降ってこないように

やる前から意識は混濁していた。暗い闇に更に霧がかかったような精神状態で、目の前の何もかもが霞んで見えた。ただ遠くのほうにかすかな空気穴のような光が見えた気がしていた。そうすればいいと俺が思い込んだだけかもしれない。
四、五人の男が硬い感触でぶつかってきて、地面に引き倒されたときには、無意識に訳の判らない叫び声を上げ続けていた喉がひりついていた。後ろ手に腕を捻りあげられ、容赦なく顔をアスファルトに押し付けられて鼻と頬が擦り剥けた。こんなもんじゃない。俺は暴れた。こんなもんじゃ生ぬるい。もっともっと痛めつけて欲しかった。どうせなら身体を引き裂かれたかった。
あの日、空から女の子が降ってきたのだ。
病院の植え込みの中、周囲より少し薄暗くなった物陰で、妹はこちらを見上げて笑い声を上げた。六歳になったばかりの俺の可愛い妹。ちょっと肺炎をこじらせて入院していたのだが、次の日には退院できるはずだった。天気がよくて穏やかな日だったから、俺は入院生活に退屈しているであろう妹を病院の庭に連れ出して、かくれんぼをして遊んでいた。かくれんぼといったって常に俺が鬼で、ただ物陰に隠れた妹をみつけるだけの他愛無い遊びだ。病院の棟と棟の間、人気が少なくて潅木が植えてあるような場所で、妹は俺が見つけてやると嬉しそうに両手を差し伸べてきた。抱きしめて頬擦りすると柔らかな幼い髪や肌の甘い匂いがした。足首を掴み、ふざけたふりをして覆い被さると妹は両手をばたばたさせて喜んだ。おにいちゃん、やめてと言いながら息も絶え絶えだった。俺は笑いながら身体を起こした。そして妹を助け起こそうと手を伸ばそうとした。
そこへ、女の子が降ってきたのだ。妹の可愛い顔の上だった。一瞬で下敷きになり、赤い血やら黄色い液体やらが飛び散ったことだけを覚えている。
あとで聞いたところ、その女の子は難病だったか不治の病だったか知らないが、とにかく病苦に世を儚んで俺たちがいた場所の真上から飛び降りたのだそうだ。その希望は叶って飛び降りた女の子も妹と一緒に死んだが、俺には理由なんかどうでもよかった。
それからの一年間くらいは記憶が曖昧だ。強いショックを受けた俺は極度の無気力になり、学校へも通わなくなった。続く数年間も暗雲のたちこめた惨憺たる日々だった。何もいいことなんかない。気持ちの持って行きようがない。飛び降りた女の子やその家族を責めることも出来なかった。母親は毎日泣いてばかりいて、父親はあまり家に帰らなくなった。そのうち転勤したのか、単身赴任だといっていなくなった。
そうした日々を送るうちに、ふつふつと身体の奥に溜まったものが熱を持ち始めた。すべての感情が妹と一緒に死に絶えたと思っていたが、そうではなかったらしい。俺は浅ましくまだ生きていた。汚らしく命冥加に俺だけが生き残っていた。自分の中の熱が俺にはひどく穢らわしいものに思えて厭わしかった。すべて昇華してしまわなくてはならない。そうだ、今すぐにでも。
自分の中から湧き上がる熱を持て余した俺は、家から有り金を持ち出し、ホームセンターで大きなバールのようなものを買った。その足でこのあたりで一番人通りの多い繁華街へ出かけた。
歩行者天国の道の真ん中に突っ立って、空を見上げた。降ってくる女の子が、俺の可愛い妹の上に落ちる前に、空中で除けなければならない。あの時出来なかったそれを実行するために、俺はここへ来た。


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