シロクマの屑籠 このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-04-10

アニメ愛好家として「好き/嫌い」「凄い/凄くない」を区別できるか否か

 

 新作アニメ惡の華』を巡って、アニメ界隈が「ひとこと言いたくて仕方がない雰囲気」になっていて、現時点では作品そのもの以上に興味深い。ともあれ、話題沸騰なのはいいことだと思った。

 

 その騒々しい風景を眺めているうちに、昔、ある人から教わったフレーズを思い出した。

 

 「愛好家たるもの、自分自身の「好き/嫌い」の次元と「こいつは凄い/凄くない」の次元をきちんと区別できなきゃいけない。

  

 アニメに限らず、料理や音楽にしたってそうだ。

 

 たとえば、自称料理愛好家が「俺はハンバーガーが好きだ。だからハンバーガーはどれも凄い」と言っていたら、そいつの舌はたいしたことがなさそうである。素人の出したハンバーガーを「凄い」と褒めちぎり、嫌いな食材の入った料理とみるや問答無用で「こいつはダメだね」の一点張りでは、“ただのハンバーガー厨”と言わざるを得ない。グルメじゃなさすぎる。

 

 おなじく、自称アニメ愛好家が「俺は萌えアニメが好きだ。だから萌えアニメはどれもクールジャパン!」と言っていたら、そいつはたぶん、ただの萌え豚だろう。「あなたの大好きな萌えアニメにも、しようもないやつもあれば、精巧に磨き上げられたやつもあるんじゃないですか?」と問わざるを得ない。萌えアニメ以外の凄い作品も挙げてくださいよ、と訊いてみたくもなる。

 

 個人的な好悪に振り回されるばかりで、「ちっとも凄くないけれども俺の好み」「こいつはとんでもない代物だけど、自分としてはまっぴら御免」あたりが意識できないようでは、そのジャンルを追いかけているとは言いがたい。「好き/嫌い」と「こいつは凄い/凄くない」を混同したまま、どうして個々の作品を整理し座標づけることができよう?個人的な好き嫌いと、その作品の意図・実装・文脈 etc...を、あるていど区別して評価できなければ、いつまでたっても感覚が磨かれそうにない。ブロイラーとして肥え太っていく覚悟ができているならそれでいいのかもしれないが……。

 

 逆に、そうした「好き/嫌い」「凄い/凄くない」を区別して評価するよう常から意識していれば、おのずとアニメの鑑賞眼を磨けるんじゃないか、と信じたいところではある。

 

 

「凄い/凄くない」を意識し過ぎて「好き/嫌い」を忘れてしまう罠

 

 その際、たぶん注意しなければならないのは、「凄い/凄くない」を意識しすぎて、自分自身の「好き/嫌い」を忘れてしまうこと

 

 「俺は凄いアニメを知っているんだぞ」的な功名心がはやるあまり、自分自身の「好き/嫌い」をほったらかしにし、傑作といわれる作品を必死に追いかける人をみかけることがある。もちろん、そういう時期もあっていいとは思うけれど、やり過ぎは危険だ。自分の「好き/嫌い」の感覚がだんだんうすらボケてきて、巡り巡って「凄い/凄くない」がかえってわからなくなってしまうかもしれない。

 

 もし、サブカル雑誌や業界人の一挙手一投足にビクンビクン反応してしまうような、風見鶏みたいな人間になってしまったら、それはもう、アニメ愛好家としては死骸に等しい。できあがるのは“アニメがわかっている自分自身愛好家”とでも言うべき、アンデッドモンスターである。熱血の通わないアニメライフや、偉い人の劣化コピーに成り果てるアニメライフに、愛好家という言葉はふさわしくない。

 

 だから、「凄い/凄くない」をできるだけ見極めるように努めながらも、好きな作風の作品はちゃんと愛でるようなアニメライフのほうが、遠回りのようで正解なんじゃないかと私は思う。アニメを観るときの心構えとして「昆虫のように観察し、豚のように萌えろ」を座右の銘にしているのも、そのためだ。

 

 『惡の華』をはじめ、今期の深夜アニメは本当に色んなタイプの作品がそろい踏みなので、すごく楽しみ。大豊作を、祈るばかり。

 

2013-04-06

「シコリティ」の意外な奥深さ――オタク界隈の内部運動という視点から

 

 オタク界隈に新たに広まりつつあるジャーゴン「シコれる」「シコリティ」 | LUNATIC PROPHET

 

 半年ぐらい前から、オタク界隈のなかでもオシャレサブカル的に深夜アニメを観るようなファン層とは相容れない、濃くて原理的なファンの間で「シコリティ」というスラングが流通しているのを見かけるようになった。シコリティSicolityとは、シコSicoとクオリティQualityをかけあわせた造語で、美少女キャラクターがマスターベーションに適している度合いが高ければ「シコリティが高い」と表現するらしい。

 

 一昔前の男性オタク界隈では、気に入った美少女キャラクターを指す言葉として「萌え」が使われていた。使われ始めた頃の「萌え」には恥ずかしさをオブラートに包みこむようなニュアンスあって、ストレートな表現が憚られる時には重宝していた。こうした奥ゆかしい用法としての「萌え」は、オタク界隈がカジュアル化していく00年代中盤あたりまでは通用していたと思う*1

 

 [関連]:弛緩した「萌え〜」からは、萌えオタ達の複雑で必死な心情が伝わってこない - シロクマの屑籠

 

 やがてオタク界隈がカジュアル化するにつれて、「萌え」は「萌え〜」とだらしなく延ばした表現へと変わり、婉曲表現的なニュアンスは失われてしまった。好きなキャラクターを語る際のスラングは「○○は俺の嫁」となり、最近はもっと直接的な「ブヒる」というスラングも登場した。美少女キャラクターに対する愛着表現は、よりカジュアルに、よりストレートに変化し続ける……かのようにみえた。

 

 ところが、この「シコリティ」はそうではない。ストレートではあってもカジュアルではなく、明らかに人を遠ざける・人を選ぶ響きがある。サブカルオシャレの先端をゆくために深夜アニメをチェックしているような人達にとって、シコリティという言葉は禁忌であろうし、使いこなせるとは到底思えない。Facebooktwitterを異性とのコミュニケーション手段として活用しているようなアニメファンにも使いこなせないだろう。つまり、このシコリティという言葉には、オシャレなアニメファン、カジュアルなアニメファンを遠ざけるフレーバーがある。

 

 シコリティは「アニメキャラでマスターベーションしています」と態度表明をしてもなんの損失も無い人だけが使えるスラングだ。考えようによっては、「美少女キャラクターへの感情表明を世間体より優先できるオタク」「一線を越えたオタク」しかSNS上につぶやけないスラングだと言える。結果として、シコリティという言葉を使う者同士は比較的近いクラスタの可能性が高く、マスボリュームが大きくなった昨今のオタク界隈のなかでは、同族意識・共犯意識を強力に惹起するスラングとも言える。今では失われかけている「日陰者のオタク」「被差別カーストとしてのオタク」を思い起こさせるスラングがネットの一角で流通しはじめているさまは、どこか懐かしさを感じるとともに、日陰でよろしくやっていたオタクが急にサブカルチャーの日向に連れ出された当惑のようなものを連想させる。

 

 日陰で楽しんでいたいオタク達の「日向者はこっちに来るな」「ここから先は俺達の領域だ」という叫びというか。

 

 シコリティは、一見、粗野で空っぽの言葉のようにもみえる*2。しかし、

 

 1.「こちら側のオタク」「あちら側のオタク」を規定する分水嶺としての機能

 2.日陰者同士の共犯意識・仲間意識を思い起こさせる機能

 3.「オシャレや異性ウケを気にせず、美少女コンテンツを楽しむオタクです」的なスタイル表明機能

 

 を兼ねていて、言葉の機能面では意外なほど奥深い。この言葉がネット上に定着するのか、じきに消えていくのかは分からない。どうあれ、オタク界隈でこういう内部運動が起こっていること自体はネット民俗誌的にみても興味深い。今後の動向はチェックしておきたいと思う。

 

 ※こういうネガティブな弁別機能の強い言葉でも、一部の若いオタは「シコリティ言ってる俺って格好いい」と思い込んで連呼している姿が想定されるわけで、交際可能性を狭めているのに気づいていない、なんて事態もきっとどこかで起こっているんだろうなー、と思いました。

 

*1:ちなみに、この時期に直接的にエロなニュアンスを伝えたい時に用いられたのは、「○○たんハァハァ」だった。このスラングはオタク界隈がカジュアル化していくのと時期を同じくして死語となっていった。

*2:たぶん、言い出しっぺもそんなに深く考えて言い出したわけではないと思う。

2013-03-03

ソーシャルゲームよりゲーセンのほうが「高コスト」問題

 (※タイトル変更しました)

 

ドラクエ7雑感:スマホ脳になったことを思い知らされる:村上福之の「ネットとケータイと俺様」:ITmedia オルタナティブ・ブログ

 

 上記リンク先の記事には、「スマホ脳」になった人が久しぶりにドラゴンクエスト7をやってみた際の「めんどうくささ」が書き記されている。

 

 こういう記事を読むと、俺は「あなたが欲しかったのは真正のゲームではなく、エンターテイメントならなんでも良かったんですね」と思ってしまいがちだ。俺は、ゲームがゲームである与件として「上達感が感じられるプロセス」を重視しているので、ゲームの上達プロセスを面倒と呼んで憚らない人はゲーマーとして認めない。なにか「手応え」がなければゲームとして楽しくないじゃないか。

 

 そういえば、俺のシューター仲間の一人が、スマートフォンに移植されたケイブのシューティングゲームについてこう評していた;「あれは俺達が楽しんでいるほうのシューティングゲームじゃない。シューティングゲームの爽快感だけ欲しがっている人のためのエンターテイメントだ」「パターンを組む戦略性や、攻略性が欠けている」とも。

 

 今、スマートフォンで娯楽を消費する人達のゲーム観からすれば「上達プロセスを楽しむ」は理解しにくいことか、忌避されるものかもしれない。それは分かっている。だが、「今、とにかく楽しいゲームがしたい」――ああ、なんというマニア心の欠落!

 

 

「アーケードゲームはソーシャルゲームより高コスト」

 

 しかし、個人的なノスタルジー感覚抜きに考えてみれば、「上達プロセスを愉しむゲーム体験」とは贅沢な遊びではないか。

 

 「上達プロセスを愉しむゲーム体験」は決して安いものではない。どうしたって時間はかかってしまうし、神経を集中させる時間は肉体的にも高コストだ。金額的には低コストでも、金では買えない多くのリソースを費やさなければ「上達プロセス」を体験できない。そのくせ、スポーツのように身体に良いわけでもなく、一部の娯楽のようにステータスになるわけでもないゲームは、社会生活に寄与する余地もない。

 

 まして、ゲームセンターに通って難度の高いアーケードゲームをプレイするとなれば、金銭以外のコストは計り知れない。首都圏在住の人なら、目当てのゲームが最寄の駅前ゲーセンにあるかもしれないけれども、地方在住者の場合、自分の好きなゲームを遊ぶために数十キロ移動しなければならないこともザラだ。

 

 ゲーセンは、いまだ1プレイ100円を基本にしている。金銭的な意味では、現代のゲームエンターテイメントとして破格の低コストと言える。しかし、移動距離・時間的コスト・身体的コストといった観点からすれば、げっそりするほど高コストだ。21世紀にありがちな、忙しくて神経を休める余裕の無い顧客層にとって、ゲームセンターは高コスト体質すぎる。少なくとも、ドラゴンクエスト7を面倒と感じるような人にはそうだろう。

 

 これと対照的なのはソーシャルゲームだ。ソーシャルゲームにも「上達プロセス」は幾らかあるかもしれないけれども、対戦格闘ゲームやシューティングゲームほど顕著ではない。そして課金の程度によっては金銭的コストが際限なく上昇するので、金銭面では高コストなゲームと言える。

 

 そのかわり、ソーシャルゲームはまとまった時間をゴッソリ奪ったりはしないし、集中力を費やさなくても遊べる手軽さはある。スマホで遊べるので移動距離もゼロ、それどころかベッドに寝転がったまま遊ぶこともできる。移動距離・時間的コスト・身体的コストの面から見ると、ソーシャルゲームは低コスト体質だ。コミュニケーションの技能も要らないし、(昔のゲーセンのように)不良にカツアゲされる心配も要らない。金銭面にさえ目を瞑るなら、ここまで低コストで間口の広いゲームは無かったのではないかと思うほど低コストだ。

 

 アーケードゲームとソーシャルゲーム、21世紀の日本の顧客層にリーチしているのはどちらかといわれたら、ソーシャルゲームをはじめとするスマートフォン向けのゲームだと答えざるを得ない。低コスト指向で手軽になったゲームは「上達プロセス」を存分に愉しむようなものではなく、アーケードゲームや海外産シミュレーションゲームが好きな俺としては悲しい限りだが、これも時代の趨勢、時代のニーズなのだろう。みんな、忙しくて、疲れている。

 

 

もうすぐ俺は、ゲーセンでゲームを遊ぶコストに耐えきれなくなる

 

 いや、俺はこんな話がしたかったんじゃない。

 サンクコストとか、そういう話もお呼びじゃない。

 

 嘆きたかった。

 悲しみたかったのだった。

 

 つい先日、友人の一人から「シロクマさん、まだゲーセンでゲームやってるんだ。それって、すごい贅沢だよ」と言われた。その少し前には、全一級のプレイヤーが「もうゲーセンのゲームはやめるしかない。そんな時間も体力も残っていない」と呟いているのを見かけた。悲しかった。

 

 実際、俺もそう呟く側に回るのだろう。アーケードゲームからの引退・シューターとしての死が、すぐそこまで迫っている。仕事に就いた頃の悲観的予測よりはずっと善戦しているというか、ゲーム技能をこの歳まで温存し続けたことを嬉しく思うし、自分が積み重ねてきた体験が無駄だったとも思っていない。『レイフォース』『バトルガレッガ』といった青春時代のシューティングゲームをいつでもクリアできるのも、嬉しいことではある。

 

 けれども、ゲーセンに行って『怒首領蜂最大往生』や『ダライアスバーストAC』を遊ぶためのコストが、いよいよ支払いきれなくなってきた。ここ数年、衰えた動体視力と反射神経に鞭打って戦ってきたのは、無限の後退戦――衰えていく自分自身を直視し続けるゲーム体験だった。かつて俺はゲームの上達プロセスを愉しんでいた筈だった。しかし今は、ゲームを愉しんでいるのか、それとも自分の衰えと戦っているのか、よく分からなくなってきている。若い頃のように、電光石火、アドリブでザックリと弾幕をさばく力ももう無い。俺は目の前の蜂型メカやクジラ型メカと戦っているのか、それとも……。

 

 もともとコンピュータゲームは、若者の、若者による、若者のための娯楽だった。今もそうだろう。だったら、歳を取った俺がシューティングゲームを“ゴール”しても、誰も文句は言うまい。少なくとも、先に引退した連中は文句を言うまい。シューティングゲームに楽しさより疲労を感じるようになってしまった以上、もう先は長くないだろう。哀しみを受け入れ、それでも人生を前進させなければならない。

 

2013-02-12 誰かブログを書く時間をください

“壁ドン”を介した一体感と連帯感――ベタな表現と、エモーショナルな繋がり

 

 …前にも似たような記事を書いたような気がするけれど、大事なことなので二度以上言ってもいいような気がするので。

 

 ここ最近、ニコニコ動画を見ていて“壁パン”“壁持ってこーい!”といった文字をよく見かけるようになった。例えば『ソードアート・オンライン』『まおゆう 魔王勇者』などで男の子と女の子がキャッキャウフフなシーンになると、壁をドンドン叩くようなコメントが弾幕状に表示される。壁叩きだけでなく、もっと直接的に嫉妬が表明されることもある。コメントを字義通りに読むなら、「うわ、このアニメ見てる人達はみんな嫉妬しているのかー」となりそうではある。

 

 もちろん、実際に強く深く嫉妬している動画閲覧者もいるのかもしれない。けれども動画を観ていて感じるのは「そういう真性の嫉妬者は殆どここにはいない。」「そうじゃなくて、嫉妬で繋がる一体感や連帯感」が気持ちいいんだ、ということだ。

 

 最近の“壁パン”に限らず、ニコニコ動画、特に肌色パーセンテージの高い深夜アニメを見ていていつも思うのは、コメントを書き込むような視聴者はコンテンツ越しに性欲を補償することよりも、誰かとエモーショナルな一体感や連帯感を持つことに夢中になっているんじゃないか、ということだ。一時期の“おまわりさん、こいつです”とか“我々の業界ではご褒美です”なんかもそうだ。ロリコンへの怒りが嵩じているわけでも、真性のマゾヒスティックな悦びというわけでもない。けれども、そういう言葉と言葉が同じ動画でシンクロするということに意味なり効能なりがあって、心理的な満足を得ている、という構図。

 

 性欲の皮をかぶった他種の心理的欲求、というのは案外多い。

 

 例えばE.エリクソンは、思春期心性真っ盛りにおける恋愛は、本当の意味での二者の繋がりになるよりも、自分のアイデンティティを確立するための手段として異性に惹かれやすい、という事を書いている。現代風にかみ砕いて表現するなら、自分自身に自信が無かったり、自分の基盤が確立したりしていないから、恋人を存在証明の手段として欲しがったり、美男美女を恋人にして自分は偉いんだと思いたがったりする、というわけだ。そういうニュアンスが強いなかで、そのニュアンスに即した異性に惹かれていきやすいってことだ*1

 

 同じように、肌色なニコニコ動画のアニメに出てくるコメントも、表面的には嫉妬だったりマゾだったりしているけれども、その内実は性的な欲求充足よりも、一体感や連帯感の充足が前景に出ているように見える。というかそうとしか見えない。一体感や連帯感といえば、どちらかといえば自己愛充当の領域だ。それもニコ動の場合、個人単位で賞賛を集めるような平成以後に流行したタイプの自己愛充当ではなく、匿名の村人同士が身を寄せ合ってシンパシーを体験するような、昭和以前に流行したタイプのような、ちょっと古くて日本風の自己愛充当だ。

 

 こうした「ちょっと古くて日本風の自己愛充当」は、今でこそニコニコ動画が主たるフィールドになっているけれども、かつては「2ちゃんねる」が機能を担っていた。エモーショナルな一体感や連帯感を提供するネットサービスが、日本で常になにかしら流行しているのをみるにつけても、案外、日本のネットユーザーのなかには古くて日本風の自己愛の充たし方を求めている人が多いのだなぁと思うし、ネットに充当先を求めずにいられない程度には、一体感や連帯感がオフラインで足りてない人がたくさんいるんだろうな、とも思う。日常生活のなかで一体感や連帯感が足りている人は、わざわざネットでソレを求めなくて済むだろうし、むしろ、一体感や連帯感をしがらみと感じている人なら、そういうネットサービスより、もっと一匹狼&自由になれるネットサービスにリソースを割くだろう。

 

 しかし現実のニコニコ動画では、(嫉妬やロリコンといった)ベタな記号を格好のフックにして、感情的に共鳴するユーザーの姿が見受けられるわけだ。オフラインで繋がらないぶん、オンラインで繋がる、というわけなのだろう。それで助かっている人もいるかもしれないし、そこに溺れ過ぎた人もいるかもしれない*2。同調圧力ならぬ同調快楽、とでも言えばいいのか。なんにしても、あの賑わいもまた日本のインターネットの風景だ。オフラインの寂しさを映し出す影絵のような賑やかさ。

 

[関連]:ネットコミュニケーションの七面鳥化・コオロギ化 - シロクマの屑籠

 

*1:そして本当に一緒に結婚して暮らすのに適した異性の魅力は二の次になっちゃう事が多い、ということでもある

*2:あと、ひょっとしたらリアルでは感情表出が苦手だけど、テクストの世界で言語的になら感情表出しやすい、という人もいるかもしれない