廣瀬浩司:授業資料格納所

授業用レジュメの残り物

2013年度前期「セザンヌの懐疑」(2)

補足:デフォルマシオン
メルロ=ポンティは「見かけの大きさ」という観念を否定する。モノは、モノの側からある大きさで近くされることを要求する。遠くのものは遠近法的知覚より大きく見える。モノの大きさの恒常性。
近づいてくる汽車の映像は実際より大きく見える。円は「楕円」として現れることで、円として近くされる。→ さまざまなデフォルマシオンの重なり合いが「自然的知覚」。遠近法的知覚は「抽象的」
○ p. 18- 「というわけで」
・ 世界の厚み:デッサンと色彩は相互に補い合う
肖像画:他者の「精神」はどこにあるか?「何らかの顔や動作と結びついた、具体化した形で現れる」→ 精神と身体の二元論を否定:両者は「モノの表情」として現れる
・ しかし自然は直接現れない。「非人間的な自然という根底」(20)→しかし「人間だけがこのような非人間的な土台」を暴き出すことができる。人間と自然の相互的な基礎付け。
・ p. 21 : 「モチーフ」と「世界の一分(一瞬)」
セザンヌはたんなる「自然に帰れ」ではなく、科学や技法や伝統(ルーブル美術館)を否定しない。
科学を忘れて、ただし科学を使って、「生まれ出ようとする風景」を捉え、自分も風景と共に「芽生える」
「風景は私の中で思考され、私は風景の意識なのだ」(22)=模倣(ミメーシス)でもなく、本能でも文化でもない。それは「表現である」→ これが他者にも共有される
・ p. 24 :
「最初の人間が語ったように語り、誰一人描いたことがないように描く」:最初の言葉が持つ困難(25)
・ 作品が成功すれば、それはおのれ自身を教える(25)
・ そのとき「何かが獲得される」:作品の永遠性。それは数学的なもののようなかたちで「永遠」ではないし、たんなる「瞬間」でもないが、残り続ける。。。