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ひびをかきすて

May 30(Wed), 2018

人のことを考える1ヶ月

| 17:18

この1ヶ月、比較的他人を意識する暮らし方を心掛けている。
きっかけはもちろん前回大打撃を受けたあの一件なのだけど、その後すぐに実家に移り住んで環境が変わったこともあり、これまでは「してくれないこと」に対して過敏だったのが、「してくれてありがたい」っていう視点を新鮮に持てるようになったことも大きかった。良い意味で今は、以前より間違いなく余裕を持てている。
これからの人生のために、良い気付きをもらったし、必要なことを学び直していると思う。

でもそもそも私は、他人に対する関心が少ないのだろうな、と今は思う。というか、自分しか可愛くない。
中高生の多感なお年頃。毎日泣き暮らしていた時期があったのだけど(原因は些細な事なので取り上げない)、あまりに誰もが頼りにならなくて、救いが無くて、辛くて、そんなある時ふと「私には結局、私しかいないのだ」と思ってしまって、それが本当に腑に落ちてしまった。そしてその延長線上のまま、私はここまで来た。
自分が正しいと思うこと、やりたいことに沿って生きてきた。他人に対して否定的に生きてきた。「でも」「けど」「だって」がすぐに口に出る。(我ながら最悪だ。なんで皆こんなヤツと友達でいてくれるんだろう)
他人がどう考えるかはあまり重要ではなくて、ある程度の世間体に縛られてはいるけど、その中でもできるだけ、私は私が望むことを大切にして生きてきた。私以上に私を大切にしてくれる存在は無いし、私を守る存在もいないと思っていた。今もそう思っている。
…一応言及しておくと、両親や姉妹仲は大変良好で、特に問題はないです。だけど家族だって所詮は他人であり、相性もあるし、絶対でもないとは思っている。大切じゃないわけではないけど。
とにかく、そういう認識をしたまま、この十何年か生きてきた。自分のことを利己的だと思っている。最終的な所、他人はどうでもいい。
だからなのか、私は常に、私の絶対的な味方が欲しかった。


さて、何を言おうと思ったんだったかな。

最近立て続けに「無礼」「失礼」と評されたこともメモしておこうかな。
自分でもそう思ってる時は多々あるものの、無意識下でそう思われる行動してる事が多そうな気がしてきて、今は割と、誰かと何かをするとかっていう事が怖い。
もっと私が自立していて、もっと一人で生きていける人間だったらよかったのに。人間一人ではいきていけないなんて、嘘であってほしい。

「周囲に求められている自分」を演じているっていう人がいる。私にはとても無理だと思う。
まず、他人が何を考えているか察するのが驚くほど苦手なのだ。観察力もない(これはきっと興味が無いからだろう)
実際のところ、人が考えている以上にいろんなパターンの想定とかはしているけど、多分どれも的外れだろうし、結局そのどれもを表に出すことは無い。
この辺には、私のプライドの高さからくる「間違いたくない」って意識が働いているのかもしれない。そうだ、私の問題はここにもある。


人に興味が無いなんて言い訳だと思う。
でも私は、私のことでいつだって精一杯なんだ。私を取り巻く周囲を大切にすることが、こんなにも難しい。
ポジティブな気持ちで今回の日記は書き出したはずだったのに、今はもう逃げたくてたまらない。

いつでも“ありがとう”と“ごめんなさい”は私の人生のキーワードであり、課題だった。そしてこれからもずっとそうだ。
最近忘れかけていたことに気付く余裕ができたことだけは、良かったことだと思っている。

May 01(Tue), 2018

向き合いたいのに、逃げてしまいたい

| 09:58

最近はぬるいことばかり書いていたけれど、ここはそういう場所じゃなかったのだった。


毎日家に帰ると、私はあまり口を開かなくなる。
相手と話すのが単に嫌なのだ。だからコミュニケーションをできるだけ排除している。話しかけられても最低限しか喋らない。
いろんなことを考えてはいる。口に出さないだけだ。「わかってもらえない」という諦めの気持ちもあるし、「わかってもらいたいとも思わない」という努力の放棄でもある。
そしてその結果が、この自己嫌悪であり、情けなさであり、穴があったら入りたいほどの羞恥なのだ。


旧知の方に会う機会があった。
というか、正確には、私に機会があったので相手を誘ってみたら、相手は無理をして都合をつけてくれた。し、諸手続きも行ってくれた。
そんな相手に甘え、徹頭徹尾、傲慢で失礼な態度を取ってしまい、それだけでなく、それを指摘させてしまった。説教とか怒るとかではなく、叱るというスタンスを相手がとってくれているのを私は知っている。

私に相手への怒りは毛頭ない。まず相手の言う事は全て正論である。(少なくとも私は納得している)
そして、私が思っているだけで行動に表せていないことばかりだった。というか、なぜ私が行動に表してないのに、そんなに考えてる事がわかるの?って思った。
(これについては、私の思考自体は間違っていなくて、だからそれを行動に表せばいいだけのことだったんだけど、素直になれない私が、これまでずっとなぁなぁにしてきてしまって、行動しない癖がついてしまっているんだと思う)

私はもちろん今の自分が嫌いだけれど、私の駄目なところを的確に指摘して、向き合って見捨てないでくれることに感謝しかない。
「今のお前に余裕がないのも見ていればわかる」「でもお前はそうじゃないだろう」そう言って期待をかけてくれることに、私がどれだけ救われているか。奮い立たせられているか。

今の環境がそうさせてるんだろう、という。可哀相だと思われたと思う(これ自体はプライドどうこうはなくて、客観的にみてそうなんだなって安心した。私が悪いのでは、という思考に雁字搦めになってしまいがちだから、そうだけじゃないんだよって言ってもらえるのはすごく、救われる)。
でもその環境を(そうなるとわかっていてではないけど)選んだのは間違いなく私自身で、その選択の結果で大事な人に嫌な思いをさせてしまっていることが辛い。自己嫌悪だ。
自分勝手は承知で言うと、今の環境が私の余裕を奪い、傲慢なところを助長させ、良くない人間にしているのは確かだと思う。私には抗えるほどの気力も、そうなりつつあることに気付く目もなかった。なるようになってしまった。
今は、そういう自分を情けなく、恥ずかしく思う気持ちが強い。



してもらったことを見ていないわけじゃない。それに対して感謝を示すことができないだけだ。
今に始まったことでもないけれど、それをずっと「苦手」とか「できない」とかで過ごしてくるべきではなかったんだな。
甘えるのが苦手なこと、私が肩肘張って毎日を過ごしていること、私なりにプライドを守る為にそうしていること、返せないほどのものは貰いたくないし貰ってしまったらどうしていいかわからなくて困ってしまうこと(本当はここでありがとうって言えば多少なりともいいということは知っている、できていないけど)、だけどそんなんじゃだめだってこと。
実は昔の私は、もっと義理堅く、できる範囲で恩を返そうとしていたこと。そういうところに惹かれてくれたこと。
でも今の私は、傲慢で、返すのもへたくそで、このままじゃだめだってこと。

そんないろんなことを、突き付けられた。
ある程度はわかっているだけに痛すぎた。不思議なくらい「嫌」とか「やめて」とは思わなかったけど。
刀を突きつける役目を担ってくれた相手のことを考えると、ただ、もう、いろんな感情が溢れてしまってどうにかなりそう。



認めている人が見捨てないで向き合ってくれたことに、私はちゃんと向き合って、好きな自分になりたいし、流石だって思われる素敵な自分になりたいけれど、申し訳なさも大きすぎて逃げ出してしまいたい気持ちもすごく大きい。
何もかも投げ出して、どこかへ行ってしまいたい。あの気持ちのまま、いつもの日常になんて、かえってきたくなかったよ。

March 29(Thu), 2018

移ろう季節の中で

| 17:11

今週のお題お花見

一番苦手な温度の風が吹く季節がまた来た。
秋にある、小春日和と言われるようなあの感じが私はどうも苦手で、何かが切なくてしんどくて辛くて、どうしようもなく泣きたくなってしまう。
春の方が、暑い時期に向かっている分気持ちは明るいかと思いきや、暖かい日差しの中吹き抜ける風が案外肌寒かったりして、もう。どうにもこうにも、だめだ。

でもこの2日くらいは気温も高くて、静岡の桜はどこもかしこも、今まさしく見頃を迎えている。
昨日の昼間はあちこち回ってたんだけど、本当に、山にも里にも野にも春が来ている感じ。
いつもはもう少しまばらな感じがするんだけどなぁ。今年は一斉にシーズンがきたよね。今週末の静岡まつりも、散りゆく桜の最好調な時にあたりそう。

桜は、毛虫とか手入れの問題が無ければ家に一本植えておきたい位好きな花でもある。
そして、私は小学生位の頃から百人一首が好きだったんだけど、いまだに一番好きなのが紀友則の桜の歌だったりする。

ひさかたの ひかりのどけき はるのひに しづこころなく はなのちるらむ

なんかもうさ、はなといったら梅でも菜の花でも他の何物でもなく桜っしょJK!っていう桜無双感も好きだし、満開の桜というよりその散り様が好きなのでそこがテーマなのも好きだし、春のほのぼのとした雰囲気と忙しないハラハラ感も好きだし。最高。
毎年お花見シーズンになるとこの歌を思い出して、なんとなく風雅な気分になる。

と言いつつ、やっぱり花よりは団子派なのだけど。

March 06(Tue), 2018

ただ過ぎ行くだけの日々

| 11:04

数行だけの、日常のちょっとしたことを切り取った日記を見て、こうあるべきだよなぁと何故かしっくりきてしまった。
が、ここは私にとってそういう場所ではないので、いつも通りに綴る。

あれから実は、まぁまぁ話した機会があった。
が、基本的にお前が悪いとしか言われなかったなぁという、失望しか得られなかった。
だからさ、私に悪い所もあるの分かってるけど一緒にいると泥沼だから困ってるって話なのよ。私が悪いではい終了、じゃないわけ。
じゃあどうすればいい?って聞くけど、これまで何度も選択を私に委ねるなと言ってきたわけで、まさにそういうところが負担なんだって!としか。本当に私の言いたい事わかってないな…。
なんかもう言葉でどうにかできる気がしない。だから中途半端に終わってしまった会話を、また再開する気も起きない。だって伝わらないんだもん。

なんやかんや、その後気を遣われているのは感じる。
ももはやそういうの求めてないわけ。そこからして認識間違えてる。私からすれば、あとから「自分は頑張ったのに」って言いたいがための言い訳作りにしか思えない。

かといって日常は穏やかで、何かを変えるには何かが足りない。いや、私のやる気が足りないのか。
水はいつでも、低きに流れている。
でも何かあった時に、私の味方にはなってくれないことは確かなんだ。それだけは話すたびにいつも突きつけられている。私は私を守らなくちゃいけないんだ。

February 19(Mon), 2018

誰かに認められたい人生

| 15:42

たまにはライトな話題で、自慢話をすることにする。

今週のお題表彰状」

私の人生の最高時期は、間違いなく小学生であった(断言)。
授業で分からない事とかも無かった。特に予習も復習もした覚えがないんだけど、テスト100点は当たり前。成績表も◎ばっかりだった。(性格面の評価が振るわなかったのはその反動だと思いたい)
そんな感じだから、夏休みの宿題でいえば、読書感想画、読書感想文あたりは何回か、工作でも賞を取ったことがある。あとは書写とかもそうかな。とにかく、表彰状をもらう機会は割と多かったのではないかと思う。
当時小学校教師が言っていたことには「夏休みの宿題なんていうのは、親子で協力することにも意義があるから、親に手伝ってもらうのも醍醐味の1つ」だってさ。まぁ大っぴらに言うことではないが、先生方もそのあたりは心に留めているらしいよ。
国語と音楽含む芸術分野は母による教育の賜物なので大変感謝している。あちこちの美術館に連れてってもらったし、小さい頃から本を与えてくれていた。ピアノ書道も習わせてくれた。

そんなこんなでとっても優秀な小学生だった私は中学をお受験し、危なげなく受かったもののまぁまぁ落ちこぼれて普通の人となった。国語と芸術系と英語は普通ちょい上位で、なぜか体育の成績も伸びたけど、理系と社会系は全然駄目です。苦手。
それからたのしい学生生活の内にコミュ障ではなくなった一方オタクになったが、そういえば中高は表彰とか縁遠かったなぁ。大学もないわ。
学生の内は表彰される機会って社会人よりもあると思うんだよね。あとは応募するかどうか、頑張るかどうかの違いしかない。でも私はそういうのに熱い人間でもないし興味もないし、賞をもらうようなことも今後ないと思っていた。
が。社会人になってからも、実は二度ほどいただいているんだよなぁ。

一度目は、県下の系統会社でやるコンクールの写真の部。100点以上応募があったと思うんだけど。個人で最優秀賞をもらった。
これはちょっとビギナーズラック感もあるんだけど、一応練った作品だったし自信もあったので素直に嬉しかった。
ちなみに金一封は出なかった…立派な盾なんか場所取るだけで一文の役にも立たないんだから、撮影資材とかにまわせるものをくれよ!図書カードでもいいよ!って思った。

二度目は、全国の系統会社がやるコンクールの広報誌部門。個人ではないけど、弊社が最優秀賞をもらった。
学生時代もチームプレイからは遠かった私が、大人になってチームとして取り組んだもので、しかも全国と名のつく機会に表彰される日が来ようとは夢にも思わなかった。
ちなみにこれは金一封がでましたヤッター☆でも地味に楽しかったのが、何か所かから講師として研修に呼ばれたりして、管外出張に行けたことかな。普段遠くに行くことが無いので。

私は人に認められたい欲の強い人間だと思う。でも努力できない人間でもあるので、てっとり早くできることで認めてほしいし褒められたい。怠惰だねぇ、怠惰だよ。
でも普段の仕事は数字で成果を表すのがなかなか難しいこともあり、褒められるって事がない。他の部署でよくきくような『「ありがとう」と言われることがやりがい』みたいなこともない。
そんな中で、えっへん!!これを見よ!!と分かりやすく威張れるようなものをいただけたことは良かったなーと思っている。仕事のモチベーション的な意味でもね。

でも忘れてはならないのは、どちらの結果も、やっぱり母の「国語と芸術系の教育」の成果なんだよなぁ…3つ子の魂百までってやつか?こりゃもうお母さんに足向けて寝られないわ。