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Peepooblue’s Notebook

1999-12-23

[]鹿島鉄道の旅 10:19

 久しぶりに小さな旅に出る。今回の目的は鹿島鉄道常磐線の石岡から霞ヶ浦の北側を通って鉾田へ通じる27.2キロのローカル私鉄である。鉄道というのは旅の手段であって、目的にするのは変なわけだが、なかには一度は乗ってみたい鉄道というのもあるものだ。

 11時53分に石岡に着き、まずは駅前のハンバーガーショップで腹ごしらえした後、鹿島鉄道の切符を買おうとしたら、土曜・休日にかぎり1,100円の「一日フリーきっぷ」が発売されていることがわかった。石岡〜鉾田の片道運賃が1,080円だから、断然お得である。

 駅の窓口で尋ねると、鹿島鉄道のホームで売っているとのこと。JRの係員が改札を素通りさせてくれたので、そのまま入場して、跨線橋を渡って鹿島鉄道の乗り場へ行くと、切符を買うには石岡までの乗車券が必要だという。それはそうだ。そうでないと不正乗車をしても分からない。でも、すでに石岡までの切符は僕の手元にないので、結局、また橋を渡って改札口まで戻り、僕が石岡からの乗客であることを示す入場証明をもらってこなければならなかった。それなら最初からJRの改札係がそう言ってくれればよかったのに。ぼんやりしていたのだろうか。

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 とにかく、無事にフリー切符を手にして、列車を待つ。次の鉾田行きは12時31分発である。

 ところで、この鹿島鉄道。かつては日本最大の非電化私鉄・関東鉄道の一員で、鉾田線といったが、関鉄4路線のうち不採算の筑波線と鉾田線1979年に経営分離され、それぞれ別会社となった。筑波鉄道(旧筑波線)は結局、1987年に命脈尽きたが、鹿島鉄道は何とか生き延びているのだ。

 側線にはDD13−171という凸形のディーゼル機関車と一緒にキハ431という可愛らしい気動車が休んでいる。クリームと朱の塗色といい、2枚窓の前面といい、実に懐かしい感じの骨董品のような車両である。あとで知ったことだが、これは北陸加越能鉄道の加越線(石動〜庄川町1972年廃止)で走っていた車両だそうだ。ほかには北海道夕張鉄道出身の車(キハ714)もいるらしい。

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  その431がおもむろに動き出し、いったん引上線に入った後、ホームに入線してきた。それが鉾田行きである。

 筑波鉄道はボックス型の座席が多かったが、これは緑色のロングシート。そこにまばらに乗客が座っている。乗務員は運転士だけのワンマン運転

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(キハ431が入線してきた)

 12時31分に動き出した列車はエンジンを唸らせながら、勾配を上り、左へカーブしていく。

 のどかな田園風景が広がるのかと思いきや、意外に宅地化が進んでいる。後部運転台の窓ガラス越しに線路がまっすぐ伸び、その彼方に筑波山が霞んでいる。

 石岡南台東田中と過ぎて、玉里で上り列車と行き違い。新高浜、四箇村と進んでも、まだ住宅が並んでいる。今はガラガラだが、ラッシュ時には混雑するのだろうか。

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 常陸小川はわりと大きな駅で、ここまでは運転本数も多い。構内にはひどく錆びついたディーゼル機関車が放置されている。DD901という番号プレートがついていた。

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常陸小川のDD901。帰路に撮影)

 ようやく住宅地が途切れて、冬枯れの田園風景が広がり、小川高校下を過ぎるころから右に霞ヶ浦が近づいてきた。あとでこのあたりで途中下車して、湖畔を歩いてみよう。

 冬の陽射しの中、桃浦、八木蒔、浜と進み、湖畔を離れて玉造町に到着。今年の夏の北海道ツーリングの時、大洗へ向かう途中に休憩した駅である。まだ記憶が鮮明で、つい最近のことのようだが、あの日は35度の猛暑。そして今はもう冬。あの暑さが妙に懐かしい。

 次の榎本にはオイルタンクが隣接し、貨物側線もあった。近くに航空自衛隊百里基地があり、鹿島鉄道は燃料輸送を担っているという。石岡駅で見た機関車がタンク車を引いて走るのだろう。筑波鉄道が廃止され、鹿島鉄道が生き残った1つの要因かもしれない。(その後、鹿島鉄道の燃料輸送は廃止されています。)

 列車は丘陵地を切り通しで抜けては平地へ下るという繰り返しで、冬枯れの田圃やススキ野原や笹ヤブや杉林の中を行く。カラスウリの赤い実が印象に残った。

 仮宿前、巴川、坂戸と停まって、13時24分に終点の鉾田に着いた。1本の線路の両側にホームがあって、いかにも終着駅らしい雰囲気。古びた駅舎にも独特の味がある。

 列車はわずか2分で折り返すが、これは見送り。といっても、鉾田ではべつにすることもなく、しかも、次の列車まで1時間半近くあったので、ちょっと後悔した。

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(鉾田駅)

 駅の南側に広がる湿地帯のヨシ原を眺め、近くの書店で郷土史や茨城の自然に関する本などを立ち読みして時間をつぶし、14時52分の石岡行きに乗る。

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 (キハ601)

 今度はキハ601といって、旧国鉄キハ07の改造車。3枚窓の平板な前面が個性的というか珍妙というか。いかにも取ってつけたような改造車ならではの顔である。

 初めはワンマン運転だったが、榎本で行き違い列車から車掌が乗り移ってきて、ここから2人乗務となった。

 15時23分着の桃浦で途中下車。列車の行き違い施設はあるが、こじんまりとした無人駅である。

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 少し歩くと静かな湖畔に出た。このあたりは霞ヶ浦の最北端に近く、西に筑波山、東には夏に立ち寄った霞ヶ浦ふれあいランドの展望タワーが見える。青い空と白い雲が映る揺らめく水面にはカイツブリがいて、なんだかとてものどかな気分。すでに冬の太陽は西に傾き、もうしばらく待てば対岸に沈む夕陽が見られそうだが、それより先に次の列車の時刻が近づいてきた。

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(桃浦駅に石岡行きのKR-501がやってきた)

 桃浦15時57分発。今度はKR−501という新型車両で、面白みはないけれど、乗り心地は格段によい。この車両は先刻、榎本で行き違った列車の折り返しで、さっき榎本で車掌が降りてしまったから当然ワンマンだったが、今度は常陸小川で対向列車から車掌が乗り移ってきた。このあたり、比較的乗客の多い石岡近郊区間は2人乗務となるように人員のやりくりも工夫しているようだ。

 住宅地の彼方に太陽が沈み、16時22分に石岡に着いた時には駅に灯りがともっていた。あとは常磐線に乗れば、東京までは1時間半である。

1992-03-05

[]宮沢賢治記念館 19:56

 旅の最終日は薄曇り。

 朝食後、散歩がてら志戸平温泉まで2キロほど歩き、ついでにそこで露天風呂にもつかって、9時半のバスで花巻駅へ。

 花巻からは10時12分発の釜石線に乗り、2つ目の新花巻下車。新幹線との接続駅であるが、花巻市街から離れているので、周辺には何もない。整備された道路の両側には枯れススキが揺れている。

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 閑散とした駅前広場には宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の碑があり、近づくとチェロが奏でるトロイメライのメロディが流れ出した。

 さて、めざす「宮沢賢治記念館」は胡四王山という山の上にあるらしい。普通の人はバスかタクシーを利用するようだが、僕は歩いていこう。せいぜい2キロ程度であるから大したことはない。

 案内地図に従って釜石線の踏切を渡り、緩やかな坂道を登っていく。周囲は冬枯れの田園。雪は日陰にわずかに残るばかり。黒々とした杉木立に囲まれた農家が点在して、静かな農村の風情を今に伝えている。

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 しばらく歩くと、道端に背の高い道標が立っていた。てっぺんに麦わら帽子のかかった支柱に赤、青、橙のプレートが下がり、それぞれが「宮沢賢治記念館」や「イギリス海岸」や「羅須地人協会」の方角を指している。

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 記念館の方向を示す青い標識に従って雑木林の間の急な坂道を登っていくと、途中に小さな蒸気機関車があった。銀河鉄道をイメージしたものだろう。運転席には路面凍結時の滑り止め用の砂と融雪剤が入っていて、「御自由に使用してください。花巻市土木課」と書いてある。役所が先頭に立って宮沢賢治の作品世界を演出しているようだ。

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 さて、宮沢賢治記念館である。瀟洒な建物で、なかなか広い。客も適度に入っている。展示室に入ると、すぐに大きなガラス板に描かれたイーハトヴ=岩手県の地図。「イーハトヴ」とは宮沢賢治岩手県の実在の山や川や森や野原をイメージの源泉として心の中に思い描いたドリームランドのことである。その岩手県地図にはイーハトヴのさまざまな地名が書き込まれている。今回は時間がないけれど、いつかイーハトヴの旅をしてみたいと思う。

 それにしても、ここの展示物の多彩さとその充実ぶりは大したものである。賢治の生涯を写真、その他の資料で辿るコーナーや文具などの遺品、自筆原稿…とここまでなら、そこらの文学館と同じだけれど、それだけにはとどまらない。元来、宮沢賢治は童話や詩のほかにも教育、農業、宗教、天文、化学などさまざまな分野に幅広い関心を寄せ、実践的活動に力を注いだ人である。そうした賢治の全体像に迫るため、ビデオやスライドなどの視聴覚資料も駆使した多角的な展示がなされている。鉱物標本や神秘的な化学実験ビデオ、美しい星空を映し出す「大銀河系図ドーム」、童話の幻燈、愛用のチェロ顕微鏡、花壇の設計図などなど…。とにかくいろいろあって、宮沢賢治という不思議な人物の多面的な魅力を再認識させられた。いずれもじっくり時間をかけて見る価値が十分にある。いつかまた来よう。

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注文の多い料理店・山猫軒)

 記念館を出て、眼下に北上川花巻市街を見渡し、古い腕木信号機や文学碑の散在する林の中の小道をめぐり、賢治設計の日時計と花壇を回った後、敷地内にあるとんがり屋根のレストランへ。「注文の多い料理店・山猫軒」の看板が出ている。

 玄関には金文字で「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」と書いてある。中へ入ると「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」とある。さらに奥へ進むと「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」と断り書きがあって、「ここで髪をきちんとして、それから履き物の泥を落としてください」だの「壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」だの「あなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください」だのと次々注文がある。そして、一番奥の部屋では巨大な山猫の親方がナイフを持って舌舐めずりして待ち構えていた。もちろん嘘である。でも、途中までは本当だったような気もする。

 さて、あとは帰るだけだ。再び新花巻駅まで歩いて戻り、14時12分発の列車で花巻へ。ホームで乗り換えの東北線一ノ関行きを待っていると、ちらちらと牡丹雪が落ちてきた。

 花巻を14時40分に出た列車は雪の中、北上川に沿って南へ下り、15時36分に一ノ関着。

 ここからは新幹線で帰る。今度の東京行きは15時48分発の「やまびこ48号」。これに乗れば東京までわずか2時間44分である。速すぎるのではないか。東北地方は何度も旅しているが、在来線にばかり乗っていたので、僕の感覚では一ノ関・東京間は6、7時間はかかることになっている。

 ほぼ満席の列車は凄まじいスピードで狂ったように突っ走る。東北線の風景というのは平凡な中に素朴な味わいがあって、そこが魅力なのだが、まるで好きな映画を早送りで見せられているようである。もっとも、一般の人には新幹線こそノーマルで、在来線に乗るとビデオの遅回しに見えるのかもしれないけれど…。

 雪は南へ行くほど激しくなり、仙台は真っ白に雪化粧していた。東京は雨だろうか。この旅ももうすぐ終わる。

1992-03-04

[]花巻 17:44

 青森市の山奥にある酸ケ湯温泉の一軒宿で迎えた朝。 窓の外は相変わらず雪だった。しかも、相当な降り方である。何といっても八甲田山の中腹、海抜925メートルの宿。軒先にはツララがずらりと下がり、冷え込みの厳しさを物語っている。

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 手首はまだ痛い。しかし、腫れるなどの悪化の兆候は見られない。痛みにも慣れてきた。結局、単なる打撲だったのか、放っておいても大丈夫そうだ。

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 8時半のバスで出発。路上の雪を吹き飛ばしながら進む除雪車が先導する形でバスは雪の壁の間をゆっくり下っていく。八甲田の春はまだまだ先のようである。

 下界の青森駅前には9時50分に着いた。雪はちらつく程度で空も明るくなってきた。

 とりあえず、これで今回の津軽の旅は終わりである。しかし、帰途に花巻の「宮沢賢治記念館」にぜひ寄りたいと思っているので、花巻の宿に予約を入れてから10時30分発の盛岡行き特急はつかり12号」の乗客となった。

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(特急はつかり12号」。青森駅にて)

 いつしか雲が切れて青空が見えてきた。「はつかり」は高速で突っ走り、三沢、八戸と行くうちに積雪も消え、すっかり車窓は春めいてくる。同じ青森県内でも地域によってずいぶん気候が違うのだ。

 その「はつかり」を12時05分着の二戸で見送り、普通列車に乗り換え。料金節約の意味もあるが、客車のドン行にのんびり揺られたいという気持ちもある。

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 12時30分発の盛岡行きは真紅の電気機関車EF81がこれまた赤い客車3両を従えた身軽な編成。車内には春の昼下がりののどかな気分が漂っている。

 このあたりの車窓風景は鄙びた山里の感じで、絶景ではないが、人間にたとえれば、笠智衆さんみたいな味わいがあって、僕は好きである。

 列車は東北本線のかつての難所、十三本木峠を難なく越えて、13時50分に盛岡着。さらに14時30分発に乗り継いで、15時10分に花巻到着。

 今日はこのまま駅からバスで30分の大沢温泉に投宿。昔ながらの温泉宿で、豊沢川の渓流に面した露天風呂で星空を眺めながら、ふやけるまで湯につかった。

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1992-03-03

[]竜飛崎 17:28

 函館0時10分出航の東日本フェリー2便「びいな」が津軽海峡を渡って青森港に到着したのは未明の3時50分。

 寝ぼけ眼で下船して、とりあえずフェリーターミナルの建物へ。青函航路は24時間運航なので、こんな時刻でも待合室はあかあかと電灯がつき、片隅のラーメン屋はトラック運転手たちで繁盛していた。彼らもここでしばしの休息をとった後、それぞれの目的地へ向けて再び旅立っていくのだ。

 朝まで待合室のベンチで仮眠をとってもいいのだが、眠れそうにもないので、青森駅へ向かうことにする。

 青森駅まで3キロ余り。雪の残る国道をてくてく歩く。

 もちろん、人影はなく、車もほとんど通らない。ミッドナイトブルーの空を見上げながら、なんでこんな時間にこんなところを歩いているんだろう、と我ながらばかばかしくも思うけれど、無意味でばかげた旅ほど面白いのだ。そう思うほかあるまい。

 ようやく青森駅西口が見えてきた。やれやれ、とホッとしたところでアクシデント発生。

 きれいに除雪された路面が早朝の冷え込みでコチコチ、ツルツルの天然スケートリンク状態。危ないな、と思った途端に足がツルッと滑り、一瞬全身が宙に浮いた後、身体の左側から凍った地面に叩きつけられた。

 グギッ!

 左手首に痛みが走る。あれっ、折れたかな、と思った。恐る恐る手首を動かして見ると、一応は動く。でも、そのたびにズキンと痛む。

 なんとか駅にたどり着き、販売機で熱い紅茶を買うと、そのまま左手首を押さえてベンチに座り込み、じっとしていた。

 さて、どうしよう。痛いのさえ我慢すれば手首は動くので、骨折ではなさそうだけれど、骨に亀裂ぐらいは入っているのかもしれない。骨折の経験がないので、その辺の判断がつかない。

 とりあえず、しばらく様子を見ることにして、今日はこれから津軽半島北端の竜飛崎まで行ってこようと思う。小泊からのルートは冬期通行止めだったが、津軽線で三厩まで行けば、岬までバスが通じているのだ。

 それで、大きな荷物は青森駅コインロッカーに預けて身軽になり、5時47分発の津軽線一番列車の乗客となった。身軽とはいっても今日は左手首という思わぬ荷物を抱え込んでしまった。どうなることやら不安である。まぁ、竜飛崎まで行こうという気分になるぐらいだから大丈夫かな、とは思うが…。

 ほとんど乗客のないまま、青森を出た列車は夜明けの津軽線を北上し、40分足らずで蟹田に着いた。この列車はここで終点、通勤通学客を乗せて青森へ引き返す。乗り換えの三厩行きの発車にはまだ50分余りあるので、駅を出た。

 二度と転ばぬように慎重確実に一歩一歩踏みしめながら駅前を通る国道に出ると、交通事故があったらしく、パトカーが来て、青年が自分のクルマの傍らで茫然と警察官の検分に立ち会っている。すでに救急車が来た後なのか、事故の相手の姿は見えないが、それが人身事故であったことは、そばで立ち話をしていたおばさんの会話から聞き取れた。朝早くから気の毒なことである。

 その国道を渡ると、家並みの向こうに陸奥湾が広がっていた。

 朝凪の海は鏡のように静かに空を映し、平館海峡を隔てて下北半島海岸線が蒼黒いシルエットを描いている。上空は晴れているが、彼方には青を含んだ濃い灰色の雲が低く垂れ、それが朝日を浴びて、上の方だけ白や銀色や金色に輝いている。波静かな海にも光の色が満ちてきた。少し離れたところで、白鳥が餌を探している。ちょっと寒いが、穏やかな朝である。しかし、手首は相変わらずズキズキ痛む。

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 蟹田駅の待合室のストーブにあたって手首をさすっているうちに列車の発車時間が近づいた。すでに待機中のディーゼルカーに乗り込み、何気なく窓越しにホームに目をやると、津軽特産のヒバを使った太宰治文学碑があった。

「蟹田ってのは風の町だね」

 小説『津軽』に出てくる太宰自身のセリフである。何でもない言葉ではあるけれど、出版社の依頼で津軽風土記を執筆するため、久々に故郷に帰った太宰が津軽を旅しながら懐かしい人々と再会し、楽しげに語り、酒を酌み交わす様子が目に浮かぶようだ。苦悩に満ちた生涯を最後は自殺によって閉じた彼であるが、この作品には束の間の幸福感とでもいうべき精神の静謐が感じられて、じんとくるものがある。

 その「風の町」蟹田を7時17分に発車した三厩行きは一旦海岸を離れ、雪原の中の信号場青函トンネルに通じる津軽海峡線を分岐すると山間にさしかかる。周囲の針葉樹はヒバだろうか。樹木の知識が乏しいので、よく分からない。

 再び津軽海峡線出合い、その高架橋の下をくぐって、今別川に沿って北上していくと、車窓にまた海が見えてきた。津軽半島北辺の海岸で、海は津軽海峡である。蟹田の海の穏やかさとは違って、北の荒海の表情。いつしかまた雪も舞っている。

 終点の三厩には8時01分に到着。駅前から8時10分発のバスに乗り継いだ。

 竜飛まで国道339号線を40分ほどの道のりで、急峻な断崖の下をくねくねとカーブしながら美しくも寂しい海岸づたいに走る。

 そそり立つ絶壁にはツララがずらりと滝のように連なり、あれが落ちてきたら大変だぞ、と思わせる。除去作業も行なわれているようだ。

 初めは数人の乗客がいたのに、みんな途中で降りてしまって、終点まで行ったのは僕だけであった。

 とにかく、本州の北の果て、竜飛崎へ到達した。雪が降り続き、暗く寂しげなところである。太宰もここを訪れているが、『津軽』における竜飛の描写は秀逸である。

 路はいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。

 「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。

 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。

 本当に路は絶えていた。国道339号線もここで終点。末端は階段になって岬の頂上へ駆け上がり、ぷつりと途切れている、というのをテレビで見たことがあるが、その階段もどこにあるのかよくわからない。

 竜飛の停留所には折り返しのバスに乗る学生風の旅行者が2人とタクシーが1台停まっているだけで、ほかに人影は見当たらない。集落全体が冬眠しているかの如く、しんと静まり返っている。

 津軽海峡日本海を分かつ岬の突端は険しい断崖となって海へ落下しているが、その崖下にへばりつくような遊歩道があるのに気づいて歩いてみた。

 岩礁の周りだけ白く泡立つ群青の海は寒々として、彼方には北海道最南端の白神岬がくっきりと望まれる。

 しかしながら、この遊歩道は風光を楽しみながら歩くには、あまりに危険な様相を呈してきた。周囲に落石がゴロゴロしており、そそり立つ絶壁を見上げれば、さらなる巨岩があちこちで「次はオレが落ちる番だ」とばかりに落下の頃合を見計らっているように見えるのだ。神の殺意。もし、あの岩が落ちてきたら…と悪夢のようなことを想像しながら足早に崖下を通り過ぎると、ようやく危険地帯を脱したところに、ここは落石の恐れがあるので通行禁止と書いてあった。反対側の入口にはこんな注意書きはなかったはずだが…。

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津軽海峡の彼方に北海道の大地が見える)

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 ウミウの群れがじっと風に耐える岩山を見上げ、冬枯れの急斜面につけられた階段を登ると、標高115メートルの岬の頂上に至る。

 海の眺望が三方に大きく開け、日本海から吹きつける風はいよいよ強く、地上の粉雪が煙のように地を這い、舞い上がる。

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 津軽海峡の彼方の空は青いのに、本州側は暗雲が海面に接するくらい低く垂れ込める陰鬱な天候で、灯台周辺にもレストハウスにも人の気配はまったくない。

 しかし、本当に誰もいない、というわけではなかった。実はある者につけ狙われていたのである。岬の上を散策している間、その者は時折、視界の片隅にチラッと姿を現わしては消え、そろそろ竜飛の集落へ戻ろうか、と思ったところで、ついに目の前にやってきて、停まった。

 タクシーである。先刻、バス停にいた、あのタクシーだ。いま現在、この土地にいる恐らく唯一の旅行客なので、目をつけられたのだろう。

 さて、どうするか。もちろん、無視してもいいのだが、三厩行きのバスは11時過ぎまでないし、おまけに列車との接続も極めて悪いので、タクシーを利用したい気持ちは大いにある。問題は懐具合で、郵便局か銀行に行かなければ、財布の中には千円札が3枚しか入っていないのだ。しかし、手首は痛いし、この寒風の中でまだ1時間以上バスを待つのは辛いので、降りてきた運転手に三厩までの料金を尋ねると、3千円ぐらいとのこと(バスは660円)。途中に郵便局もあるというので、結局はタクシーに乗ることにした。それこそ運転手の思う壺だが、まぁ、いいか。

 しかし、運転手は少し走らせただけで、車を停めた。

「ここが有名な階段の国道ですよ」

 ずっと僕の行動を監視していたので、竜飛崎で僕が何を見て、何を見ていないか、すべて把握しているのだ。

 そこには「三厩駅行きバス停に至る」という案内板とともに国道339号線の青い標識が立ち、そこから下の集落へ雪の階段が続いていた。なるほど、これが…。車どころか自転車すら走れない国道なんて全国でもここだけではないか。そこで津軽海峡北海道を背景に写真を撮ってもらって、改めて出発。

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 ところが、車はまたも脇道に逸れて、今度は青函トンネル記念館前に停まった。竜飛はトンネル工事の本州側基地となったところで、ちょうどこの真下をトンネルが通っているのだ。ケーブルカーで地底へ下って、坑道内を見学できるそうで、興味があるけれど、当然ながら今はすべて休業中。記念館の開館期間は4月末から11月初旬までである。それでも運転手に促されて車を降り、前庭に展示された掘削機械を眺め、ここでも記念写真を撮った。

 次は東北電力風力発電実験施設「竜飛ウインドパーク」である。といっても、遠くから眺めただけだが、丘陵の稜線に沿って風車が5基並んで、北西の風を受けてクルクル回転していた。年平均風速が10メートルを超えるという有数の強風地帯、竜飛崎ならではの光景だが、昨年の台風19号(いわゆる「りんご台風」)の時にはあまりの強風で風車が1基吹き飛んだらしい。過去には観光客が強風で飛ばされ、海に転落して死亡するという事故もあったそうだが、運転手が竜飛の風の強さを語る時、何やら自慢話のようにも聞こえるのだった。

 その後、車は三厩まで快調に走った。往路は気づかなかったが、沿道にはまた例の聖書の言葉が続々と現われる。

「見よ、わたしはすぐに来る」

「わざわいなるかな、偶像崇拝する者」

「神と和解せよ」

 不気味である。

「なんかすごいですねぇ」

 運転手の解説によれば、

「田舎の人は貼らせてくれって頼まれるとイヤと言えないから…」

 とのこと。それでこんなことになってしまったのか。そういえば、処刑されたはずのイエス・キリストが実は無事に逃げ延びて最後に辿り着いた、という伝説の村が青森県の山奥にあったっけ。

 予想外に立派な三厩郵便局にも寄って、10時過ぎに三厩駅前に到着。寄り道の際にはメーターを止めていたので、料金は2,960円だった。

 今度の津軽線は10時27分の青森行きである。三厩駅は瀟洒な造りで、待合室にはコーヒーや紅茶のセットまで用意されている。最果ての駅にありがちなうらぶれた感じはない。

 ホームの駅名標の下には誰が作ったのか、可愛らしい雪だるまが微笑んでいた。

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 青森までほとんど眠って過ごして、12時21分着。

 今回の旅はずっと海辺ばかり廻ってきたので、今日は八甲田山中の酸ヶ湯へ行って泊まろうと思う。

 酸ヶ湯行きのバスの発車まで3時間以上あるので、昼食後、八戸行きの普通列車に乗って青森近郊の歓楽温泉街、浅虫へ行き、町なかをぶらっと散歩して、海を眺めて、バスで帰ってきた。

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 さて、15時45分に青森駅前を発車したバスは市街地を抜けると真南へ向かう。郊外住宅地の停留所で数人ずつ乗客を降ろしながら山懐へ分け入るにつれ、だんだん積雪が多くなり、雲谷スキー場を過ぎる頃から雪が本格的に降り始めた。

 沿道には堆く積もった雪の壁が続き、周囲の山々も木々も路面も真っ白で、一点の汚れもない。もちろん、もはや一軒の民家も見当たらない。ひたすら雪、雪、雪、雪、雪、雪、雪…の世界である。これほどの豪雪地帯で一年中道路を確保するのは大変なカネと労力を要することだろう。

 降りしきる雪がますます激しさを増してきた。こんな山奥に泊まって大丈夫だろうか、閉じ込められたりしないだろうか、と不安にもなる。まぁ、その時はその時だ…と気楽に考えることにしよう。

 半ば雪に埋もれて、営業しているんだかどうだかよく分からない八甲田ロープウェイの山麓駅を経由して、ようやく酸ヶ湯温泉に到着。青森駅前からおよそ1時間20分。すでに17時を回っている。道路も冬期はここが終点で、この先、十和田湖方面へ続く道は雪に埋まっている。

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 そんな雪深い山奥の一軒宿、酸ヶ湯温泉旅館は意外と大きな建物で、駐車場にも車がたくさん止まっていた。玄関の内側はさらに意外で、ホテル風のフロントに制服姿の若い女性がいて、予約管理のコンピュータを操作したりしている。そういえば、予約の電話をした時も出たのは若い女性の声だった。なんだか近代的な巨大観光ホテルみたいである。

 ところが、通された部屋は昔ながらの温泉旅館風。壁には明治・大正期の文筆家で、この奥の蔦温泉で生涯を閉じた大町桂月の書が掛かっている。窓の外にはどっさりと雪が積もり、やはりここは雪国の温泉宿なのだと実感する。

 一服してから、さっそく風呂へ。ここのお湯は打撲にも効くと書いてある。まぁ、一泊したぐらいで効果があるとも思わないけれど、とにかく早く温泉に浸かりたい。

 大浴場は「千人風呂」と呼ばれる総ヒバ造りの巨大なもので、泉質は酸性硫黄泉。

 濛々と湯気が立ち込める中に洗面器の音がコーンと響き、湯治の爺さん、婆さんのシルエットがぼんやり見えた。

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1992-03-02

[]津軽海峡  21:14

 津軽半島西海岸・小泊の宿をあとに五所川原を経て青森へ。さらに津軽海峡青函トンネルでくぐり抜け、北海道函館へ渡りました。

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     小泊から五所川原

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(小泊の宿の窓からの風景)

 津軽半島西海岸・小泊の宿で迎えた朝。刺身付きの朝食の後、8時過ぎに出発。

 宿のおばさんに教わった通り、宿のすぐ裏手の「浜町」という停留所で五所川原行きのバスを待つ。

 昨夜来の雪は今もちらつき、バス停ポールの円い標示板も雪化粧して、文字が消えている。路上の雪は風に吹かれ飛ばされ、箒で掃いたような模様を描いている。

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 やがて、小泊案内所発のバスが来て、子ども連れの若い母親やお婆さんらとともに乗り込み、小泊村をあとに昨日来た道を引き返す。

 結局、小泊では夕陽を見て、道に迷って、魚をたくさん食べて…それだけだった。まぁ、いいか。

 停留所ごとに乗ってくるのはほとんどがおばさんかお婆さん。みんながみんな顔見知りのように挨拶を交わしている。よそ者は僕ひとりなのだった。

 かつて北海道の最果てを旅した時にも感じたことだけれど、北国の厳しい気候風土は都会よりも遥かに濃密な人間関係の磁場を生むようだ。冬の寒さや雪や荒海に晒された土地で、圧倒的な自然の猛威になんとか耐えながら互いに助け合って生きることで、人間同士の絆も必然的に深まるのだろう。

 そうした自然の脅威を文明の力で封じ込めて、人間が築き上げたコンクリートの要塞が現代都市であるとすれば、その中で安住する都会人は自然と共存する意思と能力が低下するばかりか、他人と共に生きる力も弱まりつつあるのかもしれない。東京で暮らしていると、そんな気がする。

 バスは中里駅前を経由し、金木では太宰治の生家である「斜陽館」の前を通り、金木病院前でお婆さんをたくさん降ろして、小泊から2時間弱で五所川原駅前に到着した。

 これから青森へ出ようと思う。次の五能線は都合がよく青森直通の快速である。しかし、発車まで1時間ほどあるので、その間に街へ出た。

     五所川原

 五所川原津軽地方では青森弘前に次ぐ都市である。再び太宰治の『津軽』を引用すれば、彼は五所川原についてこんな風に評している。

「…善く言えば活気のある町であり、悪く言えば騒がしい町である。農村の匂いは無く、都会特有のあの孤独の戦慄がこれくらいの小さな町にも既に幽かに忍びいっている模様である」

 さすがに太宰は敏感だ。確かに小泊村から金木町五所川原市と来るにつれて人間関係の密度は希薄になっていくようである。しかも、これが書かれたのは昭和19年。半世紀近くも昔のことなのだ。いま、もし太宰が生きていて、今日の金木や小泊を訪ねたなら、そこにもやはり「孤独の戦慄」を感じ取るに違いない。それでもなお、東京からの旅行者の目で眺めれば、津軽には今でも人々のさりげない優しさがごく自然に漂っている。この五所川原の街にだって、たとえば、古めかしいバスの待合所の雰囲気の中に、初めて来たのに懐かしさを感じるような人間の温もりがあるように思うのだ。

 津軽を旅すると人間が好きになる。昨夜、小泊の宿でノートに書きとめた言葉である。

 駅前通りの両側に連なる、雪国特有の「雁木」と呼ばれる古びたアーケードの商店街をはずれまで歩いていくと、岩木川にかかる乾橋。

 晴れていれば、眼前に津軽の名峰、岩木山が聳えているはずだが、今日は見えない。というより、いつ来ても岩木山は雲をかぶっていて、僕はまだ全容を拝んだことがない。

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 これ以上歩いても、何もなさそうなので、再び激しく舞い始めた牡丹雪が空しく川面に消えていくのを橋の上からしばらく眺めて駅に戻った。

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     青森

 さて、11時01分発の青森行きは五所川原を出ると、津軽平野を一旦南へ下って川部へ向かう。

 このあたりはリンゴの産地として有名だけれど、昨年(1991年)は台風19号のせいで壊滅的な被害が出た。そのせいか、リンゴ畑にも苗木ばかりが目につくような気がした。

 苛酷な自然に支配され、苦しめられ、それでも自然に依存し、その恵みを受けて生きる。あらゆる生き物は遠い昔からずっとそうやって健気に生きてきたわけで、その「健気さ」こそが生命の美しさの本質である、と僕は思う。それは人間についても同じであろう。津軽の旅はそんな当たり前のことを改めて思い起こさせてくれたりもする。

 列車は川部から奥羽本線に入ると、V字を描くように今度は針路を北に転じ、途中、車窓が白く霞むほど雪の降りしきる峠を越えて青森市街にさしかかった。

 青森市は全国の都道府県庁所在地の中で最も雪深い街であるが、今年は暖冬のせいか、積雪はさほど多くない。

 青森到着、12時10分。駅に降り立って、少し驚いた。見慣れた連絡船桟橋は姿を消し、ホームから桟橋へ通じていた跨線橋は途中でぷつりと切断されている。船に貨車を積み込むための線路もすべて撤去。そして、何よりも整然となった構内を跨いで立派な道路橋が完成しつつあるのだ。その名も青森ベイブリッジ青函連絡船を失った青森の街は新時代を切り開くべく変貌を遂げつつあるようだ。

     八甲田丸

 ところで、今日はこれから初めての青函トンネルをくぐって函館へ行ってこようと思う。しかし、次の函館行きにはまだ2時間近くもあるので、その間を利用して青森岸壁に「安置」されている青函連絡船「八甲田丸」の「遺体」と対面してきた。

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 もはや海峡を渡ることのない「八甲田丸」は連絡船記念館として、降り続く雪の中、静かに眠っていた。この船には何度か乗ったので、懐かしいような哀しいような気分で、随所に在りし日の面影を残す船内の様々な展示施設を見て歩いた。現役時代には立ち入ることのできなかった操舵室の窓から眺める海は黙して語らず、ただ茫洋と広がり、降りしきる雪は積もることも知らず、儚く海に消えていくのだった。

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(この写真は2000年夏の八甲田丸)

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青森駅で発車を待つ海峡9号)

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      青函トンネル

 青森14時05分発の函館行き快速「海峡9号」は赤い電気機関車ED79-3の後に青い14系客車を5両連ねた編成で発車した。

 車内には北海道へ渡る客ばかりでなく、下校の女子高校生などもたくさん乗っている。本州側唯一の停車駅、蟹田まで帰るのだろう。各駅停車ディーゼルカーより速いし、車両もデラックスだから利用価値は高い。

 いつしか雪も止んで、薄陽が射すなか、列車は津軽半島東海岸に沿って、単線の津軽線を北上する。

 車内アナウンスでは観光客向けに青函トンネルの概要を説明し、この列車のトンネル突入予定時刻や通過所要時間まで案内している。莫大な費用と労力をかけて長期にわたる難工事の末にようやく開通した世界最長の海底トンネルであるから、そのありがたみを充分に噛みしめてくぐらなければなるまい。

 もちろん、海底トンネル青函連絡船の旅情にかなうはずはないけれど、まぁ、それは言っても仕方がない。折しも、家並みの向こうに見える陸奥湾東日本フェリー函館便が北上している。連絡船が廃止になってもフェリーが健在なのである。帰りは僕も船に乗ろう。

 また陽が翳って雪になった。北西の季節風にのって雪雲が次々と押し寄せてくるので、その下をくぐるたびに空が暗くなって雪が激しく舞う。雲が過ぎればまた晴れる。

 蟹田で女子高生らを降ろした「海峡9号」はやがて雪原の真ん中で単線の津軽線から分かれて、新幹線並みに立派な複線高架の津軽海峡線へと突き進む。途端にトンネルの連続となり、いくつ目かのトンネルに入ると、それきり暗闇が明けることはなくなった。青函トンネルである。

 40分もの闇路を突き抜けると、そこはもう北海道であった。あまり実感は湧かないけれど、そうなのである。

 海の底から白い大地の片隅に這い上がった列車は木古内から再び単線の江差線に入り、津軽海峡に沿って、さらに1時間近く走り続ける。

 海峡の彼方に津軽・下北両半島が望まれ、前方には函館山も見えてきた。そして、海上にはこの列車と競うかのように函館行きのフェリーが相変わらず浮かんでいた。

     函館

 函館到着16時52分。

 隣のホームの列車は「大阪」などという行き先を標示しているから「一体ここはどこなんだ?」という気分にもなるけれど、とにかくこれが6回目の函館である。といっても、今回はどこにも泊まらず、深夜便のフェリーで青森に帰るつもり。それまでの短い滞在ではあるけれど、とりあえず、荷物をコインロッカーに預けて、夕暮れの街へ出た。

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 べつに観光するわけでもなく、地元の人間のフリをして書店やらレコード店やらに立ち寄りながら、ぶらぶらと散歩するだけで嬉しい。それぐらい函館は好きな街だ。

 いつしか上空は光の色が失せて、藍色が深まり、たそがれの街には街路灯やネオンが点って、夜の装いに変わっていく。

     函館の夜

 夜の函館といえば、夜景である。過去に2度、函館山からの夜景を眺めているけれど、今回もまた山麓駅まで歩いてロープウェイに乗った。

 フランスの最新技術を導入したという大型ゴンドラで山頂までわずか3分。ぐんぐん昇るにつれて眼下に宝石箱のようにきらめく街が広がり、満員のギャルズ&オバサンズから思わず歓声があがる。

 青函トンネル開通に合わせて新装された山頂駅は函館の風土や歴史とは無縁のモダンな建築。寒い思いをせずに快適な展望フロアからガラス越しに夜景を眺めることができる。レストランもあって、夜景を楽しみながら食事をするカップルがたくさんいる。僕はといえば、雪の積もった屋上に出て、夜風に吹かれながら下界を見下ろした。

 真っ暗な海に囲まれた小さな半島の上にひしめく光の街。彼方に広がる漆黒の大地。函館の夜景の魅力は、この光と闇のコントラスト、あるいは、ちっぽけな街を取り巻く暗闇の果てしない広がりにこそあるのではないか、そんな風に思う。

 さて、再びロープウェイで下山して、ライトアップされたハリストス正教会など元町周辺を散策してから街なかへ戻る。

 山上からはきらめく光に満ち溢れて見える街も、実際に歩いてみると、駅周辺の繁華街を除けば意外に寂しい。

 だだっ広い通りの両側に青白い街路灯が点々と連なるばかりで、人通りもほとんどなく、車も少ない。時々、思い出したようにガラガラの路面電車がガタゴトと走り過ぎたりする。今夜は帰る宿もないので、旅愁もひとしおである。

 というわけで、足は自然に繁華な中心街へ向かい、駅に近いこじんまりとした定食屋で夕食にした。

 3人のおばちゃんが切り盛りする家庭的な店で、3年前にも入ったことがある。店内の様子もおばちゃんも変わっておらず、壁に山川豊の色紙ばかりがずらりと飾ってあるのもそのままだ。そういえば、彼は「函館本線」という曲でデビューしたのだっけ。

     夜の駅

 ホタテのお吸い物つきの銀鱈定食を食べて店を出ると、あとはもうすることもない。しばらく夜の街を散歩してから函館駅に戻り、待合室で鞄から文庫本を取り出した。

 僕にとって旅先で一番落ち着くのは列車の中、次いで駅の待合室のようである。特にこういう地方都市の夜の駅には独特の風情があって、なんとなく好きである。

 夜がふけるにつれて、食堂もキオスクも店を閉じ、私服に着替えた従業員たちがそれぞれ家路につき、駅に発着する列車の数も出入りする人の数も減ってくる。

 ガランとした待合室のベンチにぽつねんと座っていると、蛍光灯の明るさまでが虚無的に感じられてくる。今宵帰る場所もない身にとっては、自分の乗る列車の時刻のみが待ち遠しい。

     深夜のフェリーターミナル

 23時06分発の江差線木古内行きの最終列車はディーゼルカーたった1両きり、それでもガラガラだった。なんでこんな列車に乗ったのかというと、2駅目の七重浜がフェリーターミナルの最寄り駅なのだ。

 駅を出ると、街路灯の青ざめた光に照らされた広い通りがまっすぐに伸びている。一緒に列車を降りた若い女性が足早に住宅街に姿を消すと、もう誰もいない。24時間営業のコンビニエンスストアだけが光のオアシスに感じられる。

 函館フェリーターミナルまでは約1キロ、15分ほど。ずいぶん不便なようだが、長距離トラックを中心とする自動車と人間をセットで運ぶのが本来の役目であるから、こんな場所でも全然問題はない。僕みたいな物好きを相手にしているわけではないのだ。

     青函航路 

 今度の青森行きは0時10分出航の2便「びいな」。青函連絡船よりはだいぶ小さな船で、函館青森間の料金は鉄道の半分の1,400円。これでちょっとした船旅が楽しめるのはありがたい。

 乗船申込書に記入して切符を買うとすでに乗船時刻で、慌しく車両搬入口から船に乗り込み、カーペット敷きの2等船室の一角に寝場所を確保して、ようやくホッと一息。もっとも、船内は閑散として、ローカル航路の侘しさが漂っている。

 かつての青函連絡船のようなドラマチックな気分の高揚もないまま、フェリーはひっそりと岸壁を離れた。

 窓の外をオレンジ色の常夜灯がゆっくりゆっくり後方へ流れ、函館山の灯も夜空に輝く青い星の如く、少しずつ遠ざかっていく。

 数少ない乗客はみんなカーペットの上にゴロリと横になって、早々に休んでいる様子。青森まで3時間40分の船旅。僕も眠っていこうと思いつつ、窓辺にもたれて深夜の海に目を凝らす。

 函館港を出てだいぶ経つのに、闇の彼方にはまだ渡島半島南岸の町の灯が震えるように瞬き、名も知らぬ岬の灯台が真夜中の海峡を照らしている。

 つい先ほどまで踏みしめていた北海道の大地が今はもう星より遠く感じられて、もう少しの間、しんみりとした旅情に浸っていたい気がした。