スルー力に関わる議論でわかったこと

問題が簡単なほど議論の収束が遅くなる。集合知は認識をディレイさせる方向に働く。
理由1:そもそも、議論は参加者が多いほど収束が遅くなる。問題が簡単なほどアテンションが集まりやすい。
理由2:人が何かを表現しようと思うには「内圧」が重要な役割を果たす。「内圧」とは自分の認識と社会の認識のギャップによって起こるプレッシャーである。問題のアテンションが高いほど、内圧も高くなる。理解が整理される前に内圧があがると、不十分な見解のまま表現することになる。不十分な見解の発言が増えるため、議論の収束が遅くなる。

はてな界隈の「知識人」たちが、アテンションエコノミーに突き動かされる形で、当たり前のことを時期を逸する形で発言しているさまは何だかふしぎで面白い。
ネットの議論はどんどんパッシブになっていくんだろう。しょぼい意見が少しずつ積み重なっていってアテンションが閾値を越えたときに、それに反応する形で(activeでなくreactiveに)まっとうな意見が出る。逆に、えらい人の自発的な問題提起は、アテンションが十分集まってないので議論の対象にならない。

以下はtrivialな内容。受け手が非リアルタイムに受け取る"記録"と、受け手がリアルタイムに受け取る"対話"にはそれぞれ利点と欠点がある。前者は、内容が整理されているため一度の接触で多くの理解が得られる一方、内容に不備があると受け手側の理解の訂正に時間がかかる。後者は、内容が整理されていないため一度の接触で得られる理解が少ない一方、内容に不備があってもすぐに訂正ができる。非リアルタイムな対話であるネットの書き込みは、適当にやってると理解を得るまで時間がかかる。チープ革命によって、レスポンスは向上するが、それをずっと上回る勢いで内容の精確さが下がる。精確さとレスポンス速度のトレードオフのバランスをとるポイントは、理解が遅くなる方向にシフトする。母数のスケールをNとすると、レスポンス速度向上はO(N)なのに対し、玉石混淆問題はO(N^2)なのだろう。
集合知は、議論が収束した後、それを俯瞰的に参照することで初めて価値が出るものだと考えることにする。