絵の依頼

画用紙の大きさは、昔し、というより大昔しに、学校の授業で使ったサイズ。
左上から右下に向かって、幅十センチくらいの帯を描く。用紙の縦の長さを四等分して、左辺の上から四分の一から始まり、右辺の下から四分の一のところで終わるまっすぐなーーといっても定規を使て描くほどのことはないーー帯。
この帯以外の部分は緑色に塗る。田植えが終わってそう日数が経過していない田んぼを、思い浮かべてもらいたい。全体としては緑なのだが、田んぼに張った水もまだ見えるし、苗もまだか細い。そんな景色を頭に浮かべて、緑を塗ってもらいたい。
両側を田んぼに囲まれて川が流れているが、川の水面は、両岸の土手道より二、三メートル低いので、見えない。見えるのは、川の両岸の土手道だけ。それが一本の帯に見える。土手道には雑草が生えて、一部には枯れて茶色になった部分もありそうだ。そのイメージで、十センチ幅の帯を塗ってもらいたい。
午後の早い時間、夕方の散歩の時間にはまだ間があるので、その土手道を歩いている人は、その人ひとりだけ。佇む、というか立ち止まっている。そのときは。足元に小さい白いものがちらちらするのは、連れている犬だろう。女性だということは分かる。赤いワンピースを着ている。裾はかなり長い。足首まで十センチくらいだろうか。想像では。絵の上では、この人のサイズは二センチくらいだろうか。帯の長さ方向については、ほぼ中央だと思う。幅方向については、真ん中ではない。土手道の帯の左上が川の上流だと思ってほしい。この人のいるのは、川の右岸(下流に向かって右が右岸)だから、赤いワンピースの人は、帯の幅方向については、やや下寄りに描いてほしい。
こんな絵なのだが、お願いできるだろうか。

火中の栗を拾う

テレビ受像機でテレビを視ることは殆どない。ときどきパソコンでNHKプラスを視る。「芦屋小雁」が出ている、といっても役者としてではなく、芦屋小雁が役者として活動している姿を伝える番組を視た。懐かしい。生の舞台は観たことがないが、テレビの画面ではお馴染みだった。88才になるそうだ。
認知症の症状が出ているそうだが、それでも、役者として活動したい、という情熱に燃えて活動している。奥さんや周囲の人のサポートを受けてはいるが、本人にやる気がなければ、しないでもいられる。役者としての活動の中では、自分が思うようにならない、というストレスを感じる場面もたくさんあるのではないかと思う。
火中の栗を拾う、だな、と思った。毎日、慣れ親しんだこと、危なげなくできること、そういう活動で毎日を過ごしている(埋めている、といった感じか)わたしとは大違いだ。偉いなと思った。

カウントダウンが始まった

期日が決まった。というわけでそれまでの日数が、一日が経過すると、ひとつ減る。期日が決まった、というか「提出期限」が決まった。それもあって一年以上書いていなかったここに書き始めた。
私小説というのは、書くことが浮かばなくなった小説家が編み出した、苦肉の小説だと思う。それに、私小説と銘打って売った方が売れるだろう、という、思惑もあったと思う。他人の生活を覗き見たい、という気持ちからその本を買う。おおいにありそうだ。
わたしも、毎日一日ずつ期限が近づくことに毎日悩んでいるのだが、何も書けないので、そのことをここに書こうと思う。

卵の殻は変わったのか

卵の殻を割って中身を器に落とすときに、割り方によって、殻の破片が器に落ちてしまうことがある。最近これがない。はっきりしないけれど、ここ数年そうなっているのは間違いないし、もっと前からかもしれない。昔は卵をこつんと調理台にぶつけるときに、力加減には気を使ったものだが、最近はあまり気にしなくなってしまった。殻の厚さは昔より薄くなっているような気がするが(これは卵の種類にもよるのだろうが)、破片となって中身と一緒に器に落ちることが少なくなった。

言うに事欠いて

「言うに事欠いて」は母親がよく口にしていた言葉だった。わたしの母はこういう「成句」のようなものを好んで使ったような気がする。先日、まさしくこれが「言うに事欠いて」だな、と思った出来事がありました。
ひ孫一と、どこかでお昼を食べようということになり、どこにしようか相談した。わたしは、長崎ちゃんぽんや皿うどんなどがある店を提案した。ひ孫一が、どんな食べ物なの、と訊くので、うどんや、硬い焼きそばの上に、あんかけの具が載っているやつ、と説明した。続いて、あんかけってどんなの、と訊くので、とろみのある垂れ、と説明した。実はわたしは、あんかけが好きなのです、そこはわたしの好みですが、ひ孫一も麺類は好きなので、ひ孫一にとっても良い選択ではないかと思いました。これで決まりかな、と思ったのですが、ひ孫一の返事がかんばしくありません。理由を訊いてみると、あんかけが嫌い、とのことです。根拠はありませんが、ひ孫一もあんかけは好きだろうと思っていたので、びっくりしました。
わたし「あの、いろんな具がとろっとした垂れといっしょに載っているやつだよ。あれ美味しいよね」
ひ孫一「あの、どろっとしたやつでしょ。あれ〈鼻水〉みたいなんだもの」
ここで、わたしの頭に、まさしくこれが「言うに事欠いて」だな、と浮かびました。

いちご狩り

二十三日にいちご狩りに行こうと思いたち、調べたらなかなか難しいところがあった。「時間制限なし」というところで、いいなと思ったところは、念のため電話してみたら、九時に開園だがは八時過ぎから並び始めて、九時の時点で並んでいる人数で当日の定員に達してしまう、ということだった。連れて行きたいひ孫一の一家は、朝は早く出られない。起きるのが遅い、支度に時間がかかる、などなどで、乗り物の時間が決まっていない場合は、打ち合わせの時間の一時間半から二時間後に、来る。もう慣れた。これはわたしの愚痴。時間制限のある所にも(そういうところが普通だが)、いろいろ当たってみた。やはり予約が必要なようだ。結局、春休みの平日に行くことにして、二十三日は、家でいちごを食べることにした。いくつかのボウルにいちごを盛っておいて、そこからの「つかみ採り」でいちご狩りの雰囲気を出すことにした。でも、もう少しいちご狩り近づけたいとも思った。へたに糸を巻き付けて、一本の糸に万国旗のようにいちごをぶら下げようと思ったが、ちょっと面倒で、それについては二の足を踏んだ。洗濯ばさみが何個もぶら下がっているタイプのハンガーにいちごをぶら下げることを思いついた。
当日、準備して待っていたら、部屋中にイチゴの香りが充満した。いちご狩りのハウスの中も、こんな風なのだろうか。まあまあ好評だった。孫一の話では、洗濯物干しハンガーを使ってのいちご狩りは、ネットでも見かけられたそうだ。
ひ孫一が、パン喰い競争の要領でいちごを口に入れていた。わたしも真似してやってみたが上手くできない。こういう風にするんだよ、とやって見せてくれたのを見たら、孫一の首は九十度後ろに反っていた。わたしはというと、せいぜい十五度だろうか。なるほど。

「母影」尾崎世界観

「推し、燃ゆ」よりは良い(好きだ)と思った。

一度目は最後まで読み通せなかった。何故かというと、下記のような記述がつぎからつぎへと出てくるので「胃もたれ」のような感じになってしまった。

ほどけたクツヒモはお客さんの足から逃げてるみたいだった。私にはクツヒモの気持ちがよく分かった。

ガソリンスタンドのお兄さんは、いつも大きな声をだして車におこっている。でもまじめな顔で車のためを思っておこってるのがちゃんとっわかるから好きだ。

もう一度読みだした。気にしないようにしてーー無心になって、かなーー読み進んだら、読めた。よくよく考えると主人公が直に接していることがらについての表現、例えば下記のようなところは、そうか、ということで読み進められるようだ。

熱いお湯が私の体を流れるとき。やっぱり水の声が聞こえた。からだがヒリヒリして、水が大声で何か叫んでいるみたいだった。

でも下記のよう箇所は「常套句だな」と感じた。

そのもっと先にあるの空から真っ赤な血が出てて、ところどころ白い雲がそれをふいてあげてた。それでもやっぱり痛いのか、しばらくして空から雨が落ちてきた。