シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

結果論だけでは、コミュニケーションスキル/スペックを推量する事が出来ない

 
 コミュニケーション能力を「結果論」とみなして「実体無きもの」とする見方を発見した。果たしてそうだろうか。
 
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2006/04/post_ec4f.html
 

自分の利益になるように「成功」した(引用記事で言えば『女をゲットできた』)行動だけが「コミュニケーション能力が高い行動」として認められるってことなんだよなぁ。「失敗」した行動は、プロセスに関係なくすべて「コミュニケーション能力が低い」とされる。要するに、「勝てば官軍」。

 
 この指摘からは、コミュニケーションには「成功」「失敗」という線引きがあって、「成功したものだけがコミュニケーション能力高しと指摘し得る」という含意が読み取れる。女性をゲットできたら成功、女性をゲットできなかったら失敗、リスクを回避出来たら成功、リスクを回避できなかったら失敗、というところだろうか。
 
 そしてコミュニケーション能力を「結果論」とみなす限り、実態が無いと考えるのはごく自然な成り行きだとは思う。成功だの失敗だのといったものは、事後的で恣意的な取り決めにしか過ぎない*1。コミュニケーション能力を「結果論」と規定する場合、「実質的な能力の高低」なんてものは存在しないとされるので、とりあえず結果なり業績なりの高低がイコールとみなされるわけだ。このような視点のとき、もはやそれは「コミュニケーション能力」というよりも「コミュニケーション成績」と表現したほうがわかり良い。しかもこの成績表、各個人の価値観と気まぐれによって乱高下するような、不確かな成績表ということになる。Masaoさんが言っていることは、能力と業績のイコールであって、しかもその業績は神や自然や裁判官ではなく、気分屋の僕たちによって移ろっていく、ということになる。「○○は恣意的に評価される結果論である」とき、その○○が実体無きものにみえるのは、まぁ、当然なのかもしれない。Masaoさんの言うところの「コミュニケーション能力」が、実体無きものなのも頷ける。この視点を採用する限り、結果以外の評価軸は全く存在しないし、結果がどのようなプロセス・因果関係によって起因したのかについて考える余地は残されていない。
 
 一方、私はコミュニケーション能力と呼びえるものには、やはり何らかのリソースなりポテンシャルなりが含まれているように思うし、例えば仮に「男女交際できないような場合であっても」潜在的にはコミュニケーションを有利に展開可能な者がいたりするんじゃないかと思う。熱帯低気圧に吹き飛ばされ、たまたま雌の少ない地域で羽を広げるクジャクがとても魅力的だった時、果たして彼は雌に対するアピールが下手くそと言えるだろうか?コミュニケーション能力を結果とイコールにするような視点の場合、この美しくて哀れな雄クジャクは「コミュニケーション能力が無い」というおかしなことになるだろう。そうではない。雄クジャクの羽は、確かに配偶という結果を出すことは偶々出来なかったにせよ、配偶に繋がる期待値は十分なものだっただろうし、雌が十分生息している*2状況下においては「結果」を出せたかもしれない。*3
 
 このクジャクの例を、人間に当てはめてみるとどうだろうか。然るべき対象に対して然るべきリソースなりポテンシャルなりを提供出来る能力を保有していても、必ず結果が出るとは限らない。例えば国立大学理学部の狭いニッチのなかだけで異性を捜し求めている中程度のリソース・スペック保持者は、ベースとなる期待値は十分高いかもしれないにせよ(熱帯低気圧で雌のいない所に隔離された雄クジャクのように)、異性を獲得せんとするような種々のコミュニケーションはなかなか結果に繋がらないだろう。そこまで極端ではない類例なら、数多く存在するのではないか?コミュニケーションは、プロセスであり、結果ではない。コミュニケーション能力の高低ってやつは、その他者への働きかけプロセスがもたらす期待値の高低によって推測されるならまだしも、結果によって推測するというのは幾ら何でもあんまりだと思うのだ。偶々環境が恵まれていて「宝くじをゲット」したような純然たるラッキーボーイを、結果だけ見て「コミュニケーション能力が高い」と呼ぶようなことは、私ならしない。「運のいい奴め」と思うだけだ。
 
 いずれ書くつもりだけど、最近の私はコミュニケーション能力の高低を判断することに慎重にならざるを得ない。それでも敢えて判断しようと思うならば、「結果だけみて判断することは無い」。確かに、官軍ならば大抵勝っているかもしれないが、戦場で勝っていれば必ず官軍だと思うわけにはいかない。逆に、女のいない山奥に達人が潜んでいるかもしれないし、牙を剥かないで牙だけ砥いでいる在野の勇者はあちこちに眠っているだろう。曖昧さ・わけわかんなさ・多様性に眩暈を覚えつつも、私は現在成功しているか否かだけを指標にしないで、その他の色々な何かを対人関係のうちに嗅ぎ分けていこうと思っている。そうそう、コミュニケーション能力の「上手さ」は捉え難いにしても、幾つかの「拙い」兆候ならば感じ取りやすいかもしれないので、そこら辺をヒントにしていこう。
 
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※ちなみに私は、こうしたコミュニケーション能力の高低に関連するスペック・リソースをもトータルとしてのコミュニケーション能力に含めている。特に局地戦においては、スペックやリソースは無視出来ないファクターとしてコミュニケーションの期待値に影響することだろう。世間の人は「どんな車に乗っているか」「顔面のシンメトリー」「宗教」などはコミュニケーション能力に含めたがらないかもしれないが、総体としての個人のコミュニケーション能力(或いはより望ましい影響を他者に与える期待値)にはそういったファクターも含まれて然るべきだろう。または、そういったファクターを読みきらずに(例えば結果だけとか、例えば表情の操作だけとかをもって)コミュニケーション能力を云々すると間違いそうだと警告すべきか。ただ、「コミュニケーションスキル」という修辞が個人のコミュニケーションスペックを包含しきれなかったように、「コミュニケーション能力」という単語もまた、限定した意味をいかにも帯びてしまいそうな点には注意したほうがよさげだ。やっぱりコミュニケーションスペックとか、包括社会適応度とか、何か造語が必要になるのだろうか?でもあんまり造りたくないなぁ。
 

*1:恣意的云々に関して:当初の狙いどおりにコミュニケーションを運んだけれど、実はそれがコミュニケーション能力低いとでもいいたくなるような、目を覆うような結果に帰結する場合も往々にしてある。例えばとんでもない女性を引っ掛けた、女性の側がむしろ仕掛けていた、などの場合、成功ととるか失敗ととるかは塞翁が馬でしかない。個人の事後的且つ一時的な感想によってコミュニケーションの結果を成功/失敗に弁別する作業そのものが実は、非常に困難であてに出来ないものである事もついでに指摘しておきたい。

*2:おそらく、彼より魅力的な雄も、魅力的でない雄もいるだろう

*3:Masaoさん自身も、環境によって結果が変化することは指摘しているし、それによってコミュニケーション能力は変わる、と言っている。私の視点とは真っ向からぶつかるところだ。しかし、Masaoさんの規定するところのコミュニケーション能力の定義づけのなかでは、その指摘は論理的に矛盾していない。もちろん私は、その定義づけそのものに対してこうして難癖をつけてはいるんだけれど。

課題を探す、課題にとりくむ、取り組んだ結果をみる、結果に対する振る舞いをみる

 
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20060425/101651/
 
 これなんかは、対象の手札やスペックを評価する手法としてとてもいい。「相手の課題とそれに対するソリューション」を問うというのは、相手の行動上の傾向や素養、現実検討能力などを多角的に評価するうえでなかなか優れた方法だと思う。さらに「ソリューションの成否と、成否が分かった後の振る舞い」も含めれば、相当多角的に検討できるだろう。最小限の情報で、最大限多角的な類推が可能となるこうした視点は、対人レーダーとして重宝するだろう。
 
 同じ課題を抱えていても、解決の仕方は千差万別。
 同じ失敗をやらかしたとしても、その文脈も千差万別。
 
 人間を評価する際、特に短時間で出来るだけ確からしい評価を対象にしなければならない際、どのような目的・尺度の評価であれ、課題・取り組み・結果のいずれか一点だけに着眼していては見落としが生まれてくる。幾つかの角度から切り込まなければ、対象を描写するのはなかなか困難だ。そして、「幾つかの角度から〜」なんて難しいことは言わなくても、

1.どんな課題を抱えているのか
2.課題にどう対処するのか
3.対処の結果はどうなのか
4.結果をうけてどう行動するのか

をみれば、自ずと多面的な対象検討になっていく。なぜなら、この一連の流れを観察するということによって、最低限
 
・対象が何を弱点にしているのか・何を願望しているのかを推定する
・対処行動と成否をみることで、問題解決能力と現実検討能力を推定する
・問題解決と結果に至るプロセスから、問題解決の癖や得意不得意を推定する
・成否を受けた対象の行動から、その成功/失敗がどう位置づけられているのかを推定する
 
 ぐらいは出来てしまう。まして、何度も会う間柄であれば、こうした検討が様々な分野に関して集積するので、対象についての理解はさらに深まり、推測ミスは是正されていく。さらに、不自然な隠蔽や強がり・第三者との関係なども観察することによって、脳内キャンパスに描かれた人間模写像はいっそう輪郭を鮮明にするに違いない。まずは観察だ。それも、横断的に一点だけを見つめるんじゃない。縦断的に、出来る限りプロセスを追いかけ、(個々の行動や出来事の)対象にとってのコンテキストも念頭に置きながら観察するってものだろう。
 
 相手のカードを知っておけば、心強い。喧嘩するでも協力するでも、対象の輪郭は出来るだけしっかり捉えておくにこしたことはない。