買った、そして読んだ。

 今朝、「1Q84」を買いに近所の本屋に行ったら、そこの女性店員が泣きそうな声でわめき続けていました。どうやら店長に向かって怒っているようだ。ポップやら展示やらの何かを、店長が無断で変えたらしい。そのせいで、ずっと前から準備していたり努力していたことが水の泡になったらしい。
「店長は、○○ちゃんの気持ちとか考えた事ありますか、わたしたちずっと前からこういう話合いをしてこんなふうにしてきて一生懸命頑張ったんです、それを店長は踏みにじったんです」
 はい、そういう話は閉店後にしましょうね。もしくは、店の外でね。
 普通の営業時間に、店のレジの隣の一番目立つ場所で、その例のポップの飾りを指さしながら、甲高い声で怒り続ける女店員。人が怒ってる声って、本当に目立つ。
 なにそれ、ポップとか飾りとか、誰のためにしたわけですか。客のため? 店の売り上げの為?
 じゃあ今ここで、わめき続けて客に不愉快な思いさせて店の売上落としてるのは何のため? あたしたち一生懸命やったのに、ってここは部活じゃねーんだよ!自分のためにしたきゃ、自分で店開けって。それか金払って個展でも開けって。
 と、申し上げたかったです。ちゃんと届かない独りよがりの空回りって大嫌いだ。表現でも商売でも人間関係でも。こんなにやったのに、って、届いてなきゃ、自己満足だ。正しいことだから主張してるのかもしれないけれど、正しいことが常に第一優先だとは限らない。などと、考えるわたしは人生諦め入ってますかね。
 まあ、ネタ拾えてラッキーって感じですが。

 仕事を済ませて、午後は、ずっと読んでいました。今、読み終わりました。月がひとつの世界に帰ってきました。まだ言葉にしたくないけれど、これでまた堂々と村上春樹を好きな作家って言える、と思った。ここ最近の読書体験では(といっても、ここ最近あまり読んでないんだけど)、ミヒャエル・エンデ以来の深い深い満足感でした。ああ、なんて素晴らしいんだろう、小説は、と思う。それはもう、狂信者のように盲目的に絶対的に、小説って素晴らしいと思う。そして、その素晴らしい小説というジャンルに携わっていくことを選んだわたしの人生は誰が何と言おうと、もう大成功だ、と、ひっそり思う。たとえ、一生、鳴かず飛ばずだとしても、ね。

 村上春樹の「1Q84」は、わたしにはとてもよかった。届かない人もいるかもしれないとも思った。でも全部は届かなくてもいいんだとも思った。届かない人がいるほうがいいと思った。今はまだ誰とも議論したくないし、別に人に薦めようとも思わない。
 長距離走のような、とてもとても忍耐強い物語と文章。もちろん、そんなことは普通の読み手には分からないんじゃないかなあと思う。ぱっと見、スマートで鮮やかで天才的な感じがすると思う。でも実際に書いたことのある人間なら分かる。この基礎体力のすごさ、というか。原稿用紙で1984枚だって。きっと実際に書いて削った枚数はもっともっと多い。倍くらいじゃないんだろうか。そのくらい密で行き届いていた。
 何より、今回は物語が生きていた。理屈や理性に納まりきらない、作者にも分からない得体の知れないものとして、大きく解き放たれていた。それがよかった。
 主人公たちの年齢がもうすぐ30才の誕生日を迎えるという設定が、今の自分と同じで、わたしが今、読むべき物語みたいで、何だかそれも嬉しかった。
 小説家志望の主人公が文章を直すシーンを読みながら、たぶん、こうやって村上春樹自身は書いているのだろうと思った。多くの作家もそうやって書いているのだろう。魂を削って全身の力を注いで。増やしては削ぎ落として、何度も何度も検討しながら。
 読み終わって、小説を書きたくなる。無性に。よく人に小説を見せると、自分も書きたくなった、書いてみようかなと言われて、そんな簡単に書けると思わないで欲しい、とわたしは密かに憤慨するのだけれど、今ならその気持は分かる。人は誰もが自分の物語を語ってみたいものなのだ。そして、誰かに聞いてもらいたいものなのだ。ただ、多くの人は語り始める前に挫折する。もしくは語り終えることができても誰にも面白がってもらえなくて傷ついて挫折する。
 自分の物語を誰かにきちんと届ける形にできる人は、鍛え抜かれた肉体と戦闘センスと日々の訓練とある種の覚悟が決まった特殊部隊の戦士のように、専用の筋肉を日々鍛え続けそれのみに命を傾けている、人だけなのだ、と思う。精神の戦士、となんてことを言ってみたくなる。ある一線を越える覚悟があるなら、こちらに来ればいい。でも、来ない方がいい、とは思う。なんていうか、そんなに楽しいものじゃないと思うから。