panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

管理社会はどう評価すべきなのか


  総選挙の日。神奈川県で誰に投票したらいいのか、まったくわからない。誰もいない。
  和風総本家という日本礼賛番組は他の最近増えた日本礼賛番組同様、結構面白い。こういうのに本能的に反発するというのが我輩の世代で、先日ももういい年したイスラエル専門の学者と食事していると、現在は戦前のヒトラー登場前夜だとかいうので、困惑してしまった。もし戦前のナチス登場以前のドイツがいまの日本と同じなら、なんてのんびりした時代だったのかと思う。いい時代だったのか。大恐慌後のインフレで食べるものもなかったドイツって。
  だからこういう世代を含めて戦後教育を受けた人間は日本のよさを認めたくないことはわかる。だからこそ、和風云々のような番組が必要なのだ。
  しかしこの前、アズマックス?という芸人(トリオスカイラインのリーダーの息子といえばわかる人はもう定年過ぎだ)が思わず、日本って管理社会だと口走ったときにはハッとしてしまった。そういっては番組全体が成立しないというか否定されたに等しいから。
  大森でたまたま見ていた家人1もこれに気づいたようで、こんな発言がカットされなかったのはなぜかと思ったというが、それはテレビ関係者が文系大学出身のくせに何の知識もないアホばかりだからであって、とくに深い理由はないと思う。それほどに若い日本人はバカだという点は疑う余地がない。
  しかし問題はこの管理社会発言がまさに日本の美点ばかり並べる番組の根幹をついていた点なのだ。その回はブラジル人に日本社会のよさを伝えるというものだったが、一日で免許のとれるブラジルと違って相当ハードな自動車学校がある日本はかなり奇異にうつる。これは一事が万事で、隅々まで行き届いた日本の居心地のよさはまさに精密に管理されているからであるという事情が浮き彫りになってしまう。地下鉄の整然さや5分ごとにはいってくる電車などの調整、チリ一つ落ちていない公道(前に書いたようにタイから帰ってほんとにびっくりした)、小学校の一糸乱れない給食提供、、、、、、、。
  さてここで荻上チキなら管理社会化というオーウェル作の『1984年』化みたいな文脈を強調するのだろうが(しかし彼の一夫二婦問題はどうなったのかなあ)、そういうだけでいいのだろうか。
  管理社会と、アメリカの無法社会、南米の無秩序社会、中国のアナーキー社会などとくらべてみると、この管理社会を飼い馴らした日本というのはある意味、むしろ評価されるべきなのではないか。そしてその上で、この管理化が人間の生気を奪っているというもう一つの重大な一面を、「社会工学」的に考えるという風に発想を転換すべきなのではなかろうか。
  通常、管理社会や監視社会という言葉は社会科学的には完全にマイナス概念だし、我輩もそういう議論をある意味生涯追求してきたともいえるが、それではだめだという気持ちがいまや強い。とくに日本のように江戸時代から管理社会化していた社会においては管理はある種のしつけとなっている。むしろいま問題なのはこの躾(しつけ)の解体なのである。とすれば、日本と他の国を一緒に論じても背景が違う以上、管理の当該社会での意味合いも異なってくるということなのである。
  とはいえ、束縛や拘束となった管理に一番反発するのも我輩なので、何となく申し訳ない感じもするのだが。むほほ。管理社会は儀礼社会と並んで嫌いだが、でもそういう個人的見解とは別に、この国の管理のあり方は決して一方的に否定されてよいものでもないだろうし。  写真は実家の近所。坂になった道路からとった。天気がよいと向こうに函館山がみえる。