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Peepooblue’s Notebook

2017-09-05

[]多摩川登戸の渡し跡 22:17

 多摩川をはさんだ東京都狛江市和泉(昔の多摩郡和泉村)と神奈川県川崎市多摩区登戸(昔の橘樹郡登戸村)を結んでいたのが登戸の渡し。江戸から世田谷喜多見狛江を通る津久井往還が通っていた。

 旧街道が多摩川の土手に出るところ。

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 多摩川の流路は時代とともに変わり、渡しの位置にも変化はあったと思うが、最後の渡し船が出ていたのは小田急線の鉄橋の少し上流側。海から23キロ地点。

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 渡船場へ続く道の名残。

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 今は渡し船ではなく、貸しボート屋がある。

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 対岸の登戸側にもボート屋がある。

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 昭和2年に小田急線が開通し、登戸の渡しの利用者は大幅に減ったものの、まだ道路橋はなく、渡しは存続。 

 津久井往還の後身である世田谷通り登戸から先は津久井道)の橋が初めて架けられたのは昭和28年のこと。この時に渡し船は廃止された。僕が生まれる前ではあるが、意外に最近まであったのだな。

 小田急線下流側にある「多摩川決壊碑」。

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 昭和49年8月31日から9月1日にかけて台風16号の影響で奥多摩で大量の雨が降り、多摩川が増水。二ヶ領宿河原堰でせき止められた濁流が左岸側の取り付け部を破り、ここから迂回流が発生。左岸本堤防(狛江市側)も抉られて決壊。最終的に堤防が260メートルにわたって失われ、濁流が住宅街に流れ込んだ。2日から3日にかけて家屋19軒が相次いで流失。家が形を保ったまま、次々と濁流に呑まれ、流れていくニュース映像は今も鮮明に覚えている。自衛隊が流路を変えるべく堰の爆破を試み、度重なる失敗の末にようやく堰の破壊に成功し濁流を誘導。住宅街へ流れ込んだ迂回流を締め切り、本来の河道へ戻すことができたのだった。43年前の出来事。山田太一脚本のドラマ『岸辺のアルバム』の題材にもなった。

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狛江市HPより)

 

2017-08-24

[]三軒茶屋道標 21:45

 現在の国道246号線都心部では青山通り渋谷以西では玉川通りなどと呼ばれるが、その元となった道は昔、矢倉沢往還と呼ばれていた。矢倉沢とは箱根の北にある足柄峠の麓にあった関所の所在地である。古代の東海道箱根峠ではなく足柄峠を越えていたのだ。

 その矢倉沢往還世田谷区三軒茶屋から今の世田谷通りに入り、世田谷区世田谷ボロ市通り(戦国時代世田谷宿)を経由して二子の渡しへ行き、多摩川を越えていた。

 江戸時代に入ると、矢倉沢往還相模大山へ行くための道として大山道と呼ばれるようになった。江戸町人文化が成熟期を迎えた文化文政時代(1804年‐1830年)には信仰と行楽を兼ねた大山参詣がますます盛んになり、二子への近道として世田谷を経由しない新ルートが開かれた。それが現在の玉川通りである。新旧の大山道の追分には信楽(石橋楼)、角屋、田中屋という3軒の茶屋があったことから三軒茶屋という地名が生まれた。ただし、三軒茶屋が正式な町名になったのは昭和7年に世田谷区が成立した時のこと。

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(現在の三軒茶屋。左が玉川通り、右が世田谷通り。ついでに右折は茶沢通り

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 とにかく、三軒茶屋の追分に立派な道標がある。本来は渋谷方面に向いていたのが、現在は横を向いてしまっているが、正面には「左 相州道 大山道」と彫られ、左側面には「右 富士 世田谷 登戸道」と刻まれている。右側面には「此方 二子通」とある。

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 そして道標上部には不動明王石像が鎮座している。大山が不動信仰霊場だからだろう。

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 この道標が建立されたのは寛延2年、つまり1749年のこと。そして文化9年、つまり1812年に再建されたという。近道の新大山道ができたのが文化文政時代であるならば、それ以前の1749年に建立された道標とはどんなものだったのだろうか。

(きょうの1曲)Franco Battiato/Summer on a Solitary Beach

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2017-08-23

[]常盤伝説 20:10

 世田谷に残る伝説に常盤の悲話がある。江戸時代の『名残常盤記』に書かれた話で、写本によりいくつかのヴァリエーションがあるものの、大体こんな感じである。

 戦国時代世田谷領主だった吉良氏(足利氏の支族)の第7代・吉良頼康には13人の側室がいたという。そのうちのひとりが常盤で、今の九品仏・浄真寺(世田谷区奥沢)の地にあった奥沢城主・大平出羽守の息女だった。頼康は美しい常盤をひときわ寵愛し、常盤が頼康の子を身ごもると、これに嫉妬したほかの側室たちが共謀して常盤のお腹の子は頼康の子ではないというような讒言を頼康の耳に入れ、頼康も常盤を疑うようになる。

城にいられなくなった常盤は死を決意して城を脱し、その際、まだ奥沢城にいた頃から可愛がっていた1羽の白鷺の足に両親に宛てた遺書を結び付けて放ち、鷺は奥沢城の方角へ飛び去った。その鷺をたまたま奥沢城付近で狩りをしていた頼康が射落とし、常盤の遺書を見つけ、常盤への疑念は晴れたものの、頼康が急いで城に帰った時にはすでに常盤の姿はなく、彼女はもうこの世の人でもなかった。深く悔いた頼康は常盤終焉の地に近い駒留八幡世田谷区上馬)に常盤のお腹にいた胎児を若宮として祀り、その境内に常盤の霊を弁財天として祀った。

常盤の白鷺が射落とされた奥沢の地にはまるで鷺が舞うような姿の白い花が咲き、鷺草と名づけられた。

 また、讒言をした12人の側室は処刑され、12の塚に埋められた。

 まぁ、こんな話だ。

 上馬5‐30‐19には常盤を埋葬したという塚があり、世田谷区指定史跡となっている。史実に基づいた史跡というより、世田谷に残る有名な伝説に関連する地としての史跡指定といえるだろうか。

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 住宅街の中にひっそりとある常盤塚。塚石は昭和58年の再建。処刑された側室たちを埋めたという塚は現存せず。

 また、近くを通る世田谷通りには常盤が自害、あるいは殺害された場所という常盤橋の跡があるが、ここには何の案内もない。小川も埋められ、水路跡(烏山川の支流)は緑道になっている。

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 橋跡近くの側溝のふたには「世田谷区の花」に選ばれている鷺草(ラン科)があしらわれている。ただ、これは区内ではどこでも見られるものではある。

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 『江戸名所図会』に描かれた常盤橋世田谷通りの200年ほど前の風景。こんな小さな橋が一応、名所だったということか。

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 常盤の子を合祀している駒留八幡神社

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 その境内にある厳島神社。常盤の霊を弁財天として祀っている。

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 水のない池の傍らには常盤橋の遺構が保存されている。明治以降のものか。文字は「常盤橋」ではなく「常磐橋」。

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 常磐伝説のどこまでが史実で、どこからが作り話なのか分からないが、世田谷通りが環状7号線(環七)のアンダーパスを越える陸橋が常盤陸橋と命名されているように、伝説は今も生きている。

(きょうの1曲)Pierre Moerlen's GONG/Emotions

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2017-06-03

[]縄文の村 06:48

 小田急と京王の多摩センター駅近くで電車から見える「縄文の村」というのが前から気になっていたのだが、実際に行ってみた。

 まず東京都埋蔵文化財センターを見学(入館無料)。旧石器時代から人が暮らしていた多摩ニュータウンの丘陵地で発掘された遺跡の出土品を中心に展示されていた。

 ここではいろいろな体験教室も行われていて、縄文アクセサリー作りや縄文土器作り、縄文土器で調理したりドングリでクッキーを焼いたりする縄文食の体験などもあるようだ。

 そして、電車から見える縄文の村。遺跡庭園「縄文の村」。

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 ここはもともと多摩ニュータウンNo.57遺跡と呼ばれる縄文遺跡で、縄文前期前半の竪穴住居跡2軒と縄文中期後半の住居跡8軒が発見されている。ほかに縄文早期の陥し穴も検出され、さらに旧石器時代の石器類も見つかっているという。

 この遺跡に縄文時代の植生を再現し、3棟の住居が復元されている。

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 約4,500年前の敷石住居。八王子市堀之内の遺跡で発見された住居を移築したもので、床に平たい石が敷かれている。

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 縄文前期、6,500年前の住居。

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 中期後半、4,500年前の住居。

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 住居跡。

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 森ではウグイスがさえずり、エナガやコゲラも飛び回っている。みんな縄文時代からずっといるんだろう。

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 台地の裾にある湧水。

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 この湧水は昭和後期に涸れてしまったという説明書きがあったが、昭和後期という表現で、昭和も歴史の一時代になってしまったんだなぁ、と思う。

2017-01-29

[][]ラスコー展 17:02

 国立科学博物館で開催中の特別展「世界遺産ラスコー展」に行ってきた。

 現生人類(ホモサピエンス)の直接の祖先であるクロマニョン人がおよそ2万年前にフランス南西部にあるラスコー洞窟に残した壁画を洞窟壁面の形状も含めて実物大で精密に再現。まさに本当の洞窟に入って壁画を見るような体験ができる展示になっていた。

 会場に入ると、とてもリアルなクロマニョン人の母娘(?)がお出迎え。

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 1940年に地元の少年の飼い犬が謎の穴に落ちてしまい、偶然に発見された洞窟。真っ暗な洞窟の内部には驚くべき世界が広がっていた。

 その洞窟の全体を10分の1で復元した模型や洞窟に残されていた画材や道具、ランプの展示などを通じて壁画について基礎知識を身に付けた後、いよいよ実物大の壁画と対面。

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バイソン、ヤギ、ウマ、ウシ、シカ…。

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 2万年前のヨーロッパに生息していた動物たち。ケサイ、本物を見てみたかった。

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 ラスコーの壁画が描かれた時代の日本列島の旧石器時代人たちに関する展示もあって、非常に充実していた。

2月19日まで。月曜休館。

 日本館の常設展示から渋谷の「ハチ公」の剥製。

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 あまりにも有名な渋谷駅前の銅像に比べると、この剥製はあまり知られていないように思うのだが、それでもリチャード・ギア主演のハチの映画を見た外国人がこれを目当てにやってくるそうだ。実際、ハチの前で自撮りしている外国人がいた。日本人のほうがただの犬の剥製だと思って素通りしている。

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 これもハチが実際に身につけていた本物だそうだ。

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 「ハチ号」という名前と住所などが書かれている。

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