panachoの日記

辺境アジアからバロックオペラまで

社会はどこにいった、あの世はここにある


  今日は休む。と思いを固めると、世界が変わる。もうなんかヘトヘトなんで。
  新聞をずっととっていないため、社会や世界の具体的な質感をなしていたものがどんどん希薄化する。つまり社会なるものの実態は実は新聞だったのか。勿論テレビも世界や社会なるものの重要な構成要素だったが、それらの程度がわかって「裸の王様」でしかないことが知れると、やはりそこから社会を受け取ることがむずかしくなる。
  そうすると主に職場から社会がやってくるのだが、それは伝統的には世間だ。世間は狭い。それは社会ではない。社会はもっと広い世界のはずだ。でもそれを知覚させる媒体が新聞、テレビ、書籍など、凋落の一途をたどっているわけで、社会はもはや存在しないのではないか。
  職場という狭い世間、あるいは浮世で長年暮らして、退職すれば(福祉)国家の諸制度が生活を支えてくれるという仕組みでは、社会はあってもなくてもいいものなのではないか。
  それにつれて、あの世はむしろ近づく。この世がどこにいったのかわからないのに、あの世だけ近づくという近代以前の世界へと回帰する・・・ところのポキ。