バラとクレマチス

 東京は今日も曇り空で、すっきりしない天気。

 昨日の時点で開きかけていたバラがすっかり開いた。今年最初のバラ。

 昔からある大変古いバラで、挿し木で株を更新したのだが、品種などは不明。

 同時にクレマチスのマダム・エドワード・アンドレも咲き始めた。まだ花弁が開ききっていない。

 世界ミックスダブルスカーリング選手権がスウェーデンエステルスンドで開催中である。日本からは今年の日本MD選手権で初優勝したSC軽井沢クラブの上野美優・山口剛史組が出場。昨年の世界選手権で銀メダルをとった松村千秋・谷田康真組や今季から世界ツアーに本格参戦して大会に出れば優勝というぐらい勝ちまくった小穴桃里・青木豪組、このチーム別世界ランキングでトップ10に入っている二組(4位と6位)を抑えての出場である。

 大会は20か国が出場し、二組に分かれて総当たりの予選リーグを戦い、各組上位2チームずつが決勝トーナメントに出場。

 A組の日本はここまで5試合を終えて3勝2敗の4位タイ。いきなり強豪ノルウェーと対戦して逆転勝利。続くこれも強豪のエストニアには4-7で敗れ、第3戦ではデンマークに8-3で快勝。第4戦は北京五輪で全勝優勝したコンスタンティーニのイタリアに2-8で完敗。そして、第5戦がスペインに7-4で勝利。

 今日はこれからドイツ戦。負けられない相手だ。

 

(きょうの1曲)Cannonball Adderley with Bill Evans / Elsa


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嘉陵紀行「小日向道栄寺・柏木村円照寺 桜のつと」を辿る(後編)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の記録『江戸近郊道しるべ』のコースを辿るシリーズ。今回は今の文京区小日向にある道栄寺から新宿区北新宿(旧柏木村)の円照寺まで歩く。

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 嘉陵が歩いたのは文政三年三月十日(1820年4月22日)のこと。前編では新宿区余丁町の「抜弁天」までやってきた。

 ここから抜弁天通りを西へ向かうが、その北側に旧道が残っており、それが「久左衛門坂」である(嘉陵は若松町から抜弁天方面へ下る団子坂と混同した可能性がある)。路傍に坂の名前と由来を記した標柱が立ち、徳川家康の江戸入り以前から大久保に居住する島田家の久左衛門が開いたことにちなむ名称だとある。このあたりの町名は新宿七丁目だが、昔の東大久保村である。

抜弁天通りから右に分かれて下る旧道・久左衛門坂)

 坂上には慶安元(1648)年創建の永福寺曹洞宗)があり、境内に銅造の大日如来地蔵菩薩の座像が並んでいる。宝永六(1709)年造立の大日如来抜弁天別当で明治初期に廃寺となった二尊院にあったものだと伝えられている。

 境内にはほかにも庚申塔やさまざまな石仏、山の手七福神の寿老人を祀るお堂などがあるが、嘉陵はこの寺については何も触れていない。

 「少し行て天満天神の社あり〔祠正西に向ふ、故に西向天神と云〕、本社は銅をもていらかをふく、幣殿、拝殿は茅もてふけり、寂寞として人の来るを見ず、祠頭に大なる松二十本ばかり、てる日の影ももらぬばかり、梢おひしげり、いと神さびたてり」

 嘉陵は抜弁天の後に西向天神を訪れている。旧東大久保村の鎮守であった西向天神は鎌倉時代の安貞二(1228)年創建という古社で、その名の通り、社殿が西方を向いている。台地の端に位置するため、古くから景勝地としても知られていた。

 久左衛門坂の途中で左折し、抜弁天通りの下をくぐって、まっすぐ南へ行くと、左手の高台が西向天神で、境内にはかつての別当寺、大聖院もある。明治の神仏分離後も寺と神社が同じ敷地にあるのは珍しい。境内には富士塚もある。

 昔は境内に松の木が生い茂っていたそうだが、今はクスノキケヤキが目につく。桜もあるが、まだ若い。

 社殿前の狛犬は宝暦十二(1762)年造立なので、嘉陵が三歳の時からここにあり、当然、彼も目にしただろう。

 「木の間より見れば、西南のかた田の面をへだてて、向ひの山の木だち見わたさる、ながめ又こよなし」

 当時は天神の下は田圃が広がり、その向こうの山の木立が見えたようだ。田圃だった低地を挟んで、すぐ向こうは地形が高くなっているのは今でも分かるが、もちろん、すべてコンクリートに覆われている。その意味でもこの西向天神は昔の雰囲気を残していて、貴重な空間だ。

 西向天神一帯はかつては桜の名所でもあったそうだが、嘉陵が訪れた時にはもう桜の木は社殿の傍らに一本あるのみであったという。

(石段の下は田圃だった)

 境内に残る富士塚

 さて、再び久左衛門坂に戻り、坂を下ると、そこにはかつて蟹川が流れていた。歌舞伎町付近に水源があり、西向天神の下の田圃の中を流れ、大久保から早稲田を経て、神田川に注いでいた川で、加二川とか金川とかいくつかの表記がある。

(ゆるやかなカーブを描きながら下る久左衛門坂)

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた道)

(現在、久左衛門坂の区間抜弁天通りは勾配緩和、直線化され、北側に旧道が残る)

 蟹川の谷を過ぎて、少し上ると再び抜弁天通りに合流。

 抜弁天通りはすぐに明治通りと交差し、ここから道路名は職安通りに変わる。交差点の地下が都営大江戸線東新宿駅で、明治通りの下を走る東京メトロ副都心線との接続駅になっている。「市谷柳町」交差点付近の牛込柳町駅から若松河田駅東新宿駅と嘉陵が歩いた道の下を現代の大江戸線が走っているわけだ。

 「猶行て百人町〔南中北の三筋あり、こは南町也〕、家々にあるとはなけれど、ここかしこ花あり」

 

 明治通りを過ぎると町名は北側が大久保、南側が歌舞伎町となり、北側はまもなく百人町となる。百人町は江戸幕府の警護に当たる百人組の鉄砲隊(伊賀組)の居住地で、東西に走る三条の通りに沿って南北に細長い短冊状に区切られた土地に屋敷が並んでいた。この区割は今もそのまま残っているが、今ではハングルの看板が目立つ街となり、いつのまにかさらに多国籍化が進んでいる。

 百人町の三本の道のうち、最も南がいま歩いている職安通りである。百人町の出入り口には木戸が設けられ、木戸番が警備に当たっていたというが、天下泰平の時代が長く続くにつれて、鉄砲隊の軍事的重要性は薄れ、副業としてツツジの栽培が行われるようになり、大久保はツツジの名所として知られるようになった。しかし、ツツジ園も都市化の進行により失われてしまった。

 西武新宿線と山手線のガードをくぐり、さらに中央線の線路をくぐって、さらに西へ歩く。小滝橋通りと交差すると、道路名は税務署通りに変わり、町名も北新宿となり、昔の柏木村に入る。

 「西の木戸を出はなれて、人家ニ三戸、ここにも花あり」
 百人町の西の木戸を出れば、当時はすでに江戸近郊の農村地帯であった。小滝橋通りが百人町の西端であったから、ここに木戸があったのだろうか。

 「これより並木の間をゆく、左右ははたなり、七八丁ばかり行て、両岐(ふたまた)あり、南へ行ば淀ばしのこなたへ出」

 当時は両側が畑だった道を行くと、分かれ道。小滝橋通りの「北新宿百人町」交差点から150メートルほどの地点で、北新宿一丁目3番地の先のことだと思われる。ただ、そうすると「七八丁ばかり」というのはどこからなのか、という疑問が残る。ここで右折して北へ入るのが昔の柏木村への道で、左へ行けば青梅街道に合流し、その先に神田川の淀橋があった。

(税務署通りから、ここで右へ入るのが嘉陵の歩いた「畑の細道」だと思われる)

 「畑の細道を北へのぼりゆけば、又七八丁ばかりにして円照寺、門に扁あり、医光山と書す〔佐々木玄竜〕」

 

明治13年の地図(赤線が嘉陵の歩いた推定ルート)

(税務署通から北上する区間はその一本西側の道だった可能性も考えられる)

 

 かつては畑の中の細道だった、今は住宅街ながら、なんとなく古道らしい雰囲気を残す道を北上する。

 やがて交差する道路が大久保通り。百人町の中道だった通りで、現在は百人町を抜け、中野方面へ通じている。

 その大久保通りを渡ると、道は「柏木親友会」という古い商店街になる。ここに昔の村の名前が生きている。

 やがて道は下り坂となり(下の写真で警備員の左側を直進)、円照寺の前に出る。

 門前に「伝説 柏木右衛門桜ゆかりの地」の石柱が立っている。

「寺門の外曲りかどに、もみの大なるが二本、道を夾みてたてり、門を入て左に愛染堂、其前に斜にたちのびたる大松樹一もとあり、右に多羅樹あり、堂の西に薬師堂、其中間に右衛門桜あり、花はや重ひと重とまぢりさく、堂の前に、いち大なるが一本あり、又老木の幹うちきりたるが三もとばかり、若木三四もと、花はみな八重にて、うすいろ也、堂の東に鐘あり〔寛政二年鋳とあり〕、其かたはらに、すぐにたちのびたるもみの大樹あり、高さ凡七八丈ばかり、かこみは三囲みもありぬべし」

 

 当時は寺の入口の両側にモミの大木が立っていたそうだが、今はない。山門を入ると、左に愛染堂があったというが、それもなく、代わりに当時は反対側にあったという鐘楼があり、寛政二(1790)年の梵鐘がある。これは嘉陵が見たものと同じである。当時はまだ鋳造から30年しか経っていなかった。

 今は山門を入ると、正面の本堂の前に枝垂桜があり、まだ美しさを保っていて、写真を撮っている人がけっこういたが、これは新しい木である。姿のよい松もあるが、大樹とはいえない。

 

 そして、右衛門桜であるが、当時は本堂の左に薬師堂があったそうだが、今はその位置に焔魔堂がある。そして、本堂と焔魔堂の間に今も桜の木がある。嘉陵によれば、右衛門桜は八重と一重が交じって咲いていたというが、今の桜はそうではない。

 そもそも右衛門桜とはどういうものか。文政十(1827)年に刊行された『江戸名所花暦』(岡山鳥著、長谷川雪旦画)によれば、「薬師堂の前にあり。花形大りんにして、しへ長く、匂ひ茴香(ういきょう、ハーブのフェンネルのこと)に似て甚高し」とのことで、右衛門桜の名前の由来はこの桜を愛した武田右衛門という浪人が老木となって枝が枯れているのを見て、若木を接ぎ木したところ、樹勢が回復し、花もかつての色香を取り戻したことから右衛門桜と呼ばれるようになり、「幸なるかな、所を柏木村といへは、源氏の柏木右衛門に因て名高き木とはなれり」という。柏木村の右衛門桜が『源氏物語』の登場人物・柏木衛門督(ゑもんのかみ)と結びついて、ことさら有名になったということなのだろう。その右衛門桜は昭和初期に枯れてしまったという。

 嘉陵は円照寺の桜の花の美しさを楽しんだかと思いきや、当日は本堂の茅の葺き替え中で、境内には茅のくずや芥が散らかり、桜の梢にまで足場の木が立てかけてあるといった有様で、「あまりに心なきわざなめり」と嘆いている。

 

 嘉陵は浜町まで歩いて帰ったわけだが、僕は新宿駅まで歩いて、電車で帰る。

 

 

ミナミヌマエビ

 曇り空の日曜日。時折、雨がパラパラと降り、今夜から明日にかけて本格的な雨になるようだ。

 姫睡蓮やハス、カキツバタなどを育てている睡蓮鉢のメダカが活発に泳ぐようになり、卵も産み始めているが、ハスのある鉢に確か2年前にミナミヌマエビを10匹入れた。

 これがいつのまにか繁殖しているようで、大きな個体から小さな個体までいろいろいる。全体の数は把握できないが、けっこう殖えているようだ。

 エビにはコケ取り要員という意味もあるのだが、ご覧の通り、アオミドロがはびこってしまった。冬の間は澄んでいた水も暖かくなって、だんだん緑色になってきた。

 ミツバチがよく給水に来るのだが、足がアオミドロに絡まって溺死してしまうハチが少なくない。アオミドロの除去に努めてはいるが、キリがない。

 

 フリージア

 ハゴロモジャスミンはだいぶ咲き進んで、強い香りを放っている。

 けさの小鳥。


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(きょうの1曲)伊東ゆかり with GREEN GINGER/Green Ginger Flyig


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ハニーサックル

 ハニーサックル(ロニセラ・ヘックロッティ)が咲きだした。

 これから秋の終わりぐらいまで咲き続けるはず。

 街のあちこちで雑草化している外来植物のナガミヒナゲシ。うちにも数年前から侵入してきた。今年も何本か芽を出したが、1本を除いて駆除。残した株が今日、花を咲かせた。爆発的に増殖したら大変だが、今のところ、コントロールは可能だと思っている。

 ベロニカ・ミッフィーブルートも咲き出した。オックスフォードブルーよりは明るいブルー。そして、こちらのほうがよく広がるが、斑入りだった葉がほとんど緑色になってしまった。

 スズメが枯れた芝などを集めている。どこかで巣作りしているのだろう。

(きょうの1曲)Ralph Vaughan Williams / Five Variants of ”Dives and Lazarus”


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またいろいろな花が咲きだした

 今日の東京は曇り空。夕方にはザーッと雨が降るが、短時間で止む。

 庭の植物がまたいろいろと花を咲かせた。

 ハゴロモジャスミン。まだ咲いたのは数輪だが、蕾の数はものすごい。すでに甘い香りが漂う。

 ツツジも咲き出した。小さな株なので、アジュガジャスミンに囲まれている。

 ミヤコワスレ。スズランも咲き始めている。

 チェリーセージ。これは秋までずっと咲き続けるはず。

 モッコウバラが花盛り。

 プルモナリアもたくさん咲いた。

 アネモネとプルモナリア。

 オダマキキジバト

 大きく育ったナスタチウムは花も葉も大きい。

 次に咲くのは何だろう? 

(きょうの1曲)彭羚/一枝花


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嘉陵紀行「小日向道栄寺・柏木村円照寺 桜のつと」を辿る(前編)

 江戸の侍・村尾正靖(1760-1841、号は嘉陵)の江戸近郊日帰り旅の道筋を辿るシリーズ。久々の今回は今の文京区から新宿区にかけて桜の季節に歩いた話。

 

 「文政三年辰の弥生十日、小日向はとり坂の上に、道栄寺といふてらあり、その庭に、よき花ありと聞て、とみにおもひたちて、行てみる、げにも人のいふにたがはざりけり」

 文政三年三月十日は今の暦で1820年4月22日。「小日向はとり坂」は文京区小日向にある服部坂である(現代語訳の『江戸近郊道しるべ』で「小日向の鳥坂」となっているのは誤り)。「よき花」の「花」とは言うまでもなく桜のことである。

 当時、数えで六十一歳の嘉陵は浜町の家に住んでいて、小日向までの道筋は書いていないが、今でいう神田川に出て、川沿いを歩いてきたのだろう。僕は飯田橋駅から歩く。

 現代の神田川は両岸をコンクリートで固められ、しかもこの付近では右岸の上を首都高速が走り、まことに味気ない姿になっている。

 江戸時代からある石切橋から上流を望む。向こうに見えるのが古川橋。

 神田川に架かる古川橋。両岸の袂に氾濫防止のためのゲートが設置されている。

 古川橋から北へ向かい、文京区立第五中学校の東側を上るのが服部坂。坂の途中に服部権太夫の屋敷があったことからの名称。当時は坂下を神田川から分水した神田上水が流れていた。
 ちなみに服部坂下の道を東へ300メートルほど行くと、浄土真宗本法寺がある。その境内に子院の廓然寺(明治十二年廃寺)があり、そこの住職が『嘉陵紀行』と並ぶ当時の貴重な記録である『遊歴雑記』を著した十方庵敬順(津田大浄、1762-1832)だった。嘉陵が小日向を訪れた時、2歳年下の敬順はすでに住職の座を息子に譲って隠居し、携帯用の茶道具を持って、あちこちに出かけては行く先々の見聞を事細かに書き記していたので、当日、敬順が寺にいたかどうかは分からない。今でもキャンプなどでお湯を沸かしてコーヒーを楽しむ人は少なくないが、江戸時代にも携帯コンロと茶道具を持ち歩く人がいたわけだ。ちょっと真似してみたい。閑話休題

 正面が服部坂。

 坂を上ると、左手に小日向神社がある。ここが服部氏の屋敷跡(の一部)で、周辺にあった氷川神社八幡神社を明治になって合祀して、この場所に移し、小日向神社と改称している。

 坂上からの服部坂。昔は見晴らしがよかったのだろう。

 坂の上で道は二手に分かれるが、右へ行く。左手に新渡戸稲造(1862-1933)旧居跡の碑を見て、突き当りまで行き、左折すると道栄寺がある(小日向2-1-22)。この北向きの門は昔は裏門で、山門は東側にあったようだ。嘉陵が訪れた文政年間には1,269坪という広い境内を有していたというが(『小石川區史』)、今はだいぶ縮小されている。

 道栄寺は曹洞宗の寺で、山号は花渓山。創建年代は不詳ながら開山の久山全長和尚の没年が寛文九(1669)年なので、江戸前期だろう。当初は小日向の北に位置する茗荷谷に創建され、享保十六(1731)年に現在地へ移転している。

 さて、道栄寺は住宅街の中のごく普通の寺に過ぎなかったが、桜の木はあった。染井吉野と枝垂桜。でも、古木というわけでもなく、花の名所となるほどではない。桜のある寺は珍しくないし、むしろ境内に桜が一本もないほうが珍しいかもしれない。

(いつも思うことだが、寺社の境内のクルマというのは美観を損ねる)

 しかし、往時は花渓山の山号に相応しい花の名所であったらしい。その理由といえるのか、ここには嘉陵と同世代の大名で白河藩主の松平定信(1759-1829)が植えた桜があったそうで、境内に天保期の松平楽翁桜植樹記念碑があるというが、見逃した。楽翁は定信の隠居後の雅号である。幕臣・嘉陵がこの寺の花の見事さを耳にしたのも、それが徳川吉宗の孫で、11代将軍・家斉の下で老中首座としていわゆる「寛政の改革」など幕政を主導した定信が植えた桜であったからかもしれない。

 嘉陵によれば、本堂前に二本の桜があり、四方に枝を伸ばして庭の半分を覆うほどであったといい、また、書院の庭にも同じような桜が三、四本あり、いずれも薄紅色の八重桜であったとのこと。すでに盛りを過ぎていたが、庭の周囲が囲われているため、散った花びらが飛散することもなく、木々の周りに分厚く降り積もり、それが風に吹き寄せられ、花の浪となり、筆舌に尽くしがたい見事さであったようだ。

 嘉陵は中国明代の文人、虎寅(1470-1524、字名は伯虎)が落花詩の中で「香泥一尺」と表現したのはこのような眺めかと思い至り、自作の和歌と漢詩を書き記している。

 

 ちるはなに庭もまがきもうづもれてゆきのそこなる春のやまでら

 山寺晩桜三月天 淡紅淡花舞風前 満庭香雪深盈尺 来歳応知花有年

 

 当時の道栄寺は「山寺」であったのだ。

 

 往時の面影が失われた道栄寺の境内には敷地内の植え込みに多数の石仏が配されていた。地蔵尊如意輪観音などで、これらは江戸中期に流行した墓石として多く作られたものだろう。

 また、「秩父霊場第十三番写 正観世音菩薩」と彫られた石碑があるのはこの寺に秩父第十三番霊場・慈眼寺の聖観音菩薩像を模した観音像を安置していることを意味している。

 道栄寺の桜に満足した嘉陵は次に柏木村の花を訪ねることにする。柏木村とは今の新宿区北新宿で、そこにやはり桜で有名な円照寺がある。

 

「日もまだ高きに、柏木むらの花をたづねばやと、坂をくだりに、わせだより牛込原まちを経て、若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町、ここに西南へ下る坂あり〔久左衛門坂と云〕、左のかたに大久寺といふてらあり」

 

 この記述から嘉陵の歩いたルートを割り出すわけだが、当時と現代では道が異なっているので簡単ではない。以下は江戸時代の切絵図と明治時代の地図から推定したルート。

 服部坂を下り、古川橋で神田川を渡って、そのまま南下。伝久寺の門前から南側を西へ行き、新宿区榎町の済松寺の東に出る。徳川家光に仕えた祖心尼が正保三(1646)年に家光から寺領の寄進を受け、創建した臨済宗妙心寺派の禅寺。庭園には湧水の池(鳳凰池)があり、『江戸名所図会』にも描かれているが、境内は通常非公開。

 江戸時代から火災による焼失、明治の廃仏毀釈による破壊、昭和の戦災による焼失と幾多の苦難を受けてきたが、そのたびに再興され、現在に至る済松寺。

 山門前を南へ下り、通りに出ると向かい側に肴屋三四郎という鮮魚店があり、モダンな建物だが、看板に享保八年創業とある。1723年だから301年前である。嘉陵がこの付近を通った時からこの場所にあったのかもしれない。

 済松寺の西側を南北に走る外苑東通りを南へ行くと、すぐに早稲田通りと交差する「弁天町」交差点。今では自動車が行き交い、江戸情緒のかけらもないが、この一帯は住居表示が未実施で、古い町名が残っている。この交差点の北西側に早稲田町があり、嘉陵が早稲田を通ったというのはこの付近のことと思われる。

 さらに外苑東通りを南下する。両側に寺が多く、地形的にも起伏が激しい。外苑東通りの原形となった道は江戸時代からあり、嘉陵も歩いたはずである。当時は沿道に七つの寺があり、七軒寺町と呼ばれていた。

 右側の窪地に弁天町の由来となった弁天堂がある。近くにある宗参寺(曹洞宗、牛込氏の菩提寺)の境外仏堂。地形的に昔は湧水の池があったと思われるが、今は存在しない。

 モダン建築が多い寺を左右に眺めながら外苑東通りを南へ歩くと、「市谷柳町」の交差点で大久保通りと交差。昔は道路の形状が複雑だったが、とにかく、ここを西へ曲がると、新宿区原町で、嘉陵が「牛込原まち」と書いた地点である。

 この付近にも寺院が多く、大久保通りの南側に日蓮宗の経王寺がある。日蓮上人の高弟、日法作と伝わる大黒天を安置し、度重なる火災でも焼失を免れたことから「火伏せの大黒天」として信仰を集めた。

 経王寺前の坂を上がって原町を行くと、「若松町」交差点。嘉陵が「わせだより牛込原まちを経て、若松丁」と書いているから、まさにこの道を歩いたのだな、と分かる。

 新宿区原町付近の大久保通り。この地下を都営大江戸線が走っている。

 若松町交差点。嘉陵が「若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町」と書くように、ここを南(左)へ折れる。地下の大江戸線も同じルートを行く。

 道はゆるやかな下り坂。団子坂という。道の右は若松町、左は河田町で、まもなく

大江戸線若松河田駅がある。

 まもなく余丁町に入り、緩やかな坂を上ると「抜弁天」交差点がある。実はこの付近の嘉陵の記述が実際とは異なっている。記憶を頼りに書いたと思われ、その結果、ちょっとした間違いが生じたのだろう。

 嘉陵は「若松丁をみなみによこ折てゆけば、大久保町、ここに西南へくだる坂あり」と書き、割註で「久左衛門坂と云」とし、「坂をくだりて、右に弁才天の祠〔南向也〕あり、ぬけ弁天といふはここ也けり」と綴っている。

 実際は抜弁天を過ぎた先に久左衛門坂があるので、彼がいう久左衛門坂は団子坂の誤りかもしれない。団子坂は若松町からまさに西南に下る坂である。久左衛門坂は抜弁天前から西へ下る坂なので、嘉陵の記述とは異なっている。

 従って、団子坂を下って、再び上った先に抜弁天があるのだ。しかも、嘉陵の文章では坂下の右側にあることになっているが、実際は左側である。江戸時代の絵図を見ても、道と弁天の位置関係は変わっていないので、これは嘉陵の記憶違いか、または達筆だった嘉陵の文章を原本から書写する時点で間違いが生じたかということになるだろうが、真相は不明。

 それよりも嘉陵は坂の途中で「左のかたに大久寺といふてらあり」と書いているが、この付近にそのような寺は現存しないし、過去に存在したという記録も見当たらない。

『江戸近郊道しるべ』の編注者、朝倉治彦氏は「大久寺(新宿区新宿七丁目)」と注釈をつけているが、疑問が残る。嘉陵によれば、その寺の門内に「五鬣の大松」という大木があったというのだが、不明である。

 とにかく、「抜弁天」交差点の傍らに抜弁天厳島神社がある。江戸時代の地図では別当二尊院が同居していたようだ。現在は狭い敷地だが、昔はもう少し広かったのだろう。

 この抜弁天に次のような由緒がある。平安時代の応徳三(1086)年、鎮守府将軍源義家後三年の役で奥州征伐の途上、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、安芸の厳島神社に勝利を祈願した。義家は奥州鎮定後、その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当厳島神社の始まりと伝えられている。江戸時代になって参道が南北に通り抜けでき、また義家が苦難を切り抜けた由来から、「抜弁天」として庶民の間で信仰され、江戸六弁天の一つにも数えられたという。

 境内には小さいながら池も作られ、鯉や金魚が泳いでいる。嘉陵は「祠のかたはらに、かた枝かれたる老木のさくら一木あり、みはやす人もなくて、花またちりがたなるぞ、いとあはれふかし」と書いているが、現在は桜の木はない。



 つづく

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初夏の陽気

 東京は今日も青空で、都心の最高気温は26.8℃まで上がる。3月末に28℃台を記録しているので、もう驚かないが、暑かった。4月でもこのような暑さがこれからは普通になっていくのだろう。

 ソメイヨシノはほとんど散って、八重桜とハナミズキ、そして新緑の季節だ。

 鉢植えのカシワの花。

(きょうの1曲)天地真理/若葉のささやき

 この季節になると聴きたくなる。


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