シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「僕は誰の役にも立たない」という前提に基づいて行動する事こそが誰の役にも立たない

 

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 自分の行動の選択基準に偽善・美醜といったものを無闇に導入しないほうが良いのでは?というご主旨には私も賛成です*1。ですが、一点、ちょっと気になったことがあったのでお尋ねします。
 

誰の何の役にも立てなくなったら、その時、僕はどうするんだろう?

 えーと、これです。なかなか難しい問いかけをなさっていますね。
 
 「自分の行動や存在が誰かの役に立っているのか」を証明することは難しそうですが、誰の役にも立っていないことを証明するのもこれはこれで困難な気がします。そこら辺、ネガティブな気分的バイアスを乗り越えて適切に評価することって難しいことではないでしょうか。一見、誰も必要としていないようで、父母や友人が必要としているかもしれない。誰も評価していないようにみえて、実は自分の仕事が誰かの助けになっているかもしれない。皆からいつも忌み嫌われている人でさえ、ひょっとしたら、他の誰かがスケープゴートになることを妨げる防波堤として機能しているかもしれない。因縁が無限に連なる人の世のなかで「誰かの役に立つ」ということは、しばしば誰かの妨げになるということと表裏一体で、逆に誰かの妨げになるということが別の誰かの福音になっているかもしれない、という視点を、私は忘れることが出来ません。よって、「誰の役にも立たずに純粋に社会のお荷物になっている」ということを証明だてることは多分無理だと思うんですよ。十分に孤独で十分に影が薄く縁もゆかりも無い、といった人なら「自分は害になってないかもしれないが、役にも立っていないかもしれないなぁ」という見解を(あくまで)近似解として採用することが出来るかもしれませんが、それとてあくまで近似解としての話で。そして例えば私やpiroさんの場合、娑婆の手垢に十分にまみれているがゆえに、おそらく孤独とは言い難い状況を生きている筈です。誰かの役にも立っていて、誰かの邪魔にもなってるのが私達ではないでしょうか?「自分は役に立っていないだけの存在」と思い込むことは、「自分は皆の役に立っている」と思い込むことと同様に片手落ちではないでしょうか。
 
 ついでにもう一点、この話に関して難しいと思う点を。
 
 piroさんは、“「自分が役に立っていない」という前提で行われる諸行動が、「自分が役に立っていないとは限らない」という前提で行われる諸行動に比べて、より役立たない、またはより迷惑な選択肢である可能性”についてお考えになったことはあるでしょうか。例えば私も、しばしば死にたい気分に駆られるわけですが、この選択肢を選ぶと悪い因縁が大量発生してしまうので多分死ぬまで選択することが出来なかったりします。「自分が役に立っていないと判断したうえでの行動が、縁のある人達からみて一層役立つのか/一層役立たないか」について考えてみるとどんな風になるでしょうか?
 
 そこら辺を突き詰めて考えていくと、「自分が役に立っていない」という前提で採用される諸行動が、しばしば後腐れを残しやすく、しばしば自己中心的で、「誰の役にもいちばん立ちそうにない」確率の高い選択行動のように思えるんですが如何でしょうか?私個人は、少なからぬ人に不快の念を与えたり、時に(意図的に)敵対すらし得る邪悪な人間です。それでも、私と何らかのかかわりを持っている人達との間に、多かれ少なかれの義理や因縁を持っちゃったりしています(そして、彼ら/彼女らと互恵的な関係を維持することが、自分自身の適応を守るうえで最適だと判断しています)。それらの御縁のある限り、私の「役立ち度」「役立たない度」がどの程度であれ、「俺って役に立ってないよなぁ」という判断に基づいたジェスチャーはみせづらいなぁ、と感じています。なぜなら、私が実際に彼ら/彼女らの役に立っている程度の如何に関わらず、「俺って役に立っていない」という判断に基づく諸行動は、彼ら/彼女らとの関係性のなかで望ましくない影を落とすような気がしてならないからです。そりゃ、私との関係のなかに否定的文脈しか有さない人からみれば、私シロクマがくたばってしまう事は手放しで喜べることでしょうし、「シロクマは誰の役にも立っていない」という前提で引っ込んでいくことは望ましいことでしょう。しかし、それなり以上に縁のあった親族や友人などに関する限り、「シロクマは役に立っていない」という見解に基づく行動は「シロクマは役立っている」という見解に基づく行動よりも(彼ら彼女らにとって)「役立たない」あるいは「困ってしまう」ものなんじゃないかと思います。「僕は誰の役にも立たない」という前提に基づいて行動する事こそが誰の役にも立たないことを私は心配します。

 
 以上のような考えから、私は、娑婆から簡単に降りることが出来ない・駄目でも結局日々最善を尽くしていくしかない、という結論に到達せざるを得ませんでした。総体として、縁のある人達に対して私達は「役に立つようにがんばっていくしかない」「なるたけ迷惑かけないようにするしかない」ように行動していくしかないんじゃないでしょうか*2。私達がどれぐらい周りの人の役に立っている/立っていないかを計測することはどうせ不可能ですし、全ての人の役に立つこともどうせ不可能です。となると、私達が常に努めることが出来るのは、さしあたって「役に立つ/役に立たない」という憶測に基づいたではなく、「出来るだけ役に立つ方向に向かうこと」や「役に立たないとふてくされないこと」ではないでしょうか。そのような努めは、勿論「誰かの役に立つという事は多分誰かを踏み躙ることに通じている」という覚悟のもとに行われなければならず、誰かの役に立つという事は誰かの妨げになる事と表裏一体の関係にある痛みを受け入れなければなりませんが。
 
 少なくとも私は、そういった覚悟や贔屓なりを前提としつつも、それなりの縁のあった人達にとって「出来るだけ役立っていく方向で」「あまり迷惑にならないように」努めたいとは思います。私の周りにいる縁者にとって私がどこまで「役に立っているか」「迷惑になっているか」の如何に関わらず、一個人としてはとにかく立ち止まらずに最善を尽くしていくほか無い、と信じる次第です。 
 

*1:ただし、piroさんの持つ「頑張る自分から偽善を検出しようとするメタ視点」は、あなたの自意識の問題に関する以外のニュアンスが強いような気がして、正直piroさんの足を引っ張っているのではないかというおせっかいな予感を感じ取ってもいます。が、暴走を防ぐチェック機構として「客観的」には良いことなのかもしれませんので、それがあることを否定するつもりはありません。一方で、個人の適応だけに着眼するなら百の客観よりも一の主観、独善か偽善かに関わらず採用できる一の主観を握り締めることが出来るかどうかが最も重要な気もします。

*2:無論、この考え方は、自分に縁故のある人間を贔屓するという前提に基づいています。私は、自分と繋がりのない人間よりも繋がりのある人間を可能な限り贔屓します。