お札(ふだ)を燃やしてみました

ある方がバプテスマ(洗礼)を受けようとされておられました。バプテスマについてはいろんな意味付けがなされていますが、私たちはイエスキリストを救い主として信じた人が、その信仰を人々の前で公に告白する儀式として理解しています。

さて、いよいよバプテスマの日が近づいてきました。すると不思議なことに、その人の家が揺れたり、人気のない部屋のドアが突然開いたりするポルターガイストのような現象が起きて、怖くて眠れない夜が続きました。

この人は霊に敏感な人でしたので、これはバプテスマに反対する悪霊が邪魔しているからだと思い相談に来られました。その方はいろんな神社仏閣のお札を集めていましたが、お札は本来霊的な力のよりしろとして、霊が宿るものと信じられていますので、これも原因の一つかもしれないということで処分を私たちに依頼されました。

聖書では天地創造の神様でないものが神として礼拝の対象とされる場合、それを神様の嫌われる「偶像」と呼んでいます。お札も「偶像」になりうるのですが、その際には背後に悪霊の働きがあると言えます。悪霊の働きの特徴は人々の目を神様から逸らせることです。

旧約聖書エレミヤ書10章5節には偶像に関してこんな言葉があります。

「それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」 

ですから、実際のところ偶像には人間が恐れるほどの力は無いはずです。同様にお札そのものは、文字の書かれた木切れや紙切れに過ぎないのですから、それ自体には何の力もないはずです。それを恐ろしいもの、バチや祟りをもたらす怖いものと思わせるのが悪霊の働きです。

さて、私も頭ではこのことを知っていました。でも、いざ処分するとなると、以前のお地蔵さんの場合もそうでしたが、やはり怖いという感情が湧いてきました。そこで、神様に祈りました。

「全能で創造主である神様、あなたを信じることを妨げようとする働きがここにあります。人の力ではできませんが、どうかあなたの聖霊の働きでこのお札に宿る悪霊を追い出してください。その聖霊の働きに信頼して、私はこれらのお札を処分します。」

祈ってから、お札を全部我が家の薪ストーブに入れて、火を付けました。あっという間に、本当にあっけないほどの速さでお札は燃え尽きました。悪霊がどうなったかは見えませんでした。聖霊の力によって追い出されてかも知れないし、あるいは、元々いなかったのかも知れません。

私はそのあっけなさに、あの旧約聖書の言葉は本当だったんだなと思いました。そして、我が家にそのお札を持ってきた日から、その方のお宅のポルターガイスト現象はピタッと止まりました。

私は決して他の宗教を信じておられる方の信仰心を揶揄するものではありません。私の家族も天理教の信者ですし、彼らのまじめな信仰心には尊敬の念を持っています。ただ、その教えや道具が人間の恐怖心に訴えて、天地の創造主である神様から目をそらす働きをする場合は、聖霊なる神がそれを取り除かれることはあると思っています。

小さな、初めての経験でしたが、備忘録を兼ねて掲載します。

1800年代の日本語聖書(2)

2.ロゴスの訳語

1800年代の日本語聖書翻訳を詳しく見てみると、「ロゴス」という言葉の翻訳の進展が見えてきます。ギュツラフ(1837年)からベッテルハイム(1855年)まで、さらに1873年にベッテルハイムの改訂版に至るまで、「ロゴス」は賢明なものを意味する「カシコイモノ」と翻訳されました。その後、ヘボンとブラウン(1872)は、言葉の中に存在する精神を意味する「言霊(コトダマ)」という訳語を採用しました。ただし、ヘボンはその後も翻訳の改良を続け、1873年には、ヨハネの福音書の日本語訳をローマ字表記した音訳版を出版しました。この音訳版のヨハネの福音書1章1節は次のように読むことができます。

 

Hajime-ni kotoba ari, kotoba wa kami-to-tomoni ari, kotoba wa kami nari.

(ハジメニコトバアリ、コトバワカミトトモニアリ、コトバハカミナリ。)

 

ここで、1872年訳の「言霊(コトダマ)」は1873年訳では「言葉(コトバ)」に置き換えられました。

 

海老沢(1964; p.p.284-285)は、ヘボンが導いた新約聖書翻訳委員会(当時は「翻訳委員社中」と呼ばれていた)でもこれらの用語が検討検討され、ローマ字版の翻字に見られるように、訳語を「言霊」から「言葉」に調整したものと見て良いであろうと語っています。ヘボンはその後も翻訳を改訂し続けたましたが、それ以降は、「ロゴス」の訳語しては「コトバ」という用語が定着していったようです。

 

翻訳委員社中は1879年に翻訳を完成させ、1880年に「引照新約全書」を出版しました。この本では,ヨハネ1:1は次のように翻訳されています。

 

太初(はじめ)に道(ことば)あり 道(ことば)わ神と偕(とも)にあり 道(ことば)ハ即ち神なり

 

この翻訳では「ことば」という訳語が使われたにもかかわらず、漢字の「道」を使って説明を試みています。「神」という訳語と比べると、「ロゴス」の訳語の方は、この時期でも未だ不安定さを見せているようです。「ロゴス」という概念の初歩も未だ日本人には分かっていなかったようです。

 

ニコルズ(1987;94)は、聖書記述様式には2種類あり、1つは論理的説明の必要な「概念的」様式であり、もう1つは「象徴的」な様式であると言います。福音の受け取り側の文化に送り手側の象徴的様式に匹敵する表現様式が存在しない場合、それに変わる様式を求めることがあります。

例えば、「雪よりも白い」(旧約聖書詩篇51篇7節)や「カラシ種ほど小さい信仰」(マタイによる福音書17章20節、ルカによる福音書17章6節)などの表現は、雪を見たことのない文化やカラシ種を見たことのない文化にそれを説明しようとする文脈化の過程で、「雪」や「からし種」に代わる表現に変えることができます。しかし、論理的説明の必要な「概念的」様式の方は他の表現様式に代えることができないので、受取手側にはその意味を説明して伝えるしかありません。

 

ヴァイン(p.p.1252)は、このヨハネ1:1のロゴスの概念を、神の御子の1)明確で、有限性を超越した2)父なる神との関係、3)神性を宣言する人格的な言葉であると定義しています。日本語訳の「ロゴス」の訳語の不安定さを見ると、「ロゴス」の概念を理解するのが日本人にとっていかに難しかったかが明らかです。キリスト教のロゴスという概念は論理的説明を必要とする概念ですが、日本の文化にはこれに匹敵する概念はありませんでした。送り手側がある概念を伝えようとする時、受け取り手の文化にその概念が存在しないとしたら、その概念を表す送り手側の用語を受け取り手側の言語に正確に翻訳することはできません。したがって、翻訳者は翻訳する用語の意味を説明しなければなりません。つまり、説明訳です。

 

カシコイモノまたは賢明な人は、イエス・キリストの持っていた神聖な知識を説明するために選ばれました。コトダマまたは「言葉に存在する精神」は、イエスによって提示される神の思い、また、その提示される力によって成就される神の思いを説明する用語として選ばれたと私は考えます。その後、「言葉(道)」が訳語として採用されますが、この訳語は「神の思いの表現」と「神に到達する方法」との混合した表現として採用されました。後者は神道と儒教の強い影響力を含むと思われます。

 

これらの訳語の試みはすべて「ロゴス」で表された聖書の概念を説明しようとする翻訳者の努力を示していますが、そのいずれもが「ロゴス」の概念を完全に翻訳することに成功したとは言い難いと思えます。

1800年代の日本語聖書(1)

ヨハネによる福音書1章1節のテオスの訳語

プロテスタント宣教師によって作られた初期の聖書の日本語翻訳を見ると初期の翻訳者が聖書の基本的な用語を翻訳するのにどんなに苦労したかが分かります。このセクションでは、初期の日本語訳で「ロゴス」と「テオス」という用語が表示されるヨハネの福音書第1章第1章を比較してみます。

  1.  1837年(推定)のギュツラフ訳では次のような翻訳文になっています。

     

    ハジマリニカシコイモノゴザル。コノカシコイモノゴクラクトモニゴザル。コノカシコイモノワゴクラク。

     

    鈴木(1977 藤田(編) p.p.302)は、「ロゴス」と「テオス」の訳語として「ゴクラク」が選ばれたことにより、3人の日本人助手がギュツラフの説明から神の概念を理解するのにいかに苦労したか推察できるとしています。もしこの日本人助手たちがその概念を理解していたら、彼らは「神」か「ホトケか仏」のどちらかを選んだことでしょう。これは、聖書の神と日本語の神との間の隔たりがどれほど大きかったかを示しています。

     

  2. 1855年のベッテルハイムの翻訳。

     

    ホジマリニ カシコイモノオテ、コノカシコイモノヤ シャウテイトトモニウォヌン、コノカシコイモノヤ・シャウテイ

     

    この翻訳では、テオスや神、標準的な日本語のジョウテイ、中国語の上帝の訳語として沖縄の方言の「シャウテイ」という言葉が使われました。しかし、この翻訳は1873年後半には次のように改訂されました。

     

    ハジメニカシコイモノアリ カシコイモノワカミトトモニイマス。カシコイモノワナワチカミ

     

    「シャウテイ」という用語が「カミ」に改訂されました。これは、1855年から1873年の間に「カミ」という用語がテオスの標準的な翻訳になったことを示しています。

     

  3. ヘプバーン/ブラウンの翻訳(1872年)。

    元始に言霊あり言霊ハ神とともにあり言霊ハ神な里

    (読み仮名)

    ハジメニコトダマアリ コトダマハカミトトモニアリ コトダマハカミナリ

     

    この時までに、彼らはテオスまたはゴッドの訳語として神という用語を固定の訳語としています。

    鈴木(同 p.p.303)は、C.M.ウィリアムの十戒(1861年推定)の翻訳が「神」を採用し、J.ゴーブル訳のマタイの福音書(1871年)も「神」を使用したと紹介しています。以上のことから推察すると、1860年頃には既に「神」という用語が定訳として選ばれていたようです。

地名に基づいた氏名 

今日は、ギュツラフ訳聖書の「God」の訳語「ごくらく」についての検証の続きです。
以前(2010年8月30日)の記事で「ごくらく」という場所名(地名)は阿弥陀如来という人格者名(氏名)を表すのではないかという私見を述べたが、これを裏付けるものとして、「極楽の迎え」(=阿弥陀如来の迎え)や「極楽の諸天」(=極楽の住人)という表現や「北の方」(=貴人の妻)や「お納戸」(=徳川幕府の会計役)という表現があることを私の修士論文で述べておいた。(詳しくは、http://muir.massey.ac.nz/bitstream/handle/10179/671/02whole.pdf?sequence=1, pp.166-167 を参照願いたい。)

それに加えて、今回は、役職として配置された場所の地名が、配置された者の氏名となった例を挙げてみたい。記事を参照させていただいた安島洋平氏、前田嘉一氏に感謝したい。

安島洋平氏注1は日本人の名前の由来を9つ(正確には4つ)の類型に分けている。すなわち、諱(いみな)、仮名(けみょう)、輩行名(はいこうめい)、受領名(ずりょうめい)、百官名(ひゃっかんな)、東百官(あずまひゃっかん)、幼名(ようみょう)、字(あざな)、号(ごう)である。ただ、その内の輩行名(はいこうめい)、受領名(ずりょうめい)、百官名(ひゃっかんな)、東百官(あずまひゃっかん)、幼名(ようみょう)、は仮名の種類としているので、正確には、諱(いみな)、仮名(けみょう)、字(あざな)、号(ごう)の4つである。

諱(いみな)は貴人、武人の本名である。宗教的忌避と高い身分に遠慮して、古来日本は貴人を本名で呼ぶことを避けてきた。そのため、忌み名という。仮名(けみょう)は通称である。幼名(ようみょう)は乳幼児期から、元服する15歳くらいまで名乗った名前である。字(あざな)は本名ではなく別名のようなもの。号(ごう)は諱、字とは別の第3の名とされている。仮名(けみょう)はあくまでも仮の名前であり、諱、字、号とは別のものとしている。また、幼名も一時的な名前であるので仮名に分類しているのであろう。

ここで、注目したいのは、仮名の一種類である百官名(ひゃっかんな)である。安島はこの百官名を「仮名(けみょう)の一種。官職を正式に名乗るのは憚られるので、官職名(官名)のうち、官公庁や部署の名前だけを自分の名前として名乗ったり、あるいは、官公庁名をはぶき、役職のランク、軍隊でいう階級のみを称する慣習が、戦国時代くらいからなされるようになった。いま、これをつける人は結構いるようだ。
 例えば、安島は「片山右京さんの右京がそうだし(右京職から来ている)、[中略]朝廷の門を護衛した人を隼人(はやと)というが、いまは『ハヤト』君も多い。(中略) 一部を紹介すると、左京、式部、主税(ちから)、木工(もく)、内匠(たくみ)、造酒(みき)、左近、右近、兵庫、大学、帯刀(たてわき)、蔵人(くらんど)などがある。また、日向(ひゅうが)、大和(やまと)、甲斐(かい)、和泉(いずみ)などの国名を人名として用いた場合も百官名に含まれる」と説明している。

この「日向(ひゅうが)、大和(やまと)、甲斐(かい)、和泉(いずみ)などの国名を人名として用いた場合も百官名に含まれる」という記述に注目してほしい。地名が派遣された官職名に含まれ、さらにその一部である地名部分のみが人名になったということである。

一例であるが、前田嘉一氏は、「源頼朝の奥州遠征で奥州藤原氏は滅んだが、この時遠征に参加した鎌倉武士が奥州に所領を与えられその地名を名字にしていった。中には後に戦国大名となった家もあり代表例として、伊達・南部・畠山・三浦・相馬・結城などがある。」と述べている。注2

このように、派遣された場所の地名が、氏名になるという用例が存在する。

注1:安島洋平、2009/08/04、日本人の名前の由来−正統派?命名事典(男性編)、JANJAN News、http://voicejapan2.heteml.jp/janjan/living/0908/0908028141/1.php
注2:前田嘉一(Yoshikazu Maeta)、名字の由来、民俗学の広場、http://folklore.office-maeta.jp/060828.htm

日本の聖書(ベッテルハイム訳)

ユダヤ系ハンガリー人のベッテルハイムは鎖国化の日本を避け、琉球にかなり強引に上陸し、そこで琉球語のルカやヨハネの福音書等を翻訳しました。画像はヨハネ伝福音。彼は琉球政府の困惑も意に介せず、路傍説教をしたり、自分の訳した聖書やトラクトを家々に投げ込み、その後で役人がそれを回収して束にして返却してきたといいます。長男をギュツラフと名づけたほど、ギュツラフに傾倒していたベッテルハイムは、ヨハネ伝福音書の訳に際しても、「ごくらく」を「シャウテイ(上帝)」に変えた以外は概ねギュツラフ訳を参考にしています。

日本の聖書(ギュツラフ訳)


始めに
この章では、聖書がどのような経過を経て日本語に翻訳され、その聖書を私たちはどのようにして受けとり、どのように取り扱ったらいいのか考えてみたいと思います。具体的には、江戸末期から明治初期にかけてのプロテスタント聖書翻訳者の概要紹介、特にその中で、現存する最も古い日本語聖書の翻訳をしたギュツラフと彼を助けた音吉、久吉、岩吉のエピソード、また、医療や教育を含めて日本の文化の向上のために貢献し、ついに旧新約聖書全編の日本語訳編纂にまで導いたヘボン博士と奧野正綱の紹介、そして、多くの犠牲を払って日本に伝えられた聖書と言う宝物を私たちがどう受けとって、どう次世代の人に渡していくかという問題を考えたいと思います。添付した図等は、2010年8月29日にオークランド日本人教会で提示した内容に一部手を加えたものです。

1.ギュツラフと音吉
ギュツラフ(写真左上)は中国に伝道したオランダ人宣教師ですが、マカオで中国語と日本語を習い、イギリス商務省の通約官をしているときに、岩吉、久吉、音吉(写真左下)という3人の日本人漂流民の世話をしました。この3人は愛知県知多半島の小野浦の出身ですが、1832年に三重県の志摩から宝順丸と言う14人乗りの和船で江戸に向けて荷物を運ぶ途中で嵐に遭遇し、14ヶ月の漂流を経て、11人が死亡し、アメリカ西海岸のフラッタリー岬付近に漂着し、土着民の奴隷となりました。彼らうち6人の出身地小野浦では、この漂流者たちが死亡したものと思い地元の良参寺に墓を作り弔いました。この墓は2009年3月現在でも存在しました(写真参照。)音吉たちは土着民のもとで3、4ヶ月過ごした後、イギリスのハドソン湾会社に救助され、ハワイ、南アメリカ南端のマゼラン海峡、大西洋、ロンドン、南アフリカの希望峰、インド洋を経てマカオに到着しました。添付の和船の写真は和歌浦の旧校舎を利用した資料館で見た当時の海運用和船の模型です。ギュツラフは彼らの助けを借りて現存する最初の日本語訳のヨハネ福音書とヨハネの手紙1〜3を出版しました。写真のタイトルにはヨハンネスノタヨリヨロコビと読み仮名がふってあります。音吉らの出身地知多半島の方言が入った訳だと言われ、それを朗読したCDもいのちのことば社から出版されていますが、礼拝に主席されていた地元出身の方がこのCDの始めの部分を聞かれた感想では、「カンベンシラナンダ」という言葉以外にはそれほどきわだった特徴はなかったようだとのことでした。

ギュツラフは、彼ら3人に加えて、フィリピンのルソン島まで熊本の船で漂流し、マカオに連れてこられた4人の漂流民、庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松をアメリカの商船モリソン号で日本へ送還しようと試みました。その時、ギュツラフが音吉たちにインタビューした記録の中に「岩吉久吉乙吉、徒ノ人ノ御船ニをどろくな、日本ゑハいける」という言葉があります。彼らはこの言葉で日本へのメーッセージを発したのだと思われます。三人の名前、外国の船に乗って帰るけどびっくりしないでほしいとのメッセージ、帰国への期待が凝縮された言葉だと思われます。ところが当時の日本は鎖国のまっただ中。浦賀沖と鹿児島で2回の砲撃を受けて追い返され、彼らは帰国を断念せざるを得ませんでした。マカオへ引き返した音吉は、その後アメリカに行き船員になり、上海に戻り、事業を始め、日本人漂流民の世話をした。最後は奥さんの故郷のシンガポールに行き、そこで亡くなった。遺灰はシンガポールのチョアチユーカンの国立墓地から、イオチユーカンの日本人墓地公園に移され、2005年2月にその一部が上述の小野浦の良参寺の墓に納められました。

音吉たちの手伝ったヨハネ福音書の翻訳の中で、神の訳語として「ごくらく」が出てきますが、何故その語が採用されたかは私の知る限りでは誰も説明したことがありません。これは私見ですが、彼の出身地の知多で浄土真宗が盛んだったことと合わせて、聖書の創造主が音吉らの意識の中で阿弥陀如来と一番似かよっていると考えられて、阿弥陀の居場所、ごくらくを阿弥陀に置き換えて訳語にあてたのではないかと私は思います。

使徒の働き17:22-25

そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
この世界とその中にあるすべてのもの をお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。