シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

最高のMADムービーみたい『ガンダムジークアクス』感想

 
  
『機動戦士ガンダムジークアクス』最終話を夜中に起きて視聴した。いつものように早朝に見るつもりが午前1時半に目が覚めてしまい、ええいままよと視聴したら、いろんな気持ちが渦巻いて結局明け方まで眠れなかった。最終回にふさわしい、一段と眠たい水曜日になってしまった。私は『ジークアクス』を「今まででいちばん眠たいガンダム」として記憶するだろう。
 
ストーリーの展開として私がいちばん期待していたのは、マチュとニャアンの物語が描かれることだったから、結末は満足がいく感じだった。内田弘樹さんが、


 
「エンディングのマチュとニャアンの家にララァの服があるから、ララァとの繋がりは残っていて、幸せにやっている」、と解釈しているのを私も採用することにした。そう解釈できるエンディングを用意してくれたことを嬉しく思う。
 
もっと言えば、私はマチュとニャアン、特にマチュがすごく好きだったのだと思う。主人公、なおかつ私が本作で一番好きなキャラクターでもあるマチュがなかなか登場しないことにヤキモキした時期もあった。もし、そのマチュ(とニャアン)が最終話でもっと描かれなかったら、そしてマチュが軟着陸した場所がこうでなかったら、きっとフラストレーションだっただろうなと思う。
 
 

MADムービーとしての『ジークアクス』

 
マチュとニャアンの物語としての魅力や構造はさておいて、『ジークアクス』はガンダムネタやアニメネタが高密度に詰まった、なんともオタク然とした作品だったと思う。
 


 
この「ものすごい公式同人誌を見た」は同感だ。私なら「ものすごい公式MADムービーを見た」と表現したい。どちらにしても、ものすごいクオリティの二次創作のような作品だった*1
 
『ジークアクス』には、過去につくられたさまざまな作品の引用、インスパイア、変奏といったものがちりばめられていた。ガンダム世界における「原典」である『機動戦士ガンダム』『機動戦士Zガンダム』『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』はもちろん、ゲーム『ギレンの野望』、エヴァンゲリオンなどのカラー(またはガイナックス)の過去作品、ほかにもセーラームーンやらクトゥルフ神話やら、あれこれの作品の引用がぎっちり詰まっている。
 
その道の神様のようなひとたちが作った作品なのだから、すべての引用やインスパイアやオマージュを正確に指摘できる人なんて限られているだろう。
 
でも、よくできたMADムービーとはそういうものだと思う。大量の過去作品から引用やインスパイアをしているからといって、すべての過去作品を知り尽くしていなければ楽しめないわけではない。知っていれば知っているほど楽しめるのはもちろんだが、ある程度までは知らなくても、なんならほとんど知らなくても楽しめるのが優れたMADムービー(またはMADムービー的な作品)だと思う。
 
 
たとえば「こんなんエヴァじゃん」としか言えない中学生でも楽しめるぐらいには、『ジークアクス』はよくできたMADムービー(的な作品)だった。

でもって、よくできたMADムービーはファンを知らない引用先やインスパイア先へといざなう。『ジークアクス』は、たぶん、少なくないファンを過去の作品に誘導した。ガンダムというIPの新陳代謝に果たした貢献ははかりしれない。でも、この貢献も『ジークアクス』がよくできたMADムービー的作品であること、引用元やインスパイア元を十分に知らなくても視聴可能で、なおかつ引用元やインスパイア元にいざなう力を持っていればこそ成立したものだ。制作する側が膨大な過去作品を知っていて、それを作中に巧みに組み込める技量を持っていることに支えられている点もよくできたMADムービーっぽい。
 
過去、ニコニコ動画などで最高に盛り上がったMADムービーがそうだったように、『ジークアクス』も視聴者同士が言葉を交わし合うことで引用元やインスパイア元を探り合い、教え合う現象が起こった。毎夜の放送直後からたくさんのコメントがSNSのタイムラインを席巻し、自分の知らない引用やインスパイアを知る機会や、過去の作品に関心を持つ機会として機能した。『ジークアクス』の視聴者のコメントがSNSのタイムラインを席巻していく過程を生み出したのも、『ジークアクス』がよくできたMADムービー的で、元ネタを知っている人が思わず語りたくなるネタやメタが詰まっていればこそだと、私は眺めていて思った。
 
結局それが、『ジークアクス』が(古い言葉で恐縮だが)“覇権アニメ”として君臨する大きな材料になった。現代の深夜アニメにおいてSNSのタイムラインを席巻するとは、現代の戦場において制空権や航空優勢を確保するのに等しいアドバンテージだ。
 
『ジークアクス』はそれを完璧にやってのけ、たとえばXのタイムラインの大きな割合を占拠した。その背景として、膨大かつ高密度なネタの群れ果たした役割はきっと大きい。
 
 

新作ガンダムとして、ミッションを完遂したのでは

 
まだ眠たい頭でこの3か月に起こったこと、それから劇場版のセールスのことを思うと、『ジークアクス』はその作風、そのネタ密度、その映像をとおしてSNSを完全に抑えて、いまどきのガンダムという作品が果たさなければならないミッションをほとんど完遂したのではないかと思う。
 
ここでいうミッションとは、

・話題になること
・知名度を稼ぐこと
・ガンプラを売ること
・旧来のファンを喜ばせること
・ご新規のファンを開拓すること
・ご新規のファンを過去のガンダム作品にもいざなうこと

 
あたりだが、歴代のガンダム系作品で、これらすべてを成し遂げた作品はあまりない。たとえば『ガンダムW』や『水星の魔女』はご新規のファンを開拓したが、過去のガンダム作品へとご新規さんをいざなう作品ではなかった。しかし『ジークアクス』はたぶんこれらすべてを達成したか、達成に近いところまでやってのけた。それは凄いアチーブメントだ。
 
本作が単体のアニメ作品としてどのぐらいよくできていると言えるのかは、これから振り返ってよく確認しなければならない、と思う。本作の楽しさはタイムラインのにぎわい、リアルタイムな祝祭性にも依拠していて、それを成立させるカラクリとしてMADムービー的な性質は大いに役立った。制作陣&運営陣のタイムラインのコントロールが素晴らしかったのも意識しないわけにはいかない。彼らはさまざまなネタや関係者コメントを効果的なタイミングで投入していた。そうした支援効果が全部剥がれ落ちた後に『ジークアクス』がどんな風に見えるのかは、この祝祭に包まれた眠たい頭ではうまく想像できない。
 
個人的には、もっとマチュとニャアンの物語に時間的リソースを振り分けて欲しかった。1クール12話の、極端に高い情報密度の作品だったから、マチュとニャアンの物語……というよりそれぞれの登場頻度は作中で飛び石のように点在していた*2。他の登場人物たちの話にしても、もっと見てみたかったという気持ちはぬぐえなかった。してみれば、私はこの作品のキャラクターたちのことが好きになっていたのだと思う。好きになったキャラクターたちの活躍をこんなに断片的にしか見れないこと、こんなに短い時間しか見れないことに私は寂しさを感じているように自覚した。
 
でも、それは仕方ないことだ。1クール12話のなかにMADムービー的な面白さを超高密度でぶっこんだ作品である以上、個々のキャラクターの出番はトレードオフ的に小さくなる。キャラクターそれぞれの物語や言動のわかりやすさについても同様だ。本作はキャラクターの言動についても最小限の時間で最大限の情報を提示するようにつくられていたから、その情報密度の高さゆえに、情報の冗長性はかなり低いように感じられた。
 
実際、放送直後のSNSで「わかりにくい」「わかりづらかった」といった声をときどき見かけたように思うし、私自身、自分がどこまで正確に話の筋を読解できているのか、自分のアニメリテラシーが心配だった(今でも心配だ)。ぼんやりと一回きり見ただけでは見落としてしまう情報密度だったのは、MADムービー的な各種のネタだけでなく、キャラクターそれぞれの振る舞いについても同様だった。
 
それほどまでに視聴者を信頼しきった作風だったと言えるかもしれない。賛否あるだろう。でも、この作品はそういう作風にすると決めたうえでつくられた作品だろうし、タイムラインを占拠した経緯からいって、そういう作風で大成功をおさめた作品として記憶されるだろう。
 
ともあれだ。
『ジークアクス』は賛否も含めてガンダム内外のファンに3か月間(1月から数えるなら約半年間)のカーニバルを提供し、興行として完璧に成功したわけだから、そのリアルタイムの盛り上がり、このお祭り的性格を抜きにして作品を云々するのはやっぱり変だと思う。実際、私はまだお祭りの熱気のなかにいる。だから眠い目をこすりながらこうしてアニメ感想文を書いている。
 
私が体験したのはタイムラインの賑わいも含めた、ほんのひとときの体験型エンタメとしての『ジークアクス』だった。だからこれは、「事件」や「出来事」だったのだと思う。
  
1クール12話であらゆる人を完璧に満足させ、あらゆる人の好みに適った作品にすることなどできない。そうした制約のなかで、プロが作った最高のガンダム二次創作的作品、最高のガンダムMADムービーとして『ジークアクス』を世に送り出し、こんなに驚きと熱気と期待に満ちた時間をシェアする機会をつくってくれたひとたちには感謝しかない。ありがとう、楽しかったです。もうしばらく、この熱気のなかでゆらゆらしていたいです。
 
 

 

*1:もちろんこれは「きれいなMAD」「公式MAD」とでも言うべきものだが

*2:途中からマチュとニャアンが別行動になっていたのも、この飛び石感を助長していたように思う

雨の夜、「はてな村」という星座を思い出す

 
ゆうべ、ふと星座が観たくなって空を見上げた。垂れ込めた雨雲に邪魔されてほとんど見えなかったけれども、一瞬、雲の合間に星がまたたいたのは印象深かった。
 
それにあてられて、『ぼっち・ざ・ろっく!』の「星座になれたら」という曲、それからインターネットで星座だった自分たちについて思い出した。
 

星座になれたら

星座になれたら

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  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
 
ボーカルの喜多郁代は「君と集まって星座になれたら」と歌う。星座を織りなす星々はずっと同じ場所にいるようで、実はそれぞれバラバラに動いている。天文学的な時間軸でみれば星座をなしているのは一瞬でしかない。それと同じように、ひとつのバンド・ひとつのコミュニティ・ひとつの集まりも、それぞれバラバラに動いている人間が、たまさか、同じ場所で巡り合って同じことをしているに過ぎない。バンドやコミュニティや集まりを星座にたとえる時、その寿命はあまりにも短く、儚い。
 
しかし喜多郁代は、その星座の儚さを悲観するより、そう理解したうえで星座になれたらと歌う。人が集まって星座をなす時、誰もが光り輝く一等星になれるわけではない。でも、人々が星座をなす時には一等星になれなくたって構わない。それでも一等星と一緒に星座をなすことはできようし、みんなでひとまとまりの星座になれるだろう。そしてひとまとまりの星座には、ひとまとまりの物語、出来事、思い出が伴う。
 
永遠でなくてもいい:ここでいう星座のような現象がかけがえないと知っている人なら、「星座になれたら」の歌詞はよくわかるだろうし、それが『ぼっち・ざ・ろっく!』という作品に登場して喜多郁代が歌い上げていることの意義もわかるだろうと思う。
 
 

かつて、ここには「はてな村」という星座があった

 
そうしたうえで我が身を振り返る。
 
私も、いろいろなコミュニティで「星座」の星のひとつだったと思う。いろいろな星座に混ぜていただいた。このブログを書いている「はてなブログ」「はてなダイアリー」にしてもそうだ。2005年頃から2015年頃あたりまで、はてなブログ(はてなダイアリー)には「はてな村」というローカルコミュニティが存在していた。それは、(株)はてな が公認するような性質のものではなく、コミュニティに属している人、コミュニティを観測している人だけが認識するような、そういうローカルコミュニティだった。
 

 
この「はてな村」という星座を観測し、同人誌にまとめた人がいる。まとめたのは、最近『不動産斜路の冒険』の連載が始まった漫画家の小島アジコさんで、まとめた同人誌は『はてな村奇譚』と呼ばれている。
 
この『はてな村奇譚』を2025年に見知らぬ人に見せても、ちんぷんかんぷんに違いない。そりゃそうだ、ローカルコミュニティの内輪の話・内輪ネタなんで誰も食わない。一方、このローカルコミュニティについて知っている人、そこで「はてな村」という星座の一端をなしていた人々にとっては、こんなに思い出深いアーカイブもまたないだろう。
 
「はてな村」というコミュニティは認識困難になり、そこで星座をなしていた人々も散り散りになってしまった。だからといって、コミュニティが存在しなかったわけではないし、小さな星から大きな星まで、みんなが織りなすことで「はてな村」という星座、そして共同幻想が成立していた。それはまさに喜多郁代が歌ったところの「消えていく残像」や「真夜中のプリズム」でもあったと思う。
 
同じことはtwitter(現X)のコミュニティにだって言える。twitterにおいて、コミュニティやクラスタは流動的で不安定だ。ある時期・ある時間を共有したはずの“同志”が、数年後にはいがみ合うことだってあるだろう。
 
あんなに一緒だったのに

あんなに一緒だったのに

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twitterを眺めていて、『あんなに一緒だったのに』を思い出すことが一体どれだけあっただろうか。今日の友は、明日の敵かもしれない。そんなtwitterのなかでコミュニティを幻視するのは、「はてな村」以上に難しいことだと思う。
 
それでも人々は、twitterですら星座をなす。さまざまなフォロワー数の人々が集まって、たった一瞬の願い事が、絵空事がオンラインに浮かび上がる。それを軽蔑する人もいるだろうが、私は貴重な現象だと思うし、そういう時間があったこと、そういう時間を共有してきた人たちに感謝している。そういう瞬間があって、そういう星座の一角に自分がいられたことも嬉しく思う。
 
数年後、十数年後にも私は当時のことを思い出すだろう。もちろん、2025年現在にtwitterやはてなブログをとおして繋がっている人々となしている星座についてもだ。そういう星座をなすことも、星座を記憶することも、星座を思い出すこともインターネットの醍醐味だと思う。願わくは、良い星座の夢を。
 
こんなことを私が書きたくなったのは、ゆうべ、梅雨前線に阻まれて夜空があまり見えなかったせいだろうし、私自身が、ブログでもtwitterでもそれ以外のインターネットコミュニティでも自分自身にひきこもってしまって、ひとりきりになってしまったと感じているからだろう。もっとインターネットしようぜ私、もっと星座をやっていこうぜ私、と今日は思う。たとえ、昔と同じ星座には二度と戻れなくてもだ。
 
 

ウンダーベルクソーダでおいしく節酒

 
少し前に、Xのタイムラインでzaikabouさんがホップ炭酸水を紹介しているのを見かけた。
 


  
これは私も飲んでみたことがある。ホップの風味が好きな人、ビール系列のアルコールが好きな人のノンアルコール飲み物としてはけっこういけているのかもしれない。これでアルコール量が少なくなるなら、それはそれでいいんじゃないだろうか
 
 

うちはウンダーベルクを数摘ソーダに垂らしています

 
私も週に2度は休肝日があって、これは極力守りたいと思っている。でも、休肝予定日にどうしてもアルコールっぽいものが欲しくなってしまうことがある。そういう時、いろんなノンアルコール飲料を飲むのもいいんだけど、もともと無糖ソーダが好きな私はソーダを飲むことが多い。
 

 
定番ですがウィルキンソンソーダが家にあれば便利。炭酸だし、糖分も入っていないし。これで済んでしまうことが大半だ。
 
でも、たまーに「もう少しアルコールっぽい、何か飲んでやったぞ感がある飲み物が欲しい」と思うことがある。そんな時、最近お出ましいただいているのが、ウンダーベルクだ。
  
ウンダーベルクはドイツで愛飲されている薬草系リキュールで、注射のアンプルみたいな小瓶に小分けされて売られている。ドイツでは食後酒として飲まれ、胃腸の働きを助けるとされている。この手の薬草酒にはありがちな用法だし、薬草系リキュールが好きな人なら、そういう飲み方に抵抗感はないはず。
 
で、我が家では、このウンダーベルクをソーダに数滴垂らした「ウンダーベルクソーダ」を準ノンアルコールソーダとしてときどき飲んでいる。
 
作り方は簡単で、グラスにウンダーベルクを数滴垂らし、そこにソーダを注ぎ込むだけだ。すると、薬草系リキュール独特のスースーとした風味とビターな雰囲気の乗り移ったソーダができあがり、それでいてアルコール濃度は限りなくゼロに近い。
 
 

いつまでもなくならないから、コスパは非常に高い

 
この、ウンダーベルクソーダはそれ自体がとても楽しみな飲み物で、純粋休肝日にはならないけれども準休肝日の飲み物としては優れている。ほかの薬草系リキュール──カンパリやシャルドリューズやフェルネット・ブランカなど──も試してみたけれども、けっきょくこれが一番良かった。数滴垂らしただけで、風味がしっかりソーダに乗りうつる点が向いているのだろうと思う。
 
それから小瓶の容量が20mlなのもいい。
 
日本でリキュールを購入する場合、ほとんどの品はボトルが大きすぎる。数滴垂らす程度の飲み方をするのに、大きなボトルは向いていない。対して、ウンダーベルクはボトル1本20mlだから、取り回しという点でも保存という点でも価格という点でも優れている。お店で買うなら3本セットで800円ぐらいだろうか。
 
にもかかわらず、20mlのボトルを使い切るにもものすごい時間がかかる。
ドボドボと注いでしまえば話が変わってくるかもしれないが、数滴程度をソーダに混ぜるだけなら20mlのボトルでも延々と使い続けられる。毎週つくったとしても余裕で半年はもつだろう。うちでは2年かかってようやく最初のボトルがなくなろうとしている。だからコストパフォーマンスの面でも大抵のノンアルコール飲料と勝負できる。
 
でもって、本物のリキュールの味がするんですよ、これ。なにしろ原液が濃いから、数滴程度でもきっちりリキュールの味がする。工業生産されたよくわかんない甘味料や香料で誤魔化しているのでなく、ヨーロッパで作られた正真正銘の薬草系リキュールの風味が楽しめるんですよ。この点では、そこらに売っている甘ったるいノンアルコール飲料とは顔つきが違います。薬草系リキュールが好きな人なら、きっと喜んでもらえるはず。
 
アルコール飲料は身体に悪いと言われているし、それはそのとおりだろう。でも私は長らくおいしいアルコール飲料と付き合い続けてきたし、随分と助けられたと感じている。私には夢がある。できるだけ旨い酒と、できるだけ長く、できるだけ楽しく付き合いたい、という夢だ。この夢をかなえるには節制が必要で、休肝日をもうけたり節酒したりする習慣が必要だと思っている。このウンダーベルクを垂らしたソーダは、ちゃんとしたリキュールの旨さを楽しみながらもほとんどアルコールを控えられる点で優れているので、薬草系リキュールが好きな人におすすめです。
 
 

キツくなっていく近代人の条件と、その近代人から落伍しそうな私自身

 
 
blog.tinect.jp
 
リンク先では、近代という時代、近代という体制の前提条件が崩れ始めている2020年代について、中世という時代とその前提条件を例に挙げながら書いた。20世紀後半にはポストモダン、ポスト近代という言葉も登場したけれども、実際にはごく最近まで欧米列強が主導する近代社会と近代の体制は世界じゅうに浸透しつづけ、支配階級→中間階級→庶民階級へとトリクルダウンした。と同時に、近代社会の内実も、たとえば普通選挙制度、女性参政権、ポストコロニアリズム、マイノリティの権利擁護といったかたちで洗練・進化し続けてきた。啓蒙思想と科学的思考の産物であるテクノロジーの進歩はAIをも実用化させている。
 
だから、ポストモダンやポスト近代より、後期近代とかハイモダニティって言葉のほうが似あうよね、ということも文中では触れた。
 
だけど、そのあたりがとうとうほころび始めていない?……と問いたいわけだ。欧米列強のプレゼンスが低下し、進歩と洗練をきわめた近代社会が、その進歩と洗練ゆえにハードルの高い社会になってしまっていることを思えば、それは不思議でもなんでもない。世間と世間の人々は、アインシュタインやエマニュエル・カントの水準では生きられないのである。
 
自分のブログでも試し書きしてみたいテーマなので、今度は「私たち自身がどれだけ近代人として(または現代人として)妥当か」に重心を移して書いてみたい。
 
 

そもそも近代人ってどんな人?

 
さっきから近代だの近代人だのと連呼しているが、それらが何なのか確認しておきたい。まず、近代という時代の特徴については上掲リンク先のものをそのまま貼り付けておく。
 
近代というからには、 

・資本主義に基づく生産体制や市場経済、資本家と労働者
・科学的手法に基づいた世界の理解
・自由意志と理性を軸とした進歩主義と啓蒙主義
・社会契約説が成立可能な中央集権国家の誕生と官僚制
・身分からの解放、能力主義に基づく職業選択
・移動の自由。移民や移住。村社会から契約社会へ
・個人の心理においてはプライバシー感覚や自己アイデンティティの誕生

が揃っているべきで、実際、産業革命期以降の欧米列強では多かれ少なかれこれらに即した社会体制、および個人がつくられてきた。個人主義的で、科学や学問を宗教や迷信よりも信頼し、資本主義の恩恵を受けながら上昇志向をもって働く勤勉な個人……などはすこぶる近代的、近代人的といえるだろう。
 
そうした近代的な社会体制、および近代人がだんだん増えていったのが18世紀から20世紀にかけてだ。日本でも、明治維新、大正デモクラシー、戦後の高度経済成長期を経てこうした感覚はトリクルダウンしていった。
 
昭和時代後半に言われた、いわゆる“一億総中流”というフレーズも、一部の人が言うほど幻想ではないと私は理解している。“一億総中流”を、全員が富貴で真に格差がない時代と解釈するなら確かにそれは幻想だった。しかし、個人主義的で、勤勉で、科学や学問を宗教や迷信よりも信頼し、資本主義の恩恵を受けながら上昇志向に動機づけられて働く勤勉な個人、という風にみるなら、その精神性は戦後~昭和の終わりまでの間に相当広まったと言っていい。また、そうでなければ未成年までもがブランド品を身に付けるようなバブル景気~直後のムーブメントや、これほどの大学進学率の上昇は起こり得なかっただろう*1
 
で、ここからが本題。
「近代人」とひとことでいうけれども、近代人をやるための条件って19世紀と20世紀と21世紀では違ってないだろうか。または、まっとうな近代人とみなされるためにクリアしなければならないハードルが高くなっていないだろうか。
 
18~19世紀に近代人をやるための条件は、ハードといえばハードだったが楽勝といえば楽勝だった。この時代、経済的にも知識的にも完璧に近代人らしくいられるのはブルジョワ階級やそれに追従する中間階級(プチブル階級)ぐらいまでだった。プライベートな感覚やプライバシー感覚、社会契約の論理に基づいた(商慣行も含めた)ライフスタイル、職業選択の自由、投票行動、カフェでの議論、等々をやってのけるためのハードルはそれなり高かった。他方、庶民階級においては、あるていど前近代人のままでも生きていくことができた。
 
18~19世紀の近代人は、21世紀の近代人に比べていい加減な部分もたくさんあった。児童遺棄や虐待はありふれていたし、男尊女卑がまかり通っていた。女性をモノのように扱う男性も、モノのように扱われる女性も、いい加減につくった子どもをいい加減に扱っていい加減に死なせる親も、それらが理由で近代人失格とみられることはまだ少ない。社会契約の遵守という点でも、そこから逸脱しているはずの決闘や喧嘩がこの時代にはたくさん残っていた。
 
21世紀の、より進んだ人権感覚や功利主義的感覚からすればNGであるはずの多くの行動がNGではなかったという点では、近代人合格とみなされるためのハードルは低かったと言える。
 
啓蒙や進歩主義についてもそれが言える。
18~19世紀において啓蒙や進歩主義に乗るための条件は、そこまで厳しくなかった。ぶっちゃけ、新聞が読めれば充分に合格だったのではないだろうか。そのかわり、ほとんどの国々は識字率という問題を抱え、学校教育に多くのことが期待された。
 
学校教育は近代の啓蒙や進歩主義を支える重要なインフラだ。日本の場合、明治5年に学制が始まり、20世紀初頭には義務教育就学率は90%を上回る水準に到達している。当時の新聞は今日のクオリティ・ペーパーのようには権威化されておらず、結構いい加減だったとは言えるが、SNSに比べれば与しやすいメディアだった。テレビもそうだったかもしれない。新聞を見て、カフェや床屋でああだこうだと議論し、そこそこ働いて、進歩し続ける社会に乗っかっていれば近代人の面構えでいられる。
 
科学技術の相次ぐ進歩とその恩恵も後押ししてくれた。たとえば20世紀の大阪万博の頃、啓蒙や進歩主義はそれを先導する科学者や哲学者や芸術家だけのものではなかった。庶民階級もテレビや自動車の普及、新幹線の登場といったかたちでそれらの恩恵に浴したし、自国の科学者や哲学者や芸術家が国際的に活躍するたび、自分がそれを達成したわけではなくても誇らしい気持ちになって啓蒙や進歩主義を寿いでいられた。啓蒙や進歩主義を信仰していやすい土壌があったと言える。
 
ところが2020年代に近代人らしく振る舞うって、もっと難しいんですよね。
 
今では児童遺棄や虐待は論外、男尊女卑も論外だ。女性をモノのように扱う男性も、モノのように扱われる女性も、もはや近代人ではない。そして近代人は子どもをいい加減につくってはいけない。近代人は配偶・挙児・養育に対し、戦略的かつ主体的な態度をとるものである。そして21世紀の日本人の大半は、実際、そのような態度をとれている。人権感覚や功利主義的感覚も近代初期よりもずっとアップデートされ、医療の進歩やリスク回避のパラダイムは、たとえば受動喫煙を功利主義に抵触する行為に変貌させた。ひとことで近代人と言っても、守らなければならないことは18~19世紀と比べて雲泥の差である。
 
啓蒙や進歩主義についても事態は変わった。
高学歴化が進み、情報産業が進歩した結果、いろいろと難しくなった。高学歴であるためのハードルが高い、情報リテラシーを習得するのが難しい、ということだけではない。高度に専門分化が進んだ社会では、それぞれの分野の専門家といえども、他分野についてはなかなか見当がつかなくなっている。建前としては、科学的思考をよく身に付けた専門家はその思考様式で他の分野についても科学的に考えられるはずだが、SNSを見ればわかるように、実際は簡単ではない。
 
今、テクノロジーの進歩は、どこまで庶民階級の生活を向上させているだろうか? あるいは、向上させているという実感を伴うだろうか? あんまり伴わないんじゃないかと思う。スマホやSNSが普及して便利になった部分は確かにある。でも、それらが暮らしを豊かにしたとか、生活水準を向上させたとは、ちょっと言えない。テレビや自動車が普及した頃に比べ、テクノロジーの進歩は庶民階級の生活向上に直結しなくなった。
 
実際はたぶん逆だ。テクノロジーの進歩はスキルフルな熟練工やホワイトカラーを要らなくする方向に働いていて、中間階級の没落を招こうとしている。そして、進歩についていけない人を無慈悲に置いていく際には「自己責任」という言葉をあてがって憚らない。
 
SNSは近代人らしくメディアと対峙することを困難にし、むしろ、前近代人っぽくメディアと向き合う素地を増やした。新聞やテレビといった受動的にみているだけのメディアに比べ、双方向的なメディアで情報について判断することには根源的な難しさが伴うことは、たいていの人に認識すらされていない。そうしたなかで、誰もが信じたいものを信じる、そんな非-近代的な態度がまかり通るようになっている。
 
新聞やテレビの時代にはおおむね近代的な視聴者と言って良かった人も、テクノロジーも時代も進歩した2020年代に同じく近代的な視聴者と言って構わないのかは、かなり怪しい。それは当人自身の問題だけでなく、テクノロジーや時代の進歩によっても難しくなっているってことは、もっと周知され、考察の対象にしなければならないと思う。
 
これら全部をひっくるめて、「18~19世紀に近代人らしく振る舞うのと、21世紀に近代人らしく振る舞うのでは難易度がそもそも違っていて、近代人として期待される振る舞いが難しくなってきている」というのが私の意見だ。こんなに複雑になって、こんなに判断力やリテラシーが求められるようになって、こんなに守るべき約束事が増えた社会のなかで近代人をやるのは一苦労だ。それでいて啓蒙や進歩主義の恩恵にあずかれるメリットが体感できず、報われないとしたら、「がんばって近代人をやるぞ」という気持ちになれなっこない。
 
誰かに強いられて近代人を演じなければならない場合も、不承不承に、それか面従腹背といった気持ちでやる──そういう人が増えてくるのが自然な成り行きじゃないだろうか。
 
 
 

精神病院などをとおして近代人をつくる試みとその挫折

 
ところで近代初期には、近代人失格の人間を近代人につくりなおす試みがあった。
 

 
近代が始まった頃、(当時からみても)近代にふさわしくない行動傾向の人々がまとめて巨大精神病院に収容されていた時代がある。それはプロテスタンティズムと資本主義が結託しながら駆動していた低地諸国で始まり、やがて欧米列強へと広がっていった。
 

『ブルジョワ階級が主導権を握った地域では魔女狩りが終息。悪魔憑きもなくなり、道徳的に堕落した者がみられるだけになる。カルヴァニズムに基づくなら、彼らは堕落しないために強制的に労働させなければならない。』
『オランダのシドナム、フランスのピネル、ドイツのクリージンガーといった近代精神医学の父たちは、その国の市民革命にかなり関わり、なおかつ穏健派に属していた』
『精神医学・精神医療の推進者たちは、宗教的には新教やユニテリアンだった』
 
中井久夫『西欧精神医学背景史』より

 
中井久夫『西欧精神医学背景史』やミシェル・フーコー『監獄の誕生』には、18世紀にふさわしくない浮浪者や精神病者をまとめて収容する大きな精神病院の話が出てくる。その精神病院に期待されたのは、そうした近代にふさわしくない人々を労働者としてつくりなおすことでもあった。この時代には、精神病院に収容されている人を屋外で労働させる姿をみることがあったと記され、たとえば道路工事などにも駆り出されていたという。
 
でも、そうした試みは失敗していく。19世紀になると、公害の少ない環境を求めて郊外に移動するブームが精神病院にも波及し、大きな精神病院が郊外につくられるようになった。と同時に、進歩し続ける社会環境や労働の質的変化に被収容者たちはついていけなくなり、病院外で仕事をすることもなくなっていき、精神病院はより閉ざされたものに変わっていく。*2
 
1960年代になると反精神医学運動が起こり、アメリカ等では大規模精神病院が閉鎖されていく。じゃ、それで精神病者は自由になったかといったら、彼らの行き先は刑務所か、路上か、法的規制のいい加減な収容施設でしかなかった。統計学的パラダイムに基づいてDSMなどのアメリカ精神医学が躍進し、向精神薬分野でも大きな進歩がみられたが、収容されっぱなしだった患者の病状を根本的に改善させるほどの力は持っていなかった。
 
日本では、精神病院への収容の名残りが大きな病床数のうちに残っているが、新規入院は短期間にするよう制度改革が行われ、病床数は減りつつある。精神疾患罹患者や精神障碍者に働いてもらうための制度も充実し、さまざまなリワークプログラムや障碍者雇用システムが運用されている。そうしたものをみる時、精神医療をとおして近代的な労働者を彫琢していく仕組みが生まれ変わって蘇った、と私は感じる。
 
しかし、それらが完璧ではないのもまた事実だ。障碍者雇用の人々とフルタイム雇用の正社員の間には壁が残されている。前者の人がいくら頑張っても、後者の人に収入面で追い付き追い越すことはとても難しい。
 
それに、近代的な労働者に求められるのは純粋な仕事能力だけではない。近代的な労働者には「その時代にふさわしい安定性を伴って仕事が続けられること」や「その時代にふさわしい高コンプライアンス環境で仕事が続けられること」が求められる。私の記憶では、20世紀後半の労働者には現在ほどそれらを求められていなかったはずである。しかし、近代がアップデートされた2020年代においては、それが正規労働者の必要条件になっていて、そこができないせいでフルタイム雇用の正社員になれずにいる人をしばしば見かける。
 
近代という時代の影法師のように生まれた精神病院と、そこで近代人をリメイクする試みは、まだまだ道半ばである。もちろん現場の関係者はよくやっているし、個々の患者さんは最善を尽くしている。それが患者さんの社会参加や社会貢献に寄与している点も見逃せない。とはいえ、こうした就労支援事業をとおしてもなお、被援助者を(たとえば)フルタイム雇用の正社員といった立場にまで持っていくのは簡単ではない状態が続いている。
 
 

それから判断力の問題、主体性の問題

 
それから判断力の問題、主体性の問題がある。
先月私は、AIがどんどん利口になっていった先に、人間が判断や主体性をAIに委ねるようになった先にある人文社会科学的危機について記した。
 
AIに判断や主体性を委ねていると、自由も民主主義も滅ぶだろう - シロクマの屑籠
 
もし、近未来のAIが人間の判断とその価値を毀損するとしたら、それは自由意志と理性を軸とした進歩主義と啓蒙主義の差しさわりにもなる。一部のエンジニアや科学者だけが判断の主体になっていればいいわけではない。できるだけ多くの人間が判断の主体でなければならないはずだが、もっともっと高性能のAIがもっともっと世の中に溢れれば、実際には人間が判断する頻度とその値打ちはだんだん下がっていくだろう。
 
理想論としては、AIも含めたテクノロジーの進歩にあわせて人間自身の判断力も高まっていく、リテラシーも高まっていくのがこれからの近代社会のあるべき姿だろう。21世紀の近代人がテクノロジーの進歩にふさわしいかたちでますます賢くなってくれるなら、19世紀の近代人、新聞を読み電信を受け取っていた『ヴィクトリア朝時代のインターネット』の頃の近代人と同等の存在でいられるはずだ。
 

 
しかし、21世紀の情報テクノロジーは多くの人を振り落とす勢いで進展している。前にも書いたが、google検索を適切に使える人はそれほど多くなかった。SNSを適切に使える人もそれほど多くなかった。要領を得ないgoogle検索、要領を得ないSNSの使い方はどこにでもあふれている。
 
現在はAIが来ている。ひとことで「AIを使っています」と言っても、AIをうまく使っているのか、AIをまずく使っているのか、AIに使われたり乗せられたりしているのかを判断するのは簡単ではないと思う。AIが人間にとっての『ドラえもん』たり得るとは、私はまったく期待していない。かりに、ドラえもん風の汎用支援ロボット的なAIがつくられたら、そこにはアーキテクチャの設計者やビッグテックの思惑が埋め込まれているだろう。
 
そうでなくても、高性能AIを使いこなすとは高性能AIにいろいろとやってもらう以上にやってもらったこと・出力してもらったことを人間の側が検証したり評価したりすること、検証できたり評価できたりすることでなければならない、はずだ。
 
でも、それはとても難しいに違いない。今以上に高性能なAIが、PCやスマホだけでなく、学校教室でも会社の給湯室でもターミナル駅の待合室でもプライベートな寝室でも何か言ってくるようになった時、それらに包囲されてしまうのは簡単でも、それらの主人として振る舞い続けるのは大変だ。だが、数年~数十年後の社会で自由意志と理性を軸とした近代人をやっていくためには、私たちはAIの家畜ではなくAIの主人であり続けなければならない。
 
「AIの家畜になりまーす」っていうなら話は早い。高性能なAIになにもかもが覆われた世界でAIの家畜になってしまうのは本当に簡単なことだろう。でもそのとき、AIの家畜となったそれを近代人と呼ぶことは可能なのか? 私は呼びたくないんだけど。
  
b.hatena.ne.jp
 
冒頭リンク先に、こしあんさんが上掲のようなはてなブックマークをつけていらしたけど、マジかよ、と私は思った。「人間心理に与える影響を無視してもっともっと合理性の追求をする」とかスーパーマンすぎませんか。さっきも書いたように、理論上、近代人として私たちはもっともっと合理的に、もっともっと理性的に、もっともっと主体的にならなければならない、というのは理解できます。こしあんさんがおっしゃりたいのはそういうことかもしれない。
 
だけど、たとえば我が身を振り返った時、私が合理的でいられる程度、理性的でいられる程度、主体的でいられる程度は2025年の現在でもギリギリだと感じる。言い換えれば、私がこの時代にふさわしい近代人として十全な主体でいられる程度ももうギリギリで、自分がヘトヘトになっていると私は自分自身について思う。
 
他のみなさんはどうですか。2025年にふさわしい近代人余裕ですか。もっともっと合理的で理性的で主体的でいられそうですか。テクノロジーの進歩や人文社会科学的進歩と歩調をあわせ、ますますハードルの高くなっていくであろう近代人の条件をクリアできますか。できる人なら、確かに「もっと合理的になるべきだ」の一言で済むのだろうけど。
 
でも、それって選ばれた人にしかできないことじゃない? そしてますますテクノロジーや人文社会科学的進歩が進んだら、もっともっとできなくなる人が増えるんじゃないの? 少なくとも私はもうあと少しで近代人仕草ができなくなって近代人失格とみなされるだろうなといつも怯えている。社会のアップデートや諸進歩に、自分がついていけなくなる日がすぐそこまで迫っていると懸念している。
  
そうした怯えや懸念が、私をして『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』という本を書かせたのだと思う。私も含めた世間の人間が、みんなアインシュタインやエマニュエル・カントの水準で生きているなら、「もっと合理的になるべきだ」「まだまだ合理性の追求が足りてないだけ」と言えるかもしれない。でも、本当はそうじゃないと私は知っているし、控えめにいっても私自身はアインシュタインやエマニュエル・カントのようには生きられない。
 
 
すっかり長くなってしまったので終わるけど、近代のイノベーターたちは、ある部分において人間にやさしく、人間が人間らしくあれるビジョンを描いたと思うし、その恩恵のうちに私たちは暮らしている。彼らは人類社会の要石だった。でもそれはそれとして、偉大な彼らの思想を徹底させ、彼らの思想を突き詰め続けた結果としてできあがった現在の近代人の条件はキツキツで、アップデートを繰り返してきた近代社会自身も難しく、なんだかめちゃくちゃだ。
 
なんとかしてくれ、と思うけど、偉人たちが2020年代に蘇って考えてくれる見込みはない。そうじゃない。私たちがこれまでのことを踏まえてこれからのことを考えていかなければならないのだと思う。そして未来を展望しなければならない。それをやるのは、墓の下の偉人の仕事ではなく今を生きる私たちの使命だ。それこそ、AIになんて任せておけない。
 
 

*1:上昇志向は、経済資本だけに働くものではない点に注意。文化資本、学歴資本に関しても働き、より自分を上昇させる、または子弟を上昇させようという動機が働く

*2:ちなみに、精神医学は重症病院の精神医学と軽症外来患者の開業医精神医学に割れる感じになり、前者からはクレペリンらが、後者からはフロイトらが輩出されることになった。

カラーがマチュを商館にくべた件について

 
 
 
2025年6月4日未明に放送された『機動戦士ガンダムジークアクス 第九話 シャロンの薔薇』は完璧な興行だった。私のタイムラインはたちまちガンダムおじさんたちのしゃべる場となり、いつものようにタイムラインがガンダムネタにジャックされた。地球に降下したマチュの動向についてもわかったし、前から気になっていた“シャロンの薔薇”なるものについても大事なネタバレがあった。
 
それより、タイトルの件について私は個人的な感想を持った。その感想を少し書きたい。
 
この文章のタイトルを「カラーがマチュを商館にくべた件について」と書いた。もちろん正体は「カラーがマチュを娼館にくべた件について」である。第九話でマチュとララァが娼館に登場したこと、というより、その娼館でマチュがどのように描かれたのかについて、気に入らなかった。「気に入らない」と書きたくなったから、気に入らないと書く。
 
私はスタジオカラーの制作陣の方々が、マチュとララァを娼館で描いたこと、いや……マチュをあんな風に娼館にて描いたことが嫌いだと感じた。ひとつの比喩になるが、たとえば制作したのが吾峠呼世晴だったら、マチュをあんな風に娼館で描かなかった気がする。
 
こんなことをわざわざ断っておかなければならない現在のインターネットは窮屈きわまりないがそれでも書いておく:私がひとつの作品のひとつのシーンが嫌いだと書いたからといって、私がその作品の全体を嫌いになるわけではないし、作品の客観的・世間的評価が下がるべきだと私が思っているわけでもない。
 
全体としてみた『機動戦士ガンダムジークアクス』は大好きな作品だし、こんな作品を世の中に送り出してくださっているカラーの制作陣の方々には感謝の念しかない。そして第九話で娼館が描かれたことがおかしいとも思わないし、ララァ・スンのいきさつからいって自然なことですらある。娼館が描かれたこと、それ自体がこの作品の客観的・世間的評価をだだ下がりさせるとも考えていない。
 
それから、毎週の興行という観点から見た現在の『機動戦士ガンダムジークアクス』は大成功している風にみえるし、私はその興行の渦中で楽しいとも感じている。毎週の興行、という観点からみても娼館が描かれたこと、娼館を描くと制作陣の方々が決意したことには一種の必然性や合理性があるはずで、きっと、考え抜いたうえでそう決定したのだろうとも思う。
 
だから、マチュとララァがあのように娼館にて登場し、描かれたことを批判することはできない。それが悪いことだったとか、いけないことだったなどとも決して言えない。
 
そうじゃない。
ただ私は気に入らなかったので気に入りませんでした、と書いてみたかった。どよめく興行の渦中において、マチュがララァと娼館で出会ってあのように描かれた──きっと必然性や合理性に基づいて描かれた──ことは私には「マチュが娼館にくべられた」という風にみえた。もちろんその判断はきっと正解で、その、くべられた様子は好評の様子だった。そういうのを私は、見たくなかったんだなと昨日の段階でぼんやりと思い、今日になってはっきりそう思ったので、備忘録としてこう書いておいた。おわり。
 
 
(本文はここまでです。以下の文章は、常連さん向けの、内輪の蛇足です)

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