精神科医療の空白地域と密集地域と

ビーンズで折っているさおり織りのコー

精神科医療の空白地域

 ホテルコーラスから国道を3〜4分歩いていつものなごみさんへ。第2回めの支援が始まりました。
 前回の宿題で私はACTのフィデリティ評価についてみなさんにお伝えすることになっています。その「勉強会」は今日の午後に開催することに。

 まずは午前中は看護師の河村さんの訪問にご一緒させていただきました。河村さんは2週間後の3月3日から5日間ぴあクリニックに来られる方でもあります。地元で生まれ育った河村さんに、震災前の相馬市の精神保健福祉について教えていただきました。

 そもそも、相馬市には震災前精神医療機関が全くなかったのだそうです。診療所も病院も。

 相馬市の人口は3万6千人。ちょうど私が住む浜松市(左の画像)東区の積志地区(積志中学校と中郡中学校区をあわせた地域)の人口が3万8千人くらいです。積志地区に精神科の医療機関がないという規模であれば、わからなくもないですね*1。しかし、積志地区は13.7平方kmなのに対し、相馬市は197.7平方km。中区と西区と東区の広さをあわせるとだいたい204平方km。そこに精神科の医療機関が全くないというのは、浜松の事情を考えると想像しにくいですね。平成21年と少し古い資料なのですが、中区と西区と東区の精神科の診療所だけで15あります。単科の精神科病院は4つ、総合病院の精神科は5つ。今はもっと増えていますよね。
 そうやって対照して考えると、197.7平方kmの広さに精神科の医療機関が皆無だったということが私には不思議に思われます。

 なごみさんのクリニックが、相馬市で「歴史始まって以来」の精神科医療機関だったというのです。

 では、それまでどうしていたのでしょうか?

 「南相馬には病院やクリニックがあったから、そこに通っていたんじゃないかなあ。それか仙台でしょうね。ここは電車で1時間くらいで仙台に行けたから、何かあるとみんな仙台に行っていたんです。でも、震災で常磐線が不通になってしまったから、不便になりましたけれども。」
 なるほど、仙台なのですね。でも、電車で1時間かけて通うのは健康な人ならばともかく、精神疾患にかかった人にとっては苦行でしょう。

 他の方にきいたところ、
「放置されていたんでしょうね。だから、今になっていろいろ出てきてますよ。」


 このあたりは、短い滞在期間につきとめられることではないけれども、精神科医療に対するニーズが皆無だったはずはありません。ただ、そのニーズが掘り起こされることがなく、「ないもの」とされてきた歴史はあるようです。そこには、行政の問題もなくはないようです。
 「相馬事件」の舞台の地でもあるのに、精神科医療機関の空白地域だった相馬市。

 気がかりなのは、これからのことです。

 以前このブログでも「これからがPTSDなどの問題がより大きくなる」ということを書いたと思います。
 震災で被害を受けた人たちが、精神科医療機関に足を向けることができるのか。ニーズを掘り起こすことができるのか。また、精神保健福祉のシステムが根づいていない地域ということは、サポートする人も育っていないということでもあります。このあたり、長い時間をかけてこれから作り上げていかなくてはいけないところなのでしょうね。

精神科医療の密集地域

 これに対して、「相双地域」のうちの「双」および南相馬の地域にはたくさんの精神科医療機関がありました。

 この地図の上の方の青はなごみさんです。赤は震災に遭った精神科医療の病院です。2014年の推計ですが、双葉郡の人口は6万6千人。特に、福島第一原発の近くに双葉厚生病院*2、双葉病院などがありました。
 震災前は、この青のなごみさんがなかったことを考えると、この不均衡はどういうことなんだろう?
 と、考えさえせられます。

去っていく仮設、去っていけない仮設

 一人暮らしをされている方がお風呂もついている保健センターに通うための支援を行ったあと、千倉の仮設住宅への訪問へ。前回の1月29日に伺った柚木の仮設住宅は退去した人が多く、現在は4割ほどしか人がいません。それに対して、この仮設住宅はほとんどまだいっぱい人が入っています。

 どうしてなんだろう?

 きくと、柚木の仮設住宅津波の被害に遭ったあとに、居住不能地域に指定されてしまった。だから、そこには戻れないことが確定しており、復興住宅に移る人、新しく住居を求める人などが次々に移り住んでいるのだそうです。
 これに対して、千倉の仮設は福島第一原発から20?くらい離れている南相馬市の小高地区の人たちが多く住んでいるのだそうです。小高地区は現在は一部帰還困難区域、一部居住制限区域、一部避難指示解除準備区域となっています*3
 今後のことが不透明で、戻れるかもしれないし、戻れないかもしれない。
 だから、柚木の仮設の人のように新しい居住先を決めることができない人が多いのだそうです。

 仮設ごとに、そしてその仮設の中でもそれぞれの世帯でいろいろなご事情があるのでしょうね。
 支援というのは個別支援が原則ではありますが、そういう中での個別の事情を踏まえながらの仮設への訪問、それぞれの人の歴史を踏まえての支援を行っていくためには、もっともっと資源が必要にも思います。

犬がいる

 で、この千倉の仮設は、動物を飼っても良いことになっているそうです。
 仮設住宅に犬がいるのは初めて見ました。そして、伺ったお宅では、なんと!! コタツの横に犬が寝そべっていました。いろいろなご事情があり、1人で生活されている方です。犬がいることで、どんなに助けられていることでしょう。犬に「ばあちゃんはな・・・」と話しかけていたのが印象的でした。


 先に伺ったお宅とその後のこのコタツに犬がいたお宅の方それぞれがくださったおせんべいとパン。固辞しても「食べろ」(方言で、命令形というよりも「食べてね」というニュアンス)と勧めてくださいますので、ありがたくいただきました。
 義理堅い方たちなのだなあと感じます。

*1:ちなみに、積志地区の精神科の医療機関には浜松医大の精神科があります。

*2:双葉厚生病院には第一原発が爆発した時にその破片が飛んできたそうです。当時双葉厚生病院に勤めていたなごみの佐藤照美さんからききました

*3:最新の避難区域の状況はこちらhttp://www.kantei.go.jp/saigai/pdf/20130808gainenzu.pdf

ACTのフィデリティ評価とチームの成長について

 午後は「宿題」のフィデリティ評価に関するおはなしをさせていただきました。
 フィデリティとは何か? 

 フィデリティ評価とは何か?に関しては、国立精研の吉田光爾さんの「幕の内弁当説」をお借りして説明しました。吉田さんには事前に了解を得て、スライドも使わせていただきました(ここに挙げたのは上久保作成のもの)。

 そして、フィデリティ調査を受けて、フィデリティ調査項目を一つ一つ積み上げていったぴあクリニックの歩みをお伝えしました。
 以下の表は今回のおはなしのために、作成しました。グリーンに塗られているのが、2007年の第1回の調査結果。青が2010年、赤が今回の2013年度、つい先日2014年1月30・31日です。3回の変化がよくわかりますね。

フィデリティ評価は、チームの成長にとても有益だという実感があります。なごみのみなさんに少しでもお役に立てば幸いです。

 このおはなしのとき、ちょうどなごみの診療所のほうに支援に来られている熊本の小林幹穂先生*1もいらして、ちょっと緊張しました。
 小林先生は、そもそもユタなどのシャーマン研究が専門で、青森の岩木山修験道の荒行の経験もあるのだそうです。マイナス20度のなか滝に打たれるとか・・・・「若かったからできましたね」と。いえいえ、若くてもできません。
 ユタにも先天的にユタとしての才能?を「もってる」ユタと訓練してなったユタと2つタイプがあって、やはり「もってる」ユタの方が尊敬されるとか、シャーマンとスピリチュアリティの関係とか、とても面白いお話を伺いました。

*1:小林先生については、こんな記事をみつけました。http://oyasumidokoro.rongakusha.com/?eid=1424323

事例検討会に出席しました

震災に伴う困難の複合性、多層性

 もう、エネルギーがなくなってきました。最後にあと2つ、ものすごく簡単にですが、書いて終わります。

 夕方、障害福祉サービス事業をされている方たちとの事例検討会がありました。
 震災と震災に伴う避難などの諸事情によって、障害福祉サービス施設の職員さんの半数が辞められ、新しい職員さんに変わるということがあったのだそうです。震災だけでも困難なのに、半数が新しい人ということで、困難さに拍車がかかります。
 改めて、「震災による困難」というものが、重層的というか複合的なものであることが伺われます。

 その困難を解消するために、事例検討会を開催するようになったのだそうです。事例検討会には、わざわざ「中沢先生」(あとで、正式なお名前を確認してみます)が来られて、助言してくださるのだそうです。中沢先生は今回の大雪の影響で本日は来られなかったのですが、事例を報告、いろいろな方が発言するなかで、支援の手がかりが少しずつみえていく、事例が多角的にみえてくる検討会でした。ここに報告できなくて、申し訳ないのですが、やはり、この事例でも、震災の困難さの一断面をみる思いでした。

「震災のしわよせは弱い人に、障害者にきますよね〜」
と一緒に事例検討会に出ていた米倉さんがおっしゃっていましたけれども、まさに、と思います。

小羊学園の献身的な支援

 そして、どうしても書かなくてはいけないこと。
 私が浜松から来たと言うと、そこに出席されていた「さぽーとセンターぴあ」の郡信子さんが、実は小羊学園にとてもお世話になったのだと教えて下さいました。郡さんが浜松に震災のことで講演に来られたときに、小羊学園の古橋誠さんと名刺交換をした、そしてそれがご縁で、小羊学園の主任クラスの方が4名、3ヶ月交代くらいでずっと泊まりこんでくれて、昨年度1年間支援をしてくれたのだそうです。古橋誠さんは個人的に知っている方で、福島に支援に行かれていたときいてはいたのですが、そんなに長期間本格的に滞在されていたとは知りませんでした。

 「主任クラスの人が1年かけて4名交代で」って・・・・。それって、送り出す小羊学園さんにとっても、大変なことですよね。このような支援を、ぴあクリニックから歩いて10分ほどの施設がしていたとは・・・。全く知らなかったことが、申し訳ないような嬉しいような。

 先ほど紹介した小林先生は熊本でお仕事をされています。

 1月に伺ったときには、高知のドクターがやはりいらしていました。メンタルクリニックなごみで診察をする上に、再開された雲雀ヶ丘病院で当直もされているとか。

 日本全国から、まだまだこのように献身的な支援を継続してされている方がいらっしゃるのですね。
 でも、まだまだ、必要です。
 
 多くの支援がこれからも続くことを願ってやみません。