Hatena::ブログ(Diary)

paris-rabbit-sanの日記

2013-05-03 hemisphere.vol2

hemisphere.vol2。今回は映画特集。


映画『エンディングノート』を題材にしました。

エンディングノート [DVD]

エンディングノート [DVD]


すこし自分語りに過ぎますが、読んでみていただければ幸いですっ!!



「本と映画の週末と終末」



「アラビア」の「ブラックパラティッシ」でクリスマスケーキと飲み物が供される家庭とその週末の豊かさを

ぼくはとても想像することができます。

ぼくの家はせいぜい「アフタヌーンティー」が関の山でしたから。

ヨーガンレール」を着てるんだから、もうちょっとなんとかなりそうなものだと思うけど「たち吉」止まり、

というと理解していただけますでしょうか。


8人兄弟の末っ子で「八重子」と名付けられた母は1999年にミレニアムにも21世紀にも触れることなく兄弟のなかで一番早く亡くなりました。

はからずもぼくは最初に列席するお葬式に喪主として参加することになります。

母はかつての元気で若々しかった姿を思い出してほしいので、死に顔を見てほしくないと言っていたようですが、

せっかく来てくれた人に逢わせないわけにいかない、という親戚(の誰かさん)の決定によって棺桶の扉はフルオープンでございました。


喪主というのはお葬式における一番の権力者というわけではなく、

ましてや20歳そこそこの息子にその判断を委ねるなんてことはありえないことと承知してはいたものの、

故人の遺志がここまで簡単に破棄されてしまうのか、と少々驚いたことを覚えています。

という自分語りはこのくらいにいたしまして、少しばかり主題に近い方角へ舵を切らせていただくことにいたしましょう。


本にはその佇まいとともに大きさと厚みがあります。

その物理的な存在のなかに文字というものがさまざまな大きさで書き連ねられています。

それをぼくらは最初から追いかけてはページをめくり最後の文字まで辿り着くと「読了」となるわけです。

本は手で押さえたそのページの厚みによっておおよその残りページを伝えてくれます。

そしてその作品に引き込まれて物語のなかにすぅっと入っていけばいくほど「あぁもうすぐ終わるのかぁ」と名残惜しくなります。

つまり「結末」はわからないままに「終末」がわかる、ということです。


たとえば映画を観るまえに上映時間をきちんと調べてから観るという人はどのくらいいるのでしょう。

次のスケジュールを考える人にとって、この段取りは重要かもしれません。

やっとで予約できたディナーの時間に間に合わないと大変だ、という具合にです。

だとしても、仮に上映時間を把握することなく観る人が大半であるとすると、

エンディングのクレジットが流れはじめることをもって映画は終末を迎えた、と思うことでしょう。

それまではわからないわけです。そしてそれは急にやってくるわけです。


もうすぐ終末がくることを知ることは、今のあり方に少なからぬ影響を与えます。ガン告知の有無はこのことと密接に関わっていますし、どちらが正解であるかも受け手の性格によるところが大きいようです。




エンディングノート

?遺書よりはフランクで公的効力を持たない家族への覚え書きのようなもの

?砂田麻美第一回監督作品で(プロデューサー是枝裕和)日本製ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」(1987年)以来、初めて興行収入1億円を突破した作品


エンディングノートを書くことは生きることをあきらめたからできることなのでしょうか?

あるいは死を覚悟したからできることなのでしょうか?

ぼくは母に「死んだらどうしたらいいの?」と聞きたかったけれど、それを聞くことは死を前提にすることであって、

つまりぼく自身が死を確定させることのように思えたので、まったくできませんでした。。

おわかりのとおり、ぼくは母の死に向き合う覚悟がなかったわけです。


映画「エンディングノート」のなかで、その中身について問われた父はこう言います。

「死ぬまえに話す阿呆がいるか」と。

それは結末を聞かれて「読むまえに話す阿呆がいるか」とか「観るまえに話す阿呆がいるか」と答えることとちょっと似ている気がします。

すべては物語であり、そのエンディングはエンディングのまさにその時にしか語られない、ということです。


そして、父は息子の赴任にてアメリカに住む孫と会うことを一番の楽しみとして余生を過ごすことになります。

死のおよそ数日前、孫の存在が遠のいた意識のドアを開ける鍵となっています。

死を覚悟した父から孫に向けられた「えまちゃん、また遊ぼうね」という言葉。

その言葉を受け止めつつ涙で返す孫。

希望と現実の間に接点が見いだせないときに、涙がある種の潤滑油となってそれらをつなぎ合わせてくれるかのようです。


「またやりなおします」

輪廻転生の匂いのまったくしない言葉として、聞こえました。


「愛してるよ」

最後の瞬間に初めて妻に言うことではないのかもしれませんが…。




そのすべてが愛おしく思えました。




理想的な週末と理想的な終末はそう遠くない気がしています。




はてさて、みなさんは上手に死ねそうでしょうか?



f:id:paris-rabbit-san:20130503220818j:image

Hemisphere vol.2

映画特集号

堀部篤史恵文社一乗寺店 店長)

田中辰幸(美容室パリスラヴィサント店主)

影山敏彦(tico moon

曽根雅典(三軒茶屋nicolas)

井口奈己映画監督

岩間洋介(moi(カフェ モイ)店主)

中川ちえ(エッセイスト・in-kyo店主)

照井 壮(陶芸家

飯島淳彦(TRAVELER'S NOTEBOOK)

落合 恵(イラストレーター

川尻和則(David Mark David-JK 担当)

真下義之(某老舗プロレス会社)

松村純也(旅ベーグル,TABI BOOKS主催)

藤原康二(mille books 主宰)

kikurair (温故知新)

庄野雄治(David Mark Mark-E-Armond 担当)

including CD-R

[ for your new surroundings / あなたの新しい環境のために ]

one day diary

定価 840円(税込)

A5サイズ・24P CD-R付き

2013-05-02 hemisphere.vol1

アアルトコーヒー庄野さんが『hemisphere.』という小冊子をつくる、

ということをどこまで知っていたかわからない段階で「コーヒーのある生活」という

テーマでなんか書いて、というご依頼を受けて、ぼくが書いたものを以下に転載します。


音楽を聴きながら、コーヒーを飲みながら、本を読む時間。


そういう体験がパッケージされているというところがとてもすきです。


ちなみにこれはぼくはまだコーヒー屋をやっていない頃のもの。

そして、これは庄野さんがご自身で印刷して、CD-Rも焼いてつくってくれています。





ではでは、長いので(1500字くらいでしょうか)覚悟のうえで。




「温かみは手によってのみつくられるわけではないとしても」


雨があがったのでジャムを煮る。

ついこの間まで雨が多くって苺のできがよくなるのをずっと待っていたのだ。

待つ時間、おいしいコーヒーを淹れようと、伊丹十三の「ヨーロッパ退屈日記」を読むが、

イングリッシュ・ティーの淹れ方とスパゲッティの正しい調理法しか書いていない。

コーヒーについての記述はこの部分だけだ。

 

コーヒーを飲みながら食事をするっていうのは、西部劇時代から一向に垢抜けない、アメリカの蛮風です。


本を閉じて、豆を挽き、湯を注ぐ。

アメリカ人に習って、サンドイッチを食べながらコーヒーをすすり、蛮風を満喫すると、

そっと春らしい風が吹いて、やがてそれは東海岸に到達した。




あらゆる手仕事に対してある種の敬意をもっている。

それが過剰なセンチメンタリズムだとしても、だ。

発達したコーヒーメーカーは常に均一でおいしいコーヒーを淹れてくれる、とマツモトさんは言う。

どうしても、人間はぶれてしまうのだ、と。

でも目の前にいる喫茶店のマスターがカップを温めながらゆったりと淹れてくれている光景はまぎれもない現実だ。

それを見ているぼくはそのコーヒーを一口飲んで、すぐにおいしいと言う自信に溢れてる。


そういえば、さっき「ヨーロッパ退屈日記」にこうも書いてあった。



カクテルというものは、味覚と演出とが五分五分くらいに入り交じったものだ


このカクテルのところにコーヒーを代入してもこれは変わるまい。

つまり、おいしいは単純な味覚だけでつくられるわけではないのだ。



「いいデザインというのはそれが手で作られたものかどうかとは関係がない。実際、世の中には手で作られたひどいものもたくさんある。機械を使ったとしても、作るものを決めるのは人間」


そう彼女は考えた。

1911年生まれのイーディス・ヒースは1946年サンフランシスコ郊外のサウサリートで「ヒースセラミックス」を設立する。

そして、陶芸家としての地位を確立していた彼女は個人作家になる道ではなく、インダストリアルデザイナーになる道を選択する。

彼女はこうも言っている。

「私はスタイリッシュすぎるものは好きじゃない。もっと気安いもの、バレエじゃなくてフォークダンスみたいなこと。私はそういうものをつくろうとしている…」

手と轆轤ではなく、型と機械を使う。

それだけで陶芸家協会から批判を浴びることになった。

すると彼女はためらうことなく、すぐに脱会を告げた。


目的とは何か?


みんなが手に取れる良質なうつわをこなれた価格で広く届ける、ということ。

そんな目的が高値で取引される作品、あるいは世界的に評価される作品をつくることよりもちっぽけなものだなんて誰が言えるのだろう。

山を高くするには、まずその裾野を広くしていかなくてはならない、ということ。


彼女が作るうつわは、マットな釉薬、優しいフォルム、くすんだ感じの微妙な色合いで、十分すぎるほどに彼女の色が出ていたし、手の存在が感じられたし、何より土のにおいがした。

そしてそのにおいは太平洋を越えて無事にフォークダンスしか踊れないぼくのもとにも届いた。


役割とは何か?


【問題】

 y軸とx軸が交わる原点をコロンビアアンデスコンドルとしたときにグラフ上にできるコーヒーマップをすべて図示せよ。



ぼくはこの問題と対峙することをここに決心する。

ジャムのいい香りがしてきたと思ったら、雨がまた降ってきたようで、屋根を叩く音がずっと響いている。


f:id:paris-rabbit-san:20130502114945j:image

『本と音楽とコーヒーがあればいい。

言葉にすると陳腐な感じだけれど実際そうなのだから仕方がない。

毎日は案外大変で生きていくのは結構くたびれる。

だからこその本と音楽とコーヒーなのだ。(本文抜粋)』

アアルトコーヒー・アンド・ザ・ルースターの新レーベル Hemisphere からの第一弾はレーベル名を冠した小冊子 Hemisphere 。

巻頭特集は「コーヒーのある生活」。

David Mark の5曲入りCD-R [ Hope ep ] とのカップリングで発売中です。

定価 840円(税込)

A5サイズ・24P CD-R付き

2012-09-12 ぼくらが降りていくべき場所

最新の『Casa BRUTUS』の表紙を含めて巻頭には

ソニアパークさんが最近オープンさせた「DOWN THE STAIRS」が掲載されている。

まだA&S代官山と青山(の骨董通り)の路地を入ったところにしかなかった頃から彼女の審美眼には敬服していた。

そこは日用品とファッションが実用的且つ機能的なディテールを持ちながら、ひたすらに美しく鎮座していた。

すべてに形状というカタチのデザインとともに質感のようなものを持ち合わせていたし(決して上質なだけではない)

それは今も変わってはいない。


Casa BRUTUS』の巻頭には次にように書かれている。

テーマは食だが、そこはカフェでも食堂でもない

料理はもちろんのこと、食材、インテリア、調理道具まで

ソニアが選んだものしか存在しない、まさに「A&Sの台所」と言える場所。

カフェでも食堂でもないにも関わらず、ぼくはそこにごはんを食べに行った。

もちろんお茶だけでもよかったのだけれど、すでに午後1時を回っていたし、

ここでコーヒーだけを飲んで帰るという選択肢は考えにくいものだった。

それは空腹を満たすというためではなくて、彼女がこの場所で何を表現したいのか、

その一端を体験してみたいという少なからぬ思いもあってのことだった。


ランチメニューは二つ(ドライカレーと蟹のクリームコロッケ)あり、ぼくはなんとなくドライカレーを選んだ。

ドリンクなしで1500円。テイクアウトだと300円ほど安いらしい。

f:id:paris-rabbit-san:20120910132314j:image

アスティエ・ドゥ・ヴィラットの大きめのプレートで供される。

カトラリーもアスティエ。

もちろん不味いことはない。

けれど、とってもおいしいとまで言い切れないほどのおいしさだった。

ふつうにおいしいってまさにそういう感じ。(勿論それでいいとも言えるわけだけれど)


でも、なぜだろうって思った。

と同時に、器やカトラリーを含む雰囲気が突き抜けてしまっているために、それとバランスがとれる料理を皿の上に表現することが

むずかしいのではないか、と思った。

考え抜かれた絶世の美女のとなりに立つにふさわしい男性像を考えるときに、もはやそんな男性は空想の世界にしかいないのではないか、

と思ってしまうことにそれは似ている。


つまりぼくのなんとなくおいしいものを食べに行くという発想に限界があるのだ。

(別においしいものを食べに行く以外の食堂に行く動機があったっていいのだ)


あの場はどんな場か?

「食」を通じて「器」を体験する場。

器に息吹きを与えるために料理を設え、

カトラリーでそれを口に運ぶことで、いままで見えづらかった皿の機能を体感する場。

だとしたらあれはあれでいいのかもしれない、と思うのだった。


「DOWN THE STAIRS」はまるでネイチャーアクアリウムみたいだ、

としたらとても腑に落ちた。

ネイチャーアクアリウムの正確な原義を知らないけれど、水槽のなかの主役は熱帯魚から水草に移った

熱帯魚は精密につくりあげられた生態系によりリアリティを与える脇役にすぎない、

というのは、ぼくの金魚文化で育った者にとってはとても新鮮なことだった。


人工的に自然を作り上げたときにその自然さは何が担保するのか、と言えば、

そこに生息するものが確かに存在する、ということだろう。

メインは水草熱帯魚はサブ。

メインは器。料理はサブ。

もちろん双方はまるで自転車の両輪のように影響し合っているし、一方が一方を支えている、とも言えるわけだけれど。


ここまでいくと、味覚とはどういうものかという深い深い問題に行き着いてしまう。

インテリアや器や照明などを含む雰囲気というものを取り除いたときに存在する「料理」はいかほどにおいしいのか?

という問題はいかほどの重要か、という問題…。


銀座の一等地で格安のフレンチが食べられるということで「俺のフレンチ」という立ち食いフレンチが人気だと聞いた。

確かに値段の割りにおいしいから、コスパが高いということはあるんだと思う。

おいしいは目的ではなく(手段に過ぎず)たのしい時間だったなぁ、という実感が目的だとしても、

そこにコスパはどのくらいあるのか、ということが気にかかる。


これについて、もはや結論として言い切ることは誰にもできまい。

しかしながらここにある価値観が文化というものを支えているような気がしてならない。

2012-08-09 コーヒーフロートっていう力の抜け方がすきです

長岡市(旧和島村)にある加勢牧場を訪ねた。

f:id:paris-rabbit-san:20120809151249j:image

f:id:paris-rabbit-san:20120809150801j:image

道の駅わしまで食べることができるガンジーソフトクリームを提供している牧場と

言えばわかる方も少なくないのかもしれない。


約束の時間前に到着してしまったので、クルマを降りてうろうろしていると、

ご両親が声をかけてくれて家にあがって待つように言われ、

ぼくもお言葉に甘えて靴を脱いで中に入れていたいただいた。


「お昼ごはん食べた??」と聞かれたので、「食べてない」と言った上で、

あまりきちんとした形でお昼ごはんを食べることがない、ということも付けくわえた。

これからそうめんを食べるから食べて行きなよ、とお母さんが言ってくれた。

1人分増やすのもそう変わらないから、とも。

(ぼくはその後打ち合わせをしつつ、ずるずるとそうめんをすすることになる)


今日の目的は8月26日(日)に開催予定の三条マルシェで提供するコーヒーフロートについて。


最高のアイスコーヒーに最高のミルクアイスクリームを載せたら最高のコーヒーフロートができるのではないか、

という小学生的な発想を何とか実現できないか、という試みに対してとても好意的に対応していただき、

過分なるご協力をしていただくことができそうでとてもありがたい。

コーヒーフロートは別に最高じゃなくてもいいのかもしれないけれど、そういう発想のわかりやすさとばかっぽさが

結構きらいではない。

B級グルメ的なものをA級のものに昇華させてノスタルジーに頼ることなくおいしく食べていただきたい、

という狙いがないわけでもない。

なにはともあれ、これで今回も自分が心からおいしいと思えるものを来場者の方々に提供できそうで、

それがとてつもなくうれしいのです。

(それからそこで相手をしてくれている加勢さんの考えとか思いがとてもしっくりときてそれもまたうれしい)


お盆明けに実際につくってみることを約束してその場を後にした。


その後牛舎とアイスクリーム工房を見学させていただいた。

ガンジー牛くん(といってもすべて女の子らしいのだけれど)はかわいい。

f:id:paris-rabbit-san:20120809151319j:image

f:id:paris-rabbit-san:20120809150931j:image


放し飼いのポニー、小梅ちゃんをいこいこしました。

f:id:paris-rabbit-san:20120809151047j:image

f:id:paris-rabbit-san:20120809151202j:image

いこいこ。

2012-07-25 洗い物のない夜はすぐに眠ることができる

幼少の頃、外食は間違いなくおいしいものだと思っていた。

まさか家のごはんのほうが外食よりおいしいと思ってる子がいるなんて想像もしていなかった。

そういう子はどこに食べに行ってもそれほどおいしくないから、おうちがいい、なんてことを言うのかもしれない。

外食はおいしいものを食べに行くことじゃなくって、お母さんに楽をさせてあげることなのだ、ということをわかってるのかもしれない。



というのも、先日家でお好み焼きをつくった。

山芋をたっぷり入れて生地をつくり、フライパンでまぁるく焼いてるところに、

うんめ豚の豚バラをきれいに敷き詰めて、ゆっくりと裏表焼いていく。

おたふくソースをかけて、お好みでマヨネーズを添える。

なにも特別なことをしたわけじゃない。

入れるべきものをきちんと入れた、それだけなのだ。

でも、それがとてつもなくおいしかった。

生地がふわふわしてて、豚バラがカリっとしてて何枚でも食べられそうな気がした。




ぼくは家でたべるごはんがいちばん好きってこどもに言われるおかあさんをとても尊敬する。

Connection: close