昔のファミコンは酷かった!!そりゃもう酷かった。

昔のファミコンは酷いよ

 どのゲームも今と比べて明らかに酷いよ。今プレイしたら、ファミコンなんて目がチカチカしてやってらんないくらいに。そもそもクリアできたファミコンソフトってどれくらいの割合だ。昔ですら投げ出したソフトなんて山のようだ。今、ファミコンドラクエ1なんてできるか?横歩きだ。話す方向「東」「西」「南」「北」ってなんじゃそりゃ。じゃ、ドラクエ2はどうだ?なんじゃ、あの復活のことば。わざわざビデオで録画してたやつがいるくらいだ。げ、また違うってよお。じゃあ、ドラクエ3は?「ティロリロリロリロリロり〜ら♪残念ながらあなたのぼうけんのしょはきえました」じゃねえよ!!


 スーパーマリオ?ああ、あの戻れないアクションゲームのことですね。いえいえ、雲と草が同じ画像のやつですよ。
ファイナルファンタジー3?そうそう最後のダンジョンでまっすぐラスボス突っ込んで数時間無駄になってしまった・・。いえいえ、バグを使って色々遊べるやつじゃないですかあ。それ言えば、マリオだってそうだろ・・。0面ってただのバグじゃん。
 ところで、昔の説明書ってどんなだったけ?あれのことか・・。白黒だったよな。読んでもチンプンカンプンな。なんだ、これ?みたいなやつだよなあ。主に書いてあることは、ゲームで書けない補足説明。キャラクターの説明を説明書でするなよ。マリオが何者か?説明書なくしたら一生謎じゃねえか。


 そういえば、ファミコンてコントローラーが二つ付いてたっけ。それだ、問題は。メインの方が『ワンコン』、サブの方が『ツーコン』。スタートボタンとセレクトボタンがついているのが『ワンコン』、マイクがついているのが『ツーコン』。あ、そういえばマイクついてたな。唾たまって、すぐイカレちまったけど。でも、マイク使うゲームって少なくなかったか?お前何をやってたんだよ。「たけしの挑戦状・・。」俺、マイク壊れたとき泣いたぜ。マイクないとクリアできねえって。
 付属品が必要なのもあったよな。以外に今のハードなら面白そうなものもあるんじゃね。ファミリートレーナーなんてwiiで復活したし。ああ、あのフニャフニャなマットね。畳んでしまっていたら、すぐに接触不良で。あれは、畳んじゃいかんよ。大事に広げたまま収納しとかんと。俺の家の狭さじゃ無理だって・・。


 ソフトの値段について話してみるか。おい、それはタブーだろ。ドラクエ4。8,500円(税抜)あ、ちなみに、PS版での初期価格、6,800円(税抜)。あれで8,500円もしてたっけ?戦闘の背景、白黒だし。ちょっと待てよ、呪文唱えたら色変わっただろ!!ってそういう問題じゃねえよ。838861枚のカジノコインが4Gだもんな。8,500円払う価値はあるだろう。(そういう問題でもないだろ。ただの桁ずれバグだし)


 ところで、昔のゲームは酷いよ。品質なんて言葉があったもんじゃねえ。で、おまえは何で昔のゲームが面白かったんだ?俺は闘ってたんだ、常に。そう、発売前から闘ってたんだ。誰と?そりゃ、開発者とだろ。だって、やつら挑戦的だったじゃん。開発者が挑戦してきてたじゃん。「これ、面白いと思うか?」って。プレイしねえと分からねえ。じゃ、買ってやるか?って、ある意味戦いだろ。確かに今は「買ったけど面白くない」ってそれだけで苦情だもんな。お金の払いどころが違うって感じ。ゲームより開発者の挑戦を試すためにお金払ってた気分だもんな。だから、必死で面白さを探したもんな。「このゲームは、きっと楽しいことがあるんだ」って。そういうところが楽しかったんだろう。
 だから今やっても、楽しみ方はある。「この当時の開発者はこれのどこが楽しいと思ったんだろうか?」って探す楽しみだな。確かに今のゲームは面白いと言われているところが明確だからな。楽しみ方を探すということはないかも。


ま、何にせよ。昔は酷かったよ。開発者が挑発的だったから。「このゲームの楽しみ方を探しなさい。」なんて言う開発者、今絶対いないな。それだけ、開発費用が高くなったということでもあるんだがな。


ところで、俺のファミコンどこやったけ?お前、こないだの宴会で「なだぎ武のモノマネ」やるためにピーってなるよう改造してしまっただろ?
改造なんかしてないぜ。俺のファミコン、あの音がディフォルトだから。

集合知によって導かれる答えは「平均」である。

集合知とは?

集合知Collective Intelligence)とは、多くの人による大量の情報の寄せ集めの集計のこと。


2005年以降のWeb 2.0ブームとともに注目されている。
集合知を利用したサービスの代表的な例に、検索エンジンソーシャルブックマークがある。
Webの普及により、知識の自動的な集約によって集合知を作り出すことができるようになってきている。
よく混同される言葉に群衆の叡智があるが、これは英語のWisdom of Crowdsの和訳で、元々は別の言葉である。

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%bd%b8%b9%e7%c3%ce

集合知の担い手

仮に、誰も理解できないほど素晴らしい論文があったとする。これを理解できるのは、一握りの人物でしかない場合がある。
例えば、当時のアインシュタインの相対論なんかがそれにあたるかもしれない。ところが、集合知ではこれが素晴らしいものだということは認識されることはまずないだろう。
なぜなら、集合知の多くは「平均的な頭」しか持っていないからである。

集合知の平均

集合知の全ての知能を平均すれば、当然「平均的な頭脳にしかならない」のはある意味当然と言える。つまり、多くの人間が素晴らしいと感じる文章は「平均的な頭脳」の人間にとって素晴らしいものと言える。
つまり、仮に貴殿が天才であるなら他のものの方が素晴らしく見えることもある筈である。

詰まる所

貴殿がある分野で平均を超える様な能力を持っているのであれば、集合知は役に立たない。集合知を担う個々の人物に着目するのは構わない。その中には、才ある人物もいる筈である。
仮に多くの人物が誤った考えをしていれば、集合知は誤った解答しか導けない。

例:集合知にだけ頼るのであればgoogle翻訳はいつまでも正確に翻訳できない。

平均的な人物が正確に翻訳が出来る能力を持っているのであれば、ほとんど翻訳を利用する人などいないことになる。しかし、正確に翻訳できるのは一握りの人物の筈である。*1
それを考えれば、集合知によって導かれる翻訳は平均して間違っている。と考える方が自然ではないだろうか?

結論

所詮、「集合知によって導かれる答え」=「平均的な人間の考える答え」でしかないのではないだろうか?
仮にガリレオ・ガリレイが生きた時代の集合知を考えれば、それによって導かれる答えは「地球を中心に太陽が回っている」のである。

備忘録

  1. 下書き最終更新日時 2008-09-26 12:26:06より

*1:できる人物の絶対数はそれなりにいるのだろうが、割合は少ないと思う。

テスト:読者にお尋ねします。(特にRSS購読者の方に答えてほしい)

質問内容

  1. 私のブログを読もうと思ったきっかけ
  2. 何のテーマに関する文章が好きか?
  3. 私の人物に関してどういうイメージを持っているか。

何故こんなことを質問するか?

あなたがどう感じるかは私には分からない。自分で過去ログを読み返して自分自身で感じたこと。


支離滅裂


これが一番当てはまる。文章の書き方。エントリの話題。それらに一貫性がない。というのが私の感じたことである。そのことに関して別に後悔もしてない。自分はそれらを合わせた様な人物なのだろう。人間は誰しも多面性な部分があって然り。書きたい時、書きたいことを書いてきたつもりだ。私は日々、様々なことを考えて生きている。もっと色んなことを考えている人もいるだろう。しかし、平均より多くのこと、平均よりズレていること。そんなことを考えて生きているという自覚がある。その私の考えの中で、書きたいと思ったことだけを書いてきたつもりだ。「書くネタがない。」という人が私には信じられない。書くだけならネタに尽きたことなど、私には一度もない。「書きたいネタがない。」という日は山の様にあるのだが。今まで、ブログに書いてきたことは私の考えの一端、それもほんの少しでしかない。それでも更新率は高い方ではないだろうか?


 ところで以前、「読者の立場からすればジャンルを分けた方が見やすいだろうな」と考えたことがある。あるジャンルに特化した方が見る側からすれば分かりやすいのではないかと。さらに言えば、特化したブログの方が一つの話題にしても信憑性が増す。それは例えば「プログラム中心」だったり「書評中心」だったり。いわゆるブログのカラーというものが明確化する。ブログを分けるのがめんどくさい。これが私にとってブログを分けない大きな理由かもしれない。しかし、私自身を考えみた時に、ある部分に特化した面を持っていない。というよりは、私の目指してきた道が「浅く広く」に由来するのかもしれない。専門性より柔軟性と言えば聞こえはいいかもしれないが。ヲタクとは真逆の方向性と言えなくもない。おそらく、このブログに書かれている内容以外に書けるネタは山ほどある。もちろん、浅いのではあるが。このブログも正直に言えば、一つ一つは非常に浅い。このブログで書いたこと以外をネタにブログを立ち上げようと思えば、幾らでも立ちあげられる気がする。当然、限りはあるだろうが。このブログだけで到底私は判断しきれないと自負しておく。ただ、一応ある程度このブログに方向性を持たせているつもりではあったのだが。


そこで読者の方に聞いてみたい。私のブログについてどう思っているか?何を期待するか?今の私にどういうイメージを抱いているか?
だからこれに特に深い意味はない。ただ、知りたい。それだけのことである。

質問内容によってブログを変える気はない。

私がpenkunとしてこのブログに書きたいことを書いていく。思いついたまま書いていく。それを変える気はない。penkunは確かに私である。しかし、それは私という人格の一端に過ぎない。penkunでなければ書かないこともある。つまりこのブログでなければ書かないことだ。また、別のブログを立ち上げるならきっと違うことも書いていくのだろうと思う。既に、penkun自身が支離滅裂なのだろうが、中の私はもっと支離滅裂な頭を持った人間であると自覚している。その支離滅裂な部分から自分というものを見つけてみようと思って書いているのが今現在だ。
人は元来、支離滅裂なものである。
私が一番困る質問。
「あなたはどんな人間ですか?どんな性格ですか?」
と聞く頭の悪い面接官がいる会社があったりする。
「そんなに単純に抽象化できる人間などいますか?」

変更履歴

  1. 何のテーマに関する文章が好きか?に変更。(10/4)