シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

“クレクレ婚活”なんてやめちまえ

 
 
 “婚活”という言葉が出回るようになって随分経ったけど、頑張っているのに縁談にはいっこうに結びつかない人が後を絶たないようだ。そうこうしているうちに、遂にこんなネタ商品まで出てくるようになってしまった。
 
 
 http://nylongirls.jp/topics/2009/12/kyosei2.html
 
 
 “婚活”、ここにきわまれり。この商品、表面的にはネタのようにみえるが、ネタという名のもとに水面下の駆け引きが激化しそうな、業の深い商品といわざるを得ない。
 
 ところで、“婚活”がうまくいかない男女にはうまくいかないなりの理由や原因が必ずあるわけだが、数ある原因のひとつとして「世話してもらいたい」「幸せにして貰いたい」ばかりが過剰に先行してしまっているケースがある。
 
 

本当はすごく受身な人達の、“クレクレ婚活”

 
 なんのために“婚活”するのか?そりゃあもちろん、自分自身のためだろう。そのためにコミュニケーション能力を磨いたり、出会いの場を求めたり、異性に対する要求水準を下げたりする。そうやって努力すれば、縁談成立の確率は高くなりそう…にみえる。
 
 だけど、体裁を幾ら整えてみたところで、「世話されたい」「幸せにしてもらいたい」っていう受動的な心根ばかり透けてみえるようでは、まとまる話もまとまらない。私を幸せにして欲しい・私を愛して欲しい……そういった、自分の欲求は幾らでも想像力を膨らませられるのに、パートナーをどう幸せにするのか・パートナーをどう愛していくのかにはまったく想像力が働かないような人は、それが態度に出るものである。およそまともな異性ならば「こいつ、自分のことしか考えてなさそうだゾ!」とすぐに勘付いて、離れていってしまうだろう。
 
 自分が手に入れたいものには敏感で、相手に提供することには鈍感な“婚活”なんてものは、いわば“クレクレ婚活”とでも言うべきものであって、いくら“婚活”に対して積極的な姿勢をとっていても、心のなかで期待しているのは、親鳥と雛鳥のような関係でしかない;つまり、巣で口を開けて待っていれば幸せを放り込んでくれる親鳥のような異性に出会うための“婚活”というわけだ。
 
 もちろん、誰にだって「世話されたい」とか「愛されたい」という思いはあるだろうし、結婚パートナーにそれを求めること自体が間違っているとは思えない。しかし、「世話されたい」vs「世話をする」や「愛したい」vs「愛されたい」のバランスが一方の極へと偏っているようでは、まともな夫婦関係を築き上げられるとは思えない。世話されたなら同じぐらい世話をし、愛されたいなら同じぐらい愛する;そうやって夫婦間の受動性と積極性とのバランスがそれなりに拮抗して、お互いに助けあってはじめてまともな関係が長続きするのではないか。
 
 “クレクレ婚活”に該当する人達は、こういったバランス感覚がじつに乏しく、とにかく自分が世話されて愛されたいというオーラが身のこなしや会話の端々から感じ取られがちである。勘の良い人なら30分も話せば気付くだろうし、気付けばすぐに距離をとるに違いない。
 
 

親鳥-雛鳥のような夫婦関係は、そのままでは長続きしにくい

 
 ただし、世の中は広いもので、「ひたすら世話したい」「ひたすら愛したい」という反対の極に突っ走る人物もいないわけではない。
 
 このタイプの人物は、自分の年齢よりも遥かに年下の、“クレクレ婚活”という言葉がよく似合うような異性をこそ、むしろ結婚対象として選びたがる。親鳥-雛鳥 のような結婚関係もすすんで引き受け、「世話をしたい」「幸せにしてあげたい」という能動性がやたらと目立つので、受動的なタイプの人とちょうどフィットするようにも、一見、みえる。
 
 けれども、極端に能動的な親鳥タイプと、極端に受動的な雛鳥タイプのパートナーシップが、幸せに長続きすることはあまり無い。たいていの場合、能動的に世話する側と、受動的に世話される側の双方の立場がエスカレートした挙句、関係を維持しきれなくなって分解してしまう。
  
 観察すればすぐに気付くが、この手の、過剰に世話を焼きたがる人達は「この人を幸せにできるのは私だけ」「この人の命運は、俺が幸せにしてあげられるかどうかにかかっている」と思い込みたがっている。そして、一方的にパートナーの世話を焼くことを通して、自分自身の自信を回復していたり、ある種の全能感を充たしていたりもする。そのような自己満足に都合が良いパートナーとして雛鳥のような異性が選ばれているのであって、「純然たる奉仕者」というよりは「か弱いパートナーを世話する俺(アタシ)に酔っている」という表現のほうがたいていは相応しい。
 
 だから、表面的には巧い組み合わせのようにみえて、親鳥-雛鳥 の関係は、弱点を補いあっている関係というよりはお互いの自分本位な願望がたまたま利害一致している関係、という表現のほうがよく似合う。まただからこそ利害が一致しなくなると急速に冷めて崩壊していく。自分の願望を充たすことだけに夢中な二人が、パートナーをみるのではなくパートナーを介して自分の願望ばかりみつめあっているような関係が、どだい長続きするわけがないし、発展するわけもない。
 
 

自分自身の願望だけ見ていたい人は、“婚活”しないほうがいいのかも

 
 ここまでを踏まえるなら、「世話されたい」「愛されたい」に偏りすぎている人や、「世話したい」「愛したい」に偏りすぎている人は、むやみやたら“婚活”する前に、ちょっと自分の胸に手をあてて考え直したほうが良いかもしれない。どちらの側に偏っている場合であれ、パートナーをみるより自分自身の願望だけみていたい人が結婚してみたところで、その結婚を発展的なパートナーシップに育てていけるかどうかはかなり怪しい。そんなムチャな結婚をするぐらいなら、仕事や友人関係や趣味の領域に人生のチップを賭けたほうが遥かに幸せになれる、という人も沢山いるんじゃないだろうか。
 
 結婚は、人生を幸せなものにするための必要条件でもなければ十分条件でもない。
 
 自分自身の願望だけをひたすら追いかけたいという人には、“婚活”はあまりオススメできなさそうだ。苦労を重ねて妥協してまで結婚したところで、得られるものがどれぐらいなのか?夫婦関係が穏便に進むのか?むしろ、“萌え抱き枕”や“萌えフィギュア”を愛好しているオタクの処世術を見習ったほうが、まだしも堅実という場合もあるんじゃないでしょうか。