シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

年を取って、不健康な食事でターボがかかるようになってしまった

 

 
「年を取るにつれて、自分の健康を気にかけるようになる」、とよく言われる。実際、20~30代の頃には健康だった人が、40~50代と年を取るにつれて高血圧や高コレステロール血症と診断されてにわかに健康リスクを気にしはじめるのはあるあるだし、「改心」してフィットネスジムに通って質素な食生活を心がける人も多い。
 
でも、この年になってきて逆に思うこともある。今、この瞬間だけ自分自身をブーストしたいと思った時、つい不健康な食事をとりたくなってしまいませんか? 不健康をおして血圧をあげたい・血糖値をあげたいと思う瞬間があったりしないだろうか。
 
私自身の身体の挙動を振り返る。
若かった頃よりも血糖値や血圧に「あそび」がなくなっているのか、血糖値をあげてしまいそうなものを食べると、パワーアップするように感じる。長時間のデスクワークにも弱くなり、夜まで続けていると頭が痛くなったり血圧が高くなったりしてしまう。アラフィフのこの身体は、自分自身のホメオスタシスを維持する力が若い頃に比べて劣っていて、血圧や血糖値が昔よりもグラグラしやすくなっている。だから中年になったら働き方も食生活も気を付けなければならないのだと、肌で感じられるようになった。
 
 

でも、ご飯がおいしくて困ってしまう。

 
ところが、いや、そういうホメオスタシスゆるゆる状態だからかだろう、最近、血糖値や血圧のあがる食事が「効く」気がしてしまうのだ。
 
塩分も糖質も控えめな健康的な食事でなく、ラーメンやチョコレートを食べると、自分の動きにブーストがかかる。モンスターエナジーやレッドブルのようなエナジードリンクもてきめんに効く。「パワーランチ」なんて言葉があるけれど、実際、パワーランチ的なものを食べると瞬間的に自分自身にターボがかかる。身体をターボ過給する食べ物として塩分過多・糖質過多な食べ物が効くようになってしまった気がしてならない。
 
それと関連してだろうか、若かった頃と比べて白米のご飯がおいしく感じられるようになった。
 
子ども時代、私は白米が苦手で、ふりかけがなければ食べられない子どもだった。それか、おかずを使ってなんとか白米を食べてしまうか。20~30代も基本は同じだった。白米はそれほど好きじゃなく、仕方なく食べるものだった。
 
それが今では、白米こそ食事の王様だと感じている。おかずに白米が寄り添っているのでなく、白米におかずが寄り添っている──ごはんが本当の意味で主食になった。その気になれば、少ないおかずで白米を腹いっぱい食べることだってできるだろう。
 
実際には白米を腹いっぱい食べることはない。腹八分目であるべきだし、糖質過多を避けるために白米を減らし、野菜などの割合を増やすのが望ましいから。白米なんて小さめの茶碗一杯ぐらい食べればそれでいいだろう。それで30代の頃からやってきたではないか。
 
だというのに、ここ数年、白米がどんどんおいしく感じられるようになったせいで、我慢する必要のなかった白米を、我慢して制限しなければならなくなった。せっかく白米が美味いと思えるようになったのに、好き放題に食べられないなんて!
 
塩気の多い食べ物、甘い食べ物などもそうだ。どれもおいしいし、それらはまさにパワーの源になる。虎屋のようかんは、私の身体にとってカーレースゲームに出てくる「ニトロ」も同然だ。
 

 
でも、自分の身体をターボ過給するということは血管や臓器に負荷をかけ、瞬間的な出力を稼いでいるということでもあるから、長期的な健康を考えるなら、やはり控えるべきだろう。
 
世の中には、健康的ではない食生活をしている中年や高齢者がいることを私は知っている。でも、その理由を私は知識不足のせいだと思っていたが、こうして白米がおいしくなり、ラーメンや甘味がターボ過給のように効くと感じてからは「ひょっとして中年や高齢者のなかには、このチャージの効果が欲しくて、やめられない人もいるんじゃないか」と思うようになった。知識や啓蒙の問題だけでなく、それらのおいしさに魅了されてやっている人もいるんじゃないか。
 
なかには、そうした不健康な食事をしてでも自分自身をターボ過給し働かなければならない人もいるかもしれない。年齢に比して激しい労働をこなすために、やむなくパワーランチで自分の身体をターボ過給し続けるのは、自分自身の血管や臓器に負担をかけながら働いているようなものだ。しかし、そのような労働、そのような現場が日本社会からなくなったようには見えない。
 
 

ジレンマに直面しながら、それでも生きていく

 
そうしたわけで、年を取っても不健康な食事を摂る人、摂らざるを得ない人は後を絶たない。以前よりもおいしくなった白米を我慢するのはジレンマもいいところだし、健康を気にしなければならない年齢になればなるほど食べ物がおいしくなり、塩分過多や糖質過多が「効く」ようになっていくとしたら、人間をつくった造物主は意地悪なものだな、と思わずにいられない。
 
いやいや、これはこれで造物主は人間をうまくつくったつもりなのかもしれない。七つの大罪のひとつである「暴食」を犯す者は、そのせいで健康を害してしまい、寿命も短くなる。「暴食」を司る悪魔はベブゼブブだったか。ベブゼブブにやられたくなければ、ちゃんと節制しなさいよというわけですね。でも、ここぞという時の不健康な食事には(この身体にとって)悪魔的な魅力がある。普段は節制しておいて、月に二、三度ぐらいは楽しめる状態を維持しておきたい。
 
 

「一か月名医」「一年名医」「十年名医」

※この文章は「シロクマの屑籠有料記事」に当てはまります。※
 
 
名医、とはなんでしょうか。また、not 名医とはなんでしょうか。
 
いろんな定義や答え方があるでしょう。「後医は名医」という言葉もあります。「後医は名医」とは、誰かが既に診た患者さんを後から別の医者が診た場合、後攻の医者のほうが情報量が多いため、治療がうまくいきやすいさまを指した言葉です。この「後医は名医」をはじめ、名医の定義は状況によってかなり左右されます。定義を左右する重要な要素のひとつが、医者が患者さんを診る期間、いわゆる治療期間です。
 
たとえば「一日だけ名医として振舞う」ことを想像してみてください。
 
患者さんを診るのが一回きりで、後のことは一切考えなくても良いとするなら、発熱で悩んでいる患者さんには消炎鎮痛剤を、せきで困っている患者さんには鎮咳薬を処方すれば、感謝されるでしょう。さらに、患者さんからリクエストされた薬を言いなりに処方すると、大層喜ばれるかもしれません。
 
「一日だけ名医」をやるだけなら、症状の背景にどんな病気が潜んでいるのか、体内でどんなことが起こっているのか、考えなくても済みます。もっともっと無責任なことだってできちゃうかもしれません。もちろん、まともな医者なら後々になって患者さんが困るようなことは控えると思いますが。
 
続いて「一週間名医」を想像してみましょう。ただ熱を下げる、鎮咳薬を処方するだけではそろそろダメです。血液検査所見などをとおして細菌感染症も含めた原因疾患をちゃんと考えなければならないでしょう。テキトーに抗生物質を処方するのもまずいと言えます。病態把握のための検査、内服薬や点滴の適切な管理*1、まともな治療ガイドラインに基づいたまともな診療、等々が欠如していては一週間誤魔化すのも難しいのではないでしょうか。
 
こんな具合に、一か月、一年、十年と治療期間を長くみていくと、うまくやれるための条件が変わるよう思われるのです。医師免許を持った人なら、「名医とは、まともな治療ガイドラインを履行する者のことである」で言い切った気持ちになれるかもしれませんが、さて、患者さんの側からみたら、本当にそれだけでしょうか。また、治療期間が一か月や一年ではなく、年余にわたる疾患を診るにあたって、治療ガイドラインの外側に名医たる要件があったりするでしょうか。
 
少なくとも精神科医をやっている私としては、精神科においてうまくやっていくために努めなければならないことは治療ガイドラインの文言の外にもある、としばしば思うのです。精神科は、命に直結した身体疾患を扱う科に比べて患者さんと長い付き合いになりやすく、それだけに「短期的にうまくやる」のと「長期的にうまくやる」のでは色々と違いがある科ではないか、と思ったりします。そしてベンゾジアゼピン系抗不安薬のような、少なくとも短期的には非常に広い範囲の症状を緩和する薬が存在する点、中井久夫のおっしゃった「飲み心地の悪い薬」が少なくない点も特徴かもしれません。以下、需要はあまりないでしょうけど、精神科における「一週間名医」「一年名医」「十年名医」についてゴチャゴチャ書いてみました。
 
 

*1:全身管理の技能も含む

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井芹仁菜と後藤ひとりという"野生動物"

 


 
X(旧twitter)のタイムラインを眺めていて、バンドをやっててロックというキーワードの出てくる二人の主人公についてあれこれ言っているのが聞こえて、思ったことを30分一本勝負にて。
 
「ロックとは何か」というややこしそうな話題はさておき、『ガールズバンドクライ』の井芹仁菜と『ぼっち・ざ・ろっく!』の後藤ひとりはどちらも、なんだかヒリヒリしていて、社会適応が上手とは言えない主人公なのは共通していますよね。
  
その姿をみていると、私みたいな人間は、「ああ、二人とも現代社会に馴致されづらい、なんだか野生動物みたいな主人公だなぁ」と思ってしまうのです。
 
ホモ・サピエンス、とりわけ現代社会を生きるホモ・サピエンスにとって重要な脳内物質はセロトニンです。セロトニンの作用があれば、より穏やかでより協力的で、より落ち着いた生活が可能になります。ストレスを軽減させる・不安や抑うつを改善させる点でも、セロトニンの作用は重要です。ホモ・サピエンスは、自己家畜化と呼ばれる進化の過程をとおしてこのセロトニンが増え、より穏やかで協力的で落ち着いた性質に変わっていったと考えられており、これがなかったら現代の都市生活に耐えられなかったでしょう。
 
でも、それはホモ・サピエンスという種全体の話。当然、個人差があります。現代社会にもセロトニンの作用が不十分な人、足りてない人がいるわけです。『ガールズバンドクライ』と『ぼっち・ざ・ろっく!』の主人公は、どちらもその足りてない人っぽさがあるのです。
 
たとえば後藤ひとりは、以前にも書いたように社交不安症によく似た性質を持っていました。あの性質を見ていると、「後藤ひとりにSSRI(セロトニンの作用を増す抗うつ薬の一種)を飲んでもらったら色々改善するんじゃないか」などとつい想像してしまいます。
 
同じく井芹仁菜も、セロトニンが少なそうですね。なんだか攻撃的で、協調性に欠けていて、イライラしていて、激しやすい。じゃじゃ馬、という言葉がありましたが、彼女もじゃじゃ馬ではないでしょうか。自己家畜化のロジックに基づいて考えても、作中描写から考えても、彼女はセロトニンの作用が足りなそうであると同時に、副腎から分泌されるアドレナリンやコルチゾールといったストレスホルモンが多いんじゃないでしょうか。芯の強いところがある一方で、案外、うつ病になりやすい傾向もあるかもしれません。
 
だから二人の共通点を(進化生物学の)自己家畜化のロジックで眺めると、「二人ともセロトニンの作用が弱そう」「二人ともストレスホルモンが多そう」になり、「二人ともストレスを司る体内の調節軸*1が家畜っぽくない。野生みがある」といった風に想像したくなるのですよ。
 
そうかあ、ロックな世界で活躍するキャラクターって、現代社会に馴致されやすい家畜みのある人間でなく、じゃじゃ馬めいた野生動物みのある人間なのかぁ、という思いがします。ロックとはセロトニンの不足なり?……いやいや。
 
ここに書いたことは、『ガールズバンドクライ』や『ぼっち・ざ・ろっく!』を楽しむ際に必要な着眼点だとは思いません。が、『人間はどこまで家畜か』という書籍を書いている私には、そんな風にあの二人のことを考えてしまう瞬間があるのですよ。
 
 

でも、二人は同じってわけでもない

 
それでいて、あの二人って対照的でもありますよね。
 
後藤ひとりの尖り具合って、承認欲求モンスターで、コツコツとギターの練習をし続けることができるあたりにありそうですが、井芹仁菜の尖り具合は(今のところ)そんな風に描かれてはいません。「内向きに爆発する後藤ひとりと外向きに爆発する井芹仁菜」、みたいなことも思いつきます。
 
家族、という視点で見ても違います。後藤ひとり、ひいては結束バンドのメンバーには家族とぶつかっている様子・家族に対する抵抗としてバンドをやっている感じがなくて、むしろ家族がバンドを応援しているまであります。ところがトゲトゲはそうじゃなく、特に井芹仁菜は家庭とバンドがぶつかっていて、その葛藤がバンドの活動や彼女自身の尖り具合に結びついている感じがあるじゃないですか。
 
だからセロトニンが足りないっぽい点は共通していても、それぞれを囲む環境も、それぞれの尖り方も違っていて、違っているから見比べると面白いですね。
 
『ガールズバンドクライ』は単体でもまったく楽しめる作品で、毎週、どんなことになるのかハラハラしながら視聴していますが、似て非なる作品として『ぼっち・ざ・ろっく!』も思い出しておくと、色々と気付きがあって面白いかなぁと思っています。
 
 

*1:HPA系、HPA軸とも

電信は令和のインターネットに届かなかった──『ヴィクトリア朝時代のインターネット』を読む

 
 

 
前々から読みたかった『ヴィクトリア朝時代のインターネット』を購入して、最優先で読んだ。電信というひとつのテクノロジーの栄枯盛衰を描いたノンフィクションとして、とても面白く勉強になった。
 
この本の概要については、基本読書さんがわかりやすいレビューを書いてらっしゃるので、そちらをどうぞ。
 
huyukiitoichi.hatenadiary.jp
 
『ヴィクトリア朝時代のインターネット』では、電信技術が誕生する前に「腕木通信」という手旗信号的なテクノロジーを用いた情報網が築かれた話、モールスらが電信技術をつくりあげていく話、その電信が普及段階を迎えて商業に利用され、政治や軍事にも利用される話、それが大英帝国の世界支配を支えていく話などが記されている。
 
が、やがて電話(など)が登場して、電信という技術は時代遅れになっていく。しかしエピローグでも記されるように、電信は今日のインターネットに連なる重要な技術だし、全世界を繋ぎ合わせ、政治・経済・コミュニケーションのグローバル化に与えた影響は不滅だ。
 
で、インターネット、である。
 
電信の歴史などという、正直、大半の人があまり興味を持たなそうな(私もその一人だった)題材にもかかわらず本書が読みやすいのは、この本のタイトルが『ヴィクトリア朝時代のインターネット』で、実際問題、読者がインターネットのことを連想せずにいられないつくりになっているからだと思う。
 
読者にメッセージを届けるうえで、タイトルと内容の結びつきは重要だ。たとえばこの本が『ヴィクトリア朝時代の電信の歴史』というタイトルだったら、書店で手に取る人が少なかったと思う。しかし本書のタイトルにはインターネットという言葉が入っていて、内容的にも、今日のインターネットを髣髴とさせるエピソードがちりばめられている。
 

 ある日、アメリカン・テレグラフ社の職員が、営業時間外にボストン、カレー、メインを結んで電信で会議を行った。この会議には、700マイルにわたる回線につながる33の局の何百人ものオペレーターが参加した。発言者がその内容をモールス符号で打つと「その回線につながったすべての局が、まるで時空が消えたように同時にその発言を受け、お互いが実際は何百マイルも離れているのに、まるで皆が同じ部屋にいるかのようだった」とある記事は伝えている。約1時間にわたっていろいろな決議をした後に、従業員たちは散会したが「非常に協調できて心温かい気分になった」。
『ヴィクトリア朝時代のインターネット』より

このエピソードを読んで、あなたはどんなアプリを連想するだろうか。ICQやMSNメッセンジャーを連想する人、LINEやTelegram*1を連想する人、さまざまだろう。ともあれ、距離を隔てた多人数とコミュニケーションが可能になり、そこに心の喜びを見出した人々の様子は20~21世紀のインターネットとそんなに違わない。
 
このほか、電信をとおしてのロマンス・暗号化の問題・悪用した種々の犯罪、等々も記され、それらも時代の違いをあまり感じさせない内容だ。
 
当時の人々と私たちに共通点があり、インターネットについて私たちが知っているおかげで、この本はすこぶる読みやすい。というか、読者がインターネットについて知っていることを大前提として、著者が親しみやすい技術史の本としてまとめあげた、と言い直すべきだろうか。
 
電信の歴史を「ヴィクトリア朝時代のインターネット」として読者に提示するのは、ひとつのアイデアで、気の利いた心配りだと私は感じた。
 
 

令和のインターネットはヴィクトリア朝時代のインターネットの顔をしているか

 
とはいえ、「歴史は繰り返すのでなく韻を踏む」。
電信とインターネットもそうで、少なくとも令和の読者はいまどきのインターネットの状況と電信の歴史との違いにも気づくだろう。
 
本書には、電信が情報技術の雛型だった頃の人々が「電信が未来と世界を明るく変えていく」と楽観的に考えた様子も描かれている。これは、2010年ぐらいまでのインターネット、いわばweb2.0という言葉が流行った頃までのインターネットによく似ていると思う。ひと昔前のインターネット未来予想図は、とかく楽観的だった。
 
しかし今日、インターネットの未来は楽観を許さない。というより、現在のインターネットが思いっきり殺伐としている。
 
インターネットは世界じゅうを繋げたが、何かが繋がりすぎて、何かが決定的に繋がらなかった。識者たちは「SNSをとおして『分断』が深刻になった」と語り、インターネットは直接的にも間接的にも軍事利用されていて、そうでなくてもさまざまな勢力の情報戦・宣伝戦の最前線になっている。インターネットを用いた犯罪はひきもきらない。
 
インターネットが世界平和をもたらすとか、世界じゅうを仲良くするとか、そういったインスピレーションを令和時代のインターネットは与えてくれない。
 
インターネットが私たちひとりひとりを賢くしているのか、愚かにしているのかもわからなくなってしまった。検索エンジンの検索結果が嘔吐物のようになり果て、フェイクニュースが飛び交い、徒党を組んだ者同士が決して譲歩せず、お互いの政治的ポジションを掘り崩すことしか考えていない現状は、電信技術によって報道・商業・政治の速度やクオリティが高まっていった頃とは大きく異なっている。
 
たとえば電信の時代、ロイター通信などが誕生し、世界各地の報道スピードが更新されたからといって、電信のせいで誰かが愚かになったことはあまりなかっただろう。戦場や植民地の様子が素早くロンドンに届くようになったからといって、軍人や商人が愚かになったことも多分なかっただろう。だが、令和時代のインターネットは、ひとりひとりのユーザーを賢くするのか愚かにするのか、判断力に資するのか判断力を削るのか、わからない顔つきをしている。
 
どうしてヴィクトリア朝時代のインターネット=電信と、令和時代のインターネットはこんな風に違うのだろう?
 
ひとつめの違いは、令和時代のインターネットには「パジャマ姿で誰でもアクセスできてしまう」点ではないだろうか。電信の時代、電信網にパジャマ姿でアクセスする人はほとんどいなかったはずで、商人も、軍人も、ラブレターを送りたい人も、まあその、シャキっとした頭脳と出で立ちで電信に向かい合うことがほとんどだったと推測される。しかし、今日のインターネットは24時間いつでもどこでも読んだり書いたりできてしまう。情報としてのフォーマルさの度合いが電信とは異なっていることに加え、認知機能の低下している状態──就寝前のベッドの中や、泥酔中など──でもアクセスできてしまう点が異なっている。
 
ふたつめの違いは、「なんやかんや言ってもヴィクトリア朝時代のインターネットは敷居が高かった」点ではないだろうか。
 
電信は確かに普及した。しかし、その電信を日常的に使いこなしていたのは、商人や軍人や政治家などの上澄みと、電信に携わる職業の人ぐらいだった。そうでない人にも電信を使う機会はあっただろうが、身内の危篤の知らせのような、重要な情報を迅速に伝えるためのもので、私たちのようにだらしなく・だべるようにインターネットに接続できたわけではない。
 
短文を送るにもそれなりの通信料がかかり、「テレホーダイ」のような無制限に通信できるサービスがあったわけでもない時代に、昨今のようなネットユースをやってのけるのは経済的にもインフラ的にも困難だったに違いない。
 
経済的・インフラ的問題に加えて、情報リテラシーに関する敷居もある。
 
電信の時代に電信を頻繁に利用したのは、当時における情報強者、情報リテラシーに勝る人々だった。頻繁に電信にアクセスし、それをインターネットのごとく体験可能なのは、電信に携わる職業人を除けば、商人、政治家、軍人、報道関係者といった人々で、彼らには情報リテラシーがあった(無ければ淘汰されるだけである)。それ以外の大勢も、情報技術としての電信の恩恵を享受はしていたが、それは電信に(今日のSNSのように)ひとりひとりがダイレクトにアクセスして情報を読み取っていたからではない。たとえば新聞のように、「情報リテラシーのある誰かが介在するかたちで」電信の恩恵はその他大勢に伝達されていたのではなかったか。
 
その時代にもフェイクニュースもあったろうし、新聞社が間違った情報に基づいて間違った報道をすることもあっただろう。とはいえSNSのフェイクに転がされやすい界隈に比べれば、まだしも判断力があったように思える。
 
著者あとがきによれば、『ヴィクトリア朝時代のインターネット』が執筆されたのは1997年頃だという。1997年頃のインターネットもある程度は敷居の高いメディアだった。そして当時のインターネットはもっと希望に溢れていて、令和のインターネットのような陰惨さ・狡猾さはまだなかった。
 
だから私は、web1.0の頃のインターネットや、せいぜいweb2.0の頃のインターネットは電信にかなり似ているけれど、令和時代の、この世間に擦れ切ったインターネットは電信にはそこまで似ていないんじゃないかと思ったりする。もちろんこれは後出しじゃんけん的な物言いで、この本と著者のトム・スタンデージ氏を批判する理由にはならない。ただ、インターネットがあまりにも普及し過ぎて、あまりにも繋ぎ過ぎて、あまりにも世間擦れしてしまったために、令和時代のインターネットには電信が廃れるまでには起こらなかった悲喜劇がいっぱいで、魑魅魍魎が跋扈する空間になってしまった*2
 
かつて、インターネットは電信の時代によく似たユートピアの夢を託されていた。けれども、どんどん変質し、世間の手あかにまみれ、何か違ったものになろうとしている──そんな視点で『ヴィクトリア朝時代のインターネット』を読み、過去のインターネットを振り返ってみるのもアリかもしれない。
 
本書は読みやすいうえに面白く、ひとつの情報技術の栄枯盛衰がスッと入ってくるので技術史に興味のある人には特にオススメな感じだ。令和時代のインターネットの向こう側を想像する際にも、案外、このような本が参考になるのかもしれない。
 
 

*1:ロシア製アプリ『Telegram』は「電報」を意味していて、まさに電信の子孫という響きがある

*2:このほか、電信というメディアとディスプレイをとおして見たり書いたりするインターネット、ひいてはスマホやカメラを駆使したインターネットは[マクルーハン的に考えて]メディアとしての性質に相違があり、そこもメディアとしての相貌と起こっている現象を違ったものにしているのだろうけど、略

取引みたいなコミュニケーションは、誰にとって都合良いのか

 
今、研修医時代ぐらい忙しくて生きた心地がしない&働きすぎで急速に老け込みそうだと感じていますが、そうしたなか、書評のお仕事をいただきました&こなしました。
 
gendai.media
 
書評させていただいた作品は村雲菜月さんの『コレクターズ・ハイ』。上掲リンク先にも書いたように、コレクション大好き系のオタクの物語だと決めてかかると足元をすくわれる思いがするかもしれません。
 

 
作品にどのようなメッセージが含まれているのか。これは読み手次第でしょうけど、私には、以下のポイントが刺さりました。
 
1.たとえばキャラクターグッズをコレクションしている時、私たちはどこまで癒されていて、どこまで行動嗜癖的に病んでいるのか
 
2.資本主義の商品を作ったり、資本主義の商品そのものになったりして疲れ、傷ついている私たちが、それを癒す際にも資本主義の商品に依存し、ときには人間を商品として買い求めずにいられないとしたら、資本主義の輪から抜け出す出口は無いのではないか
 
3.人間同士のコミュニケーションが余計なものを徹底的にそぎ落とし、商取引のプロトコル的なものになったら、効率的かもしれないけれども色々と詰んでない?
 
この三つの点を、私は『コレクターズ・ハイ』の書評を書いている最中に何度も思い出したものです。このブログでそれを繰り返しても意味はないので、2.3.について考えているうちに最近気になるようになった、資本主義社会と人間の生活についての話をしたいと思います。
 
 

「ディスコミュニケーションが正解」は本当は誰のためなのか

 
私は年来、「現代社会の人間同士はコミュニケーションを深入りせず、コミュニケーションしないで済ませられるなら、済ませようとしている」と考え続けてきました。それか、「コミュニケーションが取引みたいになっている」とでも言いますか。
 
たとえば昭和時代の友達同士のコミュニケーションの範疇には、泥んこまみれの喧嘩をして理解が深まる一面や、銭湯や町内会の行事で学校とは違った顔を垣間見る一面もあったでしょう。しかし、いまどきの小学生はそんな泥んこまみれの喧嘩をコミュニケーションとして体験することはないし、クラスメートと会う場所・文脈も限られているため、まったく違った一面を垣間見る機会はあまりありません。
 
そうして人と人が会う場所や文脈が限られるようになってくると、友達、クラスメート、先生と対面する際に認識したりされたりする自他の姿は一面的になりやすく、いわば、キャラ的です。少なくとも昔に比べれば、学校では学校に合ったキャラを、スイミングスクールではスイミングスクールに合ったキャラを、ポケモンカードステーションではポケモンカードステーションに会ったキャラを立て、それぞれを使い分けることもできます。それぞれのキャラは情報量が少なく、(平野啓一郎風に言えば)「分人的」でもあるでしょう。
 

 
でも、それゆえにそれぞれの場には最適化されているし、他人に提示するのも、他人のそれを理解するのも簡単です。
 
こうした、場面や状況ごとにキャラを使い分けるコミュニケーションをディスコミュニケーションと呼んでしまうかは意見の分かれるところでしょう。が、ともあれ、コミュニケーションの傾向がキャラの出し合い的なコミュニケーションに変わって傾いてきているとは感じます。
 
尤も、これは昭和時代の地域社会のコミュニケーションと比較してそうだという話で、生まれながらにキャラの出し合い的なコミュニケーションが起こりやすい都市空間に住んでいる人、たとえば近所づきあい皆無の郊外やタワマンで生まれ育った人には、私が何を言っているのか理解がむずかしいでしょうけど。
 
私は、そうやってコミュニケーションが一面化し、効率化し、お互いのことをむやみに知りあわないようになり、お互いにとって都合良い部分だけを読み取りあうコミュニケーションのことを個人的に「券売機のようなコミュニケーション」と呼んでいます。
 
最近はラーメン屋などに注文用の券売機が置かれていますが、あれってコミュニケーションの省力化を極限までやってますよね? お客は券売機で買ったチケットを店員に渡すだけ。店員はチケットを受け取るだけ。今までだったら店員とお客の間にあったはずの、オーダーを確認するためのコミュニケーションまで省かれています。コミュニケーションとしては最も効率的だし、ノイズレスでもあるでしょう。
 
この、券売機で最小化された商取引(売買)のコミュニケーションこそが、現代のコミュニケーションの理想ではないでしょうか。商取引なら商取引の、塾だったら塾の、婚活だったら婚活の、そこで話されるべきことが話され、そこで話す必要のないものは話さない、そんなコミュニケーションが理想視されているのではないでしょうか。
 
だって、皆さん、非効率なコミュニケーションも、ノイズフルなコミュニケーションも、お嫌いでしょう?
 
たとえそれが、目的以外のコミュニケーションの可能性を毀損し、別の面においてディスコミュニケーションを加速するとしても、です。
 

視点を変えて考えるなら、現代人は双方の合意に基づいて、お互いに都合の良いコミュニケーションをしていると同時に、用途や場面、媒介物にふさわしくない部分についてはコミュニケーションしないで済ませている、とも言える。
私たちは双方に都合の良い、社会契約にも妥当するコミュニケーションに徹することによって、そうでないコミュニケーションを日常から排除し、キャラクターや役割やアバターには回収しきれない、お互いの多面性を知らないで済ませようとしている。
これは、コミュニケーションであると同時に、一種のディスコミュニケーションでもあるのではないか?
熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』より

 
コミュニケーションの効率化とノイズレス化は、もちろん資本主義にも貢献します。なぜならそれによってタイパやコスパが向上し、より多くのコミュニケーションが商取引的な性質を増して、いわば(資本主義の立場から見て)純化されるからです。コミュニケーションが効率化・ノイズレス化することをとおして、資本主義はますます純化し、ますます発展し、人間のコミュニケーションは資本の自己増殖に貢献しやすい性質となり、それにそぐわないやりとりが減っていくでしょう。
 
確か、経済学の言葉に「内部化」というものがあります。
内部化とは、もともとは資本主義の内部には存在しない、商品になりにくいものが、なんらかのかたちで商取引の対象となり、新しいマーケットができあがり、商品として資本主義の内側へと取り込まれていくことだったと記憶しています。それで言えば、たとえばミネラルウォーターは日本では1990年代に内部化し、結婚式も就活も葬儀も21世紀までには内部化しました。最近は、男女の出会いも(マッチングアプリをとおして)内部化されようとしています。
 
しかし、資本主義の内側へと取り込まれていくという点でいえば、私たちのコミュニケーションの効率化とノイズレス化も、じつは資本主義の内部にコミュニケーションが取り込まれようとしている兆候だったりしないでしょうか。
 
もともと、人間のコミュニケーションは資本主義にも商取引にもなじまないものが大半でした。資本主義や商取引になじむようなコミュニケーションが商人以外にも広く定着したのは、ここ数世紀のことでしかありません。しかし、今日のコミュニケーションは急速に効率化とノイズレス化、いわば券売機みたいなコミュニケーションへの道を辿っています。この段階ではまだコミュニケーションが資本主義化に取り込まれてしまったとは言い切れないとしても、コミュニケーションが資本主義に親和的になっていくのは、きっと資本主義自身にとって都合の良い事態ではあるでしょう。
 
 

効率的なコミュニケーション、資本主義のためのコミュニケーション

 
そうして、私たちのコミュニケーションや人間関係全般が資本主義に親和的になり、資本主義から見て都合の良いものに変わっていくとして、いったい誰が得をするのでしょう?
 
人間ひとりひとりの目線に立つなら、コミュニケーションを効率化すればするほどその人が(資本主義的に)得をする、というのはあるでしょう。昭和以前の人間のようにモタモタとコミュニケーションし、摩擦をも含むようなコミュニケーションをやっていくのは効率が良くありません。令和風の、無駄のないシュッとしたコミュニケーションをやっていけばタイパもコスパも向上しますよ、というやつです。
 
しかし人間全体にとって、これは望ましい変化だと言えるのでしょうか。
 
券売機を用いているお店では、お客と店員の間のコミュニケーションのコストが最小化されるかわりに、お客と店員の間で意外性のある出会いが起こったり、意外性のある情報の授受が起こったりする可能性はオミットされます。まあ、「商売」という観点ではそれで構わないでしょう。しかし人間同士のコミュニケーション全体が省力化・効率化・ノイズレス化していったら、人間同士の間で意外性のある出会いが起こりにくくなり、意外性のある人間関係の構築や、意外性のある情報の授受が起こる可能性もオミットされるでしょう。
 
お互いのことを知りすぎないコミュニケーションは、効率的だし、リスクも少なくて済むかわりに、私たちがお互いのことを知りあう可能性をも奪ってしまっていませんか。
 
それから、お互いのことをキャラとしてしか認識しあわない弊害として、いざ、敵対するとなった時には相手のことを人間ではない、悪魔の化身のようなものとして徹底的に非難したりこき下ろしたりすることが簡単になっているとしたら、それも社会全体でみればあまり良いこととは思えません。ひょっとしたら、SNSで起こっている終わりなき戦いも、こうした券売機みたいなコミュニケーションの暗黒面なのかもしれません。
 
そのうえ、券売機コミュニケーション的なものに慣れれば慣れるほど、いざ、人と人が親密にならなければならない時──たとえば親が子を育てるような時──には不慣れで困ってしまうのではないか、とも思います。取引や目的に最適化しすぎたコミュニケーションに慣れ過ぎて、それこそがコミュニケーションのあるべき姿だと思ってしまうと、子育てをはじめとする、昔からあったはずのコミュニケーションの大半がナンセンスなものに感じられ、不慣れでやっていられないものになるでしょう。
 
少子化の背景はさまざまで、個々人の収入の問題もあれば、個々人の思考の資本主義化・経営者化もあるでしょう*1。東アジアの場合、経済発展や思考の資本主義化のスピードと、旧来の家族観が廃れていくスピードとのギャップが大きいと語られています。それらに加えて、案外、私たちが券売機コミュニケーション的なものに慣れ過ぎ、親密さや身体的なコミュニケーションから遠ざかっていることも、原因の一端ぐらいは占めているのではないか、と私は思ったりします。
 
案外、それを埋め合わせるのがマッチングアプリかもしれず、マッチングアプリが完全普及したら、私たちはペットや家畜のブリーディングのように、それか『PSYCHO-PASS』のシビュラシステムみたいに、「あなたにふさわしいパートナー、あなたにふさわしい人生」を自動的にあてがわれるようになるのかもしれませんが。
 
こんな具合に、コミュニケーションがどんどん資本主義に親和的になっていくプロセスは、人間自身にとって良いことばかりとは思えません。たぶん、人間は券売機みたいなコミュニケーションだけでは生きていけないし、もし、過剰にコミュニケーションが券売機化していくとしたら、これも資本主義による疎外の一形態、ということになるでしょう。
 
 

人間が苦しいかどうかを、資本主義と資本は顧慮しない

 
しかし、ここまでの話って人間から見た困りごとで、資本主義自身から見たら、別にたいした問題じゃないですよね……。
 
ここ数年、私は資本主義、あるいは資本主義をとおして増殖する資本が、「人間を媒介物に自己増殖するウイルスみたいなミーム」に思えてなりません。資本主義や資本は生物ではなく概念ですが、その概念が私たち人間を媒介物として伝染病のウイルスのように自己増殖に励んでいるのが現状ではないでしょうか。
 

 進化生物学者のリチャード・ドーキンスは、『利己的な遺伝子』のなかで、「人間も含めた生物は、遺伝子からみれば(遺伝子を運ぶ)乗り物である」と比喩しましたが、今日の人間はまるで自己増殖する資本の乗り物のようです。社会の隅々にまで資本主義の思想が浸透し、それを内面化した私たちにとって、資本主義の思想は生物学的な遺伝子よりも強い行動原理になっていて、子孫を残すのにふさわしい暮らしは、資本主義にふさわしい暮らしに上書きされています。
熊代亨『人間はどこまで家畜か』より

かつて、人間は遺伝子の乗り物だとしても資本の乗り物ではありませんでした。しかし資本主義が社会思想の中心となった今日では、人間は、遺伝子の乗り物である以上に資本の乗り物ではないでしょうか?
 
ちょうど遺伝子やウイルスが人間それぞれの幸不幸や社会全体の幸不幸をおもんぱからないのと同じように、資本や資本主義も、人間個々人や社会全体の幸不幸をおもんぱかりません。人間が増えるか減るかも忖度しません。病原体ウイルスがはびこりすぎると宿主となる動物が激減してしまうように、資本や資本主義も、自己増殖の過程で人間や人間社会を食いつぶしてしまうこともあるかもしれません。
 
本当にそんな破滅的な未来が来るとは、私も本気では思っていません。が、ここで言いたいのは、資本主義や資本のことを、人間とは独立した増殖するプレイヤーとして意識しておいたほうがいいんじゃないか、ということです。
 
近世に欧米社会で爆誕した現代に連なる資本主義のミームが本格的に増殖しはじめてたかだか数百年であることを思うと、資本主義がどこまで人間にやさしくて、どこから厳しいのかは、まだよくわからないと言わざるを得ません。ある時期・ある時代に資本主義が人間に豊かさをもたらしたことは間違いないとしても、資本主義が人間に豊かさをもたらす公僕のようにふるまうとは到底思えないので、心配ぐらいしておきましょうよ。
 
『コレクターズ・ハイ』にみられる資本主義による傷つきと癒しの連環、その連環からの脱出経路がディスコミュニケーションによって塞がれている絶望は、私にこういうことを強く思い出させるので、書いてしまいました。『コレクターズ・ハイ』から出発して、ついついこういうことを考えてしまいました。
 
 

*1:これも資本主義に人間が取り込まれていく重大な過程のひとつですが、ここでは於きます