『普門院(ふもんいん)は、埼玉県さいたま市大宮区大成町にある曹洞宗の寺院である。応永33年(1426年)、当地の領主金子大成は、この地に赴いた月江正文に帰依し、自から剃髪し幻公庵主と称し、居城(大成館)を寺院とし、山号を大成山、寺号を普門院とした。 』
普門院 (さいたま市) - Wikipedia
その昔、室町時代の高僧月江正文和尚に帰依した、 このあたりの領主金子駿河守大成公が、 自分の屋敷をお寺にしたのが普門院のはじまりと言われています。
本堂左手の墓地には、江戸時代に大成領主だった旗本小栗忠政一族のお墓や、世界で最初に実用的胃カメラを考案した宇治達郎博士のお墓などがあり、歴史や文化を感じさせるスポットとなっています。
また、 本堂前のキャラ、 客殿の前庭のタラヨウやチリメンカエデは市指定天然記念物で、 それぞれの季節ごとに普門院の風景に彩りを添え、秋の境内は黄金色一色に染まります
◆天然記念物
天然記念物を大切にしましょう
ここ普門院には、貴重な四件(イヌツゲ、キャラ、チリメンカエデ・タラヨウ)の市指定天然記念物があります。
いずれも手入れが行き届いており、大宮市を代表する樹木です。いつまでもあたたかく見守ってください。
◆月江正文和尚頂相
参考
さいたま市/文化財紹介 月江正文和尚頂相
◆大成領主 小栗忠政一族の墓
参考
さいたま市/文化財紹介 大成領主小栗忠政一族の墓
◆白山妙理大権現
『白山権現(はくさんごんげん)は、白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。 』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E5%B1%B1%E6%A8%A9%E7%8F%BE
文字化を断念・・・・。
◆夢違い観音像
「夢違い観音像」 解説
人生には二度と見たくない夢や、思い出したくないことが必ずいくつかあります。
一人ひとり、それぞれ違った生き方をし、感じ方も違いますが、日常はよい思い出のみを胸にしまって生きていきたいと願っています。
この世で誰もが平和を願い、争いごとのない平の世の中を願いつつも、相互に競い合い、奪い合い、策略、略、誹謗を繰り返している現実を見るとき、人間とは何と浅ましい生きるのなのだろうか、昔と少しも変わらぬ、いや、むしろ精神面は後退しているとさえも思えるのです。
かつて当寺におきましては、現在までに三度の大火に遭い、その都度住職や信徒の人々の懸命な努力と寄進のお陰で立ち直ってきたと言い伝わっております。
当寺三十三世大猷慈済大和尚の時代には小栗上野介忠順公と親交があったのですが忠公は慶応四年四月六日新首という悲運の最期を迎えられ、三十三世大和尚も時を追ってまもなく悲惨な殺に遭い共に不運の終焉をむかえられています。
近年では、第二次世界大戦で檀信徒の各家庭でも夫や父や息子が招集令状で出世戦死されて、遺骨の戻った人はわずかで遺髪のみや、紙一枚しか戻らない魂が大多数でした。
「二度と経験したくないこと、思い出したくないことや、いやな夢を見たときなど、現世に生きる人間を悪夢から救い、二度と恐ろしい目に遭わぬよう私たちを見守っていただきたいのです。それがこの観音さまです。」
この「夢違観音さま」は、法隆寺白鳳時代の作の奉安を原点とし、近年には九州の知覧特攻隊基地や、その他同じ不運に遭われたりしたところなどには、同じ思いで和を願う人々のために建立されて人々に安らぎを与えて下さっています。
当寺にては、この度、製作者菊地文子氏のご縁により安置できることになりました。永く礼拝する人々を見守っていただきたく今般建立に当たり、各ご家庭の無事を異い、悪夢を見た時にはすぐに参詣しお祈りして参拝されることをおすすめします。
うれしい夢
おそろしい夢
たえられないゆめ
かなしい夢
何万年もの昔から
人間は夢を見てきた
ああ 夢違い観音様
どうかこの人間から悪夢をとり除き
安らかな夢をお授けください
◆庚申塔
◆鐘楼
◆六地蔵
◆稲荷社
◆保存樹木 キャラ
『伽羅(伽羅木、キャラボク) - イチイ科イチイ属の常緑樹イチイの変種。』
キャラ - Wikipedia
『沈香(じんこう、学名: Aquilaria agallocha、英語:agarwood)は、熱帯アジア原産ジンチョウゲ科ジンコウ属(英語版)の常緑高木。代表的な香木の一つ。
風雨や病気・害虫などによって木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積する。それを乾燥させ、木部を削り取り香木として利用する。原木は、比重が0.4と非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈香」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している。
沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、沈香と伽羅を産するほぼすべての沈香属(ジンチョウゲ科のジンコウ属およびゴニスティルス属)全種はワシントン条約の希少品目第二種に指定されている。 』
沈香 - Wikipedia
◆大宮市名誉市民 宇治田積之墓所
『1949年7月、東京大学付属病院小石川分院の外科医、宇治達郎が勤務先のオリンパス光学工業に相談に来て、杉浦がその対応にあたった。胃の中の写真を撮る「胃カメラ」を開発したいが可能かどうか尋ねられたところ、「光があり、レンズがあり、フィルムがあればたとえカメラがどこにあっても撮影は出来る」という内容にて回答したという』
杉浦睦夫 - Wikipedia
宇治達郎先生顕彰碑
宇治達郎先生は昭和二十五年世界にさきがけて胃カメラの開発に成功しました
それが内視鏡の発展となり 医学の進歩におよぼす影響ははかり知れぬものがあります
昭和二十八年 財団法人発明協会特賞・朝日新聞社発明賞
平成二年 吉川英治文化賞・大宮市民栄誉賞を受賞
ここにその偉大な功績をたたえ 碑を建立して顕彰します
◆さいたま市名誉市民 新藤享弘之墓所/大宮市名誉市民 新藤元吉之墓所
『新藤 享弘(しんどう たかひろ、1932年〈昭和7年〉9月3日[1] - 2020年〈令和2年〉12月19日)は、日本の政治家。元大宮市長(第16代 - 第18代〈最終〉)。中央大学商学部卒業。埼玉県北足立郡大宮町(現:さいたま市)出身。父は元埼玉県議会議長を務めた新藤元吉。 』
新藤享弘 - Wikipedia
◆井伏鱒二の小説「普門院の和尚さん」
モデルとなった阿部道山老師は、普門院四十二世唯一道山大和尚として、権教となって曹洞宗の最高位をきわめた人である。 大本山永平寺の顧問会議長をつとめ、昭和三十三年には、タイ国首都バンコクで開催された第五回世界仏教徒大会に、日本仏教代表として出席し、世界平和の宣揚に努めたり、更に同年十二月には、インド・ネパール両国の招請に応じて、ブッダガヤをはじめとする四大聖跡を巡錫されるほど、我国仏教界に残した功績も大きなものがある。
また、地元にあっては、埼玉県文化保護協会会長埼玉県立北団連合会会長をつとめるなど文化 文化財関係での活躍がめざましく県立博物館の建設にあたっては、永年情陳情につく陳情を繰り返して、ついに実境にこぎつけた執念の人でもあった。
一方、普門院にあっては、再中興開山として、寺勢復興と境内の整備に尽くし、小栗上介再建の大本堂を中心に、新たに山門・開山堂・庫裡・黄談などを建立して、今の伽藍の基礎を完成させた人でもある。「奈良や京都に行かれな日本庭園の美しさを鑑賞できるようにと、人のためにせっせと造園にも力を入れた。
そして、何にもまして努力を傾注したのは、悲運の人小栗上野介の雪冤と●●であった。
大正十四年の春、永平寺の僧堂を出てこの寺の住職となってから、史実の研究を進めてゆくうちに、上野介忠順の偉大さに傾倒するようになり、「小栗ハカ」、「小栗狂いい」と口をたたかれながら、忠順にかけられた逆賊の汚名をそそぐことに生涯をかけるようになった。著書『小栗上野介正傳』(昭和十六・序海軍大将岡田啓介)は、永年に亘る老師の研究成果で、四百ページを超える大作である。
そして、その中に、なんと「小栗上野介を踊った原保太郎翁と語る」という文策をたてたくだりがある。まさに歴史の生き証人であり斬殺の張本人である源保史郎と、麗殺された側の先祖菩提寺の住職道山和尚との六十五年後の直接の対座を見学りである。奇縁とも劇的ともいった。
それからしばらくして文豪井伏鱒二氏は、「普門院さん」(昭和二十四・改造文芸)、「普門院さん』(昭六十・井伏鱒二自選全集)、「普門院さん」(昭六十三・文藝雑誌海燕八月号)と、時をおいて三度筆を加え改題して、このくだりを中心にした小説を●●している。
また、我国未曾有の長編小説「大菩薩峠」(※この小説にも小栗上野介が登場する)の作者であり、大衆大衆文学の先駆といわれた中里介山氏も、昭和十一年の四月に、夫人同伴でこの寺を訪れて、銅山和尚と面会しているがその時の印象も、氏の個人雑誌「峠」の第六号「小栗上野介墓塚」に載せ、老師の人柄に好意を寄せるとともに、境内に手植えの槇を残していった。
さかのぼって、昭和八年五月には、高名の徳富蘇峰夫妻が、小栗家の墓所の参拝に来たことがある。同じく和尚に好意をよ●●●●、庭に松の木を植えていった。
●松で、目通り同団80cmに、高さ●●●●●●●●形姿を見せている。
さて、この和尚、●●・・・・・・・・・・・・・・・(文字化を断念)
◆大成領主小栗忠政一族の墓
さいたま市指定文化財(史跡)
小栗忠政は十三歳で徳川家康の小姓となった。近江姉川の戦い、敵か家康近くに攻めてきたのを見て、傍らにあった家康所有の信国の槍を取って渡り合った。人々馳せよってその敵を討ち取った。家康は、忠政がまだ十六歳という若年なのに心利いた働きをした。一番格にも等しいとその絵を忠政に与えた。その後も数々の戦で随一の働きをしたのて又一(また一番)と称するように言われた。その功により、武州足立郡大成村五五〇石を含む二五五〇石の采地を与えられた。元和二年(1616)に亡くなると普門院に葬られた
忠政の采地のうち二〇〇〇石を長男政信が継いだ。 代々又一と称し葬地は牛込保善寺である大成村五五〇石は二男信由に与えられた。信由は上総長柄郡の内(現茂原市)に二〇〇石を加増され、都合七五〇石を知行した。寛文元年(1661)に亡くなり普門院に葬られた。代々仁右衛門と称し、小姓組番、書院番を勤め、普門院を葬地とした。 普門院には小栗忠政夫妻と忠政二男信由一族、そして忠政三男信友夫妻が葬られている。
横須賀製鉄所建設など、近代日本の礎を築いた小栗上野介忠順は、本家政信の子孫であるが、忠政を始祖と崇め、忠政夫妻の眠る普門院に特別の親しみと信頼感を持っていたようである。
忠順は、新政府軍に対する徹底抗戦を主張したため将軍慶喜に疎まれ、慶応四年(1868)一月十五日陸軍奉行並兼勘定奉行を罷免されて隠棲を決意、身の危険を感じてか、十九日家宝の家康から与えらえた信国の槍等を普門院に預けた。 二月二十八日土着先に選んだ上州権田村(現高崎市)(旅立ちの途中、普門院に立ち寄り別れを告げた。閏四月六日朝敵として新家庭に捕らえられ斬首された。
門には忠順の供養塔、招魂碑が建てられていた。
◆龍神舎
◆開山堂
◆石塔
水道供養宝塔
◆小栗上野介・招魂碑・大砲・機械水雷・錨
小栗上野介・招魂碑・大砲・機械水雷・錨 解説
文字化を断念
◆石塔
◆六地蔵
文字化を断念。。。
文字化を断念。。。
◆月江正文和尚頂相
禅宗では仏法を習得したしるしに、師から弟子へ自分の姿を描いた肖像画を与えることが鎌倉時代から行われました。寺院ではこれを年忌や儀式にかかげ師の人徳をしのび、宗風を慕ったもので、この肖像画を頂相と呼びます。
当院の開山月江正文和尚を描いたこの頂相は、素絹の画面に極彩色で描かれ、顔を少し斜めにむけ、曲条 (法式の際に用いる椅子に腰かけ右手に払子を持っています。伝えによると和尚自筆の頂相といわれます。厳しい中にもゆとりのある風貌は、徳望の高い和尚の様子をいかんなく描きだしています。 材質・描法・彩色などからみて室町時代中期以降の製作と推定されています。
寺誌によると和尚と普門院の開創については、次のように伝えられています。応永三十三年(1426)、月江正丈和尚は諸国行脚の途中、 武蔵一宮氷川神社で夜を徹して祈願していました。すると一人の老翁があらわれ「和尚は道徳はなはだ堅固である。必ずや仏法の霊験があろう」と言い残し、同じころ氷川神社神主の枕元にもこの老翁があらわれ 「今、社の拝殿に一人の高僧がいる。ここより西方に観音堂があるが、そこへ案内し、この地に留まるようにせよ」と言い残して消え去りました。さっそく神主は、和尚を大成村の領主金子駿河守のもとに案内しました。そこで一部始終話したところ、駿河守は大変感動し、また和尚のに信仰の念を厚くして、自分が住んでいる大成館を寺にして山号を大成山、寺号を普門院としたということです。
月江正文和尚は山城国の人で、尾張国の楞厳寺・上野国の雙林寺・武蔵国足立郡普門院の開山となり、寛正四年(1一四六三) 示寂しています。
当院にはこの他、小栗忠政一族の墓 高蒔絵飾棚・チリメンカエデ・タラヨウ・イヌツゲ
キャラが、また境内地全体も大成館跡として大宮市指定文化財となっています。
◆見守り地蔵
◆山門