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廣瀬浩司授業資料格納所、メモ

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2018-07-30

オルガンとダンス。あるいは習慣論の脱構築

「オルガンとダンス」(『知覚の現象学』p. 243-
メルロ=ポンティは「身体図式」の更新の思想家ではない。

習慣について、オルガン奏者の例で考え直す。
・オルガン奏者が、ひとの楽器で、短い練習で弾けてしまうこと。
―反射説(機械論)の批判
―分析説(観念論。頭のなかに鍵盤の表象がある)の批判
音楽的本質と音楽の直接的関係。身体と楽器がその通過点
「音楽はそれ自体で存在し、音楽によってこそそのたの一切のものも存在する」(244)。注(2)も熟読。
問:「表出(表現)空間が創造されるにあたって、どのようなことが起きているか整理してみる」

身体
「身体はむしろ他の一切の表出空間の根源であり、表出の運動そのものであり、それによってはじめて意味がひとつの場所をあたえられて外部に投射され、意味がわたしたちの手元に、私たちの眼下に物としてそんざいしはじめるようになる」(245)
→ 文化的な運動習慣としてのダンスが創出する「新しい意味の核」→ 道具を構成。
「身体がひとつの新しい意味によって浸透されたとき、身体がひとつの新しい意味の核を同化したとき、(・・・)習慣が獲得された、と言われるのである」

このばあい「意味」とはどういう意味だろうか(246)
・偶然性に結び付いている
・「形式」によって強いられない内容に属する
・身体、現実に存在し、病気に冒されやすいが、一般的な意味の核ともなる(本質と存在の区別にあてはまらない)

2018-07-24

野生の存在に出会うために(未完)

野生の存在に出会うために(未完)
比較文化学類教員 廣瀬浩司

1. 透視画法的認識の解体とは
 「我々には、子どもの時間やその早さを、我々の時間や我々の空間などを未分化(indifférentiation)にしたものとして理解する権利があるのだろうか」 ──あるところで晩年のメルロ=ポンティは自問している。子どもの経験を否定的にではなく、肯定的に考えることこそが、現象学の務めだというのだ。それではたとえば児童画について、どうしたらその「積極的達成」 を語ることができるのだろうか。
 そのためにはまず、「我々」が自明なもの、あるいはもっとも「客観的な」ものと考える透視画法的な認識の自明さを「括弧に入れる」必要がある。そうでなければ、幼児のデッサンは、透視画法に至る過程としてのみ観察されてしまうからである。
 ここで重要なのは、このような自明さを括弧に入れるためには、透視画法的な認識を否定するだけではなく、その内的なメカニズムを解明し、その「客観性」の動機を明らかにする必要があるということだ。メルロ=ポンティによれば、透視画法の客観性は、「逆説」にも見える事態に基づいている。それは「一つの視点から」見られた世界を表現していると同時に、それが「万人にとって妥当する」(EDE, 121)ものとして描き出されているということである。
 これは以下のような手続きによってなされる。まず透視画法は、世界の現象を「系統的に」「変形」し、「主観性にある原理的な満足を与える」(EDE, 121)。ひとはそれを自分がある一点から見ている像であるかのように思い、満足するのである。だが第二に、それが「客観的なもの」として現れるためには、この「変形」の規則が、暗黙のうちに画面のすべての部分において、妥当することが前提されていなければならない。さらに言うならば、我々が生きている空間そのものが、そのような規則によって律しられていることが前提されていなければならない。空間がすでに透視画法的に「理念化」(フッサール)されているからこそ、一点からの眺望が、客観的に妥当するものとして現れてくるのである。このことをメルロ=ポンティは以下のようにまとめている。

それが私に与えてくれるのは、世界についての人間の見方ではなく、有限性にあずかることのない神が人間の見方についてもちうる認識なのである(EDE, 122)。

ここで神と呼ばれているのは、けっしてひとつの視点に拘束されず、あらゆる空間と時間に遍在することができるような無限に無限なる存在のことである。透視画法の「逆説」は、この神の認識を直接表現するのではなく、世界に身体をもって受肉している「人間についてもちうる認識」として、表現することにある。こうして透視画法の「客観性」の根拠がある。それは「無限に無限なる」存在と有限な人間の視点の交差する場に成立するのである。
 世界についての「情報」をもっとも科学的に表現するとされている透視画法が、このように無限に無限なる存在との関係を前提としているとするならば、いわゆる近代科学の前提する「客観的な時空間」そのものも、こうした存在を前提とすると考えることができるだろう。このような客観的・科学的な認識は普遍的なものではなく、ある種の(歴史的な)「決心」(EDE, 121)に基づいていること、このことを透視画法の見かけ上の客観性は示しているのである。
 だがこれはあくまでひとつの選択にすぎない。では他にどのような選択がありうるのだろうか。そのことを示しているのが児童画や先史時代絵画であり、そして透視画法とは異なる表現を模索した、セザンヌ以降の絵画なのである。(ここまでで1400字程度)

2. 児童画のロゴス
 しかしながらメルロ=ポンティはここでは、児童画について、具体的な分析を詳細には展開おらず、リュケの『子どもデッサン』に批判的に言及しているだけである。そこで本論では、メルロ=ポンティと同じように、未熟な透視画法としてではなく、児童画そのものの「積極的な達成」を論じている、鬼丸吉弘の『児童画のロゴス』を参照してみよう。
(『児童画のロゴス』まとめ)
興味深いのは「殴り書き」から「表出期」への移行である。
・円の発見:無ではなく、ナニモノカがあるという発見。「対象」から主体への働きかけ
・直線の発見:方向感覚の発見、重力の発見。
子どもが白紙に「しるし」をつけようとする過程において、無ではない何ものかの出現に出会うこと(偶然性)、そこで自分の身体を貫く空間の方位性に気づくこと(運命)この何ものかをみずから描き出す可能性に気づくこと(自由
頭足人間;何ものかが「誰か」になる、という経験。生命的なものの芽生え。その運動性(手足)。

3. 世界との遭遇の証言としての児童
 以上を踏まえ、メルロ=ポンティのテクストに戻る。
・有限な身体をもった存在が、みずからの運動によって、外部に「しるし」を残すこと
・これは外界との出会いの「証言」であって、「情報収集」や「情報処理」ではない。感情の震えを痕跡として残すことである。
・これは言語以前の言語以前の言語であり、コミュニケーションのための言語よりも雄弁であるともいえる。なぜならそれは、物との根源的な出会いの遭遇であり、いまだ構造化されない世界全体との出会いの証言でもあるからだ(超客観性、超意味)。
・私たちがもしこのような「言語」をふたたび語ろうとするならば、透視画法と格闘したセザンヌ以降の絵画のような労苦が必要である。一見逆説的なことながら、「野生」の存在は、獲得されるべきもので、たんに文化以前に帰ることではない。

4. まとめ
児童画の研究は、児童の発達段階の類型化のためではなく、それじたい「野生の表現」の発掘でなくてはならない。
・幼児が円を描くのも、成人が「リアル」に何かを描くのも、世界との接触の異なった「スタイル」の表現にすぎない。
・同様の発掘は、現代絵画の歴史そのものでもある→ 現代絵画や芸術の例を挙げる?



○ここに他の方向への展望をはさんでもよい。
1)フーコーメルロ=ポンティ
 ミシェル・フーコーメルロ=ポンティに深い影響を受け、近代的な「表象」と獲得し続けた、『言葉と物』における「表象表象」(冒頭のベラスケス分析)論がそれである。また『監獄の誕生』におけるいわゆる「パノプティコン」の分析も、メルロ=ポンティの透視画法論と深く通底する。
 重要なのは、メルロ=ポンティフーコーも、表象(古典主義、近代の認識、科学、権力諸関係、新自由主義)をたんに否定するのではなく、その意味構造を解剖し、「べつのかたちの思考」を、現代芸術をヒントに模索したことである。
2)児童画の表出は、無意識の空間や文学、夢の時空間、神話的時空間と比較可能。ただしメルロ=ポンティは「無意識は意識の背後にあるのではなく、前にある」と言う。無意識は、意識をあやつるもう一つの思考ではなく、むしろ感覚的な時空間そのものの内にひそかに眠っていると彼は考えるのだ。
3) 時間の問題。「現在はまだ過去にふれ、過去を手中に保持し、過去と奇妙な具合に共存しているのであって、絵物語の省略だけが、その未来へ向かってその現在をまたぎ越してゆく歴史のこの運動を表現しうるのである。」(EDE, 124)→ 幻影肢との関係、神話的時間、夢の時間性)
4)「幼児の対人関係」との関係。幼児が表出する「像」(なにかあるもの)と、自己像とは深いところで連関していないか。「他者になにかを表現すること」と「自己を表現すること」との連関。

2018-07-17

メルロ=ポンティ「表現と幼児のデッサン」第2回

メルロ=ポンティ「表現と幼児のデッサン」第2回

参考文献:鬼丸吉弘『児童画のロゴスーー身体性と視覚』(剄草書房)、1981。体芸図書館
1)表出期
・身体性を主とするが、それだけではない。しるしをつけること、表出行為そのものに関心。
→ 円形の発見 → 「なにかをつかんだ感覚」「手で捉えたもんおの感触」「存在するものの最初の表現」
・直線の発見:方向性の意識。
○表出行為のプロセスにおいて、無ではなく何ものかが「ある」という経験に出会うこと。「偶然性、運命、自由

○構成期
頭足人間:中身のびっしり詰まった、生きた実態なのだ、それは触れることができる、つかむことができる、呼べば応えることができる、生命をもった具体的存在として実感されている。
・観面混合
○再現期
子どもは見るものを描かず、知るものを描く」テーゼの誤り。Cf. アルンハイム。見ることそのものに含まれた構造化の働きに注目。
・段階の意味
直観
・透視画法
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○では児童画をどのように「積極的達成」として語るべきか???
p. 198, 5行目以降、とりわけ、p. 198終わりから3行目「目標は。。」以下を熟読のこと。

キーワード
・われわれと世界との関係(198, l. 6)
・クロード・ロランの光
・偶然性、運命、自由
・感情をふるわせる対象や光景
・接触の痕跡
・「証言」と情報
デッサンを「迎え入れる」
・決定的言葉(199, l. 3「決意の言葉」は誤訳)
・「有限性のしるし」
時間性
「現在はまだ過去にふれ、過去を手中に保持し、過去と奇妙なぐあいに強調している。」(p. 199, 後ろから3行目)

まとめ
児童心理学は、児童の絵によって子どもの発達過程をみきわめようとする。しかしメルロ=ポンティは、児童画から出発して、私たちの世界との関係を問い直し、さらに、それを新たに取り上げ直す現代絵画の試みを見きわめようとしていると言えよう。
他の参考文献:
クレー『造形思考』ちくま学芸文庫
前田富士男『パウル・クレーーー造型の宇宙』

2018-07-10

メルロ=ポンティの奥行き概念

メモ
1)マルローの芸術論について
かつての宗教芸術 → 「古典時代」(ルネッサンス以降)の世俗化(近代)=表象(représentation)の時代 → 現代における「主体の回帰」(宗教へのノスタルジー)という図式をメルロ=ポンティはどのように批判しようとするか
2)ルネサンスの透視画法による絵画客観的で、現在の絵画は「主観的」「ひそかな生」と言ってよいのか。

3)ルネサンス以降の絵画は、質(触覚的価値)や奥行きや運動を「記号化」してしまう。その「客観性」への信憑。だが古典的絵画もそれだけではない。
4)マルローは「感覚的所与」は歴史的に変化しなかったように語る。しかし古典的な透視画法の規則は、ある種の歴史的発明である。
5) 「自由な知覚には<みかけの大きさ>なるものはない。近い物と遠い物には「共通の尺度」はない。距離はいわば「質」のようなもの(ワロン「超事物(ultra-chose)」
6)以下については「事物たちの、私たちの目の前での競合、紛争」→ 解決としての「深さ」=「奥行き」。「物たちは私の目を競って奪い合う」「ひとつのものを見るとほかのものの促しを感じる」俯瞰できない世界。

2018-07-09

メルロ=ポンティのアール・ブリュット(先端V)

メルロ=ポンティ「表現と幼児のデッサン」(『世界の散文』の一章、メルロ=ポンティコレクション『幼児の対人関係』にも所収)、1950年代前半の草稿。

第一段落:問い
・「プリミティヴ」、幼児、「狂人」のデッサン
・無意識の詩(ダダ・シュルレアリスム)、「証言」、口頭言語
20世紀初頭におけるこうした「野性的(ブリュット)(brut)」な表現への注目は何を意味するのか。Elusif(逃避的)allusif(暗示的)elliptique(省略的)

仮説:美術館的な絵画、「客観的」表現への「反抗」を越えて、
・それらがひとつの「歴史的創造物」でしかないことを示す
・それらはもっと「一般的な意味する力」のひとつにすぎない。
・それらは「超意味的な所作」によって作り出されたが、そこには危険や偏りがあった。
第二段落のp. 198, l. 5まで
客観主義」の錯覚とは
・「表象」(représentation):たとえば「客観的」世界にある「意味のシステム」を、絵画や言語作品として、一対一的に再現すること。
・例:「平面遠近法」(透視画法)(以下パースペクティヴ)
幼児の絵画は、パースペクティヴをいかに獲得していくか、という視点で論じられる。
参考文献:リュケ『子供の絵画』(金子書房)初版1927
・偶然の写実主義(realisme):自分の書いたものが偶然何かに似ている
・出来損ないの(失敗した)写実主義:写実的であろうとしてできない。
・知的写実主義:見えないもの、心の中のものもすべて描かれる
・視覚的写実主義(絵物語):時間的な混合
→ 一点からみた平面遠近法へ

メルロ=ポンティ批判
・平面遠近法を到達点として前提し、児童画は「不注意」「総合ができない」とされる(当時の哲学の影響)
・そうではなく、それを積極的達成として理解すること、
私たちの立方体の作図は、一点から見ていながら、万人に妥当する記法の発明である。そのために、生きられたパースペクティヴを固定化してしまう。
あるパースペクティヴから見たイメージが、あらゆるパースペクティヴからみたものと「翻訳可能」である。あたかも神がみたような視点。あるいは無限な神が有限な人間の視点に立ったら見えるような映像を再現すること。
○では児童画をどのように「積極的達成」として語るべきか???
p. 198, 5行目以降、とりわけ、p. 198終わりから3行目「目標は。。」以下を熟読のこと。

キーワード
・われわれと世界との関係(198, l. 6)
・クロード・ロランの光
・偶然性、運命、自由
・感情をふるわせる対象や光景
・接触の痕跡
・「証言」と情報
デッサンを「迎え入れる」
・決定的言葉(199, l. 3「決意の言葉」は誤訳)
・「有限性のしるし」
時間性
「現在はまだ過去にふれ、過去を手中に保持し、過去と奇妙なぐあいに強調している。」(p. 199, 後ろから3行目)

まとめ
児童心理学は、児童の絵によって子どもの発達過程をみきわめようとする。しかしメルロ=ポンティは、児童画から出発して、私たちの世界との関係を問い直し、さらに、それを新たに取り上げ直す現代絵画の試みを見きわめようとしていると言えよう。

2018-06-05

先端文化学研究V 幼児の対人関係2

空間の「理念化」(153)の過程
・一歳:像を「見かけ」にする
・像を「遊び相手」にすること。
アニミズムをもてあそんでいる」しかし「もてあそぶためにはかつてのアニミズム痕跡がなくてはならない」「夢幻劇にとりこになる」
→ 「像」に魅せられること。像を「信じる」こと(肖像画の例)157
→ 像は成人においても「準現前」であり続ける。

「影」の例。影でも同じことをおこなう。→ 像や影の理解は知的理解ではなく、少しずつ学ばれる。

「幼児においては、自分の身体にあてはまることは、他人の身体にもあてはまる。幼児は、おのれの視覚像の中に自分を感ずるように、他人の中にも自分を感じる」(158)→ 幻聴の例(160)投影と取り入れ。

2018-06-03

先端文化学研究V 幼児の対人関係

幼児の対人関係(『眼と精神』所収、<メルロ=ポンティ・コレクション『幼児の対人関係』所収)

1949年度よりソルボンヌ大学児童心理学教育学教授。1949-50年度の講義。
・全体の問題
幼児における他人知覚の問題。
一般に幼児が他の幼児や他人と接触するようになるにはどのような条件があるのか」
古典的心理学の限界
心理作用は当人にのみ与えられている(「体感」)→他者という「人体模型」にどのようにしてこの心理作用が住みつくのか→他人の身体動作を「解読」し、自己の「体感」を他者投影する。内的経験の移し替え。

この仮説の問題点
・他人認識はひとつの判断とされる。しかし幼児は、ごく早くから他人の表情を知覚し、笑顔に「好意」を感じ取ることができる。
・他人の動作を「解釈」するためには、自分の顔の動作と「類比」しなければならないが、そのふたつの対応関係はどのようにできるのか。どのように「模倣」できるのか。

メルロ=ポンティの出発点
心理作用は当人にしか近づき得ないものではない。それは世界や物に向かう行動の仕方である。幼児はまず他人の行為を模倣する。どちらも世界のなかで活動する行為である。
・私の身体も「内的な体感」というよりは、世界との境界における「身体図式」である。動きの「スタイル」として、自他に共有可能。他人の行為と「対化(Paarung)」(フッサール)により、ひとつの系ができる。「他人が私によって疎外され、私もまた他人によって疎外されることこそが、他人知覚を可能にする」

→ 自分の身体を持っていることと、他人が心理作用を持つことを意識することは、一つのシステムである。
1 誕生から6ヶ月までにおける<自己の身体>
○ 3ヶ月まで
呼吸的身体。身体図式もないので、「知覚」もない(空間における位置把握、姿勢の調整)、運動性と知覚の結びつき。
○6ヶ月まで
他人の知覚はない。人が行ってしまうと「不足の印象」のみ。
伝染泣き
→ 視覚的知覚の整備や、自分の身体への関心とともに消えていく。
○6ヶ月以降
自分の身体像の獲得における鏡像の役割。
アヒル、犬:鏡像理解なし
チンパンジー:自己像を前にすると鏡の後ろに手をやるが、何もないと鏡への関心を失う→「像そのもの」の意識の瀬戸際。

さて人間のばあいではどうか。→ プリント。
注目点
鏡の像の「準実在性」。「イメージ的なもの」もひとつの意識の行為(志向性)であること。

2018-05-13

先端文化学研究V 幻影肢2

コメントより(抜粋)
・それ自体世界内に属していない直接の経験が世界に内属し、世界を変革しうる仕方で存在しうるために、習慣的身体が存在している。しかしそれは現勢的身体でもある必要がある。二重の身体性。
・現前と不在の中間的存在を「見えるようにする」
・「自分の身体が自分のものと思えない」(離人症、解離)、自我同一性拡散、「自分が何ものなのか、何をしたいのかわからない」(→ 「ここはどこか、いまナンドキなのか」、トラウマ拡散。→パトナム『解離』、柴山雅俊『解離の構造―私の変容と<むすび>の治療論』(岩崎学術出版社
・夢の中では「現勢的身体」は存在しないのに、私は夢の中にあるか。夢においては「習慣的身体」として「幻影肢」ならぬ「幻影身体」が現れる。→ 渡辺恒夫『夢の現象学・入門』(講談社メチエ)
・私たちは(幻影肢)の沈黙に語り掛けられている。損傷について私たちは前意識的な知を持たされている。欠損の裏面
・「裏面」とは「あること」の裏面
・この「世界」は「私の世界」なのか「みんなの世界」なのか──「間主観性」の問題。→ 私は世界とのかけがえのない関係において「他者たち」=私たちの分身とであう。
・「身体の声を聴く」強く頭を打って記憶があいまいになったとき、自分の記憶と身体的感覚が結び付かなくなる。
・身体の変化によってその人の世界はすでに変わったものになっている。「ない」ものとして「ある」ようにとらえ、世界とのすり合いを、変化をみとめずに、つける。
デカルトとの関係。幻影肢→メルロ=ポンティは『知覚の現象学』第三部で、新しいコギト(我思う)を提出する。それが「沈黙のコギト」である。非人称的な「ひと」が私において考える。
・現前と不在のあいだ。「イップス(=緊張やトラウマで、存在している自分の感覚がプレーヤーに感じられなくなること)」
・言葉で説明できるようなこたえを求めてはいけない。しかしいつかは言語化しなければならない→ 「いまだ沈黙している経験を、表現にもたらすこと」というフッサールの言葉をメルロ=ポンティはしばしば引用する。
・有と無の両義性は、宗教的文脈での信仰能力につながる→メルロ=ポンティは「無神論実存主義」といわれ、神も「現象」のひとつだと考えるが、他方、「有神論」と「無神論」の区別は皮相だとも考えていた。たとえば「世界がある」ことへの信憑(=信仰)foi」は、たえず「非信憑=不信仰」に脅かされている、と考えるなど。
・眼鏡などの「道具」による身体の拡張。目視せずにあるものを身につけたときにその形状を予期できる。時間の要素はいらない?→ 記憶の問題だけではなく、運動の問題も考える?「未来への開かれ」?(149頁)

時間の問題:幻影肢と抑圧
・「非人称的な時間は流れ続けるが、人格的な時間のほうは膠着したまま」150
・これはたんなる「惰性」ではなく、危機に際して、「私の身体」=「行動」となる(サンテクジュペリの例)=しかしこれは瞬間的でしかない→ これに持続性を与えるのが「芸術」

・「私が悲嘆におしひしがれ、すっかり心労に疲れ切っているあいだにも、すでに私のまなざしは前方をまさぐり、ぬかりなく何か輝いたものをめざしており、こうして自分の自立した生存を再開している」151

時間の「凝集」(151)

「過去はあたかもわれわれの力が流出していく傷口のようなものとしてとどまる」同じように「わたしたちの身体の無名性は、自由でもあり、隷属でもあり、両者は不可分の関係を持つ」(153)
幻影肢:
「腕の幻影肢とは、抑圧された経験と同じく、まだ過去になりきってしまわない〔なることを決めかねている〕古い現在だ」。
 過去=現在によってすでに押しやられてしまった、かつての現在。いまやそれは「現在」としての性格を喪失し、<現在から見られた対象>になってしまっている。

2018-04-25

演習 差異の体系としてのラング(4/25)

第一段落
ソシュールの教え
・記号はひとつずつでは意味しない。
・「そのそれぞれは、意味を表現するというよりは、それ自身と他の記号の間の意味の隔たりをしるしづける」
これをすべての記号に一般化すれば、「ラングは名辞=項なき差異からなる」
より正確には、「ラング内の名辞は、名辞間に現れる差異によって生み出される」

コメント
ソシュールの「言語は名辞なき差異からなる」という言葉の解釈。
一般的解釈:
・「実体から関係(函数)へ」。実体としての意味ではなく、関係としての意味。
・意味はあるシステムによって相対的に決まる。例)色の区別が文化的に違う、という文化相対主義
相互排除。否定的関係。
→ 平板な関係論。1)システムの変動や創発はどのように起きるのか。2)システムを攪乱したり(病理学)、新たな意味を創出したりする要素(芸術など)はどこにあるのか。

メルロ=ポンティの解釈はこれとどう違うのか。
・「隔たり」(écart, divergence)という用語に注目。「否定」や相互排除ではない「凹み」
・言語が差異の網目からできている、ということよりは、<ある記号は、直接に意味を指し示すのではなく、「他のすべての記号」との隔たり=ずれをマークする。>デリダ差延」「間隔化」
あくまでメルロ=ポンティにとっては、実体的意味ではないような、別の意味の生成をとらえようとする。このことは次の文からもわかる。
ラング内の名辞は、名辞間に現れる差異によって生み出される」
上記の隔たりこそが名辞を「生み出す」ということ。<構成的>に作動する差異の働きが、ラングというシステムを支えている。

メルロ=ポンティにとってのソシュールの定義の難しさ
・名辞に先立って「意味のコントラスト」がある。
・「コミュニケーションが、語られたラングの全体から、聞き取られたラングの全体に向かうとしたら、言語を学ぶためには言語を知っていなければならない」ということになってしまう。
この文章の意味は?
外国語の学習や、幼児の言語習得の場面を想定。
・言語システムにおいてすべてが関係的であるとしたら、ひとは言語システム全体を学ばなければ意味を掴めないのか、という反論。言語はやはり<記号と意味>の一対一の関係の加算によって学ばれるのではないだろうか。

メルロ=ポンティの回答。
ゼノンパラドックスと同様である。動かない矢のパラドックス。→「パロールの使用」によって乗り越えられる。次段落からわかるように、メルロ=ポンティにとっての真の問題は<差異の体系>というあるラングの<全体>と諸部分の関係である。

循環=言語の奇蹟
ラングはそれを学ぶ者において、みずからに先立つ」「おのれ自身の解読を示唆する」

このことを解明するには、ソシュールが語る「差異の体系」としての「ラング全体」の「全体」の意味を考え直す必要がある(次段落につづく)
参考文献:
メルロ=ポンティ『意識と言語の習得』(みすず)、その第一章「心理学的に見た幼児の言語の発達」では、この文章のもとになるような心理学的・言語学議論が紹介されている。
「言語活動の獲得とは、ある個人ラングに組み込まれていくことである」(二八頁)
「音素対立の体系が意味へと向かっていく」(同)
「音素体系はいわば<くぼみ>に意味を浮き出させるようなものだからです」(二九ページ)
(いずれもヤコブソンについて。失語症の分析も興味深い)