シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

僕なら科学をこう使う(行動学に助けられた日曜の午後)

 
 梅雨が明けたのか、久しぶりに良い天気に恵まれた。布団を干すチャンスだと思い、相方が布団をベランダに運び出した時、一匹の蝿が家に入り込んだ。黒くてうざったいソイツは、ブンブン音をたてて家じゅうを飛び回り、テーブルやら壁やら食器棚やらに足跡をつけてまわった。
 
 さて困った。蠅叩きで叩くと、叩いた所が汚れるし、無用な殺生にも繋がるし。第一、暑い日の蝿はとてもすばしこいから、追いかけ回すうちにこっちがへとへとになってしまう。なにか上手い手は無いものか。
 
 そこで思い出したのは、「昆虫は明るい所に向かって移動する」という、行動学の知識だった。相方は布団をベランダに出した際、ベランダのカーテンを閉めていた。これはいけないと思った私は、ベランダの窓だけではなくカーテンも開け広げ、光がたっぷり注ぎ込むようにした。代わりに、他の部屋すべての電気を消し、カーテンを閉め、極力暗くするように努めた。果たして、蝿は次第に明るい部屋に向かって飛んでいき、三十秒もしないうちに外へと飛び立っていった。大成功だ!私は有頂天になって「科学の勝利だムキキー!」と叫んで相方に呆れられたわけだが、まぁ、それはいい。しかし、もし行動学の知識を素早く利用出来なかったら、蝿との無益な戦いによって私は疲弊していた筈である。知っていて良かった。私も蝿も、ともに知識によってラクが出来たんだからね。
 
 私はこんな風に、科学を覚えたら何かに使わずにはいられないし、何か使えそうな匂いがする科学知識にこそ惹きつけられる。私が人間の行動について法則性なり近似式なりを研鑽し続けるのも、とどのつまり、こういう事だと思う。人間の行動について学ぶことが出来れば、衝突を減らし、互いにwin-win関係を形成し、危険な人物を回避出来るかもしれない。私はそういうメリットがあるからこそ、興味を抱いて人間について学び続けている。
 

人間行動のメカニズムへの接近は、「意味」を失わせるものではない。

 
 なんか、ヘンテコで読者そっちのけのやりとりがid:fromdusktildawnさんとの間で続いています。この一連のやりとりは、「みんなで楽しむ娯楽ブログ」には全く向いていないでしょうが、考える材料、または「いつか書かなきゃいけなかった事を渋々書く」契機としては有り難いものです。ありがとうございます。
 
 はてなグループ
 「利己的行動」その方法では生きていけない。 - 卓上洗濯機
 
 といったリアクションも、今までうっすらとは匂わせていたけれどもハッキリ書かざるを得ない幾つかのポイントをはっきりさせてくれました。「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」を採用すると、生きる意味がなくなるんではないか、というような疑問を持つ方がいそうですね。また、それ故に「そんなの採用できるかよ」って思う人もいるようですね。それらの心配、または誤解に対して、私は二つの反論を呈示することが出来ます。
 
 このテキストでは一つめを挙げます。私の近似式が十分に正しいものとして、その式を運用するとニヒリズムに取り憑かれて「イヤになっちゃうのか」という事に関して。
 
 私がしばしば不思議に思うのは、私の構築するモデルが十分に確からしいということが分かったとき、例えば私は「俺、無意味死んでもいいじゃん」とニヒリズムの虜になっちゃうしかないのかな?という事です。仮に、人間の行動が全部近似計算出来るとしとして、その事が生きる意味なり喜びなりの有無が等号で結ばれる理由がさっぱり分かりません。私にとって別個の命題なんですが、どうやら、そうでない人が多いようですね。別にそれはそれで構わないことですし、そういう考えの人からみれば私の考えはうざったいものには違いないでしょう。
 
 喩えてみると、それって「温泉が気持ち良いメカニズムが分かったら、温泉を楽しめなくなる」ってのと同じ杞憂なんじゃないですかね。或いは、モテる方法がわかったら女の子に欲情しなくなるっていうのと同じ心配なんじゃないですかね。薔薇が咲くメカニズムが分かったとて、薔薇はやはり綺麗です。一年に一度花を咲かせる事が分かっていても、散り行く桜は名残惜しく美しいものです。同様に、人間の行動メカニズムが解明できたとて、恋はやはり甘いでしょうし、子どもをかわいいと思う親の気持ちは本物のままでしょう。もし、あなたが、メカニズムを知っただけで温泉に入るのがすっかりつまらなくなったり、桜の開花に関する研究を進めたら花見に行く気にならないような人なら、やはり大いに心配すべきでしょうが、私はそういう人間ではないので、人間行動に関するメカニズムに関する力学法則を知ったところで、私の人生が灰色の世界になっちゃうなんて事は無いでしょう。
 
 むしろ、僕は聞いてみたいことがある。どうして、メカニズムの解明が、あなた達の言うところの「意味」を「無意味」化するようなものとみなされるのか?違った言葉で質問し直すなら、何故あなた達は「メカニズムの解明」すると「生は無意味!」と考えちゃのか。うーん足りないな、もうちょっと意地悪に聞けば、あなた達のいう「意味」って何なのさ?って事ですかね。ここで、私の考えに似ているっぽいid:fromdusktildawnさんの記事を引用してみますね。
 

上記のPhenomenon氏の記事は、それについて、まず最初に抱かれがちな疑問だと思われるからです。

偽悪的な表現はともかく、要は、それって、石が落ちる「仕組み」を説明しているだけで、「石が落ちる「意味」」とは、違うもの何じゃないの?ってことです。

 
 私がおかしいよと思うのはここです。私が(この場合に)主要な議論対象としているのは、「石が落ちる「意味」」でもなければ「恋人にパフェをおごたい気分になる「意味」」でもありません。「石が落ちるメカニズム」であって「恋人にパフェをおごりたい気分になるメカニズム」です。id:Phenomenonさんの仰る、「そんなことは初めから知っているし、その上であえて<意味>と<価値>を作り出すのが人間」という言葉のなかの、初めから知っていると仰るソコの所をもっともっと解剖してみたいわけなんですよね。後続のテキストで書きますが、ここの解剖だけでも、随分と工学的なメリットがあると思いますし、事実メリットに与っています。fromさんが仰るように、それらは別個の命題として取り扱うのが適当なんじゃないか、と。
 
 ああそう、ついでにちょっと突っ込ませていただきますね。「あえて<意味>と<価値>を創り出すのが人間」という表現、どうなのかな、とは私思いますけどね。じゃあそれが創り出せないヤツの生は無意味で肯定する価値も無いものみたいに聞こえますから。ははぁ、頭が良くて心清くて強い人間だけが意味があるってわけなのかな?いや、そんな事をid:Phenomenonさんが目論んでいるとは考えたくないですが、なんとなく知的優越感を感じたくなるようなコメントかな、ととる事も出来ます。id:Phenomenonさんがそう思って無くても、そう勘違いしちゃう人が出てきそうな。
 
 仮の「あなた」に対して語りかけてみますね。
 なんか、“俺は路傍のコウロギになりたくない”“人間的な意味がある”という願望でも隠れてるんじゃないですか?“「利己的行動」その方法では生きていけない。”なんて言うけれど、それって単に、あなたが「あなたの言うところの意味」とやらに執着しながら生きているから、であって、私はあなたの言う「意味」とやらが無くても多分飯喰って糞して生きていけると思うんだ。ついでに、そんな事を考えたり求めたりする事のないコウロギやミミズ達すら、生きていけると思っていますよ。もっと言えば、コウロギとしての一生やミミズの如き一生を無意味として退けるのは凄くまずいと思うなぁ。コウロギは生きているよ、立派に生きて、精一杯鳴いて、凍えて死んでいく。私がもし一介のコウロギ(それも大脳新皮質を持ったコウロギ)だったとしても、意味が無い意味が無いとかダダこねて自殺することは絶対に無いと思う。なんで、無意味になるんだろ。なんで、絶望しなきゃいけなくなるんだろ。あなた達のいう「意味」とやらは、コウロギの生存には不要なモノだと思うし、コウロギの一生を彩るのに必須のものでもないと思う。そんな「意味」とやらの有無によって、何故生が頓挫したり摩耗したりするのかな?そんな「意味」の云々を追い求めるのは、あなた達が飢えているからであって、それが生物の、人間の生に必須のアミノ酸だからというわけではないと思うんですがどうですか。
 
 それに、あなた達の言う「意味」とやらで生を云々すると、頭が良くて偉大な学者の生が最高で、次にあなた達の生がexcellentで、良識的な人の生がgoodで、DQNの生がfine、それでそれでそれで……発展途上国でのたれ死にする子どもの生は無意味無価値で、チンパンジーの交尾は見るに堪えないもので、ミジンコの生は考えるだに無駄なもの、という事になりそうでちょっとイヤだなぁ。むしろ私は、人間もミジンコものたれ死にする子どもも、同じように無意味で、同じように有意味だというモノサシでモノを眺めたいと思うんですけど*1。例えば私がこの先栄華を誇ったとて、子どもを245人つくったとて、エロゲーしかやらない人生だったとて、四日後に交通事故で死んだとて、私の生が急に有意味になったり無意味になったりするとは私は思わない…あなたは思うかもしれないけれど。「意味がある」とか「意味が無い」ってぇのは、わけわかんないヒエラルキーなんじゃないの?私は、生きとし生けるものの「意味」なんてものを天秤にかけて有無や多少を計る勇気は無い、というかそんな得体の知れない天秤は不気味だと思うのが私だ。敢えて言うなら、諸行無常のこの世界では、全ては無意味だし、全ては有意味なんじゃないの?そんななかで私は、『全ては有意味、十分有意味、少なくとも絶対無意味じゃない』、という意見を採用している。私は悪魔のように狡猾な人間で、ずるくて、弱虫で、身勝手な人間だが、それでも自分の生を肯定出来る。もう一回り弱くても、同様だろう。また、ケモノのように生きる人や、書斎に引きこもって本に埋もれてヒステリーを起こしている人の生だって肯定せざるを得ないと思っている*2
 
 こんな私なので、ついつい「意味」だの何だのを拝みまくって「生きる為に意味が要る!要る!」と言っている人達がどうしてそう言い続けるのか怪しいなぁと思っちゃう今日このごろです。まるで、「成功」とか「知的優越」とか「倫理」とかいった憑き物のある人が有意味で、それらが無い人や動物たちは無意味、っていうような傾斜を勘ぐってしまう以上はね。例えば私のような「悪いやつ」の生を、「よいやつ」の生より有意味だって即断するような人には、こういう疑惑を勘ぐっちゃうなぁ。そりゃあね、そういう「意味」は保持していると気持ちいいよ、楽しいよ、何か、自己実現出来た気分になれるよ、だけどその「意味」とやらを背負ったり保有したりした気分になる事が「有意味の兆候」なのか、僕には分からない。「気分をご機嫌にする為のツール」としてなら有用性を認めるから、そりゃあ私もそういうのを内服することはあるけれどもね。でも、そんなのエロゲーとかビタミン剤とかと同列に扱うべきサプリメントぐらいの気持ちで取り扱っている。しかも大量服薬したら中毒になりそうな、ちょっと危ないサプリメントね。
 

 最後に、灰色の世界について付け足しを。
 

 灰色一色にぬりつぶされたのっぺらぼうの世界に逆戻りだ。だれももう一度線を引き直さないからですが

 私はその灰色の世界を生きている。この灰色の世界を、私は娑婆世界、って私は呼んでますけどね。多分、ニーなんとかさんも、世界が灰色だって事はとっくに気付いていたんじゃないかなぁ。だけども、私はその灰色の世界で恋をして、灰色の世界で歌を歌って、灰色の世界で酒を呑んでいる。恋は甘く、歌は楽しく、酒は旨い。私は、この娑婆で執着にまみれながらも、その執着がメカニズムに誘導されたものと自覚しつつも、でも楽しく苦しく精一杯生きている。ゲームのルールにちょっと詳しくなったからって、麻雀がつまらなくなる筈が無いのと同様、娑婆が灰色という事を知ったとて、個人としての私は顔を赤くしたり青くしたりしながらやっとるわけですよ。確かに時々灰色の空に憂鬱になる事はありますよ?でもそれは大抵、ネットをやっていたり本を読んでいたりメタ視点でいい気になっている時で、一生懸命何かに取り組んでいる最中はそんな事を視ている暇が無くなっちゃいます。
 
 んで線を引き直す?ははぁ、そりゃ無理でしょう。娑婆は常に灰色だから、線を引き直す事は決して出来ない。ただ、虹色の天幕をあなたの周りに張り巡らせることで、娑婆の道理から目を逸らせることは出来ると思う。私はあまり奨めないけれども、それがあなたの適応を向上させる良い手段だとすれば、虹色の天幕を貼り付けたり、あまつさえ他の人達に渡して回ったりするのも良いと思う。そんな人がいるのも、また娑婆だというのが私の理解なので。
 

*1:もうちょっと言えば、生きとし生きるものの生は全部因果関係で繋がっている…途上国でいっぱいのたれ死にしている子ども達も、外で泣いているアブラゼミも、みんな繋がっている…から意味の有無を云々しようがしまいが、全部有意味で全部無意味、という視点もあるけど、ここは深入りしないでおく。まだ私が不勉強だからっていうのと、今回の議論からはズレた話になりそうだからだ。とにかく、私が学んでいるところの仏教は、全部儚くてもニヒリズムに至るのはどうよ、と教えてくれています

*2:私個人の気分としては、そいつらに×印をつけたくなるけれども、真面目な考察のうえでは彼らの生を有害とか無意味とする事は出来ない

人間の適応に関する方程式を創ることは、工学的であって、哲学的ではない

 
「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」を採用すると、生きる意味がなくなるんではないか、というような疑問を持つ方に、そりゃ違うよというもう一つの意見を提出してみます。
 
 (このテキストは、人間行動のメカニズムへの接近は、「意味」を失わせるものではない。 - シロクマの屑籠の続きです。読んでみたいという酔狂な方は、そちらを先にご覧下さい)
 
 「人間の行動は何らかの利己的動機・インセンティブによって選択される」という視点は、何よりもまず私にとって道具なんです。技術なんです。実践に供される道具であって、包丁や眼鏡やインターネットと同じような、「あると日常生活を便利に出来るアイテム」だからという事です。アイテムの獲得が世界を有意味/無意味にするわけではありませんし、アイテムの不保持が世界を有意味/無意味にするわけでは無いでしょう。万有引力の法則の発見前/発見後で世界が変わったわけでもないし、フロイトが防衛機制を主張した前と後で世界が変わったわけでもない*1。一つまえのテキストで書いたような、小難しい話をする以前に、まず私は、自分の包丁をこうやって研いでいる、というのが私のスタンスです。思想的にどうこうだなんて、大それた話だと思ってます。
 
 ところが、私の議論が「いつでも包丁として実践に供されるツールで、常に研ぎ続けていなければならない大切なモノ」って事をどうしても読者の人は信じてくださらない。まぁ、私の仕事仲間に語ってみせても「頭おかしいんじゃねーの?」って言われるのがオチだと思うので、ネット以外の付き合いのでは本当に親しい人にしかこの妄想体系を私は開陳していません。「そんなの実践出来るわけねーじゃん」「お前の机上の空論だ」って言われるに決まってると思うので。狂ってるって思われるのがオチだし、実際狂ってるかもしれないし(笑)。このはてなダイアリーで書き残した私のナマに近い考えをみている人達も、きっとそうなんだろうなぁ。これが理念じゃなくて実践用のツールって言っても、信じてくれなさそうだし、そもそもネットで書く事が実践である筈がないっていうスキーマ持ってる人もいそうだしなぁ。私が語っているのはむしろ工学的なものだと思っているんだけど*2、どうも伝わらないっぽい。
 
 私は昔から深く考えるのが苦手で、各方面の比較的浅いモノを組み合わせて、それでガタゴト動くマシーンを創るのが大好きな人間だ。例えば楽天が運営するポータルサイト : 【インフォシーク】Infoseekでやってた事なんかも、あまり深く考えなくても既存のモジュールを組み合わせればガタゴト動いたからこそ組み上げたわけで。自分に哲学やら理学やらを究極的に問いつめる素養は、無いと思う。それを第三者がどう思うかはともかく、私は工学的に自分の適応近似式を構築し、現実世界における対人コミュニケーションの場を通して何度も何度もデバッグし続けるだけだ。
 
 だから私には、まず自分が包丁を研いでいるという自覚しかない。包丁を研いで、その包丁でリアル世界の人間関係を自分にとって最も都合良く、気分良く、長期的に安定した状態にするように企むだけだ。私の議論を難しく考えて「生きる意味がどうこう」と考える人もいるだろうし、たまには私もそういう考えを思いつくことはあるが、実際のところ、包丁一本で揺れる意味なんて(あるいはもうちょっと拡張して、本一冊で揺れる意味なんて)なんなのさ、という考えのほうがずっと優勢です。それよりも、自分の適応方程式の切れ味がリアル人間関係を斬るにあたってどれぐらいの切れ味を持っているのか――つまりツールとしてどこまで機能しているのか――のほうがよっぽど興味深い。だって、ツールとしての切れ味が良いか悪いかは、そのツールにおんぶにだっこなの私の適応や予後を左右する、最重要ファクターなんですから。私はもっとこのツールを道具として洗練させたい。そうすれば、私は道具を使ってもっと適応を向上できるかも知れません。あと、道具が人に売れる程度の精度まで成長したらウッハウハでしょうから、欲深な私はそうなったら有頂天になれるでしょう*3
 
 こんな風に、私はまず工学的に「汎用適応技術研究」を追求していく所存です。思想的な話は他の人に任せておくか、少なくとも自分から積極的にしたいとは思いませんね。私は自分のツールをツールとしてまず鍛え上げることを至上命題としています。このツールから想起される思想やら哲学的思弁やらは、二の次三の次ですし、少なくとも今の私は必要としていないようです。私は、包丁やら三平方の定理やらwindowsXPやらを、まず道具として活用したい。だって、それらの哲学的思弁を幾ら行ったところで、鰺は捌けないしピラミッドは建たないしエロゲーも遊べない。だけど、それらのツールの使い方さえ詳しく知れば、鰺の刺身を食ったり建物建てたりエロゲーを動かしたり出来るんですよ!僕は、理論を突き詰めたり哲学的意義を問いかけたりするよりも、実際に旨いモン食ったり気球に乗ったりエロゲーを遊んだりしたいんです。
 
 「みんなも、難しいこと考えている暇があったら、包丁で鰺をおろして、食べちゃえば?意味とか何とか考えてるのが馬鹿馬鹿しくなるんじゃない?鰺っておいしいからさぁ。」
 
 意味とか何とか考えて高尚な月旅行に出かけるよりも、僕は包丁で鰺をさばいて刺身にして食ってしまいたい。多分そのほうがニコニコしていられるし、友達や家族を喜ばせるにも向いていると思うから。
 

*1:世界の「捉え方」は人によっては変わったかもしれない。しかしケルン大聖堂や薔薇の花や空の色が変わったとは、思わない。

*2:そういえば、脱オタについても私は常に実践に供する技術論を好んだにも関わらず、思想面がクローズアップされる事が多かったなぁ。ネットって、そういう所なのかな?かな?

*3:でも実際は防衛機制の読み取りをも含むツールだから、仮に精度が高くなっても普及は無理でしょうかねぇ、どうなんでしょ。