シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

人間はボーカロイドになりきれない----“キャラ”の苦しみ

 
 まるでボーカロイドを連想させるような楽曲を聞かせてくれるPerfume。そんなPerfumeの“なかのひと”も人間なんだなぁと連想させるようなエピソードを最近はよく耳にする。
 
 Perfume あ〜ちゃんの壮絶な苦悩と絶望の吐露、そして彼女は壊れてゆく@Rockin'on JAPAN 09年7月号 - Aerodynamik - 航空力学
 
 「Perfumeが歌う意味なし」あ~ちゃんがプロデューサー「批判」? : J-CASTニュース
 
 もちろん、こうした“なかのひと”を連想させるようなエピソードがPerfumeだけに特別というわけでなく、リンク先で紹介されている文章も、どこか既視感のある内容にみえる。
 
 古来、「アイドルはトイレに行かない」などと冗談交じりに言われてきたが、この「アイドルはトイレに行かない」は、消費される“キャラ”としてのアイドルと、アイドルの“なかのひと”とのギャップをよく捉えていると思う。不特定多数に消費される“キャラ”としてのアイドルは、“なかのひと”の実状とは別物だし、ファンが期待する“キャラ”と、“なかのひと自身”が望んでいる理想像の間にも大抵はギャップがある。しかも、“キャラ”としてのアイドルは文字通り偶像化されやすく、生身の人間には到底不可能な理想像をも引き受けるよう、周囲に期待されやすい。
 
 特にPerfumeの場合、人間っぽさを脱臭したボーカロイドのごとく加工-消費される傾向が強かった*1分、ギャップが大きくなりやすい、という部分はあったかもしれない。ボーカロイドっぽい“キャラ”の着ぐるみだけをおおっぴらに演じ続けるなんて、生身の人間に耐えられるわけがない*2。もしあれが、「ボーカロイドになんてなりきれない」ことに伴う呻き声だとしたら、“キャラ”という着ぐるみに耐えられない人間のリアクションとしては極めて自然でまっとうなものだなぁとは思う。
 
 

人は“キャラ”だけでは生きていくことが出来ない

 
 あのリンク先の記事に、あれだけの反応があったのは何故か?もちろん、第一にはPerfumeの知名度によるだろうし、記事が“面白かった”からだろう。
 
 しかし、ボーカロイドという非人間的な“キャラ”を演じる“なかのひと”の呻き声のなかに、我が身を振り返るような成分が含まれていたんじゃないのかとも思うし、だからこそ人目を惹く文章になり得たんだろうとも思う。人は、ハプニングや事件に反応するものだけれども、それが自分自身に関連付けられるような時に、とりわけ反応するものだ。
 
 アイドルに限らず、“商品としてのキャラ”を不特定多数に提示しなければならない人は、多かれ少なかれ、似たような悩みに付きまとわれているんじゃないだろうか。ボーカロイドほどではないにせよ、ホステスや学校の先生なども、不特定多数の人に期待される“キャラ”を精緻に演じようと努めれば努めるほど、“キャラ”と等身大の自分との齟齬に苦しむことになりがちだ。かと言って、いったん引き受けてしまった“キャラ”・誰かの期待を担ってしまった“キャラ”を、途中で投げ捨てることは許されない。理想のホステス・理想の教師といった“キャラ”に頼ってしまった人間は、“キャラ”が人気を集めれば集めるほど、キャラを放り出した時の周囲の反応も激烈になりやすく、いったん着込んだ“キャラ”という着ぐるみを脱ぎづらい境遇へと追い込まれる。しかも不幸なことに、窮屈な“キャラ”のぬいぐるみを着込みながら、心を汗だくにして、けれども“キャラ”を演じるしかない、といった状況に、どうやら人のメンタルは耐えられないように出来ているらしく、“キャラ”で心労を重ねる人は後を絶たない。
 
 また、学校や職場で“キャラ”を立ててコミュニケーションを維持している人の場合も、“本当はこうでありたい”と思っている自分と、“周りの人達に期待されているキャラ”とのギャップが大きいとしんどくなりやすい。どれだけ“キャラ”が栄華をきわめているようにみえても、“私自身がみんなにちゃんと見つめてもらっている”という確かな感触を得ることが出来ない。チヤホヤされても寂しさを忘れるのは難しい。
 
 まあ、そりゃそうだろう。
 人気を集めているのはあくまで“キャラ”のほう----つまり着ぐるみのほう----であって、“なかのひと”が人気を集めているわけじゃないのだから。“なかのひと”の内実とは乖離した、交換可能で演技可能な“キャラ”のほうが、人気を博して認められているのであって、交換不可能な自分自身はといえば、着ぐるみの内側から、“キャラ”というテクスチャが褒められているのを傍観しているしかないのである。
 
 だったら、“キャラ”で人気を集めておいて、ここぞという時に“キャラ”を脱ぎ捨てて「ちわーっす“なかのひと”ですがぁ、屁ぇこいていいですかぁ?」とやればいいかといえば、そうでもない。“キャラ”を売って生きてきた人間が、急にそんなことをすればソッポを向かれるのがオチである----醜聞を起こしたアイドルや、期待を裏切った美少女キャラクターが、即座に打ち捨てられるように----。
 
 「愛されているのは“キャラ”というテクスチャであって、私自身ではない。」
 「愛されているのは交換可能な“キャラ”のほうであって、同じ役が務まるなら誰でも構わない。」
 
 こうした、“キャラが同じなら交換可能”“キャラさえ立つなら誰でも構わない”という境遇は、映画『モダン・タイムス』でチャップリンが描いた悲惨さにもある種似ている。近代社会を描いた『モダン・タイムス』では、人間が機械の歯車のように扱われ、疎外されていたが、現代社会で“キャラ”を演じる私達は、歯車のようには扱われない代わりに、理想の人形のように振舞うよう強いられていて、結局どちらも“なかのひと”の疎外は避けられない。ただし似て非なるところもあって、つまり、工場の歯車には休暇があるけれども、キャラを演じるという営為には休みも終わりも無いのである。“キャラ”にまつわる空虚感は、しばしばプライベートの領域まで追いかけてくる
 
 

どうやって“キャラ”と“なかのひと”の折り合いをつけていくのか

 
 じゃあ、どうすれば良いのか?
 今更、「“キャラ”を全く演じない」「俺はスッポンポンになる!」とか言い出したところで、ほとんど無意味のようにみえる*3。そもそも、“キャラ”と“なかのひと”とを完全に分離して考えようとするには無理があるし。
 
 最も現実的かつ健康的なのは、“キャラ”と“なかのひと”の折り合いをつけ、ミックスしていくような処世術を構築していくことだろう。具体的には、“キャラ”の一部に“なかのひと”の性格を織り交ぜていくとか、幾つかの領域では“キャラ”を演じる精度を低く抑えるとかいった形で、“キャラ”を演じている時にも幾らかの割合で“なかのひと”が顔を覗かせるような、そういった処世術である。言い換えるなら、“なかのひと”を窒息させないような処世術というか。
 
 ただし、こういった処世術の構築が困難な人がいないわけではない。特に、以下の二種類に当てはまる人の場合は、“キャラ”と“なかのひと”との折り合いづけやミックスは相当大変だろう。
 
 
 1.芸能人のように、キャラのイメージ保持がビジネスに組み込まれている人
 
 人気歌手やアイドルのような芸能人は“キャラ”のイメージ保持が収入や人気に大きく関わってくるので、“キャラ”のイメージを最適化するようなマネジメントが求められやすい。だが“キャラ”の最適化が厳しくなればなるほど、そして“なかのひと”を抑圧する時間が質・量ともに増えれば増えるほど、“なかのひと”はいよいよ心理的に窒息してしまいやすくなる。金銭効率の最適化させるあまり、精神衛生のバランスをとりきれないと、色々と面倒なことになりかねない、というか、面倒なことになってしまったエピソードは枚挙に暇がない。
 
 
 2.他人の顔色がほんの少し曇っただけで気が動転してしまうような人
 
 他人の評価や顔色に極端に敏感な人達----たとえば無意識のうちに他人のダメ出しを回避するような処世術が身に付いているようなパーソナリティの人達----も、“キャラ”と“なかのひと”の折り合いをつけるのがしばしば困難になる。
 
 このタイプの人達は、相手の顔がほんの少し曇っただけでも不安で不安で仕方なくなる。不安を回避する為なら、少々の無理をおして振る舞ってしまいやすい。だから、ある種の“キャラ”を演じたほうが周囲の評価が高くなると分かると、際限なく“キャラ”を演じてしまいがちだ----そのほうが、不安に陥らずに安心できる限り。自然、“なかのひと”の表出は蔑ろにされやすい。
 
 けれども、他人の顔色を窺いながら“キャラ”を徹底的に演じるというのは疲れることだし、“なかのひと”を抑圧し続けていれば、疎外感は耐え難いほど強くなる。だから、いつまでも“キャラ”を演じ続けることが出来ずに、いつか破綻の時が来る。このタイプの人が、しばしばメンタルヘルス上の破綻を呈したり、不安定な社会適応を余儀なくされたり、しまいには対人関係から遠ざかろうとしたりするのも、うべなるかなと思う。他人の顔色に敏感すぎる人達にとって、“キャラ”と“なかのひと”のバランスをとりながら社会適応を維持することは、とりわけ難しい課題になるだろう。
 
 
 こうした1.2.に該当しない限りは、“キャラ”と“なかのひと”のバランスをとることはそれほど困難ではないので、上手く折り合いをつけていきましょう…と言いたいところだが、昨今、1.2.のどちらかまたは両方に当てはまる人に出会う頻度が増えているような気がする。気のせいであって欲しいが…。
 

*1:必ずしも、それだけではないにせよ

*2:もちろん、ボーカロイド的な消費のされ方の度合いが下がってくれば、この苦痛は軽減されるだろう。だから、ボーカロイド的にキャラが消費されるニュアンスが強まってくれば苦痛が増えるし、ライブはokという方向性も理解できる

*3:それに、「俺がスッポンポンになる!」路線に拘ると、殆どの人は等身大の自分というよりは、むしろ幼児退行を呈しやすい、という問題もある。