リュック

使うほどに味わいの増す革製品が好きだ。
日々使っているリュックも、革製品だった。
ただ、本当に頑丈に作ってあっても、革だけで出来ているものは、把手や背負いバンドの付け根周辺が徐々に駄目になってくる。いろいろなバッグ、リュックを修理しながら使っているが、私が日々携行している程度の荷物はこうした革製品にとって重過ぎる、ということなのだろう。
そうなると、強化合成繊維などでできているリュックを使うことになる。
残念ながらそうしたものは使うほどに味が出てくる、というものではなく、徐々に汚れ、擦り切れ、みすぼらしくなっていく。
それでも、使う上では問題が無いので捨てられずにいる。

今年は、革製品が重さに耐えられない以上、合成繊維のリュックを使い続けようと思っている。
その際、見た目が悪くなっても機能的に十分であるなら、そのまま使おう。
もし機能が損なわれた場合には、直ぐに修理が可能であれば直して使おうと思うが、そうでなければ断捨離の精神で捨ててしまう。

そのような、使っている人の評価を下げかねないような古びたバックを使うのであれば、自身はよりしっかりとした生き方をしていることが不可欠かも知れない。そうした見苦しいリュックを使っていることが、周囲に配慮できずまたその余裕もない日々を過ごしているということを徴表しているのではなく、物やそれを作ってくれる人を大切にしているということが周囲に感じられる雰囲気。そのバッグから、その人自身を感じられるか、ということか。

私が高校一年生のころか、当時まだ東京都北区西ヶ原にあった東京外国語大学の英語サマースクールに参加したことがあった。おそらく大学生か大学院生がそうした教室を半分ボランティアないしサークル活動のようなかたちでやってくれていたのではないかと思う。
その時の私の担任の先生は、今思っても、生き生きとした、凛々しく可愛らしい顔立ちの美しい人であった。そして、その人の交際相手ではないかと思われる人が、哲学徒というか、かつて存在していた外国語を通じて文学・人文科学を学んでいる人のような雰囲気の、痩せて眼鏡を掛けた真面目そうな男性だった。
その人の使っていた筆箱は、青と水色を基調にしたモザイク模様のセルロイドで、罅(ヒビ)が入ったり角が割れたりしていた。それをゴムバンドで止めて使っていた。私がふとそれに触ろうとしたときだったろうか、
「それはとても大切な物なんだ。」
と言われたような気がした。
私には、罅(ヒビ)の入ったセルロイドの筆箱がとても素晴らしいものに見え、またその白皙の人がその筆箱を使っていることが格好よく見えた。私も後に、私の通っていた小学校の向かいの古々しく懐かしい文房具屋さんの隅の棚で同様の筆箱を見つけたとき、うれしくなって購入し、今も机周りで鉛筆などを入れて使っている。

つつましいものを使うことで、少年に憧れを抱かせることができるようなことが、正に私の憧れ、ということだろうか。