中田満帆詩撰集『38wの紙片』──誰かがあなたを読んでいる
中田満帆詩撰集『38wの紙片』(A MISSING PERSON'S PRESS)
雨が激しい。午前五時になろうとしている。今日は、中田満帆の誕生日である。この「詩人」(と私は呼ぼう。というのも、彼は、絵も音楽も、なかなかに才能のある人で、どれも半端でないレベルにこなせているように見える人だ。しかし、私が評価しうるのは、詩人の部分であるように思う)は、今日三十歳になる。気づいたら、Facebookの「友だち」にいて、「ニュースライン」に流れてくる書き込みに、筆力を感じさせた。文は人なり。ネット世界と、人は軽くいうが、おもでそこで人柄を判断されるのは、「書き込み」=文章でしかない。現実に対面して話していたら、もっとりこうに見えるかもしれない人も、ネットの書き込みでは、薄っぺらさも教養のなさも、性格を悪さも、見栄っ張りも、つまり、「お里が知れてしまう」。
私に詩集など送ってくれる人などいないが、中田満帆は送ってくれたので、読んでいるヒマはなくても、読まないというわけにはいかないだろう。なにせ、この詩集しか、「読まねばならない」詩集などないのだから。
この詩集は、だいたいFacebookでの書き込みから知れたように、豊富な読書量、硬質な言葉、強靱な精神で満たされている。そんな精神だけが、世界の荒廃を記述することができるのだ。27編、どれをとっても破綻や緩みがない。世間に溢れる自称詩人の方々にも読ませたいものである。まず第1行目がぴたりと決まり、それを最終行まで引っ張っていく。決して意味とは妥協しない。あくまで、「詩」であり続ける。物語に堕すこともない。そして荒廃の美しさを記述していく。そして、詩集は、終わりになっていくほど洗練されてくる。
田舎の国道で
天使どもがはげしいおもづらでおれをどやしつけ
中古車センターだけが輝かしい
路上に擦り切れ
かぜになぶられた
このおれが手にできるのはテニスンの短編ですらない
けっきょくは別離
自身を運び去っていく清掃人のような
ありかただけ
(『清掃人』最終の部分)
反響が返って来ない不満を、彼はしばしばもらしているが、誰かがあなたを読んでいることを、この先も忘れないように。これを、誕生祝いの贈る言葉としたい。