂道の跡がわずかに残されている場所です。坂は上駒込村から上尾久村方面へと向かう上尾久村道の途中に位置していました。鉄道が通るようになると坂下には踏切が造られ、大正時代の末から昭和の初期には跨線橋がつくられるにいたりました。モチの木が坂上にあったといわれ、明治十年代の『東京府誌・村誌』にはモチ坂とありますが、この名称は後にはあまり使われなくなっていったようです。


モチの木が気になって調べちゃった。
もちろん、モチの成る木ではない(w
樹皮から鳥黐(トリモチ)を作ることができ、これが名前の由来となったとあった。




ミヤリサン製薬株式会社

どっかで見たことがあるなあと思ってWEBで調べたら東京ドームでも一時「腸にミヤリサン」って看板を出していたみたい。
父親が良く野球中継を見ていたから、頭に残っていたかもだね。
上場はしていないみたい。
新幹線から良くこの看板見えるだろうね!




上中里歩道橋








続く。

2018/09/11 王子散歩 08 上中里庚申堂/上中里2丁目児童遊園/中里貝塚史跡広場/新幹線車庫/王子街道南亘り踏切/道標

この日記のエリアは上中里駅近くの京浜東北線・新幹線、東側エリア。
こちらを田端駅の方に向かって歩く。



上中里庚申堂

上中里歩道橋のワリとすぐ近く。




上中里2丁目児童遊園




◆中里貝塚史跡広場



上の二つの写真は同じ公園内。
電車がよく見えて子供や鉄ちゃんにはいい公園かも(w
他、史跡広場が点在していた。
ちゃんと名前があったのかもしれないが・・・・。
史跡の看板がそれぞれにあった。


国指定跡 中里貝塚

 中里貝塚 は、ここから東側約100mほど離れた現在の上中里二丁目広場で平成8(1996)年に発掘調査され、ハマグリやマガキの4mを超す貝層や国内初の貝処理施設などが出土し、縄文時代 を見直す発見として一躍注目されました。
 この中里貝塚 史跡広場は、平成11(1999)年に発掘調査され、2m近い貝層が確認されました。100m以上も離れたこの場所にも厚く堆積する貝層が良好に残っていることが判明しました。また、貝層下から岩盤が波によって削られた波食台と呼ばれる地形を掘り込んだ土杭が発見され、地盤がぬかるむためか、土杭に通じる長6.5m以上の丸太(樹種コナラ亜属)を半割した木道も設置されていました。海岸で水を使った何らかの作業場であったと考えられます。
 中里貝塚がこれまで知られていた他の貝塚と大きく異なるのは、規模の違いがあげられます。周辺での発掘調査、貝殻の散布状況、江戸・明治期の記録などを詳細に分析した結果、貝塚の範囲は長さ1km前後、幅70〜100mにわたると推定されます。この面積は、他の大型貝塚と比較しても桁違いに大きいことがわかります。しかも中里貝塚の貝層は、縄文時代中期の中頃から終わりにかけての500年程の間に集中的に形成されている点からも特異な貝塚といえます。
 この東西2ケ所の広場は平成12年9月6日、縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で重要な貝塚であることから国史跡 に指定されました。






こんな祠があった。
中にいらっしゃるのはお地蔵さんだね。


中里貝塚 ?

 中里貝塚 は、明治19(1886)年に学会で報告されて注目された貝塚 です。110年の時を経て、平成8(1996)年度に本格的な発掘調査がおこなわれました。
 これまで貝塚は、台地上の村につくられる生活ゴミの捨て場とみられていました。しかし、中里貝塚は低地に位置し、調査によって、国内最大4.5mを誇る巨大な貝層が発見されたのです(写真)。貝層からは土器のかけれや、魚や獣の骨などは見つからず、形のそろったハマグリとカキだけが捨てられていた、生活のにおいのしない貝塚なのです。
 この貝塚縄文時代 中期中葉から後期初頭(約4500〜4000年前)に海岸につくられた貝塚です(右上図)。海で採取してきた貝を浜辺で処理して身だけを取り出し、貝殻を海に向かって捨てていたのです。浜辺で貝を処理した施設は道路をはさんだうしろの広場で発見され、巨大な貝塚は目の前に広がっていました。このように、大量に2種類の貝を撮り続けていたということは、ここに集まる縄文時代の人々は、貝を選定し、枯渇しないように浜を管理していたとみられ、自家消費するだけでなく、干し貝に加工して、石器の原料である石材と交換していたようです。
 中里貝塚は、海岸につくられた「水産加工の場」だったのです。


 縄文時代前期(約6000年前)には現在よりも海水面が高く、図のように関東平野の奥まで海水が入っていました。中里貝塚が形成された縄文時代中期中葉から後期初頭(約4500〜4000年前)にはある程度海は退き(赤線が推定される海岸線)、ちょうどこの辺りは海岸でした。




中里貝塚?

 巨大な貝塚(右手の道路をはさんだ広場)に隣接して、こちらでは、砂浜の中に木枠の付いた1.6m〜1.3mの楕円形の施設の跡が出土しました(右写真)。砂浜の窪みにたまった粘土を利用したもので、中からは焼石やカキ殻などが発見されました。この施設は、貝を加工処理して身を取り出すためのものと見られ、使用方法は右図のように2通り考えられます。
 水揚げされた貝を浜辺で処理して身を取り出し、貝殻を前方に広がる海に向かって投棄し続け、貝殻がふず高く積もったのです。中里貝塚は、「水産加工の場」を示す一連の作業工程がそろって残されていたのでした。」
 この巨大な貝塚を作り上げた作業が少人数で行われたとは考え難く、組織的に共同作業が営まれていたことがうかがえます。





◆新幹線車庫



新幹線が並んで停まっていた。
操車場といえばいいのかな?




◆王子街道南亘り踏切






◆道標

かなり石が削られていてなんて書いてあるのかわからないが「右 〜道」とか「左 〜道」とか書いてあったりしたので、道標だと思われる。





続く。

2018/09/11 王子散歩 09 鉄道神社/東灌守稲荷神社/東田端公園/石碑/田端ふれあい橋/田端駅

前の日記のエリアから、このあたりは鉄道の街だね。
鉄道関連の施設が沢山!!



鉄道神社




◆東灌守稲荷神社






◆東田端公園



東田端鉄道八景 与美夕照(よみせきしょう)
夕方、尾久操車場から上野に向かう「北斗星」が与美踏切に通過します。
この情景をイメージして「与美夕照」と命名しました。




◆石碑



田端ふれあい橋へ会談で上る手前にあった。
なんのための石碑なのかよくわからなかった。
定礎かな??




◆田端ふれあい橋



橋の由来
 旧田端大橋は、昭和十年に架建された突桁式下路版桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接 した文字どおりの全溶接橋 として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、そのころの造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話がのこされています。

橋の概要
 施工年月日 昭和十年十二月二十七日
 形式      突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
 橋長      一三五.〇メートル
 橋梁巾     一三.八〇メートル
 道路幅員   一一.〇〇メートル(当時)
 総鋼重量   約五九一トン(当時)

残存の経緯
 旧田端大橋は、近年の経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は昭和六十二年に新田端橋を架建しました。
 新田端橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方から歩行橋として再生利用の要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変わることになりました。




オブジェが何点かおいてあった。
そのうち二つだけ写真を撮ってきた。


動輪

東北新幹線200系で使用されていた車輪



40kレールとポイントリバー

東北線で使用されていたレールと列車の運転方向を切り替える装置



ガラス張りの欄干から見た風景



田端文士芸術家村

かつて田端は、一面の畑地、谷田川の清流、藤屋筑波の眺望に囲まれたのどかな村でした。この台地に陶芸家の板谷波山鋳金家の香取英眞、画家の小杉放庵らがカマを築き、アトリエを建てたのは、明治の後期のことです。
大正に入ると、芥川龍之介室生犀星、や菊池寛など数多くの文士たちがこの地に居を構え、それぞれの専門領域を超えた密接な人間関係を結んで、類のない文化圏をつくりあげました。田端は、日本の、「モンマルトル」「文士芸術家村」などと呼ばれて、大正期の日本文化をリードしたロマンの香り高い郷として語り継がれています。




◆田端駅

ゴールのJR山手線・京浜東北線田端駅。
後半になるほどキツイ坂が多くなり、体力がかなり奪われた。
こんなに起伏の激しい場所だと思わず、立体地図が欲しいと思った(w
最後、田端ふれあい橋で売っていた5個で300円の梨を買って帰ればとちょっと後悔してるのでありました・・・。