寧々さんがビッチであることの数学的帰納法を用いた簡素な証明

「“私”は、寧々さんの彼氏である。
寧々さんがこれまでに“私”以外に性交渉を持った男性の数をnとする。
n=1,2,3,……のとき、寧々さんがビッチであることを証明する。


(1) n=1のとき
寧々さんは“私”の彼女なので、“私”と性交渉を持っていることは自明である。
このとき、寧々さんが性交渉を持った男性の数はn+1と表されるが、

 n=1のとき、 n+1=2

寧々さんは複数人の男性と性交渉を持っている。∴寧々さんはビッチである。


(2) n=kのとき、命題が成り立つと仮定すると、

 k+1≧2

両辺に1を加えると

 k+2≧3 ⇔ (k+1)+1≧3

よって、n=k+1のときも n+1≧2 は成り立つ。


(1)、(2)より、n=1,2,3……のとき n+1≧2 は常に成り立つ。
nが正の性数であるとき、寧々さんはつねに複数人の男性との性交渉を経験している。
∴寧々さんはビッチである。(証明終)」


ラブプラスの寧々さんが公式でビッチ

契約‐再契約モデルの実践 〜『おおきく振りかぶって』14巻〜

 契約‐再契約モデル論のまとめ


 前の記事では、「動機のアウトソーシングとリインストール(reinstall)」という主人公の“回心”プロセスを彼の成長物語として描く、いわゆる「契約‐再契約モデル」(以下、再契約モデル)についてスケッチしてみたが、今回はその具体的実践例について簡単に語ってみたいと思う。ゼロ魔ハルヒグレンラガンのDVDもない自分の本棚から、ぱっと再契約モデルの良い例を引いてくるのはなかなか難しかった*1のだが、もっとも構造が見やすい作品としてひぐちアサおおきく振りかぶって』を使うことにする。(※一応ネタバレがあります。)

おおきく振りかぶって(14) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(14) (アフタヌーンKC)

 主人公・三橋は才能はあるものの、自分を卑下しがちな、弱気なピッチャーであった。高校に進学し、新興の西浦野球部に入るとそこでキャッチャーの阿部と出会う。阿部は三橋の卑屈な性格に辟易しながらも、三橋の実力を認め、「自分のリード通りに投げればおまえをエースにして、甲子園に連れていってやる」と三橋に告げる。三橋は阿部の言葉によって少しずつ心を開き、西浦のエースとしてチームと共に成長していく……。これが『おおきく振りかぶって』のアウトラインである。我は強いが、自らの投球に自信のなかった三橋は、キャッチャーの阿部にモチベーションを外部委託してエースとして生きることを「決断」する。まさに、“契約”の典型例といえよう。


 だが“契約”によって始動した物語はその揺り戻しとして、主人公とパートナーに関係が「真たる」ものなのかを問い直すドラマを生む。物語自身が、内的成熟を志向して構造上当然に偶然性の超克、自律的な関係の結び直し=“再契約”を要請するのである。それは『おおきく振りかぶって』においても例外ではなかった。西浦バッテリーの場合、“契約の更新”へのきっかけは、試合中の阿部の負傷退場(=パートナーの不在)というチームにとっては甚だ不幸な事件によってもたらされることとなった。


 美丞大狭山戦(11巻〜)で、阿部は本塁でのクロスプレーによって途中欠場を余儀なくされる。三橋は急遽ミットを被った田島と急造バッテリーを組み、美丞打線に対応することになる。これまで全て阿部のサイン通りに投げていた三橋は、田島との“会話”の中で初めて自分の意志を示すことを知り、阿部を喪失したマウンドの上でひとり投手の義務について思い至る。

 オレ 首 振ったのに すぐ サイン くれた
 田島君は いっぱい案 あるんだなー

 首振ると 次のサイン くれるんだ


 ……もし田島君が まっすぐとカーブで迷ってたとしたら
 今 オレと 相談できたのと 同じことだ


 首 振るのは 投手(オレ)の役目なんだ
 あたり前のことなのに オレは今まで
 

 阿部君だけに 責任 負わせてたってことか―

 三橋がはじめて、動機と選択(と、その結果に対する責任)を全てパートナーである阿部に転嫁していたことに自覚的になる瞬間である。そしてすぐに、それが自分たちのバッテリーとしての異常さを意味していることにも気づいたのだろう。「試合が終わったらイロイロ(阿部君と)話をしなきゃいけないんだ」 最終回の攻撃を前に一つの決意をする三橋。

 

 動機と責任を相手に仮託していた自分から一歩踏み出し、真に対等な関係として阿部とのあり方を見つめ直そうとするこのシーンは、三橋の確かな成長を象徴する一コマでもあり、まさに再契約の瞬間そのものでもある。


 結局西浦は最終回の攻撃もむなしく残念な敗北を喫してしまうのだが、それよりも遥かに大事なバッテリー関係の成熟を得たという点で、美丞大狭山戦はこれまでで最も有意義な一戦であった。この14巻を以て『おおきく振りかぶって』は第1シーズンの幕引きとなり、次巻からまた新たな物語の扉が開かれるのだろう。アニメ放映中の15巻の発売が楽しみに待たれる。

*1:しいて言えば、『モテキ』や『神のみぞ知るセカイ』くらい。

契約‐再契約モデル論のまとめ

ゼロ年代における「契約から再契約へ」の想像力‐ピアノ・ファイア
王道はゼロ年代を超えて生きのこる。‐Something Orange

1年半ほど前の議論ではあるが、大事な概念なので自分の為にまとめておく。


そもそも、契約=再契約モデルは、宇野常寛ゼロ年代の想像力』への懐疑、決断主義批判から始まる。
いずみのさんは、決断主義の前提となっている「ひきこもり的想像力」、つまり相対主義の鎖は幻想である、と断じる。人間には、根源的に善きなるものを目指すベクトルが内在しているはずだと。海燕さんの言葉で言うところの「王道的動機」。
そしてそれが、「王道」という物語の形式を要求するのだ。


ただ、王道的動機は普遍なれど、発射台に登るまでのプロセスは、昔と今とで違う。
というのも、現代は情報と選択肢に溢れていて、世界が過剰に可視化されすぎているから。
昔は世界というものが見えなくて、夢と希望に溢れた存在で、だから主人公は自分の中に着火剤を持っていて、勝手に火をつけてぶっ飛んでいくという物語造型が可能であった(=説得力をもてた)。しかし現代ではセカイは見えすぎていて、「決断」に大きなエネルギーがいるため、主人公はなかなか最初の一歩を踏み出せない。自分の中から動機を調達してくるのが困難な(説得力ある初期駆動を描くのが難しい)時代である。
そんな現代で「王道」の物語を可能ならしめるのが、「契約」というシステムなのである。
「契約」とは、モチベーションを相手にまるごと担保して、主人公を王道の衛星軌道へとぶち上げる発射装置であり、イージーでスイートな“関係”なのだ。ゆえにこの「契約もの」には、当然、相方(バディ)がいる。


しかし、この契約というのは物語を回し始める為に導入された、非常にご都合主義的なギミックなので、王道風に始めた物語を真に骨太の「王道の」物語たらしめる為には、何らかの試練を経た主人公の成長が必要になる。その結果、「たまたま」スタートした主人公と相手との関係は、主人公の確固たる意思によって、必然のものとして結び直し=更新される。
これが「再契約」である。契約の成熟と言ってもいいかもしれない。
ゼロ年代的な決断主義は、この再契約という点において「契約‐再契約モデル=現代版王道」と決定的に異なる。


つまり、「決断主義」であれ「契約‐再契約モデル」であれ、動機を担保してくれる奇特な相手方を奇貨として(これ幸いに)ハンコを押す、という点には違いはないのである。しかし後者は、物語自身が当然に主人公のリニューアルと、契約の更新[バージョンアップ]を要請するというのが特徴である。また、再契約モデルはそもそも前提として「契約書が善きもの」(=人間が普遍的に志向するもの)でなければならない。悪魔の契約書にサインした者は王道たり得ない、という暗黙の前提がそこにはある。「要は(麻薬をやる)勇気がないんでしょ?」というのは、決断主義ではあるが、王道ではない。


大事なのは、いずみのさん・海燕さんが二人とも指摘しているように、この再契約モデルはポストゼロ年代の発明品ではない、

連綿と受け継がれてきた「王道」の上にきちんと乗ったドラマトゥルギー

だということ。それは忘れてはならないだろう。
再契約モデルはあくまで「現代版王道」だ。だからこそ、その忠実な展開は多くの読者に支持されるのである。