panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

可能性をひろげる・・・・・・?


  ぐったりして外に出られず、今日は沈没というか避難というか退避というか。
  室内にいてもぐったりぐっしょりぐずぐずだが、どうも読み忘れていたらしい高野秀行先生著『巨流アマゾンを遡れ』を読んでいる。初期の作品だが、南米には興味がないので、ほったらかしにしてあったみたい。あるいは既読なのに忘れているとか。藪の中ですなあ。
  5時に夢中!という番組で「かしこ飯」コーナーがあって、イケメン学者に話を聞くのがあるが、昨日のをみていて、標題のようなことをいうのである。今日日本の誰もが、この可能性をひろげることに異を唱えないように思えるだけに、急激にまた、プルースト的感覚がよみがえるのを感じる。
  発達、発展、開発は同じ原語である。ディベロップメント。なら発展する人はディペロッパーか。ふふふ。ま、それはおいておいて、発展、発達、開発、ひいてはポジティヴであること、あるいは成長すること全般が、よいことだと人は思っているようである。が何となく釈然としない。
  我輩は発達や発展を正面から否定はしないが、そもそもそうでなければならない、という主義には真っ向から反対である。人は現実の個々の人であることによって他と異なる。自分にとって本当にもっとも大切なのは、一般的指標によって計られる何かの度合い、つまりは発展の度合いではない。
  むしろ誰とも異なるという点、公表したり表現することすらはばかられるようなことが大切だとすら思える。具体的に書くのは控える(長くなるし、このお気軽ブログのテーマではない)。ただノースマンにして哲学者セーレン・キエルケゴールのことを思うとだけ書いておこう。
  彼の実存への固執を正しく理解しているとは言い張るつもりはないが、我輩なりに考えるところはあるのである。そして、個々の実存というものが、それを言葉にして一般的な場において人々の理解をもめるようなたぐいの事柄や手続きとは異なる指向をもつということだけは確かなように思われる。可能性をひろげるというときの他人の尺度によってはかる、あるいはそうした基準によって評価を得るといったシステムというか手続きと、現実の人間の存在の核、すなわち実存のあり方はまったく方向を異にするものだと考えるからである。
  したがって、まあ、可能性をひろげる、という言葉を義務としての教育的環境以外で使っているのを目にすると、めくるめくような反発を覚えるのであった。・・・しかし言葉を使うという点でやはり一般性への繋留(けいりゅう)はあるのだが。
  あー、猛暑のさなか(昨日は猛暑ではなかったし、今日もどうかわからんが)、暑苦しいことを考えさせる昨日のかしこ飯学者であるなあ。・・・読んでるほうがもっと暑苦しいか。、、、すまんこって。