1月22日~1月28日(大宮、秋葉原呑み、根室花まる)

写真
小村田氷川神社@大宮
新時代の伝串ピラミッド@秋葉原
根室花まる@後楽園

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1月22日(月)晴

24時間勤務(当務2)

8044歩
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1月23日(火)晴

24時間勤務アケで・・・。

大宮散歩 01 竹橋・東京・高円寺氷川神社/大宮駅/そごう/庚申神社/安楽寺/安楽寺/日の出橋/薬師堂
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/210000_1

大宮散歩 02 小村田氷川神社/享保16年の庚申塔(上小町)/小村田橋/天満宮・稲荷神社/普門院/八幡神社
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/213000_1

大宮散歩 03 (株)サトー ビジネスプラザ/日進湯/桜盛会/大栄橋(西)交差点/赤煉瓦倉庫/大宮西口富士見通り商店街
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/200000

大宮散歩 04 大宮聖愛教会/鐘塚稲荷神社/鐘塚公園/清河寺温泉/むーんしゃいん/新宿
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/203000

23609歩

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1月24日(水)晴

休み♪

ビデオ・ブログ作業。

2480歩

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1月25日(木)晴

休み♪

職場の人と秋葉原で呑み♪

7330歩

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1月26日(金)晴

24時間勤務(当務3)

9342歩

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1月27日(土)晴

24時間勤務アケで・・・・。

講習。
後は職場の人と「根室花まる」でお食事♪

10038歩

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1月28日(日)晴/曇り

24時間勤務(当務1)

9882歩

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SONY reader

休み。

2024/01/23 大宮散歩 04 大宮聖愛教会/鐘塚稲荷神社/鐘塚公園/清河寺温泉/むーんしゃいん/新宿

前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/200000





◆大宮聖愛教会

とても歴史がありそうな建物だった。

HPがあった。
日本聖公会 大宮聖愛教会

建物は林敬吉設計、大宮で最初の鉄筋コンクリートの建物として建築されたとあった。
参考
教会の歴史 | 大宮聖愛教会






◆鐘塚稲荷神社







◆鐘塚公園

別のページで。
2024/01/23 鐘塚公園 - ovanの社会科見学






◆清河寺温泉

めっちゃ久々。
割引になるカードが廃止されていてガッカリ・・・・・。






◆むーんしゃいん

元同じ職場で働いていた人とかるく飲み。
良い雰囲気のお店でした。






◆新宿

ちょっと新宿で寄り道。
ペンギン広場でちょっと癒された(w






久々の大宮。
久々の清河寺温泉。
新しい発見もあったし良い散歩だった。

2024/01/23 鐘塚公園






◆桜木小学校記念碑




 1902年年(明治三十五年十一月)大宮工場見習養成所の一部を借りうけて授業を開始したといわれる客にう工場学校は、その後1923年(大正十二年九月)大宮尋常高等小学校桜木町西分校となり、1927年(昭和二年四月)大宮西尋常小学校と改め独立校となりました。また、昭和十五年校名を桜木尋常小学校と改め、さらに昭和十六年大宮市桜木国民学校となり、いくたびがの光明変更がありましたが1982年(昭和五十七年一月) 西口都市改造事業に伴い現在地、大宮市桜木町四丁目三二八番地一九)に移転しました。
 この間、八十余年の歴史と伝統に輝く母夜桜木小学校らは有為な人材を数多く社会に輩出し卒業生もすでに一万人を越すにいたりました。夢、旧桜木小学校の跡地に聳えるソニックシティは明日の大宮をさり拓くシンボル的な存在として産業・文化・国際交流とその役割が大いに期待されております。
 こうして、地元の発展のために移転した跡地に往時の桜木小学校の面影を後世に伝えようと、桜木に生まれ、桜木に育ち、桜木で学んだ桜木っ子が、あの日、あの時の思い出を懐古しながら母校のぬくもりが肌に伝わるような「おおい!ここだよ」の記念像をここに建立し母校のますますの発展を祈念するものです。






◆鐘の音像



鐘塚公園由来
この公園に立つと、何処からか鐘の音が聞こえて来ませんか、その昔鏡の精が美しい姫となつて現れたロマンに満ちた物語の地です。
やかて姫が月に帰るとき歌を残しました。
「いざさらば 月の世に住む身なれども 忘れがたなき鐘が宿かな」
世代を越えて、大宮市民の心の糧となることを願って公園名としました。






◆白井助老翁之像



白井助老翁顯彰

大宮維新の人
旧大宮市百年の繁栄を築いた先達者の白井助七翁の偉大な業績とその存在れてはならない。
翁は天保十二年十月大宮宿大門に生まれ家業の甘藷肥料問屋を営んでいた。
明治十六年日本鉄道会社によって上野から熊間に鉄道が開通したが大宮に駅に出来なかった。
丁度その頃商工業の発展には駅は必要だと、白井氏は大野伝左衛門矢部忠右衛門岩井右衛門八等と共に駅の必要性を説きのために必要な土地、資の提供を申出て熱心な請願運動を展開した。その努力が実り明治十八年大宮駅が開設され鉄道の街大宮への第一歩がふみ出された。
その後これにとどまることなく明治二十五年更に日本鉄道会社の鉄道材料工場建設誘致の運動を展開、これが実子大宮に工場が建設され当時大宮は活気にあふれた。
駅 鉄道工場街づくり道路づくりに伴い仲間と共に土地資材を提供し、鉄道の街大宮の発展に大きく貢献した。
又鉄道会社より贈呈された謝金を小学校の校合建築資金に寄贈し、文教の充実にも寄与した。こうした数々の功労により明治八年推されて第三代大宮町長に就任惜しみなく 町政に力をつくした。激務であった町政の執務遂行中逝去された。時に明治二十九年五月、享年五十八歳であった。
平成十四年 六月吉日
白井助老翁顯彰胸像建立实行委員会





場所はコチラ

2024/01/23 八幡神社



 明徳年間(今から約六百十五年前)の御草創と伝うれど御創立の年代詳ならず。古く大成村金子駿河守の知行なりしによりその居城大成城の鎮護として自らの甲の八幡座を鎮め八幡神を勧請して当神社を鎮斎せりとも伝う。近郷士農衆庶の尊崇篤く遠くは宝歴八年十一月社殿を改築、近くは今上天皇皇位御継承大典の年社殿を修理し社務所を新築す。



御由緒の文章は上と同じ



八幡神社 御由緒

□ 歴史
やかた
 創建は社伝によると、明徳年間(一三九〇-九四)のことである。また、後に当地を領した金子駿河守がその居館である大成館の鎮護とするため南方に自らの兜の八幡座の座金物を鎮めて八幡神を勧請したものと伝える。なお、この折、境内地がなかったので、しばらく氏子の村田知之家に八幡神を祀ったといわれる。
 江戸期、別当は『風土記稿』に「八幡社 金乗院持」とある。金乗院は、旧上加村万福寺末の真言宗の寺で、本尊は不動明王である。
 神仏分離は、明治初年に行われ、同三年の『大宮組合神社細詳取調帳』によると、住僧は復飾して中村章因と名乗って神職となり、復飾料として「持添ノ公田五畝十二歩」が与えられている。
 『明細帳』によると、明治四十年に当社すなわち「大成字前原耕地無格社八幡社、同境内社御嶽社、八雲社、天神社、神明熊野琴平合社、稲荷社、琴平社、雷電社」が、大字上加字宮腰に鎮座する氷川社(日進神社)に合祀された。
 しかし、昭和二十七年に氏子の熱望により合祀解除が行われた。この時、宮司は、神輿と共に日進神社に参り、八幡神の御幣束の返却を受け、これを神輿に奉安し、先祓いの後、静々と当社に帰って来た。境内には数多くの行灯が並べられ、氏子たちは恭しくこれを迎え、盛大な還御祭を斎行した。

□ 祭神
誉田別命

□ 祭祀
・元旦祭(一月一日)
・春祭り(四月十五日)
・夏祭り(八月一日)
・秋祭り(九月十五日)






◆御神木「雨乞いの黄楊(つげ)」



社伝によると宝暦乃時代「祭事」として「雨乞い神事」を八幡神社氏子達は毎年夏季に入ると豊作を願い行っていた。
即ちその時代は降雨少なく早魃が多かった為、氏子達は薬で籠を作り龍神様に「雨乞い」をし地域の五穀豊穣を祈願したものである。
時恰も宝暦八年(1758) 八幡神社は大改築の工事を実施中であったが雨乞い神事を実施し降雨をみた為、神社改築工事竣工と雨乞い神事を記念して本黄楊を植樹し現在に至ったものである。
樹齢約二百六十年位と推定される。






庚申塔



庚申塔の由来
この庚申塔は今から約230年前即ち1780年(安英九年庚子歳三月吉祥日)に庚申信仰の象徴として建立されたものです。建立者は村田、柳川、横田、高橋、山崎、平柳、清水、内田、関口、竹野、井上、氏など二十一名の地元有志によって建てられました。高さ1m36cm幅40cmの角柱型です。
礎石には「従是西上野三十丁川越三里道是より東大みや八丁岩「き五りみち是より北原氏二里上尾二里道」と刻まれています。






◆公園

境内の一部は公園になっていた。






◆鳥居






場所はコチラ

2024/01/23 普門院


『普門院(ふもんいん)は、埼玉県さいたま市大宮区大成町にある曹洞宗の寺院である。応永33年(1426年)、当地の領主金子大成は、この地に赴いた月江正文に帰依し、自から剃髪し幻公庵主と称し、居城(大成館)を寺院とし、山号を大成山、寺号を普門院とした。 』
普門院 (さいたま市) - Wikipedia



 その昔、室町時代の高僧月江正文和尚に帰依した、 このあたりの領主金子駿河守大成公が、 自分の屋敷をお寺にしたのが普門院のはじまりと言われています。
 本堂左手の墓地には、江戸時代に大成領主だった旗本小栗忠政一族のお墓や、世界で最初に実用的胃カメラを考案した宇治達郎博士のお墓などがあり、歴史や文化を感じさせるスポットとなっています。
 また、 本堂前のキャラ、 客殿の前庭のタラヨウやチリメンカエデは市指定天然記念物で、 それぞれの季節ごとに普門院の風景に彩りを添え、秋の境内は黄金色一色に染まります






◆天然記念物

天然記念物を大切にしましょう
 ここ普門院には、貴重な四件(イヌツゲ、キャラ、チリメンカエデ・タラヨウ)の市指定天然記念物があります。
 いずれも手入れが行き届いており、大宮市を代表する樹木です。いつまでもあたたかく見守ってください。







◆月江正文和尚頂相

参考
さいたま市/文化財紹介 月江正文和尚頂相







◆大成領主 小栗忠政一族の墓

参考
さいたま市/文化財紹介 大成領主小栗忠政一族の墓







◆白山妙理大権現

白山権現(はくさんごんげん)は、白山の山岳信仰修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E6%A8%A9%E7%8F%BE



文字化を断念・・・・。







◆夢違い観音像



「夢違い観音像」 解説
 人生には二度と見たくない夢や、思い出したくないことが必ずいくつかあります。
 一人ひとり、それぞれ違った生き方をし、感じ方も違いますが、日常はよい思い出のみを胸にしまって生きていきたいと願っています。
 この世で誰もが平和を願い、争いごとのない平の世の中を願いつつも、相互に競い合い、奪い合い、策略、略、誹謗を繰り返している現実を見るとき、人間とは何と浅ましい生きるのなのだろうか、昔と少しも変わらぬ、いや、むしろ精神面は後退しているとさえも思えるのです。
 かつて当寺におきましては、現在までに三度の大火に遭い、その都度住職や信徒の人々の懸命な努力と寄進のお陰で立ち直ってきたと言い伝わっております。
 当寺三十三世大猷慈済大和尚の時代には小栗上野介忠順公と親交があったのですが忠公は慶応四年四月六日新首という悲運の最期を迎えられ、三十三世大和尚も時を追ってまもなく悲惨な殺に遭い共に不運の終焉をむかえられています。
 近年では、第二次世界大戦で檀信徒の各家庭でも夫や父や息子が招集令状で出世戦死されて、遺骨の戻った人はわずかで遺髪のみや、紙一枚しか戻らない魂が大多数でした。
 「二度と経験したくないこと、思い出したくないことや、いやな夢を見たときなど、現世に生きる人間を悪夢から救い、二度と恐ろしい目に遭わぬよう私たちを見守っていただきたいのです。それがこの観音さまです。」
 この「夢違観音さま」は、法隆寺白鳳時代の作の奉安を原点とし、近年には九州の知覧特攻隊基地や、その他同じ不運に遭われたりしたところなどには、同じ思いで和を願う人々のために建立されて人々に安らぎを与えて下さっています。
 当寺にては、この度、製作者菊地文子氏のご縁により安置できることになりました。永く礼拝する人々を見守っていただきたく今般建立に当たり、各ご家庭の無事を異い、悪夢を見た時にはすぐに参詣しお祈りして参拝されることをおすすめします。



うれしい夢
おそろしい夢
たえられないゆめ
かなしい夢
何万年もの昔から
人間は夢を見てきた
ああ 夢違い観音様
どうかこの人間から悪夢をとり除き
安らかな夢をお授けください







庚申塔








◆鐘楼







六地蔵







◆稲荷社







◆保存樹木 キャラ

『伽羅(伽羅木、キャラボク) - イチイ科イチイ属の常緑樹イチイの変種。』
キャラ - Wikipedia


沈香(じんこう、学名: Aquilaria agallocha、英語:agarwood)は、熱帯アジア原産ジンチョウゲ科ジンコウ属(英語版)の常緑高木。代表的な香木の一つ。
風雨や病気・害虫などによって木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積する。それを乾燥させ、木部を削り取り香木として利用する。原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈香」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している。
沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科のジンコウ属およびゴニスティルス属)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている。 』
沈香 - Wikipedia







◆大宮市名誉市民 宇治田積之墓所

『1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという』
杉浦睦夫 - Wikipedia



宇治達郎先生顕彰碑
宇治達郎先生は昭和二十五年世界にさきがけて胃カメラの開発に成功しました
それが内視鏡の発展となり 医学の進歩におよぼす影響ははかり知れぬものがあります

昭和二十八年 財団法人発明協会特賞・朝日新聞社発明賞
平成二年   吉川英治文化賞・大宮市民栄誉賞を受賞
ここにその偉大な功績をたたえ 碑を建立して顕彰します







さいたま市名誉市民 新藤享弘之墓所/大宮市名誉市民 新藤元吉之墓所

『新藤 享弘(しんどう たかひろ、1932年〈昭和7年〉9月3日[1] - 2020年〈令和2年〉12月19日)は、日本の政治家。元大宮市長(第16代 - 第18代〈最終〉)。中央大学商学部卒業。埼玉県北足立郡大宮町(現:さいたま市)出身。父は元埼玉県議会議長を務めた新藤元吉。 』
新藤享弘 - Wikipedia







井伏鱒二の小説「普門院の和尚さん」

 モデルとなった阿部道山老師は、普門院四十二世唯一道山大和尚として、権教となって曹洞宗の最高位をきわめた人である。 大本山永平寺の顧問会議長をつとめ、昭和三十三年には、タイ国首都バンコクで開催された第五回世界仏教徒大会に、日本仏教代表として出席し、世界平和の宣揚に努めたり、更に同年十二月には、インド・ネパール両国の招請に応じて、ブッダガヤをはじめとする四大聖跡を巡錫されるほど、我国仏教界に残した功績も大きなものがある。
 また、地元にあっては、埼玉県文化保護協会会長埼玉県立北団連合会会長をつとめるなど文化 文化財関係での活躍がめざましく県立博物館の建設にあたっては、永年情陳情につく陳情を繰り返して、ついに実境にこぎつけた執念の人でもあった。
 一方、普門院にあっては、再中興開山として、寺勢復興と境内の整備に尽くし、小栗上介再建の大本堂を中心に、新たに山門・開山堂・庫裡・黄談などを建立して、今の伽藍の基礎を完成させた人でもある。「奈良や京都に行かれな日本庭園の美しさを鑑賞できるようにと、人のためにせっせと造園にも力を入れた。
 そして、何にもまして努力を傾注したのは、悲運の人小栗上野介の雪冤と●●であった。
 大正十四年の春、永平寺の僧堂を出てこの寺の住職となってから、史実の研究を進めてゆくうちに、上野介忠順の偉大さに傾倒するようになり、「小栗ハカ」、「小栗狂いい」と口をたたかれながら、忠順にかけられた逆賊の汚名をそそぐことに生涯をかけるようになった。著書『小栗上野介正傳』(昭和十六・序海軍大将岡田啓介)は、永年に亘る老師の研究成果で、四百ページを超える大作である。
 そして、その中に、なんと「小栗上野介を踊った原保太郎翁と語る」という文策をたてたくだりがある。まさに歴史の生き証人であり斬殺の張本人である源保史郎と、麗殺された側の先祖菩提寺の住職道山和尚との六十五年後の直接の対座を見学りである。奇縁とも劇的ともいった。
 それからしばらくして文豪井伏鱒二氏は、「普門院さん」(昭和二十四・改造文芸)、「普門院さん』(昭六十・井伏鱒二自選全集)、「普門院さん」(昭六十三・文藝雑誌海燕八月号)と、時をおいて三度筆を加え改題して、このくだりを中心にした小説を●●している。
 また、我国未曾有の長編小説「大菩薩峠」(※この小説にも小栗上野介が登場する)の作者であり、大衆大衆文学の先駆といわれた中里介山氏も、昭和十一年の四月に、夫人同伴でこの寺を訪れて、銅山和尚と面会しているがその時の印象も、氏の個人雑誌「峠」の第六号「小栗上野介墓塚」に載せ、老師の人柄に好意を寄せるとともに、境内に手植えの槇を残していった。
 さかのぼって、昭和八年五月には、高名の徳富蘇峰夫妻が、小栗家の墓所の参拝に来たことがある。同じく和尚に好意をよ●●●●、庭に松の木を植えていった。
 ●松で、目通り同団80cmに、高さ●●●●●●●●形姿を見せている。
 さて、この和尚、●●・・・・・・・・・・・・・・・(文字化を断念)







◆大成領主小栗忠政一族の墓



さいたま市指定文化財(史跡)
 小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦い、敵か家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠政がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした。一番格にも等しいとその絵を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたのて又一(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(1616)に亡くなると普門院に葬られた
 忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。 代々又一と称し葬地は牛込保善寺である大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加増され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(1661)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。 普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。
 横須賀製鉄所建設など、近代日本の礎を築いた小栗上野介忠順は、本家政信の子孫であるが、忠政を始祖と崇め、忠政夫妻の眠る普門院に特別の親しみと信頼感を持っていたようである。
 忠順は、新政府軍に対する徹底抗戦を主張したため将軍慶喜に疎まれ、慶応四年(1868)一月十五日陸軍奉行並兼勘定奉行を罷免されて隠棲を決意、身の危険を感じてか、十九日家宝の家康から与えらえた信国の槍等を普門院に預けた。 二月二十八日土着先に選んだ上州権田村(現高崎市)(旅立ちの途中、普門院に立ち寄り別れを告げた。閏四月六日朝敵として新家庭に捕らえられ斬首された。
門には忠順の供養塔、招魂碑が建てられていた。







龍神








◆開山堂







◆石塔

水道供養宝塔








小栗上野介・招魂碑・大砲・機械水雷・錨







小栗上野介・招魂碑・大砲・機械水雷・錨 解説
文字化を断念







◆石塔











六地蔵



文字化を断念。。。



文字化を断念。。。


◆月江正文和尚頂相

 禅宗では仏法を習得したしるしに、師から弟子へ自分の姿を描いた肖像画を与えることが鎌倉時代から行われました。寺院ではこれを年忌や儀式にかかげ師の人徳をしのび、宗風を慕ったもので、この肖像画を頂相と呼びます。
 当院の開山月江正文和尚を描いたこの頂相は、素絹の画面に極彩色で描かれ、顔を少し斜めにむけ、曲条 (法式の際に用いる椅子に腰かけ右手に払子を持っています。伝えによると和尚自筆の頂相といわれます。厳しい中にもゆとりのある風貌は、徳望の高い和尚の様子をいかんなく描きだしています。 材質・描法・彩色などからみて室町時代中期以降の製作と推定されています。
 寺誌によると和尚と普門院の開創については、次のように伝えられています。応永三十三年(1426)、月江正丈和尚は諸国行脚の途中、 武蔵一宮氷川神社で夜を徹して祈願していました。すると一人の老翁があらわれ「和尚は道徳はなはだ堅固である。必ずや仏法の霊験があろう」と言い残し、同じころ氷川神社神主の枕元にもこの老翁があらわれ 「今、社の拝殿に一人の高僧がいる。ここより西方に観音堂があるが、そこへ案内し、この地に留まるようにせよ」と言い残して消え去りました。さっそく神主は、和尚を大成村の領主金子駿河守のもとに案内しました。そこで一部始終話したところ、駿河守は大変感動し、また和尚のに信仰の念を厚くして、自分が住んでいる大成館を寺にして山号を大成山、寺号を普門院としたということです。
 月江正文和尚は山城国の人で、尾張国の楞厳寺・上野国の雙林寺・武蔵国足立郡普門院の開山となり、寛正四年(1一四六三) 示寂しています。
 当院にはこの他、小栗忠政一族の墓 高蒔絵飾棚・チリメンカエデ・タラヨウ・イヌツゲ
キャラが、また境内地全体も大成館跡として大宮市指定文化財となっています。







◆見守り地蔵







◆山門







2024/01/23 大宮散歩 03 (株)サトー ビジネスプラザ/日進湯/桜盛会/大栄橋(西)交差点/赤煉瓦倉庫/大宮西口富士見通り商店街

前のページからの続き。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/213000_1





◆(株)サトー ビジネスプラザ

変わったデザインのビルだね。
HPがあった。
サトー (SATO)







◆日進湯

銭湯♪






◆桜盛会

商店街♪



ロケットビル

商店街の中にあったかなり変わったビル。
バブルのころに美術館にする予定で建てたとか・・・・。
参考
あの金色に輝くロケットは何だ?「大宮駅のロケットビル」【埼玉】 | 日本珍スポット100景






◆大栄橋(西)交差点

 かわいい小さな車両のニューシャトルが、 JACK 大宮という建物を巡っている風景は 「これこそ大宮」という風景です。
 JACK 大宮は、プラネタリウムやオフィスなどで構成される情報文化のビジネス拠点として、 1987年にオープンし、 童話 「ジャックと豆の木」のように、未来へ向けた大宮のまちの発展を願って名付けられました。
南側の丸みを帯びたプラネタリウムのある宇宙劇場の周囲を、やや角度を上げながら大栄橋の方へゆっくり昇っていくニューシャトルの姿は、宮沢賢治の童話に出てくる銀河鉄道を彷彿させます。







◆赤煉瓦倉庫

日本鉄道大宮工場の赤煉瓦倉庫とのこと。
参考
https://senseki-kikou.net/?p=39210







◆大宮西口富士見通り商店街

商店街♪






続く。
https://ovanrei.hatenablog.com/entry/2024/01/23/203000

2024/01/23 小村田氷川神社


『創建年代は不明である。ただ慶安 - 元禄年間(1648年 - 1704年)に並木村から上小村田村が分村したときに移設されたという記録があることから、江戸時代前期には既に存在していたものと推測される。旧所在地は現在の同市同区桜木町で、当地からは当社の遺物が出土している。「寿福寺」が別当寺であった。寿福寺真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
1873年明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1908年(明治41年)の神社合祀により、周辺の10神社が合祀された。 』
氷川神社 (さいたま市大宮区上小町) - Wikipedia






◆大宮市指定文化財天然記念物 上小氷川神社のモッコク



 モッコクは、温暖な地方の山地に生育し、高さが10~15mまで成長する常緑高木です。庭木としても多く植えられます。葉は長楕円形で厚く、滑らかで光沢があります。雌雄異株で、雌株は、夏には枝の上部に小さな白い五弁の花が下向きに開き、直径約一秒の丸い実をつけます。
 実は、秋が深まると赤く熟します。
 樹皮はタンニンが多く含まれるため、茶色の染料に使われ、樹皮を剥いだ材は鮮赤色で櫛や床柱に用いられます。
 上小氷川神社は、むかしから村人の篤い信仰に支えられ、また近所の子供たちの遊び場として親しまれてきました。樹齢が百五十年前後と推定されるこのモッコクも、かつては傍らで少女たちの花いちもんめのメロディーを聴きながら、少年たちの馬乗りの背あてとしてどんなにか活躍したことでしょう。いまは懐かしい風景となってしまいました。
 地域の生活と共に成長してきたこのモッコクを、これからも見守っていきましょう。

目通り  1.84m
根回り  5.70m
枝張り 東3.50m
    西5.70m
樹齢  推定150年







◆神楽殿







◆石塔








◆鳥居







場所はコチラ