panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

高田純次、水木しげる、蛭子能収−−−−「美しく生きる」


  朝早く起きたので洗濯をしたが、ついでにトイレ掃除もした。トイレは窓はあるが開かないので、こまめに掃除しなくてはならない。立って用をたすなどもっての外で、実にせせこましい人間になったのを感じる。
  でもポキの理想の人間はこの大人物三人である。改めて思って考えてみたが、奇しくもテレビ的芸能の人々だったので、テレビタレントを羨望する最近の若人を叱るのはもうよそうと思う。でもこの三人に共通点はあるのか。ないかもしれない。そのことを自分では実は考えるのだが、それを書くのは面倒だ。
  高田先生は「自慢話をしない、昔話をしない、説教をしない」と念じて、残ったのが、例の適当主義的な話法だった。水木先生は、マイレージこにだわってると、人生苦しくないかという名言がある。最近、アメックスのマイレージで往復タイ旅行なんか軽い軽いというポキには、むしろそのお言葉が苦しい。そしてアエドゥーのマイレージでは函館往復もできる。
  脱線するが、最近バニラエアが成田函館便を就航し(するかしたかし)、5千円台でいける。東京まで出てそこからバスで千円かけて行くのはポキのような暇人には結構活用できる。もうエアDOにこだわる必要もないなあ。
  蛭子先生語録については既に何度も語った。
  かくてここに共通点はあるのか。ある、といいたいが、それは実をとるという生き方である。この実をとる、空気に流されないという行き方は、日本では実は異端である。いわゆる「長期的関係」では空気だの、名をとるのにしたがうほうが利益は大きいからである。実をとるというのは、だから、矛盾である。しかし自分にとって納得のいく道をとるという風に解して、それを実行することは少数者の選択ではあるが、ポキはこれが「美しく生きる」という理念にかなうと思える。
  おっと、久しぶりに美しく生きるというモットーが出てきた。美しく生きるために実をとるというのは一見変だが、これが日本という文脈では、正解だと思うのであった。
  第三の男はウィーンが舞台である。家人2は今日チューリッヒからウィーンへむけて出発したようである。チューリヒは満足したようである。ウィーンではフンデルトバッサーだの分離派だのみて、ウィーンフィルも聴くというが、そういえば、ウィーンフィルなんて実見したことなかったなあ。チューリヒだってチューリヒ・トーンハレという有名なオーケストラがあるのだが、家人2が知らないわけはない。先輩で指揮者の卵のところに逗留しているのだから。それも聴ければいいのだが。