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リンク先では、近代という時代、近代という体制の前提条件が崩れ始めている2020年代について、中世という時代とその前提条件を例に挙げながら書いた。20世紀後半にはポストモダン、ポスト近代という言葉も登場したけれども、実際にはごく最近まで欧米列強が主導する近代社会と近代の体制は世界じゅうに浸透しつづけ、支配階級→中間階級→庶民階級へとトリクルダウンした。と同時に、近代社会の内実も、たとえば普通選挙制度、女性参政権、ポストコロニアリズム、マイノリティの権利擁護といったかたちで洗練・進化し続けてきた。啓蒙思想と科学的思考の産物であるテクノロジーの進歩はAIをも実用化させている。
だから、ポストモダンやポスト近代より、後期近代とかハイモダニティって言葉のほうが似あうよね、ということも文中では触れた。
だけど、そのあたりがとうとうほころび始めていない?……と問いたいわけだ。欧米列強のプレゼンスが低下し、進歩と洗練をきわめた近代社会が、その進歩と洗練ゆえにハードルの高い社会になってしまっていることを思えば、それは不思議でもなんでもない。世間と世間の人々は、アインシュタインやエマニュエル・カントの水準では生きられないのである。
自分のブログでも試し書きしてみたいテーマなので、今度は「私たち自身がどれだけ近代人として(または現代人として)妥当か」に重心を移して書いてみたい。
そもそも近代人ってどんな人?
さっきから近代だの近代人だのと連呼しているが、それらが何なのか確認しておきたい。まず、近代という時代の特徴については上掲リンク先のものをそのまま貼り付けておく。
近代というからには、
・資本主義に基づく生産体制や市場経済、資本家と労働者
・科学的手法に基づいた世界の理解
・自由意志と理性を軸とした進歩主義と啓蒙主義
・社会契約説が成立可能な中央集権国家の誕生と官僚制
・身分からの解放、能力主義に基づく職業選択
・移動の自由。移民や移住。村社会から契約社会へ
・個人の心理においてはプライバシー感覚や自己アイデンティティの誕生
が揃っているべきで、実際、産業革命期以降の欧米列強では多かれ少なかれこれらに即した社会体制、および個人がつくられてきた。個人主義的で、科学や学問を宗教や迷信よりも信頼し、資本主義の恩恵を受けながら上昇志向をもって働く勤勉な個人……などはすこぶる近代的、近代人的といえるだろう。
そうした近代的な社会体制、および近代人がだんだん増えていったのが18世紀から20世紀にかけてだ。日本でも、明治維新、大正デモクラシー、戦後の高度経済成長期を経てこうした感覚はトリクルダウンしていった。
昭和時代後半に言われた、いわゆる“一億総中流”というフレーズも、一部の人が言うほど幻想ではないと私は理解している。“一億総中流”を、全員が富貴で真に格差がない時代と解釈するなら確かにそれは幻想だった。しかし、個人主義的で、勤勉で、科学や学問を宗教や迷信よりも信頼し、資本主義の恩恵を受けながら上昇志向に動機づけられて働く勤勉な個人、という風にみるなら、その精神性は戦後~昭和の終わりまでの間に相当広まったと言っていい。また、そうでなければ未成年までもがブランド品を身に付けるようなバブル景気~直後のムーブメントや、これほどの大学進学率の上昇は起こり得なかっただろう*1。
で、ここからが本題。
「近代人」とひとことでいうけれども、近代人をやるための条件って19世紀と20世紀と21世紀では違ってないだろうか。または、まっとうな近代人とみなされるためにクリアしなければならないハードルが高くなっていないだろうか。
18~19世紀に近代人をやるための条件は、ハードといえばハードだったが楽勝といえば楽勝だった。この時代、経済的にも知識的にも完璧に近代人らしくいられるのはブルジョワ階級やそれに追従する中間階級(プチブル階級)ぐらいまでだった。プライベートな感覚やプライバシー感覚、社会契約の論理に基づいた(商慣行も含めた)ライフスタイル、職業選択の自由、投票行動、カフェでの議論、等々をやってのけるためのハードルはそれなり高かった。他方、庶民階級においては、あるていど前近代人のままでも生きていくことができた。
18~19世紀の近代人は、21世紀の近代人に比べていい加減な部分もたくさんあった。児童遺棄や虐待はありふれていたし、男尊女卑がまかり通っていた。女性をモノのように扱う男性も、モノのように扱われる女性も、いい加減につくった子どもをいい加減に扱っていい加減に死なせる親も、それらが理由で近代人失格とみられることはまだ少ない。社会契約の遵守という点でも、そこから逸脱しているはずの決闘や喧嘩がこの時代にはたくさん残っていた。
21世紀の、より進んだ人権感覚や功利主義的感覚からすればNGであるはずの多くの行動がNGではなかったという点では、近代人合格とみなされるためのハードルは低かったと言える。
啓蒙や進歩主義についてもそれが言える。
18~19世紀において啓蒙や進歩主義に乗るための条件は、そこまで厳しくなかった。ぶっちゃけ、新聞が読めれば充分に合格だったのではないだろうか。そのかわり、ほとんどの国々は識字率という問題を抱え、学校教育に多くのことが期待された。
学校教育は近代の啓蒙や進歩主義を支える重要なインフラだ。日本の場合、明治5年に学制が始まり、20世紀初頭には義務教育就学率は90%を上回る水準に到達している。当時の新聞は今日のクオリティ・ペーパーのようには権威化されておらず、結構いい加減だったとは言えるが、SNSに比べれば与しやすいメディアだった。テレビもそうだったかもしれない。新聞を見て、カフェや床屋でああだこうだと議論し、そこそこ働いて、進歩し続ける社会に乗っかっていれば近代人の面構えでいられる。
科学技術の相次ぐ進歩とその恩恵も後押ししてくれた。たとえば20世紀の大阪万博の頃、啓蒙や進歩主義はそれを先導する科学者や哲学者や芸術家だけのものではなかった。庶民階級もテレビや自動車の普及、新幹線の登場といったかたちでそれらの恩恵に浴したし、自国の科学者や哲学者や芸術家が国際的に活躍するたび、自分がそれを達成したわけではなくても誇らしい気持ちになって啓蒙や進歩主義を寿いでいられた。啓蒙や進歩主義を信仰していやすい土壌があったと言える。
ところが2020年代に近代人らしく振る舞うって、もっと難しいんですよね。
今では児童遺棄や虐待は論外、男尊女卑も論外だ。女性をモノのように扱う男性も、モノのように扱われる女性も、もはや近代人ではない。そして近代人は子どもをいい加減につくってはいけない。近代人は配偶・挙児・養育に対し、戦略的かつ主体的な態度をとるものである。そして21世紀の日本人の大半は、実際、そのような態度をとれている。人権感覚や功利主義的感覚も近代初期よりもずっとアップデートされ、医療の進歩やリスク回避のパラダイムは、たとえば受動喫煙を功利主義に抵触する行為に変貌させた。ひとことで近代人と言っても、守らなければならないことは18~19世紀と比べて雲泥の差である。
啓蒙や進歩主義についても事態は変わった。
高学歴化が進み、情報産業が進歩した結果、いろいろと難しくなった。高学歴であるためのハードルが高い、情報リテラシーを習得するのが難しい、ということだけではない。高度に専門分化が進んだ社会では、それぞれの分野の専門家といえども、他分野についてはなかなか見当がつかなくなっている。建前としては、科学的思考をよく身に付けた専門家はその思考様式で他の分野についても科学的に考えられるはずだが、SNSを見ればわかるように、実際は簡単ではない。
今、テクノロジーの進歩は、どこまで庶民階級の生活を向上させているだろうか? あるいは、向上させているという実感を伴うだろうか? あんまり伴わないんじゃないかと思う。スマホやSNSが普及して便利になった部分は確かにある。でも、それらが暮らしを豊かにしたとか、生活水準を向上させたとは、ちょっと言えない。テレビや自動車が普及した頃に比べ、テクノロジーの進歩は庶民階級の生活向上に直結しなくなった。
実際はたぶん逆だ。テクノロジーの進歩はスキルフルな熟練工やホワイトカラーを要らなくする方向に働いていて、中間階級の没落を招こうとしている。そして、進歩についていけない人を無慈悲に置いていく際には「自己責任」という言葉をあてがって憚らない。
SNSは近代人らしくメディアと対峙することを困難にし、むしろ、前近代人っぽくメディアと向き合う素地を増やした。新聞やテレビといった受動的にみているだけのメディアに比べ、双方向的なメディアで情報について判断することには根源的な難しさが伴うことは、たいていの人に認識すらされていない。そうしたなかで、誰もが信じたいものを信じる、そんな非-近代的な態度がまかり通るようになっている。
新聞やテレビの時代にはおおむね近代的な視聴者と言って良かった人も、テクノロジーも時代も進歩した2020年代に同じく近代的な視聴者と言って構わないのかは、かなり怪しい。それは当人自身の問題だけでなく、テクノロジーや時代の進歩によっても難しくなっているってことは、もっと周知され、考察の対象にしなければならないと思う。
これら全部をひっくるめて、「18~19世紀に近代人らしく振る舞うのと、21世紀に近代人らしく振る舞うのでは難易度がそもそも違っていて、近代人として期待される振る舞いが難しくなってきている」というのが私の意見だ。こんなに複雑になって、こんなに判断力やリテラシーが求められるようになって、こんなに守るべき約束事が増えた社会のなかで近代人をやるのは一苦労だ。それでいて啓蒙や進歩主義の恩恵にあずかれるメリットが体感できず、報われないとしたら、「がんばって近代人をやるぞ」という気持ちになれなっこない。
誰かに強いられて近代人を演じなければならない場合も、不承不承に、それか面従腹背といった気持ちでやる──そういう人が増えてくるのが自然な成り行きじゃないだろうか。
精神病院などをとおして近代人をつくる試みとその挫折
ところで近代初期には、近代人失格の人間を近代人につくりなおす試みがあった。
近代が始まった頃、(当時からみても)近代にふさわしくない行動傾向の人々がまとめて巨大精神病院に収容されていた時代がある。それはプロテスタンティズムと資本主義が結託しながら駆動していた低地諸国で始まり、やがて欧米列強へと広がっていった。
『ブルジョワ階級が主導権を握った地域では魔女狩りが終息。悪魔憑きもなくなり、道徳的に堕落した者がみられるだけになる。カルヴァニズムに基づくなら、彼らは堕落しないために強制的に労働させなければならない。』
『オランダのシドナム、フランスのピネル、ドイツのクリージンガーといった近代精神医学の父たちは、その国の市民革命にかなり関わり、なおかつ穏健派に属していた』
『精神医学・精神医療の推進者たちは、宗教的には新教やユニテリアンだった』
中井久夫『西欧精神医学背景史』より
中井久夫『西欧精神医学背景史』やミシェル・フーコー『監獄の誕生』には、18世紀にふさわしくない浮浪者や精神病者をまとめて収容する大きな精神病院の話が出てくる。その精神病院に期待されたのは、そうした近代にふさわしくない人々を労働者としてつくりなおすことでもあった。この時代には、精神病院に収容されている人を屋外で労働させる姿をみることがあったと記され、たとえば道路工事などにも駆り出されていたという。
でも、そうした試みは失敗していく。19世紀になると、公害の少ない環境を求めて郊外に移動するブームが精神病院にも波及し、大きな精神病院が郊外につくられるようになった。と同時に、進歩し続ける社会環境や労働の質的変化に被収容者たちはついていけなくなり、病院外で仕事をすることもなくなっていき、精神病院はより閉ざされたものに変わっていく。*2
1960年代になると反精神医学運動が起こり、アメリカ等では大規模精神病院が閉鎖されていく。じゃ、それで精神病者は自由になったかといったら、彼らの行き先は刑務所か、路上か、法的規制のいい加減な収容施設でしかなかった。統計学的パラダイムに基づいてDSMなどのアメリカ精神医学が躍進し、向精神薬分野でも大きな進歩がみられたが、収容されっぱなしだった患者の病状を根本的に改善させるほどの力は持っていなかった。
日本では、精神病院への収容の名残りが大きな病床数のうちに残っているが、新規入院は短期間にするよう制度改革が行われ、病床数は減りつつある。精神疾患罹患者や精神障碍者に働いてもらうための制度も充実し、さまざまなリワークプログラムや障碍者雇用システムが運用されている。そうしたものをみる時、精神医療をとおして近代的な労働者を彫琢していく仕組みが生まれ変わって蘇った、と私は感じる。
しかし、それらが完璧ではないのもまた事実だ。障碍者雇用の人々とフルタイム雇用の正社員の間には壁が残されている。前者の人がいくら頑張っても、後者の人に収入面で追い付き追い越すことはとても難しい。
それに、近代的な労働者に求められるのは純粋な仕事能力だけではない。近代的な労働者には「その時代にふさわしい安定性を伴って仕事が続けられること」や「その時代にふさわしい高コンプライアンス環境で仕事が続けられること」が求められる。私の記憶では、20世紀後半の労働者には現在ほどそれらを求められていなかったはずである。しかし、近代がアップデートされた2020年代においては、それが正規労働者の必要条件になっていて、そこができないせいでフルタイム雇用の正社員になれずにいる人をしばしば見かける。
近代という時代の影法師のように生まれた精神病院と、そこで近代人をリメイクする試みは、まだまだ道半ばである。もちろん現場の関係者はよくやっているし、個々の患者さんは最善を尽くしている。それが患者さんの社会参加や社会貢献に寄与している点も見逃せない。とはいえ、こうした就労支援事業をとおしてもなお、被援助者を(たとえば)フルタイム雇用の正社員といった立場にまで持っていくのは簡単ではない状態が続いている。
それから判断力の問題、主体性の問題
それから判断力の問題、主体性の問題がある。
先月私は、AIがどんどん利口になっていった先に、人間が判断や主体性をAIに委ねるようになった先にある人文社会科学的危機について記した。
AIに判断や主体性を委ねていると、自由も民主主義も滅ぶだろう - シロクマの屑籠
もし、近未来のAIが人間の判断とその価値を毀損するとしたら、それは自由意志と理性を軸とした進歩主義と啓蒙主義の差しさわりにもなる。一部のエンジニアや科学者だけが判断の主体になっていればいいわけではない。できるだけ多くの人間が判断の主体でなければならないはずだが、もっともっと高性能のAIがもっともっと世の中に溢れれば、実際には人間が判断する頻度とその値打ちはだんだん下がっていくだろう。
理想論としては、AIも含めたテクノロジーの進歩にあわせて人間自身の判断力も高まっていく、リテラシーも高まっていくのがこれからの近代社会のあるべき姿だろう。21世紀の近代人がテクノロジーの進歩にふさわしいかたちでますます賢くなってくれるなら、19世紀の近代人、新聞を読み電信を受け取っていた『ヴィクトリア朝時代のインターネット』の頃の近代人と同等の存在でいられるはずだ。
しかし、21世紀の情報テクノロジーは多くの人を振り落とす勢いで進展している。前にも書いたが、google検索を適切に使える人はそれほど多くなかった。SNSを適切に使える人もそれほど多くなかった。要領を得ないgoogle検索、要領を得ないSNSの使い方はどこにでもあふれている。
現在はAIが来ている。ひとことで「AIを使っています」と言っても、AIをうまく使っているのか、AIをまずく使っているのか、AIに使われたり乗せられたりしているのかを判断するのは簡単ではないと思う。AIが人間にとっての『ドラえもん』たり得るとは、私はまったく期待していない。かりに、ドラえもん風の汎用支援ロボット的なAIがつくられたら、そこにはアーキテクチャの設計者やビッグテックの思惑が埋め込まれているだろう。
そうでなくても、高性能AIを使いこなすとは高性能AIにいろいろとやってもらう以上にやってもらったこと・出力してもらったことを人間の側が検証したり評価したりすること、検証できたり評価できたりすることでなければならない、はずだ。
でも、それはとても難しいに違いない。今以上に高性能なAIが、PCやスマホだけでなく、学校教室でも会社の給湯室でもターミナル駅の待合室でもプライベートな寝室でも何か言ってくるようになった時、それらに包囲されてしまうのは簡単でも、それらの主人として振る舞い続けるのは大変だ。だが、数年~数十年後の社会で自由意志と理性を軸とした近代人をやっていくためには、私たちはAIの家畜ではなくAIの主人であり続けなければならない。
「AIの家畜になりまーす」っていうなら話は早い。高性能なAIになにもかもが覆われた世界でAIの家畜になってしまうのは本当に簡単なことだろう。でもそのとき、AIの家畜となったそれを近代人と呼ぶことは可能なのか? 私は呼びたくないんだけど。
b.hatena.ne.jp
冒頭リンク先に、こしあんさんが上掲のようなはてなブックマークをつけていらしたけど、マジかよ、と私は思った。「人間心理に与える影響を無視してもっともっと合理性の追求をする」とかスーパーマンすぎませんか。さっきも書いたように、理論上、近代人として私たちはもっともっと合理的に、もっともっと理性的に、もっともっと主体的にならなければならない、というのは理解できます。こしあんさんがおっしゃりたいのはそういうことかもしれない。
だけど、たとえば我が身を振り返った時、私が合理的でいられる程度、理性的でいられる程度、主体的でいられる程度は2025年の現在でもギリギリだと感じる。言い換えれば、私がこの時代にふさわしい近代人として十全な主体でいられる程度ももうギリギリで、自分がヘトヘトになっていると私は自分自身について思う。
他のみなさんはどうですか。2025年にふさわしい近代人余裕ですか。もっともっと合理的で理性的で主体的でいられそうですか。テクノロジーの進歩や人文社会科学的進歩と歩調をあわせ、ますますハードルの高くなっていくであろう近代人の条件をクリアできますか。できる人なら、確かに「もっと合理的になるべきだ」の一言で済むのだろうけど。
でも、それって選ばれた人にしかできないことじゃない? そしてますますテクノロジーや人文社会科学的進歩が進んだら、もっともっとできなくなる人が増えるんじゃないの? 少なくとも私はもうあと少しで近代人仕草ができなくなって近代人失格とみなされるだろうなといつも怯えている。社会のアップデートや諸進歩に、自分がついていけなくなる日がすぐそこまで迫っていると懸念している。
そうした怯えや懸念が、私をして『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』という本を書かせたのだと思う。私も含めた世間の人間が、みんなアインシュタインやエマニュエル・カントの水準で生きているなら、「もっと合理的になるべきだ」「まだまだ合理性の追求が足りてないだけ」と言えるかもしれない。でも、本当はそうじゃないと私は知っているし、控えめにいっても私自身はアインシュタインやエマニュエル・カントのようには生きられない。
すっかり長くなってしまったので終わるけど、近代のイノベーターたちは、ある部分において人間にやさしく、人間が人間らしくあれるビジョンを描いたと思うし、その恩恵のうちに私たちは暮らしている。彼らは人類社会の要石だった。でもそれはそれとして、偉大な彼らの思想を徹底させ、彼らの思想を突き詰め続けた結果としてできあがった現在の近代人の条件はキツキツで、アップデートを繰り返してきた近代社会自身も難しく、なんだかめちゃくちゃだ。
なんとかしてくれ、と思うけど、偉人たちが2020年代に蘇って考えてくれる見込みはない。そうじゃない。私たちがこれまでのことを踏まえてこれからのことを考えていかなければならないのだと思う。そして未来を展望しなければならない。それをやるのは、墓の下の偉人の仕事ではなく今を生きる私たちの使命だ。それこそ、AIになんて任せておけない。