シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2012-02-09

マニュアルで結婚できますか?ライフハックで友達つくれますか?

 

 昨日書いた「コミュニケーションがボトルネックとなった社会」という文章に、twitterで以下のような意見が寄せられていた。

 

 

 

 仕事にせよ私生活にせよ、マニュアルとライフハックがあれば大丈夫だ、ということらしい。これを見た時、私は「ああ、これぐらい楽観的になれたらどんなに幸せにだろうか」と嘆息せずにいられなかった。

 

 しかし現実には、マニュアルとライフハックだけでは立ち行かないのが娑婆世界のコミュニケーションである。タイトルにも挙げたが、「ならばマニュアルだけで結婚やってみろ、ライフハックだけで友達つくってみろ」と言われて、余裕綽々でやってのけられる人がどれぐらいいるというのか。仮にそのような見かけの人がいたとしても、マニュアルやライフハック「だけ」で人間関係を構築できているとは信じ難い。もし、そんな秀逸なマニュアルやライフハックが存在するなら、昨今の結婚事情や“ぼっち”といった問題は、とうの昔に解決しているだろう。就職についても同様である。マニュアルとライフハックで面接を切り抜けられるなら、そのテキストブックは飛ぶように売れているだろう。

 

 

マニュアル化できるコミュニケーション、できないコミュニケーション

 

 一方、コミュニケーションのマニュアル化が起こっている分野もある。ファーストフードやコンビニエンスストアの従業員の応対などは、全国一律で、とても訓練されている。ああいうのはマニュアル化の成果だろう。こうしたマニュアル化の動きは、サービス業の広い範囲で認められる*1。上記のツイートの、「たいていの業務はマニュアル化が可能」というのは、確かにその通りだと思う。

 

 察するに、世の中には、マニュアル化に向いているコミュニケーションとマニュアル化できないコミュニケーションがあるらしい。分類してみよう。

 

 マニュアル化しやすく、また実際マニュアル化されているのは、

 

 ・不特定多数に同じような対応をすべきコミュニケーション

 ・基本的に一期一会なコミュニケーション

 ・特定場面やサービスに限定されたコミュニケーション

 ・当人の特性・性格がなるべく反映されないコミュニケーション

 

 といったものだ。ファーストフードの接客対応などは、上記5つのすべてに当てはまるし、その他の多くの接客業でも3つないし4つは当てはまる。

 

 では、マニュアル化しにくく、実際優れたマニュアルが登場していないのはどんなコミュニケーションか。上記の反対について考えてみるなら、

 

 ・特定個人ごとに対応を変える必要のあるコミュニケーション

 ・中期〜長期的な付き合いが想定されるコミュニケーション

 ・あらゆる場面や状況が想定されるコミュニケーション

 ・当人の特性・人柄が反映され評価の対象となりえるコミュニケーション

 

 あたりだろうか。友達づくりや恋愛・配偶の過程でのコミュニケーションは、これだろう。家族の会話も。

 

 また、就職面接の場合も、ある程度マニュアル的に対応できるにせよ、個々人の特性や人柄が(多かれ少なかれ)まなざされ、質問者がどんな質問をしてくるか分からないため、マニュアルだけではカバーできない部分を含んでいる。一度採用したら長い付き合いになるのだから、マニュアル的な応答以外のところで“探り”を入れるのは当然といえば当然だろう。

 

 総じて、個人的な特性・人柄が問われるようなコミュニケーションや、より長期的な人間関係・親密な人間関係のコミュニケーションは、マニュアル化を受け付けない部分のウエイトが大きくなりやすいと思われる。

 

 

“仲良くなる”にはマニュアルやライフハックだけでは不十分

 

 ぶっちゃけ、誰かと“仲良くなる”ためには、マニュアルやライフハックだけではダメなのだろう。“仲良くなる”にはマニュアルの記述からすり抜けるような、なんともいえないプラスαが必要になる。そのプラスαとは、機転やユーモアかもしれないし、人柄かもしれないし、愛嬌かもしれないが、とにかくもマニュアルから漏れやすい“その人自身から滲み出る何か”によって、人は誰かを好きになったり、嫌いになったり、関心を持ったり、持たなかったりするのだと私は思う――それが全てというわけではないにしても。

 

 じゃあ、“その人自身から滲み出る何か”の部分はどうすればいいんですか、という話になるが、これは一朝一夕にどうこうできるものではなく、ただひたすら、日々のコミュニケーションや行いの積み重ねによってゆっくりと変わっていくものなのだと私は思う。その人に可能な範囲で、出来るだけ良いコミュニケーションと、出来るだけ良い行いを、積み重ねていくほかに変えようが無い。

 

 なお、念のため断っておくと、私は「だからマニュアル化されたコミュニケーションはダメなんだ」と言いたいわけではない。マニュアルやライフハックだけでは恋人も友達も出来ないとしても、接客対応のような局面では便利だし、基礎的なTPOを身につけるにも適している。また、マニュアル化されたコミュニケーションは、心理的な距離を一定に保つ作用が強い、という便利な副産物もある。心理的な距離が近くなりすぎないほうが良いコミュニケーションでは、マニュアル的な手法を積極的に活用していくのがよさげだ。

 

 このあたり、要は使い分けの問題で、どちらか一方だけ出来ればそれで十分、というものではないと思う。

 

 

追記:

 

 冒頭のツイートの人から、以下のようなコメントを頂いてました。

 

 

 

 確かに、恋愛マニュアルは書籍でも雑誌でもたくさん見かけますね。でも私、「恋愛マニュアルのおかげで彼女(彼氏)が出来た」って話を聞いたことがありません。もし、そんなテキストブックがあるならすぐに評判になって、大ベストセラーになっていそうなものですけど。

 

 もちろん、恋愛マニュアルもTPOの面では参考になるでしょう。しかし、マニュアル的な要素だけでは男女の仲は取り持ちにくいんじゃないの?というのが私の意見です。

 

*1:尤も、その反動で、ある種のラーメン店のような非マニュアル的な体裁を売り物にするようなサービス業がニッチとして生まれているが

2012-02-08

コミュニケーションがボトルネックとなった社会

 

 

 コミュニケーションがボトルネックになった社会。

 

 就活生に甘える社会人  「リア充はみんな死んでしまえ」〜「人とのつながり」が重視される現在の就活の落とし穴〜

 

 リンク先で触れられているように、コネにせよソーシャルメディアの活用にせよ、今、人と人とを繋ぐコミュニケーションの技能が求められている。

 

 企業が就活生に「コミュニケーション能力」を求めるようになって久しい。その、コミュニケーション至上主義的な雰囲気はこれまで何度も批判されてきたが、コミュニケーションの技能を求める向きはいっこうに変わらないか、むしろエスカレートすらしているように見える。

 

 コミュニケーションの技能とは、それほどまでに重要なもの、らしい。なら、どうしてそれほどまでにコミュニケーションの技能が問われるようになっているのか?それについて、書き残してみる。

 

 

コミュニケーション能力を問われない仕事が少なすぎる

 

 あらかじめ断っておくが、コミュニケーション能力を問わない仕事が絶無というわけではない。もちろん例外は、ある。

 

 例えば、とある大企業の研究室――その研究室には“動物園”という渾名がついているらしい――には、コミュニケーションのあまり上手くない人・エキセントリックな人がたくさんいると聞く。しかし彼らのアウトプットは高く評価され、大企業の重要な頭脳になっている。

 

 また、イタリアやフランスのワイン産地には、コミュニケーションが上手いとは言えない、“天才肌”の醸造家や寡黙な醸造家がいる。しかし素晴らしいワインを創り出す彼らを市場が放っておくわけがなく、勢い、そのワインは高値となっている。

 

 どちらの場合も、独創的な仕事さえしていれば、コミュニケーションの技能とは無関係に評価される点では共通している。彼らにとって、コミュニケーションの技能はボトルネックにはなっていない。

 

 問題は、そういったコミュニケーションを不問に付す職業が世の中にどれぐらい残っているのか、ということだ。大企業のラボであれ、名醸地のワイナリーであれ、そんなところで働けるの一握りの幸運な(また、おそらく有能な)人達だけだ。誰もが椅子取りゲームの覇者になれるわけではない。

 

 「なら、もっと普通の農業や工業の仕事はどうなんだ」と言う人がいるかもしれない。確かに、土や機械を相手にずっと働ける仕事なら、コミュニケーションの技能は要らなそうに見える。

 

 だが現代社会に占める農業や工業の割合はかなり小さい。総務省統計局のデータによれば、平成17年の全就業者に占める第一次産業の割合は5.1%、第二次産業も25.9%でしかない。残りの7割近くを第三次産業が占めているのだ。そして実際には、農工業は人気職種とは言えないし、その農工業でさえ、コミュニケーションの技能が求められる場面は少なくない*1。そして機械化やロボット化のことを思うと、こうしたコミュニケーションの苦手な人々の受け皿になるような、農工業の仕事はさらに減り続けると想定したほうが無難だろう。最後まで残るのは、ロボットには真似の出来ないような、非常に高度な仕事だけかもしれない。

 

 こうして考えると、コミュニケーションの技能を度外視しても構わない仕事は既に少なく、今後も減少傾向が続くと考えざるを得ない。なんとしてもコミュニケーション抜きの仕事を選びたい人は、機械やロボットに将来取って代わられるリスクを含んだ仕事を選ぶか、機械やロボットでは決して真似できないような超専門的な技能を持ったプロフェッショナルになるしかない。

 

 

初対面ではコミュニケーションの技能がボトルネックになる

 

 問題はそれだけではない。

 

 コミュニケーションを要する仕事が増えているだけでなく、仕事に就く以前に、就職面接というマッチング過程でもコミュニケーションの技能がモノを言い、それによって採用が左右されるという意味でも、コミュニケーションがある種のボトルネックになっている。

 

 これが昔の、世襲や縁故採用が占める割合の大きな時代だったら、コミュニケーションの技能――少なくとも就活界隈で言われる「コミュニケーション能力」のような――はそんなに問われなかった筈である。親から子への世襲・旧知の人間の採用・そして大学教授の口利きを介しての就職などの場合、就職する側/新たに雇う側の間に何らかの繋がりがあるので、人と人とのマッチング作業はある程度終わっている。少なくとも、ゼロからコミュニケーション&マッチングをしなければならないわけではないぶん、初対面の人に緊張するような人や口下手な人も、コミュニケーション上のハンディは軽くなる。

 

 しかし21世紀において、世襲や縁故で就職を決められる人はそう多くはない。誰もが自由に職業を選べる&選ばなければならない社会が到来し、と同時に、雇用者側は見知らぬ相手を採用しなければならなくなり、就職面接というシステムが発展していった。しかし、就職面接が重要になったということは、初対面の人間とゼロからコミュニケーションを重ね、それなりにマッチング作業を行える人でなければ雇って貰いにくい時代がやってきた、ということでもある。控えめに言っても、その手のコミュニケーションが苦手な人が不利を蒙りやすい時代になった、とまでは言える。

 

 かくして、ほとんどの就職に際してコミュニケーションの可否がつきまとうようになり、ボトルネックになった。ひとことでコミュニケーションの技能と言っても実際には色々あるが、就活上、「初対面の人間とゼロからコミュニケーションを重ねる技能」がつとに重視されるのも、そのボトルネックを切り抜けるための技能が否応なく問われているからだろう。

 

 そして、「人と人がゼロからマッチングしてためのコミュニケーションの技能が問われる」というこの傾向は就職に限らない。例えば結婚でも同じことが言えて、ゼロからコミュニケーションを重ね、望ましいマッチング作業をこなさなければ、結婚に至らないようになっている。そんなことが全ての男女にできるわけがないのに!現に、結婚したいけれども出来ない男女が世に溢れている。

  

 これも、コミュニケーションがボトルネックになっている一例だと思う。

 

 

“誰もがコミュニケーションを問われる社会”

 

 以上を踏まえると、この社会で望み通りのライフスタイルを構築したいと思ったら、コミュニケーションの能力が半ば必須に近い、と考えざるを得ない。もちろん一万人に一人ぐらいの才能を持った人はこの限りではないが、そういう天賦の人は、あくまで例外でしかない。

 

 私は、コミュニケーションがボトルネックになった社会は、理想とは程遠いと思う。なぜなら、コミュニケーションをしたくない人・コミュニケーションの苦手な人にとって、恐ろしく生き辛い社会であろうからだ。また、初対面の人間同士のコミュニケーションばかりが目につきやすく、長い付き合いのコミュニケーションが(相対的に)評価の対象外となりやすいのも、随分と偏ったことだと思う。

 

 さりとて、これといった対策が思いつくでもないし、思いついたとしてもそれで社会がすぐ変わるとも思えない。政治家の人達は、このあたりをどのように考えているのだろうか?いずれにせよ、今という時代を生きている私達は、この厄介なコミュニケーションに揉まれながら、とにかくもやっていくしか無いのだろう。たとえ、しんどくても。

 

*1:農家は農家で、近所との付き合いや折り合いを無視して一人で自活できる時代ではないし、工場勤務にしても、転勤や昇進といった、コミュニケーションを再編せざるを得ない場面というのは多々ある

2012-02-03

“自尊心が低い人ほど、自尊心を高めるリソースも乏しい” に関して

  

 先日、厚生労働省が発表した国民健康・栄養調査のなかに「所得が比較的低い人ほど喫煙率が高く、女性では肥満の割合が高い」というものがあった。

 

 [参考]:平成22年国民健康・栄養調査結果の概要|報道発表資料|厚生労働省

 

 「所得が低い」ということは、おそらく金銭的に余裕が無いだけでなく、知識面も含め、健康増進に割り当てられるリソースが総合的に少ない、ということなのだろう。金銭に余裕が無い→ストレスが溜まりやすく、喫煙や大食に走ってしまう→ますます金銭に余裕が無くなる という悪循環。喫煙や大食の部分が“ギャンブル”に置き換わっている人も多そうだ。

 

 この話を見ていて私は、「メンタルの領域でも同じ悪循環があるなぁ」と思った*1。例えば、自尊心や自信を欠いているせいでストレスが溜まりやすい→コンテンツやガジェットに溺れてストレス解消&劣等感をしばし忘れる→時間もお金も費やしてしまう→ますます自尊心や自信を培うチャンスから遠ざかる といった悪循環だ。

 

 先日私は、自尊心や自信を培うために必要なリソースについてまとめてみたが、そういったリソースの乏しい人は、えてして社会生活で蒙るストレスも大きかったり、ストレス解消が下手だったりもする。すると、ストレスを晴らすため・劣等感を代償するために多くの時間やエネルギーを割かざるを得ないので、手持ちのリソースの大半が費やされてしまい、自尊心や自信を支えるために必要な技能修得にはリソースが回らなくなる。“いつでもメンタルの修理で手一杯”、というわけだ。

 

 しかし、こうした“自尊心の自転車操業”的なライフスタイルが続けば、十年単位で自分自身を変えていくような中期〜長期的な展望を持ちにくくなり、だんだんと即時的・刹那的なストレス対応行動ばかり熟達していくことになる。より刹那的で、より視野の短い、今この瞬間のフィーリングだけを追求する人間が出来上がってしまい、“自尊心の自転車操業”をいつまでも続ける羽目になる。

 

 

リソースが乏しい人は、どうすれば良いのか

 

 結局、健康管理にしても心理上の問題にしても、入り用なリソースの多寡によって問題解決の難易度と可能性は大きく違ってくる、ということなのだろう。ここでいうリソースとは、勿論金銭的なものだけでなく、心理的・体力的・知識的なものも含めてのリソース、である。リソースに恵まれた者ほど多くの弱点を克服しやすく、リソースが乏しい者ほど弱点を克服しにくい――まったく面白くない結論だが、たぶん、間違ってはいない。

 

 では、このリソースに大きく左右されがちな現実を前に、どうすれば良いのか?

 

 模範解答としては、「自分自身のリソースとその限界を見極めながら、やれる範囲でやってみる」が良いように思える。しかし、自分自身の手持ちリソースを過大評価も過小評価もせずに見積もること自体、相当に難しいので、どこまでトライすべきなのか・どこから諦めるべきかは、たいていの場合、クエスチョンマークを含んだ決断にならざるを得ない。

 

 熱意の強弱を参考にするのは良いかもしれない。「十年かけてでも劣等感をどうにかしたい」と意気込んでいる人と、「劣等感をどうにかしたいけど、何もしたくないし、できれば誰かに助けて貰いたい」と思っている人では、同じ目標でも、前者のほうがまだしも達成に近い。自分の心理的境遇を変えたいという熱意がそれほどでもない場合は、リソースの乏しさを熱意でカバーできないので、いっそ諦めてしまうのも手だと思う。尤も、今日日は熱意を持てるということ自体、リソースに恵まれたことかもしれないが*2

 

 また、もしも巡りあわせの運に恵まれるなら、望ましい影響を与えてくれる誰かに出会ってから全力投球するのもアリかもしれない――自力だけでは決して手の届かないチャンスの到来なのだから。知識や経験を授けてくれる人・適度な心理的距離を維持しながら良い付き合いが続けられる人といった、リソースの乏しさをカバーしてくれる人物に出会ったら、その縁を無碍にしてはもったいない。付き合いを大切にしていけば、僅かずつ、自分自身に変化が訪れるかもしれない。また、そうやって縁を大切にしていこうという意志をもった付き合い自体が、人間関係構築の貴重な体験になる。ただし、善人の顔をした搾取者というのはどこにでもいるので、人を見る目か、良縁を手繰り寄せられるだけの幸運か、どちらか一方はあったほうが良いが*3

 

 しかし、上記のようなチャンスがろくに与えられないような、とことんリソースの乏しい人は一体全体どうすれば良いのだろうか?

 

 1.何か、そういうリソースを提供するような慈善的な団体/コミュニティが世の中にはあるのかもしれない。しかし、少なくとも私はどういった団体が推奨できるのかをよく知らない。世の中には、人の劣等感につけこむ悪漢だっているだろうから、そのような団体/コミュニティ選びは慎重でなければならないだろう。カルトな団体に嵌ったら目も当てられない。

 

 2.知識面に関しては、他人の経験やテキストを参照にしても良いかもしれない。ただこれも、いわゆる情報商材の類やライフハック系が横行していることを思うと、コストに見合ったベネフィットを手にするには、それなりの鑑識眼と、即効性に拘り過ぎない忍耐心が求められる。

 

 しかし上記1.2.に限らず、他力本願なやり方は、その他力にあたる部分をどうチョイスするか次第なので、結局、他人を見極める能力や、自分自身のコミュニケーションの技能などが求められることになる。それが無理なら――他人が慈善者か詐欺師かを判断しないまま、エイヤと自分の運命を他人に委ねるほかないのかもしれない。

 

 

いっそ、諦めてしまったほうが幸せかもしれない

 

 個人的には、誰とも知れない他人に手綱を委ねるぐらいなら、いっそ、自尊心や自信を高めようと無理しないほうがマシなのではないか、とも思う。主体的な判断力・知識を蒐集する甲斐性・コミュニケーションの諸技能・情熱すら持たないような人は、仮に一時的に自尊心や自信が高まったとしても、どのみち、それを下支えする能力の不足によって元の木阿弥になってしまう可能性が高い。それぐらいなら、“自尊心の自転車操業”をひたすら究めたほうが良いのかもしれない。その方面のノウハウを蓄積するのも、決して無駄ではない。

 

 それは、コンテンツやガジェットを絶え間なく消費する道であり、コンテンツやガジェットの提供者に深く依存する道でもある。だが、それも人の生きる道の一つではあるし、喜びや楽しみを失ってしまうわけでもない。なにより、無理を重ねてメンタルを壊したりカルトな団体に捕まってしまうのに比べれば、まだしもローリスク・ローコストのように見える。

 

*1:特に、このブックマークコメントを読んでそう思った→http://b.hatena.ne.jp/REV/20120201#bookmark-78163245

*2:「嫌なことはやりたくない」どころか「なにも好きなことがない」というアパシーの塊のような人すら、最近は珍しくないので

*3:人を見る目!ああ、なんというぜいたく品だろう。人を見る目を10代20代のうちから養える人というのは、もうその時点でリソースに恵まれた人間といわざるを得ない。また、良縁を手繰り寄せるだけの幸運も、突き詰めてみれば、付き合う人間の本能的な選択・話しぶり・価値観などが深く関与する領域なのだから、これまた一種の“育ちの良さ”的な、社会的リソースの多寡によって大きく左右される領域と推定せざるを得ない

2012-01-29 長文注意

自分が好きになるために、何が必要か (2012年1月中間報告)

 

 あれから10年、そしてこれからの10年 - 正義と微笑

 

 十年以上前から、私は「自己侮蔑や劣等感の強い人が自分を好きになるための方法」を探し続けてきた。

 

 しかしこの問題を学びはじめて気付いたのは、思春期にかかる“はしか”程度の軽い事例もあれば、パーソナリティ障害発達障害といったハンディを背景に抱えた難しい事例もあり、深刻度のまちまちな人がいる、ということだった。

 

 自分自身のことを嫌っている人のなかには、十年単位で自己嫌悪を抱いている人もいる――三十代を迎えても・良い職業に就いても・伴侶や家庭を持っても、自分のことが好きになれないまま人生を歩んでいく人が、世の中には案外たくさんいるようだった。“自分が好きになるためのライフハック”的な気休め書籍が流通しているのも、それだけ、自己嫌悪や劣等コンプレックスの類が変化しにくいのだろう。

 

 では「自分のことが嫌い」という心境を、「自分のことが満更でもない」ぐらいの心境にもっていくにはどうすれば良いのか?しかし先にも述べたように、「自分嫌い」のなかには軽めのものから深刻なものまであってピンキリだから、抜け出すための難易度はケースバイケース、と言わざるを得ない。また、これまで積み重ねてきた歴史・生育環境・得手不得手・才能といったものも、その人ごとの個別性があるので、解決策は個別的な色彩を帯びると考えるべきなのだろう。「これさえやっておけば、誰でも自分のことが好きになれる」オールマイティな解決案があれば本当はいいが、そんな特効薬は存在しないと思う。

 

 以上のような limitation を踏まえたうえで、以下に、自己侮蔑や劣等感の苦しみから抜け出すのに役立ちそうな要素を書き出してみようと思う。

 

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