panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

トゥール・スレンで終わる2日目

 さて今日の第2弾。ドーンと恋。いや、濃い。いやあ、故意?。いやいや、鯉。ってどうする?。来い。・・・馬鹿げてね?、日本語って?って、そっちのせいなのか?。
  ともあれ、トゥクトゥクで行ったのは、最後の観光地トゥール・スレン収容所。別名S.21。王宮、博物館、ワット・プノム、中央市場、ロシア市場というのが名だたる観光場所で、そこに行くと残すのは収容所くらいなのだ。あと郊外のキリング・フィールドがあるが。そこは、殺害死体ではなく、人を生き埋めにしたところだと記憶する。ナチスより凶暴なのだ。とんでもない。・・・告白です。実は、ホーチミンでは、アテンドと相談の上、戦争関係の博物館にはどこも行きませんでした。行ったとバンコクでは云ってましたが、行ってません。い、行きたくなかったのです。テレビや本で知ってますので。すいません。アテンドも女性なので、諒解でした。諒解です。我輩は職業上行くべきでしたが、今回はパスしました。どういうところか、よく知ってますので。
  にもかかわらず、時間に余裕、心に隙のあった我輩は、今日は行ってしまいました。S.21。入管は2ドル。ここでもリエルを使う。収容所は元高校。中庭にヤシの木が茂る。ここで何千人とクメール・ルージュは殺害したのである。狭い各教室が監獄、ではなく拷問室になっており、鉄のベッドや鉄の拘束器がそのまま放置という形で展示され、おまけにその部屋、部屋で亡くなった人の写真が貼られている。吐き気がする。ハノイでもフランス人による監獄をちょっとだけ見たのだが、足首を拘束され、つながれているだけでも苦痛だと思ったが、プノンペンでは徹底的に縛られ、死ぬまでそのままなのだ。死体の写真もいっぱいあった。寝返りを打てないだけで苦しいのに、彼らはどんな気分であったろう。気が変になっていたであろう。想像したくない。しかも女性と明らかな子供もたくさんいる。写真が貼られている。生まれたことを後悔しただろう。まったく訳がわからない。しかも殺されたのは知識人からなのだ。我輩はすぐ殺されたであろう。でも初期にだからまだよかったのか。・・・そのあたりの街は、いまでものんびりした民家が連なっている。しかし叫び声やうめき声が毎日聞こえたはずだ。どうしていたんだろうか、住民は。そう考えると、背筋も凍るのであった。
  歩いてホテルまで帰る道すがら、このクメール人のニコニコ顔も、人の恨みを買って放り込まれないための、実は40年くらい前に編み出された術策なのではないかという疑いが湧いてくる。うーーーん、謎だ。気分はめげるが、ここはそういう街なのだし、その生き残りが生きているのだ。忘れてはいけないと心に刻むのであった。
  明日はアンコールワット。朝7時半のボートでトンレサップ湖に向かう。と思い、夜は軽めの水餃子の北京菜館。また中華かあ。でもイタリアンと中華で世界中回れるのでは。イタリアン、中華。中華、イタリアン。食うか食われるか。ってまた語呂合わせか。殿、老化したのですか。どうも。・・・写真張れるかな。マルガリータ飲みながら、ホテル一階のバーにいるのだが。店仕舞いの雰囲気が、、、。
  教室と写真・・・。