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Peepooblue’s Notebook

1992-03-05

[]宮沢賢治記念館 19:56

 旅の最終日は薄曇り。

 朝食後、散歩がてら志戸平温泉まで2キロほど歩き、ついでにそこで露天風呂にもつかって、9時半のバスで花巻駅へ。

 花巻からは10時12分発の釜石線に乗り、2つ目の新花巻下車。新幹線との接続駅であるが、花巻市街から離れているので、周辺には何もない。整備された道路の両側には枯れススキが揺れている。

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 閑散とした駅前広場には宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』の碑があり、近づくとチェロが奏でるトロイメライのメロディが流れ出した。

 さて、めざす「宮沢賢治記念館」は胡四王山という山の上にあるらしい。普通の人はバスかタクシーを利用するようだが、僕は歩いていこう。せいぜい2キロ程度であるから大したことはない。

 案内地図に従って釜石線の踏切を渡り、緩やかな坂道を登っていく。周囲は冬枯れの田園。雪は日陰にわずかに残るばかり。黒々とした杉木立に囲まれた農家が点在して、静かな農村の風情を今に伝えている。

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 しばらく歩くと、道端に背の高い道標が立っていた。てっぺんに麦わら帽子のかかった支柱に赤、青、橙のプレートが下がり、それぞれが「宮沢賢治記念館」や「イギリス海岸」や「羅須地人協会」の方角を指している。

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 記念館の方向を示す青い標識に従って雑木林の間の急な坂道を登っていくと、途中に小さな蒸気機関車があった。銀河鉄道をイメージしたものだろう。運転席には路面凍結時の滑り止め用の砂と融雪剤が入っていて、「御自由に使用してください。花巻市土木課」と書いてある。役所が先頭に立って宮沢賢治の作品世界を演出しているようだ。

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 さて、宮沢賢治記念館である。瀟洒な建物で、なかなか広い。客も適度に入っている。展示室に入ると、すぐに大きなガラス板に描かれたイーハトヴ=岩手県の地図。「イーハトヴ」とは宮沢賢治岩手県の実在の山や川や森や野原をイメージの源泉として心の中に思い描いたドリームランドのことである。その岩手県地図にはイーハトヴのさまざまな地名が書き込まれている。今回は時間がないけれど、いつかイーハトヴの旅をしてみたいと思う。

 それにしても、ここの展示物の多彩さとその充実ぶりは大したものである。賢治の生涯を写真、その他の資料で辿るコーナーや文具などの遺品、自筆原稿…とここまでなら、そこらの文学館と同じだけれど、それだけにはとどまらない。元来、宮沢賢治は童話や詩のほかにも教育、農業、宗教、天文、化学などさまざまな分野に幅広い関心を寄せ、実践的活動に力を注いだ人である。そうした賢治の全体像に迫るため、ビデオやスライドなどの視聴覚資料も駆使した多角的な展示がなされている。鉱物標本や神秘的な化学実験ビデオ、美しい星空を映し出す「大銀河系図ドーム」、童話の幻燈、愛用のチェロ顕微鏡、花壇の設計図などなど…。とにかくいろいろあって、宮沢賢治という不思議な人物の多面的な魅力を再認識させられた。いずれもじっくり時間をかけて見る価値が十分にある。いつかまた来よう。

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注文の多い料理店・山猫軒)

 記念館を出て、眼下に北上川花巻市街を見渡し、古い腕木信号機や文学碑の散在する林の中の小道をめぐり、賢治設計の日時計と花壇を回った後、敷地内にあるとんがり屋根のレストランへ。「注文の多い料理店・山猫軒」の看板が出ている。

 玄関には金文字で「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」と書いてある。中へ入ると「ことに肥ったお方や若いお方は、大歓迎いたします」とある。さらに奥へ進むと「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください」と断り書きがあって、「ここで髪をきちんとして、それから履き物の泥を落としてください」だの「壺の中のクリームを顔や手足にすっかり塗ってください」だの「あなたの頭に瓶の中の香水をよく振りかけてください」だのと次々注文がある。そして、一番奥の部屋では巨大な山猫の親方がナイフを持って舌舐めずりして待ち構えていた。もちろん嘘である。でも、途中までは本当だったような気もする。

 さて、あとは帰るだけだ。再び新花巻駅まで歩いて戻り、14時12分発の列車で花巻へ。ホームで乗り換えの東北線一ノ関行きを待っていると、ちらちらと牡丹雪が落ちてきた。

 花巻を14時40分に出た列車は雪の中、北上川に沿って南へ下り、15時36分に一ノ関着。

 ここからは新幹線で帰る。今度の東京行きは15時48分発の「やまびこ48号」。これに乗れば東京までわずか2時間44分である。速すぎるのではないか。東北地方は何度も旅しているが、在来線にばかり乗っていたので、僕の感覚では一ノ関・東京間は6、7時間はかかることになっている。

 ほぼ満席の列車は凄まじいスピードで狂ったように突っ走る。東北線の風景というのは平凡な中に素朴な味わいがあって、そこが魅力なのだが、まるで好きな映画を早送りで見せられているようである。もっとも、一般の人には新幹線こそノーマルで、在来線に乗るとビデオの遅回しに見えるのかもしれないけれど…。

 雪は南へ行くほど激しくなり、仙台は真っ白に雪化粧していた。東京は雨だろうか。この旅ももうすぐ終わる。

1992-03-04

[]花巻 17:44

 青森市の山奥にある酸ケ湯温泉の一軒宿で迎えた朝。 窓の外は相変わらず雪だった。しかも、相当な降り方である。何といっても八甲田山の中腹、海抜925メートルの宿。軒先にはツララがずらりと下がり、冷え込みの厳しさを物語っている。

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 手首はまだ痛い。しかし、腫れるなどの悪化の兆候は見られない。痛みにも慣れてきた。結局、単なる打撲だったのか、放っておいても大丈夫そうだ。

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 8時半のバスで出発。路上の雪を吹き飛ばしながら進む除雪車が先導する形でバスは雪の壁の間をゆっくり下っていく。八甲田の春はまだまだ先のようである。

 下界の青森駅前には9時50分に着いた。雪はちらつく程度で空も明るくなってきた。

 とりあえず、これで今回の津軽の旅は終わりである。しかし、帰途に花巻の「宮沢賢治記念館」にぜひ寄りたいと思っているので、花巻の宿に予約を入れてから10時30分発の盛岡行き特急はつかり12号」の乗客となった。

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(特急はつかり12号」。青森駅にて)

 いつしか雲が切れて青空が見えてきた。「はつかり」は高速で突っ走り、三沢、八戸と行くうちに積雪も消え、すっかり車窓は春めいてくる。同じ青森県内でも地域によってずいぶん気候が違うのだ。

 その「はつかり」を12時05分着の二戸で見送り、普通列車に乗り換え。料金節約の意味もあるが、客車のドン行にのんびり揺られたいという気持ちもある。

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 12時30分発の盛岡行きは真紅の電気機関車EF81がこれまた赤い客車3両を従えた身軽な編成。車内には春の昼下がりののどかな気分が漂っている。

 このあたりの車窓風景は鄙びた山里の感じで、絶景ではないが、人間にたとえれば、笠智衆さんみたいな味わいがあって、僕は好きである。

 列車は東北本線のかつての難所、十三本木峠を難なく越えて、13時50分に盛岡着。さらに14時30分発に乗り継いで、15時10分に花巻到着。

 今日はこのまま駅からバスで30分の大沢温泉に投宿。昔ながらの温泉宿で、豊沢川の渓流に面した露天風呂で星空を眺めながら、ふやけるまで湯につかった。

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1992-03-03

[]竜飛崎 17:28

 函館0時10分出航の東日本フェリー2便「びいな」が津軽海峡を渡って青森港に到着したのは未明の3時50分。

 寝ぼけ眼で下船して、とりあえずフェリーターミナルの建物へ。青函航路は24時間運航なので、こんな時刻でも待合室はあかあかと電灯がつき、片隅のラーメン屋はトラック運転手たちで繁盛していた。彼らもここでしばしの休息をとった後、それぞれの目的地へ向けて再び旅立っていくのだ。

 朝まで待合室のベンチで仮眠をとってもいいのだが、眠れそうにもないので、青森駅へ向かうことにする。

 青森駅まで3キロ余り。雪の残る国道をてくてく歩く。

 もちろん、人影はなく、車もほとんど通らない。ミッドナイトブルーの空を見上げながら、なんでこんな時間にこんなところを歩いているんだろう、と我ながらばかばかしくも思うけれど、無意味でばかげた旅ほど面白いのだ。そう思うほかあるまい。

 ようやく青森駅西口が見えてきた。やれやれ、とホッとしたところでアクシデント発生。

 きれいに除雪された路面が早朝の冷え込みでコチコチ、ツルツルの天然スケートリンク状態。危ないな、と思った途端に足がツルッと滑り、一瞬全身が宙に浮いた後、身体の左側から凍った地面に叩きつけられた。

 グギッ!

 左手首に痛みが走る。あれっ、折れたかな、と思った。恐る恐る手首を動かして見ると、一応は動く。でも、そのたびにズキンと痛む。

 なんとか駅にたどり着き、販売機で熱い紅茶を買うと、そのまま左手首を押さえてベンチに座り込み、じっとしていた。

 さて、どうしよう。痛いのさえ我慢すれば手首は動くので、骨折ではなさそうだけれど、骨に亀裂ぐらいは入っているのかもしれない。骨折の経験がないので、その辺の判断がつかない。

 とりあえず、しばらく様子を見ることにして、今日はこれから津軽半島北端の竜飛崎まで行ってこようと思う。小泊からのルートは冬期通行止めだったが、津軽線で三厩まで行けば、岬までバスが通じているのだ。

 それで、大きな荷物は青森駅コインロッカーに預けて身軽になり、5時47分発の津軽線一番列車の乗客となった。身軽とはいっても今日は左手首という思わぬ荷物を抱え込んでしまった。どうなることやら不安である。まぁ、竜飛崎まで行こうという気分になるぐらいだから大丈夫かな、とは思うが…。

 ほとんど乗客のないまま、青森を出た列車は夜明けの津軽線を北上し、40分足らずで蟹田に着いた。この列車はここで終点、通勤通学客を乗せて青森へ引き返す。乗り換えの三厩行きの発車にはまだ50分余りあるので、駅を出た。

 二度と転ばぬように慎重確実に一歩一歩踏みしめながら駅前を通る国道に出ると、交通事故があったらしく、パトカーが来て、青年が自分のクルマの傍らで茫然と警察官の検分に立ち会っている。すでに救急車が来た後なのか、事故の相手の姿は見えないが、それが人身事故であったことは、そばで立ち話をしていたおばさんの会話から聞き取れた。朝早くから気の毒なことである。

 その国道を渡ると、家並みの向こうに陸奥湾が広がっていた。

 朝凪の海は鏡のように静かに空を映し、平館海峡を隔てて下北半島海岸線が蒼黒いシルエットを描いている。上空は晴れているが、彼方には青を含んだ濃い灰色の雲が低く垂れ、それが朝日を浴びて、上の方だけ白や銀色や金色に輝いている。波静かな海にも光の色が満ちてきた。少し離れたところで、白鳥が餌を探している。ちょっと寒いが、穏やかな朝である。しかし、手首は相変わらずズキズキ痛む。

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 蟹田駅の待合室のストーブにあたって手首をさすっているうちに列車の発車時間が近づいた。すでに待機中のディーゼルカーに乗り込み、何気なく窓越しにホームに目をやると、津軽特産のヒバを使った太宰治文学碑があった。

「蟹田ってのは風の町だね」

 小説『津軽』に出てくる太宰自身のセリフである。何でもない言葉ではあるけれど、出版社の依頼で津軽風土記を執筆するため、久々に故郷に帰った太宰が津軽を旅しながら懐かしい人々と再会し、楽しげに語り、酒を酌み交わす様子が目に浮かぶようだ。苦悩に満ちた生涯を最後は自殺によって閉じた彼であるが、この作品には束の間の幸福感とでもいうべき精神の静謐が感じられて、じんとくるものがある。

 その「風の町」蟹田を7時17分に発車した三厩行きは一旦海岸を離れ、雪原の中の信号場青函トンネルに通じる津軽海峡線を分岐すると山間にさしかかる。周囲の針葉樹はヒバだろうか。樹木の知識が乏しいので、よく分からない。

 再び津軽海峡線出合い、その高架橋の下をくぐって、今別川に沿って北上していくと、車窓にまた海が見えてきた。津軽半島北辺の海岸で、海は津軽海峡である。蟹田の海の穏やかさとは違って、北の荒海の表情。いつしかまた雪も舞っている。

 終点の三厩には8時01分に到着。駅前から8時10分発のバスに乗り継いだ。

 竜飛まで国道339号線を40分ほどの道のりで、急峻な断崖の下をくねくねとカーブしながら美しくも寂しい海岸づたいに走る。

 そそり立つ絶壁にはツララがずらりと滝のように連なり、あれが落ちてきたら大変だぞ、と思わせる。除去作業も行なわれているようだ。

 初めは数人の乗客がいたのに、みんな途中で降りてしまって、終点まで行ったのは僕だけであった。

 とにかく、本州の北の果て、竜飛崎へ到達した。雪が降り続き、暗く寂しげなところである。太宰もここを訪れているが、『津軽』における竜飛の描写は秀逸である。

 路はいよいよ狭くなったと思っているうちに、不意に、鶏小舎に頭を突込んだ。一瞬、私は何が何やら、わけがわからなかった。

 「竜飛だ」とN君が、変わった調子で言った。

 「ここが?」落ちついて見廻すと、鶏小舎と感じたのが、すなわち竜飛の部落なのである。兇暴の風雨に対して、小さい家々が、ひしとひとかたまりになって互いに庇護し合って立っているのである。ここは、本州の極地である。この部落を過ぎて路は無い。あとは海にころげ落ちるばかりだ。路が全く絶えているのである。ここは本州の袋小路だ。

 本当に路は絶えていた。国道339号線もここで終点。末端は階段になって岬の頂上へ駆け上がり、ぷつりと途切れている、というのをテレビで見たことがあるが、その階段もどこにあるのかよくわからない。

 竜飛の停留所には折り返しのバスに乗る学生風の旅行者が2人とタクシーが1台停まっているだけで、ほかに人影は見当たらない。集落全体が冬眠しているかの如く、しんと静まり返っている。

 津軽海峡日本海を分かつ岬の突端は険しい断崖となって海へ落下しているが、その崖下にへばりつくような遊歩道があるのに気づいて歩いてみた。

 岩礁の周りだけ白く泡立つ群青の海は寒々として、彼方には北海道最南端の白神岬がくっきりと望まれる。

 しかしながら、この遊歩道は風光を楽しみながら歩くには、あまりに危険な様相を呈してきた。周囲に落石がゴロゴロしており、そそり立つ絶壁を見上げれば、さらなる巨岩があちこちで「次はオレが落ちる番だ」とばかりに落下の頃合を見計らっているように見えるのだ。神の殺意。もし、あの岩が落ちてきたら…と悪夢のようなことを想像しながら足早に崖下を通り過ぎると、ようやく危険地帯を脱したところに、ここは落石の恐れがあるので通行禁止と書いてあった。反対側の入口にはこんな注意書きはなかったはずだが…。

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津軽海峡の彼方に北海道の大地が見える)

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 ウミウの群れがじっと風に耐える岩山を見上げ、冬枯れの急斜面につけられた階段を登ると、標高115メートルの岬の頂上に至る。

 海の眺望が三方に大きく開け、日本海から吹きつける風はいよいよ強く、地上の粉雪が煙のように地を這い、舞い上がる。

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 津軽海峡の彼方の空は青いのに、本州側は暗雲が海面に接するくらい低く垂れ込める陰鬱な天候で、灯台周辺にもレストハウスにも人の気配はまったくない。

 しかし、本当に誰もいない、というわけではなかった。実はある者につけ狙われていたのである。岬の上を散策している間、その者は時折、視界の片隅にチラッと姿を現わしては消え、そろそろ竜飛の集落へ戻ろうか、と思ったところで、ついに目の前にやってきて、停まった。

 タクシーである。先刻、バス停にいた、あのタクシーだ。いま現在、この土地にいる恐らく唯一の旅行客なので、目をつけられたのだろう。

 さて、どうするか。もちろん、無視してもいいのだが、三厩行きのバスは11時過ぎまでないし、おまけに列車との接続も極めて悪いので、タクシーを利用したい気持ちは大いにある。問題は懐具合で、郵便局か銀行に行かなければ、財布の中には千円札が3枚しか入っていないのだ。しかし、手首は痛いし、この寒風の中でまだ1時間以上バスを待つのは辛いので、降りてきた運転手に三厩までの料金を尋ねると、3千円ぐらいとのこと(バスは660円)。途中に郵便局もあるというので、結局はタクシーに乗ることにした。それこそ運転手の思う壺だが、まぁ、いいか。

 しかし、運転手は少し走らせただけで、車を停めた。

「ここが有名な階段の国道ですよ」

 ずっと僕の行動を監視していたので、竜飛崎で僕が何を見て、何を見ていないか、すべて把握しているのだ。

 そこには「三厩駅行きバス停に至る」という案内板とともに国道339号線の青い標識が立ち、そこから下の集落へ雪の階段が続いていた。なるほど、これが…。車どころか自転車すら走れない国道なんて全国でもここだけではないか。そこで津軽海峡北海道を背景に写真を撮ってもらって、改めて出発。

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 ところが、車はまたも脇道に逸れて、今度は青函トンネル記念館前に停まった。竜飛はトンネル工事の本州側基地となったところで、ちょうどこの真下をトンネルが通っているのだ。ケーブルカーで地底へ下って、坑道内を見学できるそうで、興味があるけれど、当然ながら今はすべて休業中。記念館の開館期間は4月末から11月初旬までである。それでも運転手に促されて車を降り、前庭に展示された掘削機械を眺め、ここでも記念写真を撮った。

 次は東北電力風力発電実験施設「竜飛ウインドパーク」である。といっても、遠くから眺めただけだが、丘陵の稜線に沿って風車が5基並んで、北西の風を受けてクルクル回転していた。年平均風速が10メートルを超えるという有数の強風地帯、竜飛崎ならではの光景だが、昨年の台風19号(いわゆる「りんご台風」)の時にはあまりの強風で風車が1基吹き飛んだらしい。過去には観光客が強風で飛ばされ、海に転落して死亡するという事故もあったそうだが、運転手が竜飛の風の強さを語る時、何やら自慢話のようにも聞こえるのだった。

 その後、車は三厩まで快調に走った。往路は気づかなかったが、沿道にはまた例の聖書の言葉が続々と現われる。

「見よ、わたしはすぐに来る」

「わざわいなるかな、偶像崇拝する者」

「神と和解せよ」

 不気味である。

「なんかすごいですねぇ」

 運転手の解説によれば、

「田舎の人は貼らせてくれって頼まれるとイヤと言えないから…」

 とのこと。それでこんなことになってしまったのか。そういえば、処刑されたはずのイエス・キリストが実は無事に逃げ延びて最後に辿り着いた、という伝説の村が青森県の山奥にあったっけ。

 予想外に立派な三厩郵便局にも寄って、10時過ぎに三厩駅前に到着。寄り道の際にはメーターを止めていたので、料金は2,960円だった。

 今度の津軽線は10時27分の青森行きである。三厩駅は瀟洒な造りで、待合室にはコーヒーや紅茶のセットまで用意されている。最果ての駅にありがちなうらぶれた感じはない。

 ホームの駅名標の下には誰が作ったのか、可愛らしい雪だるまが微笑んでいた。

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 青森までほとんど眠って過ごして、12時21分着。

 今回の旅はずっと海辺ばかり廻ってきたので、今日は八甲田山中の酸ヶ湯へ行って泊まろうと思う。

 酸ヶ湯行きのバスの発車まで3時間以上あるので、昼食後、八戸行きの普通列車に乗って青森近郊の歓楽温泉街、浅虫へ行き、町なかをぶらっと散歩して、海を眺めて、バスで帰ってきた。

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 さて、15時45分に青森駅前を発車したバスは市街地を抜けると真南へ向かう。郊外住宅地の停留所で数人ずつ乗客を降ろしながら山懐へ分け入るにつれ、だんだん積雪が多くなり、雲谷スキー場を過ぎる頃から雪が本格的に降り始めた。

 沿道には堆く積もった雪の壁が続き、周囲の山々も木々も路面も真っ白で、一点の汚れもない。もちろん、もはや一軒の民家も見当たらない。ひたすら雪、雪、雪、雪、雪、雪、雪…の世界である。これほどの豪雪地帯で一年中道路を確保するのは大変なカネと労力を要することだろう。

 降りしきる雪がますます激しさを増してきた。こんな山奥に泊まって大丈夫だろうか、閉じ込められたりしないだろうか、と不安にもなる。まぁ、その時はその時だ…と気楽に考えることにしよう。

 半ば雪に埋もれて、営業しているんだかどうだかよく分からない八甲田ロープウェイの山麓駅を経由して、ようやく酸ヶ湯温泉に到着。青森駅前からおよそ1時間20分。すでに17時を回っている。道路も冬期はここが終点で、この先、十和田湖方面へ続く道は雪に埋まっている。

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 そんな雪深い山奥の一軒宿、酸ヶ湯温泉旅館は意外と大きな建物で、駐車場にも車がたくさん止まっていた。玄関の内側はさらに意外で、ホテル風のフロントに制服姿の若い女性がいて、予約管理のコンピュータを操作したりしている。そういえば、予約の電話をした時も出たのは若い女性の声だった。なんだか近代的な巨大観光ホテルみたいである。

 ところが、通された部屋は昔ながらの温泉旅館風。壁には明治・大正期の文筆家で、この奥の蔦温泉で生涯を閉じた大町桂月の書が掛かっている。窓の外にはどっさりと雪が積もり、やはりここは雪国の温泉宿なのだと実感する。

 一服してから、さっそく風呂へ。ここのお湯は打撲にも効くと書いてある。まぁ、一泊したぐらいで効果があるとも思わないけれど、とにかく早く温泉に浸かりたい。

 大浴場は「千人風呂」と呼ばれる総ヒバ造りの巨大なもので、泉質は酸性硫黄泉。

 濛々と湯気が立ち込める中に洗面器の音がコーンと響き、湯治の爺さん、婆さんのシルエットがぼんやり見えた。

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1992-03-02

[]津軽海峡  21:14

 津軽半島西海岸・小泊の宿をあとに五所川原を経て青森へ。さらに津軽海峡青函トンネルでくぐり抜け、北海道函館へ渡りました。

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     小泊から五所川原

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(小泊の宿の窓からの風景)

 津軽半島西海岸・小泊の宿で迎えた朝。刺身付きの朝食の後、8時過ぎに出発。

 宿のおばさんに教わった通り、宿のすぐ裏手の「浜町」という停留所で五所川原行きのバスを待つ。

 昨夜来の雪は今もちらつき、バス停ポールの円い標示板も雪化粧して、文字が消えている。路上の雪は風に吹かれ飛ばされ、箒で掃いたような模様を描いている。

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 やがて、小泊案内所発のバスが来て、子ども連れの若い母親やお婆さんらとともに乗り込み、小泊村をあとに昨日来た道を引き返す。

 結局、小泊では夕陽を見て、道に迷って、魚をたくさん食べて…それだけだった。まぁ、いいか。

 停留所ごとに乗ってくるのはほとんどがおばさんかお婆さん。みんながみんな顔見知りのように挨拶を交わしている。よそ者は僕ひとりなのだった。

 かつて北海道の最果てを旅した時にも感じたことだけれど、北国の厳しい気候風土は都会よりも遥かに濃密な人間関係の磁場を生むようだ。冬の寒さや雪や荒海に晒された土地で、圧倒的な自然の猛威になんとか耐えながら互いに助け合って生きることで、人間同士の絆も必然的に深まるのだろう。

 そうした自然の脅威を文明の力で封じ込めて、人間が築き上げたコンクリートの要塞が現代都市であるとすれば、その中で安住する都会人は自然と共存する意思と能力が低下するばかりか、他人と共に生きる力も弱まりつつあるのかもしれない。東京で暮らしていると、そんな気がする。

 バスは中里駅前を経由し、金木では太宰治の生家である「斜陽館」の前を通り、金木病院前でお婆さんをたくさん降ろして、小泊から2時間弱で五所川原駅前に到着した。

 これから青森へ出ようと思う。次の五能線は都合がよく青森直通の快速である。しかし、発車まで1時間ほどあるので、その間に街へ出た。

     五所川原

 五所川原津軽地方では青森弘前に次ぐ都市である。再び太宰治の『津軽』を引用すれば、彼は五所川原についてこんな風に評している。

「…善く言えば活気のある町であり、悪く言えば騒がしい町である。農村の匂いは無く、都会特有のあの孤独の戦慄がこれくらいの小さな町にも既に幽かに忍びいっている模様である」

 さすがに太宰は敏感だ。確かに小泊村から金木町五所川原市と来るにつれて人間関係の密度は希薄になっていくようである。しかも、これが書かれたのは昭和19年。半世紀近くも昔のことなのだ。いま、もし太宰が生きていて、今日の金木や小泊を訪ねたなら、そこにもやはり「孤独の戦慄」を感じ取るに違いない。それでもなお、東京からの旅行者の目で眺めれば、津軽には今でも人々のさりげない優しさがごく自然に漂っている。この五所川原の街にだって、たとえば、古めかしいバスの待合所の雰囲気の中に、初めて来たのに懐かしさを感じるような人間の温もりがあるように思うのだ。

 津軽を旅すると人間が好きになる。昨夜、小泊の宿でノートに書きとめた言葉である。

 駅前通りの両側に連なる、雪国特有の「雁木」と呼ばれる古びたアーケードの商店街をはずれまで歩いていくと、岩木川にかかる乾橋。

 晴れていれば、眼前に津軽の名峰、岩木山が聳えているはずだが、今日は見えない。というより、いつ来ても岩木山は雲をかぶっていて、僕はまだ全容を拝んだことがない。

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 これ以上歩いても、何もなさそうなので、再び激しく舞い始めた牡丹雪が空しく川面に消えていくのを橋の上からしばらく眺めて駅に戻った。

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     青森

 さて、11時01分発の青森行きは五所川原を出ると、津軽平野を一旦南へ下って川部へ向かう。

 このあたりはリンゴの産地として有名だけれど、昨年(1991年)は台風19号のせいで壊滅的な被害が出た。そのせいか、リンゴ畑にも苗木ばかりが目につくような気がした。

 苛酷な自然に支配され、苦しめられ、それでも自然に依存し、その恵みを受けて生きる。あらゆる生き物は遠い昔からずっとそうやって健気に生きてきたわけで、その「健気さ」こそが生命の美しさの本質である、と僕は思う。それは人間についても同じであろう。津軽の旅はそんな当たり前のことを改めて思い起こさせてくれたりもする。

 列車は川部から奥羽本線に入ると、V字を描くように今度は針路を北に転じ、途中、車窓が白く霞むほど雪の降りしきる峠を越えて青森市街にさしかかった。

 青森市は全国の都道府県庁所在地の中で最も雪深い街であるが、今年は暖冬のせいか、積雪はさほど多くない。

 青森到着、12時10分。駅に降り立って、少し驚いた。見慣れた連絡船桟橋は姿を消し、ホームから桟橋へ通じていた跨線橋は途中でぷつりと切断されている。船に貨車を積み込むための線路もすべて撤去。そして、何よりも整然となった構内を跨いで立派な道路橋が完成しつつあるのだ。その名も青森ベイブリッジ青函連絡船を失った青森の街は新時代を切り開くべく変貌を遂げつつあるようだ。

     八甲田丸

 ところで、今日はこれから初めての青函トンネルをくぐって函館へ行ってこようと思う。しかし、次の函館行きにはまだ2時間近くもあるので、その間を利用して青森岸壁に「安置」されている青函連絡船「八甲田丸」の「遺体」と対面してきた。

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 もはや海峡を渡ることのない「八甲田丸」は連絡船記念館として、降り続く雪の中、静かに眠っていた。この船には何度か乗ったので、懐かしいような哀しいような気分で、随所に在りし日の面影を残す船内の様々な展示施設を見て歩いた。現役時代には立ち入ることのできなかった操舵室の窓から眺める海は黙して語らず、ただ茫洋と広がり、降りしきる雪は積もることも知らず、儚く海に消えていくのだった。

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(この写真は2000年夏の八甲田丸)

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青森駅で発車を待つ海峡9号)

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      青函トンネル

 青森14時05分発の函館行き快速「海峡9号」は赤い電気機関車ED79-3の後に青い14系客車を5両連ねた編成で発車した。

 車内には北海道へ渡る客ばかりでなく、下校の女子高校生などもたくさん乗っている。本州側唯一の停車駅、蟹田まで帰るのだろう。各駅停車ディーゼルカーより速いし、車両もデラックスだから利用価値は高い。

 いつしか雪も止んで、薄陽が射すなか、列車は津軽半島東海岸に沿って、単線の津軽線を北上する。

 車内アナウンスでは観光客向けに青函トンネルの概要を説明し、この列車のトンネル突入予定時刻や通過所要時間まで案内している。莫大な費用と労力をかけて長期にわたる難工事の末にようやく開通した世界最長の海底トンネルであるから、そのありがたみを充分に噛みしめてくぐらなければなるまい。

 もちろん、海底トンネル青函連絡船の旅情にかなうはずはないけれど、まぁ、それは言っても仕方がない。折しも、家並みの向こうに見える陸奥湾東日本フェリー函館便が北上している。連絡船が廃止になってもフェリーが健在なのである。帰りは僕も船に乗ろう。

 また陽が翳って雪になった。北西の季節風にのって雪雲が次々と押し寄せてくるので、その下をくぐるたびに空が暗くなって雪が激しく舞う。雲が過ぎればまた晴れる。

 蟹田で女子高生らを降ろした「海峡9号」はやがて雪原の真ん中で単線の津軽線から分かれて、新幹線並みに立派な複線高架の津軽海峡線へと突き進む。途端にトンネルの連続となり、いくつ目かのトンネルに入ると、それきり暗闇が明けることはなくなった。青函トンネルである。

 40分もの闇路を突き抜けると、そこはもう北海道であった。あまり実感は湧かないけれど、そうなのである。

 海の底から白い大地の片隅に這い上がった列車は木古内から再び単線の江差線に入り、津軽海峡に沿って、さらに1時間近く走り続ける。

 海峡の彼方に津軽・下北両半島が望まれ、前方には函館山も見えてきた。そして、海上にはこの列車と競うかのように函館行きのフェリーが相変わらず浮かんでいた。

     函館

 函館到着16時52分。

 隣のホームの列車は「大阪」などという行き先を標示しているから「一体ここはどこなんだ?」という気分にもなるけれど、とにかくこれが6回目の函館である。といっても、今回はどこにも泊まらず、深夜便のフェリーで青森に帰るつもり。それまでの短い滞在ではあるけれど、とりあえず、荷物をコインロッカーに預けて、夕暮れの街へ出た。

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 べつに観光するわけでもなく、地元の人間のフリをして書店やらレコード店やらに立ち寄りながら、ぶらぶらと散歩するだけで嬉しい。それぐらい函館は好きな街だ。

 いつしか上空は光の色が失せて、藍色が深まり、たそがれの街には街路灯やネオンが点って、夜の装いに変わっていく。

     函館の夜

 夜の函館といえば、夜景である。過去に2度、函館山からの夜景を眺めているけれど、今回もまた山麓駅まで歩いてロープウェイに乗った。

 フランスの最新技術を導入したという大型ゴンドラで山頂までわずか3分。ぐんぐん昇るにつれて眼下に宝石箱のようにきらめく街が広がり、満員のギャルズ&オバサンズから思わず歓声があがる。

 青函トンネル開通に合わせて新装された山頂駅は函館の風土や歴史とは無縁のモダン建築。寒い思いをせずに快適な展望フロアからガラス越しに夜景を眺めることができる。レストランもあって、夜景を楽しみながら食事をするカップルがたくさんいる。僕はといえば、雪の積もった屋上に出て、夜風に吹かれながら下界を見下ろした。

 真っ暗な海に囲まれた小さな半島の上にひしめく光の街。彼方に広がる漆黒の大地。函館の夜景の魅力は、この光と闇のコントラスト、あるいは、ちっぽけな街を取り巻く暗闇の果てしない広がりにこそあるのではないか、そんな風に思う。

 さて、再びロープウェイで下山して、ライトアップされたハリストス正教会など元町周辺を散策してから街なかへ戻る。

 山上からはきらめく光に満ち溢れて見える街も、実際に歩いてみると、駅周辺の繁華街を除けば意外に寂しい。

 だだっ広い通りの両側に青白い街路灯が点々と連なるばかりで、人通りもほとんどなく、車も少ない。時々、思い出したようにガラガラの路面電車がガタゴトと走り過ぎたりする。今夜は帰る宿もないので、旅愁もひとしおである。

 というわけで、足は自然に繁華な中心街へ向かい、駅に近いこじんまりとした定食屋で夕食にした。

 3人のおばちゃんが切り盛りする家庭的な店で、3年前にも入ったことがある。店内の様子もおばちゃんも変わっておらず、壁に山川豊の色紙ばかりがずらりと飾ってあるのもそのままだ。そういえば、彼は「函館本線」という曲でデビューしたのだっけ。

     夜の駅

 ホタテのお吸い物つきの銀鱈定食を食べて店を出ると、あとはもうすることもない。しばらく夜の街を散歩してから函館駅に戻り、待合室で鞄から文庫本を取り出した。

 僕にとって旅先で一番落ち着くのは列車の中、次いで駅の待合室のようである。特にこういう地方都市の夜の駅には独特の風情があって、なんとなく好きである。

 夜がふけるにつれて、食堂もキオスクも店を閉じ、私服に着替えた従業員たちがそれぞれ家路につき、駅に発着する列車の数も出入りする人の数も減ってくる。

 ガランとした待合室のベンチにぽつねんと座っていると、蛍光灯の明るさまでが虚無的に感じられてくる。今宵帰る場所もない身にとっては、自分の乗る列車の時刻のみが待ち遠しい。

     深夜のフェリーターミナル

 23時06分発の江差線木古内行きの最終列車はディーゼルカーたった1両きり、それでもガラガラだった。なんでこんな列車に乗ったのかというと、2駅目の七重浜がフェリーターミナルの最寄り駅なのだ。

 駅を出ると、街路灯の青ざめた光に照らされた広い通りがまっすぐに伸びている。一緒に列車を降りた若い女性が足早に住宅街に姿を消すと、もう誰もいない。24時間営業のコンビニエンスストアだけが光のオアシスに感じられる。

 函館フェリーターミナルまでは約1キロ、15分ほど。ずいぶん不便なようだが、長距離トラックを中心とする自動車と人間をセットで運ぶのが本来の役目であるから、こんな場所でも全然問題はない。僕みたいな物好きを相手にしているわけではないのだ。

     青函航路 

 今度の青森行きは0時10分出航の2便「びいな」。青函連絡船よりはだいぶ小さな船で、函館青森間の料金は鉄道の半分の1,400円。これでちょっとした船旅が楽しめるのはありがたい。

 乗船申込書に記入して切符を買うとすでに乗船時刻で、慌しく車両搬入口から船に乗り込み、カーペット敷きの2等船室の一角に寝場所を確保して、ようやくホッと一息。もっとも、船内は閑散として、ローカル航路の侘しさが漂っている。

 かつての青函連絡船のようなドラマチックな気分の高揚もないまま、フェリーはひっそりと岸壁を離れた。

 窓の外をオレンジ色の常夜灯がゆっくりゆっくり後方へ流れ、函館山の灯も夜空に輝く青い星の如く、少しずつ遠ざかっていく。

 数少ない乗客はみんなカーペットの上にゴロリと横になって、早々に休んでいる様子。青森まで3時間40分の船旅。僕も眠っていこうと思いつつ、窓辺にもたれて深夜の海に目を凝らす。

 函館港を出てだいぶ経つのに、闇の彼方にはまだ渡島半島南岸の町の灯が震えるように瞬き、名も知らぬ岬の灯台が真夜中の海峡を照らしている。

 つい先ほどまで踏みしめていた北海道の大地が今はもう星より遠く感じられて、もう少しの間、しんみりとした旅情に浸っていたい気がした。

1992-03-01

[]津軽逍遥  17:24

 この日は青森県深浦町艫作(へなし)の「みちのく温泉」から日本海に沿って深浦駅まで歩き、五能線津軽鉄道を乗り継いで津軽半島西海岸の小泊へと向かいました。

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     旅先の朝

 6時前に目が覚めた。見慣れぬ天井を見上げながら、旅先の宿にいることを思い出す。

 今日は3月1日、日曜日。天気は回復して、薄い青色の空の下で日本海も穏やかな表情。沖合に貨物船や漁船が浮かんでいる。

 庭に出て、まだ空っぽの露天風呂を見物したり、すぐ前を通る五能線の線路を歩いてみたり、館内に戻って温泉につかったり、部屋の窓から一番列車が軽やかに走りすぎるのを見送ったりしてから食堂で朝食。

 テレビの生番組が東京の穏やかな空を映している。陰鬱な空ばかり見上げて冬を過ごす雪国の人々は毎朝こうして都会の青空を見せつけられるわけだ。冬の日本の不公平な気候や東京中心型の情報社会について、しばし思考をめぐらせる。

 ただし、東京の番組とはいえ、地方色がないわけではない。たとえば、合間のCM。急に地元広告の静止画像になって、津軽弁が流れてきたりする。

 天気予報も青森ローカルで、県内各地のけさの気温は概ね氷点下2度前後。気圧配置は冬型に戻りつつあり、津軽・下北地方の今日の降雪確率は30パーセントだという。しかし、今はまだ晴れている。

 それにしても、朝からご飯を3杯も食べてしまった。まだいけそうでもある。この食欲は一体どうしたことか。旅に出ると、食欲が増すということだろうか。昔から自分の家では小食なのに、よその家に行くとよく食べると言われたものだが…。

 ところで、本日の予定はまだはっきりしない。とりあえず、艫作(へなし)崎の灯台にでも行ってみようと思い、仲居さんに道を尋ねて、徒歩で出発。

「今度は新婚旅行で来てくださいね」

 というのが見送りの言葉だった。

     艫作崎灯台

 小鳥の声を聞きながら、国道を駅のほうへ戻り、艫作の集落を抜けて、五能線の踏切を渡ると、やがて、昭和11年の五能線全通を祝う記念碑があり、背後の丘の上には灯台の白い帽子が見えていた。

 記念碑の脇から細い坂道を登っていくと、灯台に至る。

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 日本海を航行する船舶の安全を見守るこの灯台も今は無人。薄曇りの空の下、ひっそりと門を閉ざしていた。

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     黄金崎不老不死温泉

 海風に枯草がなびく岬から海岸へ下ると、「黄金崎不老不死温泉」という、仙人でも出てきそうな海辺の宿がある。「黄金崎」というのは温泉の色にちなんだ艫作崎の別称らしいけれど、なぜ「不老不死」なのかは分からない。どうであれ、昨今の秘湯ブームで、ここもちょっとした人気を集めているようだ。昨日、「みちのく温泉」の前にこちらに電話したら、すでに「満室」であった(一人なので断られた可能性もある。人気の宿ではよくあることだ)。

 しかし、この辺鄙な温泉が有名になったのは、おめでたい名前のせいばかりではなく、宿の前の海岸に露天風呂があるからでもある。ちょっと見物に行ってみると、実にあからさまで大胆な露天風呂である。広々とした海岸のド真ん中。周囲には釣り客もちらほら。さすがに今は誰も入っていないが、ここならテレビの温泉番組や旅行雑誌のグラビアに最適な絵が撮れることは間違いない。「黄金」と「不老不死」という人々の欲望に訴えかけるネーミングとも相俟って、メディアに登場する回数も自然に増えていったのだろう。

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     横磯

 さて、これから艫作駅に戻れば、9時半過ぎの弘前行きに十分間に合う。しかし、最果ての海を見ていたら、もっと歩きたくなった。空はブルーの絵の具にホワイトをたっぷり混ぜたような色をしているけれど、雪や雨の降り出す気配はないし、寒くもない。

 僕は海沿いの道を駅とは反対の方向へ歩き出した。隣の横磯駅をめざすが、気が向けば深浦まで歩いてしまおう。深浦まででも10キロ程度。お昼の汽車には間に合うだろうし、疲れたらヒッチハイクという手もある。

 ところが、道はすぐ海辺を離れて雑木林の中へ入っていく。べつに遊歩道ではないから、無人の海岸などに用はないわけだ。やがて踏切を渡って国道に出てしまった。

 国道なんて歩いても楽しくないけれど、仕方がない。てくてく歩いていくと、道は緩やかに下りながら左へカーブして、再び海が見えてきた。

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 五能線の線路を跨いで海辺に出ると、国道は横磯まで2キロ余りにわたって海岸段丘上の狭い土地を縫うように続いていた。

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 段丘上には棚田が作られ、松林の緑と海の青のコントラストが鮮やかで美しい。しかし、季節風が強まって吹雪にでもなれば、風景の印象は一変するはずだ。道端のお地蔵さんもガラス扉付きの「家」の中から道行く人や車を見守っていた。

 さて、横磯。ここは14歳の春に訪れたことがある。深浦のユースホステルに泊まるはずが、休業中で、代わりに紹介されたのが深浦の隣駅・横磯に近い民宿だった。横磯は中学生のひとり旅には寂しすぎる土地で、初めての日本海も冷たく無表情。最果ての風が身に染みて人恋しくなり、海辺の民宿に急ぐと、お婆さんが笑顔で迎えてくれたのはいいけれど、津軽弁がまったく分からず、ずいぶん遠くへ来てしまったなぁ、と心細く思ったものだ。今となっては懐かしい思い出である。

 その時に泊まった民宿「きへい荘」は変わらずにあった。集落の佇まいも記憶のままだ。ただ、海を見下ろす丘の上の小学校はすでに廃校になっていた。そういえば、民宿のお婆さんは元気だろうか。

     海辺の遊歩道

 横磯駅の手前で国道と別れて、港へ下りていく。前に来た時はまるで人気のない寂しい漁港だったけれど、今日は堤防で釣りを楽しむ人たちがいる。静かでのどかな日曜日の海である。

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 案内板によれば、ここから深浦まで海岸遊歩道が整備されているらしい。まだ歩く元気は十分にあるし、どうせ列車も当分来ないので、あと6キロぐらいあるけれど、最後まで歩いてしまおう。

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 横磯漁港から先、黒々とした岩の多い海岸伝いに、なだらかな荒蕪地の裾を縫うように遊歩道は細々と続く。

 日曜日といっても、春まだ浅い津軽の海辺を何キロも歩く物好きがほかにいるわけもない。道は枯草に埋もれ、途中の便所もベニヤ板でしっかり封鎖されていた。

 

     女護の澗

 ところで、このあたりの岩礁地帯は「女護の澗」と呼ばれているらしい。昨日、深浦駅でもらった観光パンフレットによれば、次のような由来があるようだ。

 藩政時代、全国各地の関所は「入り鉄砲に出女」を厳しく取り締まったが、人買いに売られて旅をする遊女たちは、たくみに法の網の目をくぐり抜けていたようである。

 深浦港では多くの船が、食べ物や水を補給した。そのとき出女たちを乗せている船は港に入る前に、奉行所の目がとどかない女護の澗に入って出女を一時下船させ、港で用事をすませてから、再び女護の澗で女たちを乗せて航海を続けたという。こうして命を救われた「出女」のなかには遊女ばかりでなく、幕府の探索をくぐり抜けてきた武家の婦女子もいただろう。こうしていつのころからか、女を助けてくれる「女護の澗」と呼ばれるようになったわけである。

 奉行所に見つからないように密かに売られてゆく娘たちが本当に守られ救われていたと言えるのか、という気もするが、この地にそんな痛ましい歴史があったことも確かなことなのだろう。

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 その「女護の澗」にはおばさんが何人かいた。この人たちは「出女」ではなくて、潮の引いた岩礁のあちこちで岩海苔を採っているのだ。男たちが漁に出ている間の女の仕事なのだろう。見知らぬ旅の者など気にも留めず、一心不乱に岩をこそいで海苔を集めている。磯で餌を漁っていたクロサギだけが僕に気づいたか、サッと飛び立った。

     入前崎

 道はやがて入前崎の松林の中へ緩やかに上っていく。

 岬を取り巻く海岸は磯釣りの名所なのか、大勢の釣り客が集まって、色とりどりのジャケットで花畑のような賑わいだ。

 季節はもう春。茶色い松葉に覆われた地面のあちこちで淡い緑色のフキノトウが顔を出している。頬を撫でる冷たい微風も心地よい。

 入前崎を過ぎると再び海岸に下る。彼方には深浦町役場のレンガ色の建物も見えてきた。まだ距離はあるけれど、なんとなくホッとする。

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 海藻採りのおばさんがいて、そばを通りかかると、

「遊びにきてるの?」

 と声をかけられた。50代後半くらいだろうか。地元の人ではなく、弘前から夫婦で来ているそうだ。しかし、旦那さんの姿は見えない。

「おとうさんが釣りしている間、退屈だから海藻拾ってたの」

 手にしたビニール袋が緑色の海藻でいっぱいだ。海岸に打ち上げられた切れ端を拾っているらしく、要するに海の雑草みたいなものだ。

「食べてごらん」

 ひと切れ差し出すので、受け取って口に入れてみる。歯応えがあって、ワカメやコンブよりも大味な感じ。野の味というか磯の味というか…。

 おばさんも口をもぐもぐさせながら、互いに顔を見合わせていたけれど、うまい感想の言葉が浮かばない。そうしたら、おばさんが、

「ね、おいしいでしょ?」

 と言った。味噌汁の具にするといいかもしれない。

 これからどうするのか、と聞かれて、汽車弘前方面に出るつもりだと答えると、

「車で送ってあげてもいいけど、まだ来たばかりだから…」

 と言う。そこまでお世話になるつもりはないけれど、言葉だけでも嬉しかった。

     深浦駅

 結局、深浦駅には正午少し前に着いた。

 空も海も町並みも明るく、微笑むような陽気。何もかもが昨日の陰鬱な印象とはまるで違って見える。この土地に一泊してよかったと今は思う

 駅にはすでに上り下りの列車が着いて小休止していた。僕の乗る弘前行きは昨日東能代から乗ってきたのと同じ列車。今日は車内にも陽光が射し込んで、のんびりとした行楽気分が漂っている。観光客も意外に多い。

     五能線

 深浦発12時10分発。

 赤茶色の奇岩がゴツゴツと連なる険しい海岸に沿って列車は走る。

 …広戸…追良瀬…驫木(とどろき)…風合瀬(かそせ)…大戸瀬千畳敷北金ヶ沢…。

 いかにも最果て風の駅名が続く。

 「とどろき」というのは普通、車が3台で「轟」だけれど、津軽では馬が3頭で「驫」なのが面白い。

 その次の風合瀬では駅名標が「風瀬」になっていて、「合」の字だけあとから手書きで足してあった。

 艫作もそうだけれど、ここらの駅名を漢字テストに出題したら、読むのも書くのも難しい。五能線は風と波のローカル線…それだけは駅名から読み取れる。

 そんな五能線の車窓も今日は春めいて、カモメが餌を求めて海面を見回しながらゆっくりと滑るように飛んでいた。

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 ところで、これからどこへ行くか。

 さっき海藻拾いのおばさんには弘前まで行くと言ったけれど、車窓に広がる海を眺めていると、このまま日本海と別れてしまうのは惜しい気もする。日本海に沈む夕陽はきれいだろうなぁ、とも思う。津軽半島西海岸の小泊にでも行ってみようか。十三湖も見てみたいし…。だんだん気持ちが固まってきた。五所川原津軽鉄道に乗り換えよう。

 列車は鯵ヶ沢を過ぎると、日本海に別れを告げて津軽平野を東へ向かう。

 乗客もだんだん増えて、木造(きづくり)では高校生がドッと乗り込んできた。今日が卒業式だったらしく、卒業証書の筒や花束を手にした生徒が目につく。彼らもやがて故郷を離れ、都会の色に染まっていくのだろうか。卒業アルバムをめくりながらの明るい津軽弁のおしゃべりを聞くともなしに聞きながら、そんなことを考えていると、向かいの席のおじさんが声をかけてきた。

 目が少し不自由らしく、僕と隣の子連れの若い母親を夫婦かと勘違いしたようだ。こちらが当地とは無縁の東京からの旅行者だと分かると、自分の息子も東京に行っているのだと、おじさんは少し誇らしげに言った。

     津軽鉄道ストーブ列車

 五所川原には13時40分に到着。大勢の乗客に混じってここで降り、ローカル私鉄の津軽鉄道に乗り換える。

 今度の津軽中里行きは13時51分発でディーゼル機関車の引く客車列車だった。しかも、車内には暖房装置がないので、ダルマストーブを積んでいるという変り種である。あまりに珍しいので、会社側では「ストーブ列車」として観光客向けに大々的に宣伝しているらしい。しかし、乗客の大半は地元の高校生などで、車内はほぼ満席。座れそうもないので、僕はデッキに立っていた。

 片隅には石炭で満杯の楕円形バケツが置いてある。これは懐かしい。昔、小学校の教室に石炭ストーブがあって、冬になると毎朝当番がこのバケツを提げて校舎の裏にコークスを取りに行ったのを思い出した。

 さて、五所川原を出た列車は津軽平野をのろのろと北へ向かう。

 同じ津軽でも海岸部にはほとんど雪がなかったのに、この辺は一面の雪野原。午後の陽射しを浴びてキラキラ輝いている。

 30分ほど走ると金木に着く。太宰治の生まれた町だ。小説『津軽』の中で太宰は金木について

「これという特徴もないが、どこやら都会ふうにちょっと気取った町である。善く言えば水のように淡白であり、悪く言えば底の浅い見栄坊の町という事になっているようである」

 と記している。

 車窓からでは町の雰囲気までは分からないが、津軽鉄道の沿線では五所川原に次いで大きな町であり、ここでかなりの下車客があった。地元客に混じって観光客の一団もここで降り、駅前から観光バスに乗り込むのが見えた。ツアーの一部にこのストーブ列車の「体験乗車」が組み込まれていたのだろう。津軽鉄道の経営は苦しいに違いないから、こうして多少なりとも乗客が増えることは喜ばしい。

     津軽中里

 金木でようやく座れ、雪原をさらに20分走って、終点の津軽中里に14時40分頃着いた。

 改札を出ると、駅前に小泊行きのバスが待っていた。発車まで10分ほど余裕があるので、その間に小泊の宿に電話しようと電話ボックスで番号を調べていたら、あれれれれ…その隙になぜかバスが動き出し、そのまま行ってしまった。呆気にとられてバスを見送り、一体どうしたことかと停留所の時刻表を確かめると、僕の手元のものと時刻が違う。ちなみに僕のは出発前に近所の図書館で最新の時刻表の必要ページをコピーしてきたものだけれど、どちらが正しいかはすでに明白。僕は乗り遅れ、次の便まで1時間半以上も待たねばならないのでした。あぁ…。

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  ストーブ列車もすでに折り返してしまい、閑散とした駅前にひとり取り残された僕は気を取り直して町へ出た。

 津軽半島の真ん中に位置する中里町については、何の予備知識もないけれど、知らない土地を迷子のように彷徨い歩くのは嫌いではない。

 雪に埋もれた裏山の神社を見上げたり、こじんまりとしたマーケットにぶらっと入ってみたり、文具店を兼ねた書店で地元の子らに混じって立ち読みしたり小さな買い物をしたり…そんな折々に味わうちょっとした異邦人気分にもひとり旅ならではの楽しさと寂しさがある。

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 駅に戻ると、待合室の片隅の古びたカウンターに座った。昼食がまだなので、壁に貼られたメニューの中からピラフと紅茶を注文したら、おじさんが、

「いやぁ、ちょっとご飯を切らしててねぇ…」

 と申し訳なさそうに言う。

「じゃあ、サンドイッチを…」

「いやぁ、ちょっと…」

 まことに面目ない、といった面持ちである。

「あの、何ができるんでしょう?」

「いやぁ、ちょっと…。女房が出かけてるもんだから…」

 おじさんは溜め息をついた。

「はぁ…」

 僕も溜め息をつきたくなった。結局、食事物はできないらしい。腹減ってるのになぁ、と思いながらも、

「じゃあ、紅茶だけでいいです」

 と諦めて、日曜午後ののどかなテレビを眺めていると、おじさんはおもむろに鍋を取り出した。何か作り出すのか、と思ったら、お湯を沸かすだけで、やがて、そのお湯をカップに注ぎ、ティーバッグを浸しただけの紅茶が出てきた。

「女房がいたら、何か作れるんだけど…。今日は出かけちゃってねぇ」

 おじさんはもう一度弁解してから。傍らの売店のお客の相手を始めた。一人で両方を切り盛りしているらしい。

 テレビに気のない視線を送りつつ、冴えない気分で紅茶を飲んでいると、おじさんが戻ってきて、どこからかお皿を取り出した。

「あの、これ、ゆうべ女房が作ったものだけど…。よかったら、どうぞ」

 お皿には薄いホットケーキみたいなものが、2切れのっている。

「あ、どうもすみません」

 余程、僕が空腹そうに見えたのだろうか。おじさんの心遣いに今度はこちらが恐縮しながら、お手製のおやつをいただいた。

     小泊へ

 さて、16時25分発の小泊行きバスは中里駅前を発車すると町を北へ抜けて、夕映えの雪原を走る。

 海岸に出るまで沈まないでくれよ、と夕陽に祈りながら車窓を眺めていると、

『悔い改めよ』

 の文字が目に飛び込んでくる。

キリストはあなたがたの罪を血であがなう』

『神の裁きの日は近い』

 沿道のそこかしこに聖書黙示録あたりの言葉を書いた札が貼ってあるのだ。深浦でも同じものを見かけたから、あぁ、またか、と思う。黒地に白や黄色の文字で書いてあるので、ひどく脅迫的で恐ろしげな印象である。次々と現われる言葉を拾い集めるように意味もなく頭の中で暗唱してみたけれど、今はもうほとんど忘れてしまった。

 とにかく、バスはよく整備された道を北へ北へと快調に走り、今泉という集落を過ぎてまもなく十三湖の銀色の湖面が車窓に広がった。風が吹き渡るばかりの寒々として寂しげな湖だ。周囲の風景にも最果ての色が増してきた。

 湖畔を離れたバスは北辺の小さな集落をひとつずつ律儀に訪ねて走り、とうとう日本海岸に出た。

 あんず色の夕陽が最後の光芒を放ちながら水平線に浮いている。日没間近。なんとか間に合った。

 バスの行く手には小泊岬が残照を浴びている。満員だった車内もいつしか閑散として、夕暮れの寂しさが胸に募る。穏やかな早春の一日が暮れようとしている。

     小泊で迷子になる

 中里から1時間余り、17時半に終点の小泊案内所に着いた。この「案内所」というのは一般に言う営業所のことらしいが、予想に反して小泊の街はずれにあって、降りたのは僕を含めて2人だけだった。

 今夜の宿は小泊観光荘。所在地がはっきりしないので、電話で尋ねてから歩き出したら、たちまち迷った。近くのストアで道を聞いて、改めて宿をめざすものの、どうもよく分からない。知らない町でも道に迷うことなど滅多にないのに、今日はどうもおかしい。

 日没とともに風が出て、冷え込んできた。仕方なく再び電話したら、

「その場所で待っててください」

 と言われて、迷子になった子どもの気分で夕暮れの街角に立っていると、すぐにおばさんが小走りで迎えに来てくれた。情けないことである。

     小泊の夜

 商店街に面した鉄筋3階建ての宿にやっと着いて、2階の部屋に通された。狭い部屋である。畳もすっかり日焼けして、ずいぶん古びた感じ。窓の外は隣の屋根が見えるだけ。

 なんだかパッとしない宿だ、と思っていたら、食事になって一気に逆転満塁ホームラン

 大きなイカやホタテ、サザエ、エビ、カキ、さらに名前不明の焼き魚などが気取らず飾らず「どうだ」とばかりに食膳を賑わした。とりわけ、小ぶりながらも毛ガニが丸ごと1匹、お皿の上に鎮座ましましていたのには思わず顔がほころんでしまった(と、この時は毛ガニだと思い込んでいたけれど、あとで考えると、クリガ二、正確にはトゲクリガニだったのではないかと思う。まぁ、似たようなものです…たぶん)。ついでにワカメがたっぷり入った味噌汁の中にもタラが隠れていて、これで1泊2食付き6,000円。文句を言ったら罰が当たる。

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 ところで、小泊は本州の日本海側では最北端に位置する村である。この先は北のはずれの竜飛崎まで何もない。その竜飛崎へ行ってみたいが、小泊からのルートは冬の間、閉鎖され、車も入れない。夕食の後で念のため、おばさんに確認すると、

「歩いていけるんじゃない?」

 と意外なことを言う。

「えっ? でも雪が積もってるんじゃないですか?」

「海岸沿いだから雪はないわよ」

 一瞬、その気になりかけた。

「何キロぐらいあるんでしょう?」

「さぁ…」

 なんだか心許ない話だけれど、壁に貼ってある観光案内地図を見ると、20キロ弱といったところか。まぁ、歩けない距離ではないが、曲折ぶりからして道中は相当な山路のようでもあるし、ちょっと無謀な気がする。夏ならともかく、今の季節は吹雪が怖い。無人の山中で遭難、なんてことにもなりかねない。今回はやめておこう。

 夜になってシベリアからの季節風は一段と強まり、窓ガラスは絶えずガタガタと鳴っている。窓を開けてみると、いつしか粉雪も舞っていて、積もる間もなく屋根から屋根へと吹き飛ばされていく。

 人通りの絶えた街路を眺めていると、かつて旅した知床半島の羅臼の夜に似ている気がした。ただ、あの時は同宿の仲間たちと酒を飲みながらバカ騒ぎができたけれど、今宵はそれも叶わぬ夢というものだ。

 それにしても静かな夜。館内はしんとして、聞こえるのはヒュルヒュルという風の音ばかり。ほかに客がいるのかどうかも定かではなく、どこかで人の話し声がしたような気がするが、姿は見えない。

 暇つぶしに館内をちょっとばかり探検してみる。

 薄暗い廊下の突き当たりには宴会用の大広間。ガラス越しに暗く冷えきった部屋をのぞき込むと、片隅にはカラオケセットが用意されているが、もちろん今日は使う者もいない。

 そっと忍び込んで窓辺に立つ。外は道路をはさんで小泊漁港が広がり、点在する常夜灯が夜の静寂をオレンジ色に染めている。窓ガラスに額を寄せて目を凝らすと、テトラポッドに荒波が噛みつき、白い飛沫が上がるのが微かに見えた。