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ovanの社会科見学

2018-10-30

2018/10/30 駒込散歩 03 富士前小学校跡/駒込富士神社/江岸寺/旧駒込上富士前町/建設省土木研究所発祥の地/岩槻街道

この日記のエリアも10数年前に一度来たことがある。

たぶんmixiに・・・・・・

先程のエリアから少し西へ移動。

ほぼ本郷通り沿いとなる。



◆富士前小学校跡

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 明治27年9月、旧富士前町10番地この地に東京市立藤前小学校が創立された。3教室の校舎で、児童97名であった。校名は、富士神社の前であり、また町名から名付けられた。

 地域の発展は、児童数の大幅増となったが、校地がせまく、大正5年、遠くの旧神明町435番地あたり、現在の区立九中の敷地の一部を買収して新校舎を建設して移った。当時児童数は1050名であった。

 昭和3年富士前小学校旧校舎に昭和小学校が開校し、翌年現在地に校舎を新築して、富士前小学校から児童600人が移った。

 なお、富士前小学校には次の学校が付設された。

 〇尋常夜学校・大正7年開校。経済的な家庭の事情で昼間小学校に通学できない児童のために設けられた。修業年限2か年。

 〇本郷区第一実業女学校大正7年開校。昭和10年には本郷区高等家政女学校となる。

昭和20年2月25日の空襲で、文京区内小学校では最初に校舎が焼失した。本郷区最北部の小学校として設置された本校は、同21年3月31日をもって廃校となり、その輝かしい歴史を閉じた。

 校歌(第一節)

富士の高嶺の名も清き   学びの庭の朝夕に

   仰ぐ雲井の姿こそ    やがて我等が  かがみなり




駒込富士神社

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 富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。

 寛六年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。

社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。

 富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。

 山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区では、「駒込のお富士山」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。



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富士神社は、この富士塚の上に建っている。



駒込富士神社

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駒込ナス

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 幕府がおかれた事で、江戸の人口は急増しました。主食のお米は全国から取り寄せましたが、一番困ったのは新鮮な野菜の不足で、江戸城内でも野菜を栽培していた記録があります。多くの大名たちは国元から百姓を呼び寄せ、下屋敷などで野菜を作らせました。

 このようにして、江戸近郊の農村では換金作物として、ナスやダイコン、ゴボウなどの野菜栽培が盛んになり、当富士神社周辺でも、各種の野菜栽培が生産されるなど、大消費地江戸の供給基地として発達しました。

 とくに、ナスは優れたものが出来たことから「駒込ナス」として江戸庶民に好まれ、徳川幕府が発行した「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも記されています。農家はナス苗や種子の生産にも力を入れるようになり。タネ屋に卸していました。現巣鴨駅の北西にある旧中山道にはタネ屋が集まり、さながらタネ屋街道の趣をなし、駒込滝野川など周辺の農家が優良品種の採種に大きく貢献していました。



鳥居

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◆江岸寺

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 曹洞宗江岸寺の開基は、鳥居忠政 である。以後当寺は鳥居家の江戸菩提寺となった。忠政の父元忠は、今川義元の人質となっていた家康に仕えた。人質解放後は、三方ヶ原の戦、長篠の合戦 等で、家康に常に付き従い、輝かしい武功を立てた。天正18年(1590)家康関東入国の際は、下総矢作(しもうさやはぎ)(現千葉県佐原市)4万石を拝領した。慶長5年(1600)関ヶ原の戦い では、家康から伏見城 の留守番を命ぜられた。西軍に伏見城の明渡しを命じられた時、拒否し石田三成 等の総攻撃を受けた。これが関が原の戦の導火線となった。城を出て戦うこと五たび、力付討死し、城も落ちた。

 その子忠政は大坂の陣では、江戸城留守居役を勤め、その後、東北の押さえの地、山形22万石を与えられた。忠政は三河譜代の範たる祖先を祀るため、この寺院を建立した。現在忠政の供養塔が残っている。鳥居家はその後、六代忠英(ただてる)の時、下野国壬生(しもつけのくにみぶ)4万石に移封された。

 鳥居氏の子孫、鳥居忱(まこと)は壬生藩の江戸の大名屋敷に生まれた。壬生藩の貢進生(こうしんせい)(藩の奨学生)として大学南校東大の前身)に学んだ。卒業後、音楽取調掛(おんがくとりしらべかかり)(東京音楽学校の前身)伝習生として、アメリカ人の教師メーソンに洋楽を学んだ。

 東京音楽学校教授を勤めるかたわら、多くの作詞をてがけた。中でも「箱根八里」は滝廉太郎 の作曲で、多くの人々に愛唱されている。鳥居忱(まこと)はここに眠っている。



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◆旧駒込富士前町

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 もと伝通院領の百姓地であった。元文2年(1737)町屋を開き、延享2年(1745)から町奉行支配となった。

 富士前町(富士神社の前にある町なので名づけられた)の上(かみ)の方(北方)にあるので、上富士前町と命名された。

 明治維新後、きょう柳沢下屋敷、藤堂下屋敷及び武家屋敷地を併せた。

 町内に都立六義園がある。柳沢吉保(よしやす)(5代将軍綱吉の御用人・大老格)が、元禄十五年(1702)、下屋敷に完成した回遊式築山泉水庭園である。

 明治11年に、岩崎家の所有となり、昭和13年同家から東京市に寄付され、公園として一般に公開された。




建設省土木研究所発祥の地

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 大正11年, この地に, 私たちのくらしをまもる土木技術の研究開発を推進するため, 内務省土木試験所が設置されました。昭和23年建設省土木研究所と改称, 昭和54年筑波研究学園都市に移転しました。

 現在も, わが国の土木技術に関する研究及び開発を総合的に実施し, 災害を防ぎ, 豊かな国土と快適な生活環境をつくるため, たゆみない努力をつづけております。




岩槻街道

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 この街道は、江戸のころ将軍が日光東照宮にお参りする時に通る道であることから”将軍御成道”といわれ、重要な道路の一つであった。人形のまち・岩槻に通じている道で“岩槻街道”という。現在の東京大学農学部前の本郷追分で、旧中山道とわかれ、駒込へと直進し、王子、岩渕を経て荒川を渡り、岩槻へと向かう。

 将軍は、江戸城を発ち、岩槻に一泊し、さらに、古河城、宇都宮城に泊って日光に入ったといわれている。将軍がこの街道を通る時の警備は厳重で、沿道に住む人達は、大そう不自由なおもいもしたという逸話が残っている。現在の名は”本郷通り”である。



続く。

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