読了:「月山」(森敦)

それにしても、「月山」の装丁は好きだったのに、サムネイル出ないのは残念。

月山

月山

これをして、「美しいけれど、空恐ろしい小説」と評したのは誰だったか。一言で正鵠を突いておられます。
雪山で行き倒れになりかけたことがある「私」。行くあてもなく懐具合も寂しい「私」は、しばらく食いつなぐつもりで、方丈(住職)の許しを得て、月山を望む山懐は七五三掛(しめかけ)の注連寺を訪ねるが、その村では余所者を警戒し、微妙な空気が流れた。これには理由があって、村ぐるみで密造酒を作っていたので、税務署の人間じゃないかと疑われたんですね。それをめぐって過去にも色々因縁があった。貧しい寒村で、田は近くを流れる渓流よりも高い位置に作らなければならないし、堆肥も桶に背負って運び上げなければならないような土地で、収穫だってそんなに多くはない。冬になれば地吹雪が続き、鶴岡の町からくるバスも運休になる。酒でも造らなければ、生計が成り立たない。そんな陸の孤島で不均衡がおこると、密告すれば自分も同じ恐ろしい目に遭うと判っていても、ささなければ収まらないという状況が出てくる‥‥寺と博打と金と生命が絡み合い、それでも村の生活は淡々と続く。
初めは事情が判らず途惑う「私」だが、日を過ごすうちにいろんなことが垣間見えてきて、また湯殿山を「生の山・日の山」というのに対し、月山を「過ぎた(死んだ)人が行くところ」という言慣わしに沿って、村の姿を眺めるようになる。
土地の人に行き倒れの体験を話すと、「ミイラにされなくてよかったね」という意のことを言われて不審に思っていると、過去に寺の即身仏が火事で焼けてしまったので、行き倒れのやっこ(奴)の腸を抜いて煙で燻して偽物を作ったという話が出てくる。かと思えば、その火事のときにわざわざ救い出した祈祷簿を、今度はほぐして寒さを凌ぐ紙の蚊帳を作ってしまったり。この紙の蚊帳が「私」の繭になぞらえられるのだけど。
あの世とこの世。来し方行く末。過ぎた人とこれから過ぎる人。清と濁。
雲間から差す日の光が山の斜面を動くのを、弘法大師が放った独鈷だという言い伝えが、最後に語られる。
なべて世は、こともなし。