飢餓で死にそうな時にメタミドホス餃子があったら・・。

 あなたは今、飢餓状態で何も口にしなければあと1時間で死にます。
という状態を想像してみた。そんな時に目の前にメタミドホス入り餃子があったら食べるだろうか?食べないだろうか?それが毒入りと知っていても食べる人はいるだろう。それを食べてでも生き残れるのであれば、食べるであろう。しかし、食べようと思った矢先に「毒入りだから。」と捨てられてしまった場合どうなのだろうか?
 世界の飢餓人口は2007年10月時点で8億人を超えている。そのような人たちから見て、メタミドホス入り餃子はどのように写るのだろうか。と、ふと考えてみた。毒入りだと言われ捨てられる餃子。しかし、それがあれば自分は生きることができる。
 しかし、今の私は決してこの餃子を食べようとは思わない。あえて毒物を食べる意味がない。格差というものは非常に残酷だと感じる。毒入り餃子であっても飢餓状態にあればそれは毒ではなく薬になり得る。
 別にこの話はメタミドホス餃子に限った話ではない。飲食店からでる残飯にしてもそうだ。否、先進国で病に苦しんでいる人の治療費という名目で集められている募金はどうだ?一人の難病に苦しむ人のために何万円という金が集められる。しかし、そのお金を別のところに充てれば、もっと多くの人が救える。人の価値はお金では測れないというのは嘘ではないが本当でもない。その数万円に募金をした人はその一人の人に対しての価値を見計らっているのだ。それが悪いと言っているわけではない。先進国の一人を救うことに価値を見出すのもまた一つの人生だ。自分のためだけにお金を使うのもまた人生だ。ただ非常に冷徹な世界だと感じる。私も自分を捨ててまで人を救う気にはならない。それで構わないと思う。しかし、冷徹でかつ無力だ。


 仮にあなたが飢餓状態の時に、毒入り餃子を差し出す人がいたら

  1. 入りの餃子を出した人を憎む。
  2. 食べ物を出してくれた人に感謝する。
  3. その他。

一体どのように思うのだろうか?
仮にその立場になれば私はそれでもその人に感謝するだろう・・。
その無力さを憎みながら・・。