『アニメのこと。映画的ということ。』togetter読んでアレコレ考える。

先日の朝方Retweetが飛んできて何やら面白いこと話しているなと、気がついたらtogetterでまとめられていたので読んでみた。今回のTwitter論壇は、アニメ監督の錦織博佐藤順一、そしてアニメ様こと小黒祐一郎がメインキャストとなる。

アニメのこと。映画的ということ。 - Togetter

togetterのまとめが上記リンク先になるけど、ざっくり言ってしまえば、「アニメが映画を目指さなくてもよくなってきた?」といったこと。まず冒頭は、錦織監督の下記発言から始まる。

「個人的に映画を観ることは好きだし、劇場作品を作るときは映画になっているかどうかにはこだわっている。また、映画について語ることや評論を読むことも多い。けれど、必ずしも自分の作品が「映画として見られる」保証はないし、押しつける必要もない。この辺りは、より慎重に考えるべきだろう。」

そしてアニメ様の

「若い監督は、映画に対する憧れが必ずしも強いわけではないと思います。」

映画への憧れで考えていくと、確かに若い人は少なくても映画を特別視していないんじゃないだろうか。理由は個別にあると思うので一概には言えないけど、実際に肌で感じるのは毎年映画館が潰れていっている。『アナ雪』のようなヒット作品もたまには見られるが、現代の若い人にとって映画は少し待てば100円でレンタルできるのに、わざわざ1800円払って劇場まで行かないってのが大半数じゃないだろうか。僕やTwitterでフォローしている方、映画ブロガーさんなどは、年間100本見に行くなんてザラだから、映画館賑わっていると錯覚することが多いのだけど、実際にはそうでもないのだろう。まず、値段が高いって理由を挙げたけど、もう一つには、現代には娯楽が有り余るほどあるってこと。

これは、「若者の車離れ」の一つの要因とも類似している部分があると思うけど、手軽にインターネットで情報を探せる時代。テレビがない時代に映像を見るには「映画館」が必要だったけど、今では物が溢れている。映画館で見なくても、レンタルできるし、ストリーミングだってある。テレビゲームだってあるわけだし、もちろんアニメもある。

「この10年くらいで、若い監督にとって「アニメで映画のようなものをつくる」が必ずしも目標ではないのだなあと思う事が何度かあったのです。たとえば、ゲームをいかにそのままの印象でアニメのかたちに収めるのかを目標にするとか。」

だからこういったアニメ様の発言も頷けて、映画が憧れの対象になりにくくなった時代に、何をやっていけばいいのか?ってのが課題になってくる。このTLで話が出るのが、映画的な作品ではなくて映像に対するモチベーション。映像作品は山ほどある。テレビのドラマ・CMだったり、MVやゲームそして、アニメ自身…。ただ、アニメには「劇場作品」、つまり映画がある。テレビ画面ではなく、広いスクリーンをイメージし、やや引きの構図を入れたり、作画枚数を増やして、派手に動かしたりってのが通常の考え方かもしれないが、「劇場作品」ですら映画を目指さなくてもいい時代になっているのだろうか。


◼映画とは何か?
ただ、そもそも映画とは?映画的とは?と話しているけど、実際に映画ってなんなの?って疑問がわく。映画と映像って違うの?って。この辺の疑問を学生時代に年間1000本映画を見ていたと言われるシネフィルの押井守は、『勝つために戦え!監督編』でこう話している。

「例えばミュージックビデオなんかは、そういう映像の快楽原則で成立しているけど、映画は快楽原則だけでは成立しないんだよ。映像の快楽原則をどこかで停滞させたり、裏切ったり、阻止したりすることで初めて映画になるんだよ。」

これは押井守「ダレ場理論」ってやつ。ただ派手でカット割りまくってテンポがいいだけでは決して映画にはならないよ。って話で、タルコフスキーはタルいことで成立しているからタルコフスキーとはよく言ったもので…なんてダジャレかましているけど…。まあ、なんとなく個人の主張としては言っている意味もわからなくないような気がする。

押井守も映画じゃないんだって言っているけど、

「いや、あれも映画だよ。これも映画。「そんなものは映画じゃない」と思ったことはないよ。それがハリウッドだろうが、日本映画だろうが、香港映画だろうがさ、今風のイケメン一個小隊映画だろうが、映画は映画だよ。」

とも語っている。ある時代、ある場所、ある人間にとって映画として成立すると。
「ダレ場理論」ってのは、あくまでも押井守の考えであって絶対ではないし、彼自身上記のように語っている。
錦織監督も三年前のTwitterでこんなこといっていますね。(アニメ監督・錦織博氏、アニメ映画をどう考え、作るのかを語る - Togetter

一般的に言えば、映画館で公開されたものは映画でいいと思う。ただ映画館の上映を目指さず、演出としてパソコンのスクリーミングや、DVDを見ることに想定したPOV作品も中にはある。まあ、映画は映画史に多少なりとも引っ張られてしまうだろうし、逃れられないだろう。どんなものでも映画だって考えはあるけど、たまに自分でも映画の感想で「映画的」って表現を使ってしまうことがある。この「映画的」ってニュアンスの説明が難しい。

僕は当たり前のことなんだけど「映画はフィクション」であるって思いがあって、映画では現実と違って嘘がつけるし、糞真面目に「リアリティ」を目指したものが映画じゃないんだよって思いがある。その映画の嘘に、アツくなるし、ときめくし、感動する。だからといって、ドキュメンタリー作品が嫌いってわけでもない、ワイズマンは面白いし、ワンビンは大好きな監督。ドキュメンタリーにだって映画が確かに存在する。

では映画とは何か?
一般的には映画であることの一つに「運動」が語られる。

リュミエール兄弟による1895年の『ラ・シオタ駅への列車の到着』では、カメラに向かってくる汽車を見て観客が悲鳴をあげて逃げたって伝説があるらしい。これは、観客は映されている映画の内容「列車が駅に到着する」ってことよりも、列車が遠くから客席に迫ってくること「運動」への驚きがあったとされる。そして、列車の運動に数シーン追加することで「運動」(モーション)=「情動」(エモーション)の関係がそこから数年で完成したという。(この辺は『映画とは何か』とかが面白い)

映画とは何か 映画学講義

映画とは何か 映画学講義

「運動」をキーに考えると、アニメ映画でも昨年『たまこラブストーリー』があった。
手前味噌だけど、『アート鑑賞、超入門!』から見る映画の鑑賞方法について - つぶやきの延長線上 この時のエントリーで、蓮見氏の講演「ジョン・フォードと『投げること』 完結編」 ジョン・フォードの『投げること』のテキスト参照してる。映画は「運動」なんだって思う人はたくさんいて、蓮見重彦がその中でも筆頭じゃないだろうか。『たまこラブストーリー』は「運動」で見ていくと、本当に面白い作品だと思うので、蓮見重彦のテキスト読んで鑑賞してみると面白い。

それと、僕自身の感覚の話ですけど、『シックスセンス』以降、アレやコレやと言われ続けたシャマランなんかも「映画とは何か」を追求し続けているんじゃないかなって思う。『レディ・イン・ザ・ウォーター』なんてラズベリーの最低監督賞撮っているけど、映画を信じてたと思うし、去年のトビー・フーパーの『悪魔の起源ージンー』(『悪魔の起源–ジン–』のオチがアレな理由 - つぶやきの延長線上)も映画を力を強く信じていたと思う。まあ、僕の感覚の話で、上手くそのニュアンスを文章化できないのが残念でならないのだけど、どちらも映画信じている大好きな監督。

結局は、様々な理論はあるけれど、人それぞれに映画は存在するってことでしょうかね。
まあ、少なからず、今日までの映画史ってのは必ず存在しているし、それを無視しろってのは到底無理なことなんだろうけど。


◼アニメと実写の違い
「映画とは何か?」ってのを前段で考えてみたけど、ではアニメが劇場作品として、つまり「映画」として公開されたとき、アニメ映画と実写映画との違いってなんだろうか。一番の違いは、実写と違って映像自体を作り込んでいるので、偶然性はなく、全ては作り手が意図した映像が完成する。メリットとして、本物を撮影しているわけではなく、映像を作っているので、作品の性質にもよるけど嘘がつきやすいので嘘を有効活用できる。ただし、デメリットとしては、すべてが意図になるので無意識のこと、偶然性に期待できない。

・メリット
映像を作り込んでいるので、意図的な演出がしやすい。

・デメリット
偶然性に期待できない。

メリットに関しては、アニメではなく逆に実写映画を見ているときに、「これ映画(実写)アニメにすれば上手く行ったんじゃないの」ってときに強く感じる。昨年ならば中島哲也の『渇き。』を見たときに思った。あまりにもわざとらしい罵詈雑言、ミュージックビデオ的なしゃれた映像、アニメ的な台詞回し、登場人物が記号にしか感じられない…など、どうしても「映画じゃない」って感じてしまった。これは押井守のダレ場理論じゃないけど、快楽原則だけでは映画にならないんだってのに当てはまるのかも。ランタイムも120分近くあり、この内容ならば90分でいいし、それでも長いから、30分×4回のアニメとかのほうが、作品が意図するものに合ってると感じた。(30分×4話のアニメにすれば良かったのでは?『渇き。』 - つぶやきの延長線上

ただデメリットの偶然性ってのは難しい。だから、逆に意図した演出でメタ的な意味合いや偶然っぽさを持たせるのは得意なので、押井守なら「鳥・魚・犬」などを使いながら、作り物のアニメに意味を持たせたりする。(WEBアニメスタイル_特別企画)こういった意味をもたせたり、アニメも上手く活用すれば実写よりもモンタージュによる効果を出せたり、実写と同様の効果を得ることができる。アニメだったら初代プリキュア8話がこの辺すごくうまい。黒沢清の『CURE』、エドワード・ヤン『恐怖分子』といった映画と並べて考えてみるのも面白いかもしれない。


ゾクゾクする。

「実写⇄アニメ」の関係はどんどん垣根がなくなってきていると思っていてもいいのかもしれない。最近だと『惡の華』が、今年は岩井俊二が『花とアリス殺人事件』でロトスコープを使ったアニメーションを発表。少し前にも06年にリンクレイターが『スキャナー・ダークリー』でロトスコープ。そして、実写のウェス・アンダーソンが『ファンタスティック Mr.FOX』でストップモーションアニメーションを作るなど。実写監督・アニメ監督といった垣根を越えた人がアニメを作っている。ここに「手書きアニメ」が入っていないのが寂しい気もするが…。


◼最後に、映画を意識したアニメ監督
前項のラストで『たまこラブストーリー』を引用したけど、『たまこラ』は実写映画を強く意識していたと思う。それは「運動」を意識しているってのもあるけど、撮影に関してレンズを強く意識していた。山田尚子は、『たまこラ』のインタビューでも監督インタビュー|Special | 『たまこラブストーリー』公式サイト「映画を意識している。恋愛なら望遠かな?」って語っている。望遠は対象の人物を覗いているような感覚を得ることができる。もともとアニメはパンフォーカスだけだったけど、今だったらCGもあるし、編集が可能しやすい。アニメでレンズを意識するようになったのが、押井守の「レイアウト・システム」の功績があるだろう。

前項の「映画とは何か?」と重複するけど、藤津亮太さんのWEBアニメスタイル_特別企画押井守が実写を撮る理由」のコラムも面白い。押井守は『パト2』で実写を意識したレイアウト、レンズ効果を実践していった。逆に実写ではアニメの方法論で実写を作ったり。実写を撮ることで、その技術をアニメに持ってきたり、実写とアニメを両方やることで、クロスオーバーを実践していった人。(『天使のたまご』のコンテ集では宮崎駿に「マンガ映画」をやれって言われてますけどね。そんなこともろともしないんだろうな…)

押井守は63歳だけど、山田尚子なんかはまだ30歳。
絶対数は確実に減っているだろうが、やっぱり「映画」を目指している監督は少なからずいる。

でも、アニメ様の

「「アニメで『映画』を作る」という試みはある程度の成果をあげており、最早、それをやることは挑戦ではない、というのもあるかもしれません。」

こういった発言があるように、「映画を作る」の後にくる挑戦ってなんだろうって考えると、不思議とワクワクしてくる。結局は冒頭に戻るけど、「憧れが映画ではなくなってしまった世代が何を作っていくか」に尽きるのかな。この辺ドシドシやってほしいですねアニメ様に。

アニメスタイル003 (メディアパルムック)

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天使のたまご 絵コンテ集

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