第4回 大阪事件

「見ててみい。ワシの目に狂いはない」

裁判長自身が池田会長の人格に圧倒されていた。

会長が法廷で対峙したのは、戦前から昭和の時代を貫く思想弾圧の闇だった。


◆?常識″を覆した無罪判決。

▼「池田大作は無罪」


 田中勇雄裁判長は二人の判事を従え、法廷に通じる扉を押し開いた。

「起立」

 廷吏の合図で、法廷内の人々は、いっせいに腰を上げた。

 大阪地方裁判所二号法廷。

 昭和三十七年一月二十五日。時計の針は午前十時を指していた。

 一礼して着席。右陪席は野曽原秀尚判事、左陪席は鈴木清子判事補である。

 一段高い判事席から、傍聴人や司法記者で埋まった廷内がよく見えた。廊下に「傍聴満員」の札が出ているはずである。

 目の前に公職選挙法違反に問われた二一人の学会員。大人数のため二列でも並びきれない。判事席の左、弁護側に列が伸び、一番手前に創価学会池田大作会長。二年前の五月三日、第三代会長に就任していた。

 冬のよく晴れた日である。法廷には物音もない。

「それでは判決を言い渡します」

 裁判長は判決文に目を落とした。左陪席の鈴木判事補が書き上げたものである。

 二一人への判決であり、主文だけで一〇〇〇文字を超す長さがあった。

「主文――」

 低いが、よく通る声。それぞれに罰金や訴訟費用の負担などを宣告していった。

 この時、池田会長の名前が出てこないので、傍聴席の学会員は、じりじりしながら待った。

 主文は、最後の一行にいたった。

池田大作は無罪」

 転瞬、傍聴席から、どよめきと拍手が起こった。

「うおーっ!」

 静粛こそ法廷の錠である。裁判長は厳しい表情で注意した。傍聴席の学会員は、さっと静まったが、安堵から天を仰ぐ者や、握手を交わす人がいる。司法記者は夕刊に間に合わせるため、法廷を飛び出している。

 当の池田会長に表情の変化はない。無罪判決の瞬間、ちらりと検察側に視線を向けただけである。

 初公判から四年三カ月にわたった「大阪事件」(概要を別掲)の審理で池田会長に無罪判決が下った瞬間である。

 日本の刑事事件の有罪率は九九パーセントを超える。検察が自らの威信をかけて起訴する以上、ほぼ間違いなく有罪を宣告されるのが刑事裁判の現実である。

 その?常識″を覆した大阪事件の全貌とは。検察の狙い、思惑、作戦とは何か。いかに裁判官は真実を見極めたのか。事件の深層に迫ってみたい。


      【大阪事件】

 昭和三十二年の参院選大阪地方区補欠選挙で、池田室長はじめ多数の学会員が公職選挙法違反の容疑で逮捕された「後の裁判で室長の無罪が明らかになった冤罪事件。

 同年四月二十三日に行なわれた同選挙で創価学会は中尾辰義(当時、船場支部支部長)を支援したが、三位で落選した。 一部の会員から違反者が出た。東京から応援に来ていた中村某(蒲田支部の地区部長)らが、大阪市内で候補者名を記したタバコ、名刺をつけた百円札などを配った。また、戸別訪問で逮捕された者もいた。裁判の結果、それぞれの罪科に応じて刑に処せられた。

 検察当局は、一連の違反が支援責任者である池田室長の指示とする構図を描いたが、そのもくろみは法廷で崩れた。


▼出陣の歌「霧の川中島


「めでたい日だ。順番に歌を歌いなさい」

 上機嫌の戸田城聖会長は、温顔を皆に向けた。

 大阪事件の初公判を二カ月後に控えた昭和三十二年八月二十日。戸田会長と池田青年室長は北海道・夕張にいた。学会が寄進した寺院落慶の祝賀の宴である。

 あの炭労事件を勝利した後だけに、会員の喜びもひとしおだった。

 宴たけなわ、戸田会長に声をかけられた幹部たちが歌い出した。

 職場の慰労会で披露されるような演歌や流行歌の類が続いた。

 戸田会長の表情が、だんだん曇っていく。無表情を通りこして、怒気さえはらんできた。

 強い口調で言い放った。

「大、歌いなさい」

「はい!」

 サッと立ち上がる室長。若く、凛々しい声が響いた。

「霧の川中島」 である。

 戦国の名将、武田信玄上杉謙信が繰り広げた川中島決戦が歌われていた。聴きながら、じっと会長は目をつぶっていた。眼鏡の奥からにじみ出る光があった。

 戸田会長は「もう一度」「もう一度」とうながし、熱唱は三回を数えた。

 異様とも言える光景に、居合わせた幹部の中には、ある感慨を抱く者がいた。

?これは大阪の裁判への出陣の歌ではないか″


 初公判の期日が迫っていた。真の決戦は、これからである。

 そう考えれば、なぜ夕張の祝宴で「霧の川中島」が歌われたか腑に落ちる。その場にいた黒柳明は述懐している。

「?これから私の弟子が、もう一度戦いに出ていくんだ″。戸田先生のお姿には万感の思いが感じられてなりませんでした」決戦の舞台は、大阪地方裁判所の法廷に移った。


▼四通の検察調書


 当時の大阪地方裁判所は、堂島川に面した赤レンガ三階建てである。

 正面に大きな蘇鉄の木。建物は「田」の字型で中庭が四つある。中央には丸屋根の塔がそびえていた。

 このほか、川から見て右手に別館や弁護士会館があり、その奥に法廷棟が鎮座している。

 ――以下、本稿では、大阪事件の法廷で争われた事実に触れていく。

 この事件の審理は長く複雑だった。被告の数も多い。裁判の制度や用語自体がわかりにくい。これまで公刊された大阪事件の記述を見ても、何が最大の争点だったのか読者に判じかねる点がある。

 本稿では、その「わかりにくさ」を払拭したい。そのためにまず、池田室長にかけられた嫌疑に話を絞ろうと思う。

 昭和三十二年四月に参院選大阪地方区の補欠選挙が行われた。ここで室長が、公職選挙法に抵触する戸別訪問を会員に教唆したか否か。これが法廷で争われた。

 室長は同年七月三日に逮捕された。検察側の謀略(後に詳述)によって室長本人が罪を認めた検察調書が作成された。その数は四通ある。

 この調書こそ、検察が法廷に提出した証拠の中心である。

 裁判の最大の争点も、ここに絞り込まれていく。

 検察調書に、どれだけ信用性があるか。室長本人が検事に罪を自白したというが、本当なのか。法廷は調書を証拠として採用するのか、却下するのか。

 これが焦点であった。

      *

 次に、公判にのぞむ法曹三者(裁判官、検事、弁護士)を点描しながらポイントを整理しておきたい。

 まず学会の弁護団。大滝亀代司弁護士が主任である。戸田会長の古くからの親友。山形生まれで東北弁の訛りが抜けない。副主任として藤原昇弁護士が脇をかためている。

 残念ながら弁護団は弱気だった。池田会長の有罪は免れないと諦めていた話は有名である。それほど検察調書の存在は大きい。一度、自白し、自分で罪を認めた以上、状況を逆転させることは容易でない。

 続いて検察陣。起訴状によって起訴するまでが刑事部の担当で、八木源弥検事が主任だった。ここで公判部にバトンタッチする。高藤義介検事が引き継いだ。

 高藤検事の側にも、少なからぬ不安があった。

 室長に関する証拠は、自白による検察調書しかない。これだけで論告求刑まで公判を維持できるか。偽証の綻びを突かれたら、きわどい勝負になる。

 それでも調書がある限り、検察側の有利は揺るぎない。

 最後に判事。大阪地裁の刑事第五部による審理である。同部の部長である田中勇雄判事が裁判長を務めた。

 人望の厚い白髪の裁判官。起訴状で初めて大阪事件の概要を知った。裁判官とは起訴状の真偽を見極める批判者である、という持論があった。

 初公判(同年十月十八日)で初めて池田室長を見た。

 後年、親しい人に漏らした第一印象。「礼儀正しい。若いのに、しっかりしていて、他の人とどこか違う」。すぐ隣に、年輩の小泉隆理事長。「少し線が細い。池田室長の方が人物は上だな」。

 その上で、こうした先入観や印象を打ち消している。裁判は証拠主義である。起訴状と法廷に出される証拠以外に判断を置いてはならない。

 裁判官の黒い法服は、いかなる色にも染まらない厳正な法の審判を表している。


▼初公判翌日の質疑応答


 昭和三十二年十月十九日。初公判の翌日である。

 この日も池田室長は大阪と京都をめまぐるしく動いている。関西本部にもどった夜、男子部の代表と短時間だが、質疑応答の機会をもった。その詳細な記録が残っている。

 仕事や活動の質問が続いた後で、ある青年が司会に指名された。

「昨日が最終公判とうかがいましたが……」

「最終公判? 初めてだよ、昨日は。最終ではない。最初」と室長。

 とんちんかんな質問に、場内から軽い失笑がもれた。

「それで、どういう、その……」

 しどろもどろだが、しきりに裁判の行方を心配している。

 どこか怯えた心を打ち破るように、室長は語り始めた。

「これっぽっちのこと、なんてことないよ。ネルーは九回牢獄に入って九年の牢生活だ。ガンジーだってそうだ。中国共産党の指導者も弾圧された。革命の闘士とは、そういうものだ」

 思いもよらぬ名前が飛び出し、参加者は面食らった。まったく違う尺度で室長は事件をとらえていた。

「いわんや我々は未聞の宗教革命をなさんとする青年部じゃないか。これくらいで動じたり、へこたれては断じてならない!」

 日蓮大聖人も社会的な罪を捏造されて難にあった例を引いた。「学会も同じです。仏法の問題ではなく、世間の問題をでっち上げられて迫害される」。

 事件をめぐる、秘めた真情も明かした。室長より前に、戸別訪問の容疑で何人か逮捕されていた。

「大変な思いをしている同志を見捨てるわけにいかない。だから大阪府警に自分で行った。私には戦いの責任がある。当たり前の態度だ。私はやっていません。やった人が可哀想だから行った」

 逮捕者を救いたくて出頭したのである。

「私は覚悟の上です。心配ありません。こんなこと朝飯前だ。幕末の志士だって、どれだけ迫害されたことか。それに比べれば遊びのようなものだ。裁判もいい勉強です。劇を演じるようなものだ」

 現存する発言記録からは、すさまじい気迫が伝わってくる。


▼手錠をかけた取り調べ


 法廷で争われた公職選挙法違反の容疑は、二つに分けられる。買収関係と戸別訪問関係である。このうち、池田室長の嫌疑は戸別訪問に関わるもので、買収では起訴されていない。

 審理は買収関係から始まり、五〇回以上の公判が開かれた。最終判決(昭和三十六年二月二十七日) まで進み、主犯格の中村某らは有罪を宣告された。

 すでに初公判から三年以上を要し、この間に戸田会長は逝去し、後継の池田会長が誕生している。

 戸別訪問関係は、第五六回公判から実質的な審理に入った。

 証人調べが続き、やがて被告人の尋問へと移った。

 第六十四回公判(昭和三十六年四月十二日)。

「被告人は前へ出てください」

 田中裁判長にうながされ、鳥養国夫(大阪事件当時、関西総支部幹事)が証言台に立った。

 ここで鳥養は、昭和三十二年五月に逮捕されたときの調書は作り話で、供述を誘導されたと述べた。

 被告人が、身に覚えのない濡れ衣と否認するのは、法廷では日常茶飯事である。

 検事席から尋問が発せられた。

 高藤検事「誘導があったにしても、そう言わんでもいいでしょう」

 鳥養「終始、取調中は手錠をずっとかけられっぱなしにさせられまして……」

 高藤「それは、どこの話ですか。拘置所ですか、検察庁ですか」

 鳥養「検察庁です。検事から手錠をかけたまま立たされた」

 選挙違反レベルの容疑では考えにくい、抑圧的な取り調べである。

 ただでさえ拘置所では人権が軽視されている。当時、一日の食事代は五十数円ほどで、主食は米三・麦七だったという。

 弁護団も「手錠」にポイントを絞った。検察と向き合った弁護側から立ち上がったのは、藤原弁護士である。手錠のまま、廊下に長く放置された点に食い下がった。

 藤原弁護士「廊下の木の椅子にじっと腰掛けたままですね」

 鳥養「そうです。看守が便所にでも立てば、そこへ犬みたいにロープで縛られて……」

 手錠をかけられたうえ、看守の用便の間、犬のように椅子につながれていたのである。

 鳥養「……情けなく、何遍も本当につらく感じました」

 田中裁判長は、じっと耳を傾けている。


◆革命の闘士ガンジーネルーも弾圧された。


 同日、行われた第六十五回公判。

 被告人の山田徹一(当時、岡山支部長)も手錠の件では同様の証言をした。検事は再三、湯飲み茶碗が跳ね上がるほど机を叩き、怒鳴ったことも明らかにされた。

「手錠」「恫喝」―――。検察調書の信用性に関わる証言であった。


▼池田会長が証言台に立つ


 有罪か無罪か。天秤のように揺れる法の審判が一方に傾き始める公判がある。

「それでは開廷します」

 田中裁判長が宣言した。第七十回公判(同年七月十二日)。

 天井で三枚羽根の扇風機が回り、夏の暑熱をやわらげている。窓から吹き寄せる川風が時折、ボンボン船のエンジン音を運んでくる。

 証言台に、池田会長自らが立った。

「検察官から尋問をどうぞ」

 高藤検事が片手にメモとおぼしき紙片を持ち、立ちあがった。

「あなたは創価学会に入信されたのは、昭和二十二年八月ごろのことですか」

「そうです」

 淡々と創価学会の概要から尋問が始まった。

 この日の法廷では、検察調書四通が、いかに事実を無視する形に誘導されたか明らかになっていく。

 ――池田室長が逮捕されたのは、昭和三十二年七月三日。

 その身柄は別表のように七月八日、大阪拘置所に移監された。起訴・有罪へ結び付けようとする検事との熾烈な攻防は一〇日間に及んだ。

 検察チームは、主任の八木源弥を筆頭に田部井淳、猪川利夫、柿本宏、野村幾太郎、渡部義彦の計六人である。

 室長を取り調べたのは猪川、野村の両検事。なんとしても自分たちの意に沿った供述を得ようとしていたことは、次の三点からも窺える。

 ?検察官は、通常一人で取り調べを行うが、少なくとも三日間以上、二人の検事で行った。?手錠をかけたまま外を移動させた。?夕食も食べさせないまま深夜まで調べを続けることもあった。

 以下は、当時の資料、記録、証言に基づく取り調べの再現内容である。


▼検察側の陰謀


【七月十日(水)】

 この日午前の取り調べでも、池田室長はいささかも妥協しない。

 八木主任検事は一計を講じていた。それは、大滝弁護士を室長に接見させ、自白を説得させることである。その場に猪川、田部井の両検事も同道させた。

 拘置所内の検事調室。大滝弁護士から次のような言葉が出た。

「検事のいうことに符号した自供をしないと、検察は、大蔵商事(戸田会長が経営した会社)、創価学会本部に手入れするといっている。さらに、戸田会長、白木薫次(室長の岳父)、牛田寛(青年部長)も逮捕するといっている」



     《池田室長の15日間》

【7月3日(水)】

空路、大阪へ。出発前、羽田空港で「お前が死んだら、俺もお前の上にうつぶして死ぬ」と戸田会長。19時、大阪府警本部へ出頭。買収容疑2件と戸別訪問容疑1件で逮捕・勾留。

【7月4日(木)〜7日(日)】

大阪府警、東警察署で取り調べ。大阪地検から勾留状が発行される。雨模様の蒸し暑い日が続く。

【7月8日(月)】

大阪拘置所に移送。検事調室で取り調べ。夕食抜きで22時過ぎまで続く。最高気温32・3度。

【7月9日(火)】

検事調室で取り調べ。手錠をかけたまま拘置所の本館と別館の間を往復。

【7月10日(水)】

弁護士と検事調室で面会。約50分。検察側の意向のまま自白するように説得される。22時、激しい雷雨。

【7月11日(木)】

関西本部に、買収事件の首謀者。池田室長に罪をなすりつける供述をしたと告白する。

【7月12日(金)】

検察の陰謀を察した弁護士と面会。興奮していて要領を得ない。東京の蔵前国技館不当逮捕を糾弾する「東京大会」。

【7月13日(土)】

第1回の検察調書を取られる。最高気温30・7度。

【7月14日(日)】

日曜日だが、23時近くまで取り調べ。検事は、山田・鳥養と戸別訪問を謀議した架空の供述を誘導。最高気温31・2度。

【7月15日(月)】

第2回の検察調書。14時に最高気温31・7度。真夏日が続く。最大湿度も連日95%前後。

【7月16日(火)】

第3回・4回の検察調書。山田・鳥養との面会も果たされない。虚偽の供述をひるがえすが、検事から電話で説得。23時過ぎ、暗夜に稲妻。

【7月17日(水)】

未明に豪雨、落雷。午前中に買収容疑は無関係の調書。正午過ぎ、釈放される。夕刻、中之島の中央公会堂で「大阪大会」。「信心しきった者は、最後は勝つ」と室長。上空に激しい稲光。



 夏の暑い日で、調室の窓を開け放した廊下に、二人の検事が立っていた。

 弁護士が、あえなく折れた背景には、買収容疑で逮捕された中村某らが、すでに池田室長の関与を認める供述をしていたからである。

 遂に室長は自らを犠牲にしても、学会と戸田会長を守る道を選んだ。

【七月十二日(金)】

 拘置所で室長と対面した大滝弁護士の様子がおかしい。金網越しに、何ごとか早口にまくし立てている。

 お国訛りの山形弁で「戦闘開始だ!」と口走っていたことが後にわかった。

 なぜ興奮していたのか。弁護士に検察との妥協を選択させた中村某の「供述書」――これが、でたらめだったのである。地検は中村に「池田との関与を吐け。池田は絶対に逮捕はしない」と約束して、ウソの供述書を取った。

 しかし地検は中村との約束を反故にして、その供述をもとに室長を逮捕した。怒った中村が学会側弁護士に真相を告げたことで?検察による陰謀″が発覚したのである。

 猛り狂うように大滝弁護士が戦闘開始と叫んだが、それは後の祭りだった。

【七月十三日(土)】

 十日の弁護士の説得に従った室長の供述から、最初の検察調書が作成された。室長が「一人五票」と会合で呼びかけた――そのことが、戸別訪問教唆に当たる旨を認める調書となっていた。

【七月十四日(日)】

 十三日の調書を見ながら、検事が卑劣な言葉を吐いた。

「これだけでは公判でひっくり返される」

 つまり「一人五票」だけでは弱い。もっと具体的な教唆の事実でないと、裁判ではひっくり返されるおそれがあるというのだ。

 そこで検事が考えついたのは、すでに釈放されていた山田徹一と鳥養国夫である。

 この二人に、池田室長から戸別訪問を指示された旨の供述をさせる。さらに室長からも、山田、鳥養に指示したという調書を取ろうと企んだのである。

 この内容は全くの「架空そのもの」である。室長は強い抵抗を示した。そのため検事らは、十六日の朝、山田、鳥養両人に会わせることを約束。その上で一気に?決め手″となる調書を完成させる段取りを狙った。

【七月十六日(火)】

 山田、鳥養との面談は実現しなかった。再三、約束を反故にされてきた池田室長は野村検事に怒りの声をあげた。

「それでは今までの調書を全部撤回します。これまでのものは、全部

?作文″です。撤回します」

 野村検事は、真っ青になった。

 上司の八木主任検事にすぐに内線電話で報告すると、八木検事は、池田室長を電話口に呼び出し、次のように再度説得した。

「何でもいいから認めておけばいいんだ。お前のほうからシナリオを壊してはいけない。(約束どおり)これ以上、捜査を拡大しないようにしてあるんだ。宗教家として、仏の心として、全部の責任をもて。俺を信じろ。検事のいうとおり、何でもいいから書いておけ」

 捜査を拡大しない。戸田会長、学会本部は無事である。その約束を信じて室長は供述し、署名した。

【七月十七日(水)】

 釈放の日である。

 午前中、八木検事の部屋に行き、礼儀正しくあいさつした。

 しかし八木検事は、なぜか怒りをあらわにした形相で、まるでけんか腰である。あげくの果て、看守に指示した。

「おっぽり出せ!」

 室長がいる八木検事室に入ってきたのが山田、鳥養である。二人とも検察のシナリオ通りの調書を取られた。

 山田は心配でたまらず、池田室長に尋ねている。

「先生、これでよいのでしょうか」

「いいんだよ。戦いはこれからなんだよ」。八木が見ている目の前で言い切った。

 正午すぎ、室長は拘置所を出た。 ――関係者の証言等から再現すると、拘置所での出来事は、おおよそ、このようになる。


▼「検察捜査そのもの」が裁かれた


 池田会長が出廷した第七十回公判から審理は一変した。

 最大の争点である、検察調書の疑念――。

 いかなる取り調べから検察調書は生まれたのか。だれが、どんな取り調べをしたのか。

 ここから、大阪事件の法廷に、際だった特異性が現れてくる。

 要するに「検察捜査そのもの」が裁かれていったのである。弁護団の法廷戦術も、この一点に集約されていく。

 八木源弥。田部井淳。猪川利夫。柿本宏。野村幾太郎。渡部義彦。

 取り調べに関わった検察官は全員、証言台に立たされた(野村、渡部は東京で実施)。裁判長、弁護士、そして公判検事から質問を浴びたのである。

 手錠をかけたか。

 大声を張り上げたか。

 遅くまで取り調べたか。

 供述を誘導したか。

 虚偽の調書を作ったか。

 当然のことでもあるが、彼らはことごとく否認している。

 こんな場面があった。

 第七十六回公判(昭和三十六年九月二十二日)。証人として出廷した八木検事に対し、大滝弁護士が尋問している。

 池田室長に自白させるため、自分を接見させた前後のことを尋ねた。

 大滝「(あなたは)自供せしめるように協力してくれということを(私に)話をしたことがありますか」

 八木「そういうことはないですね」

 大滝「ない?」

 八木「はい」

 素っ気なく言い放った。

 接見の事実も「あったかもしれません」とだけ平然と答えた。

 この態度を見て、田中裁判長が色をなした。

 裁判長は、大滝らが検事調室に池田室長を呼びだした時間の記録を示した。

「そのことについて(大滝弁護士から)質問されているんですからね」と裁判長。

 それでも八木は「どういう目的で会うことになったか私には記憶がないんです」とシラを切った。

 また、この公判では、池田会長が直接、八木検事に尋問している。

 室長が自供すれば、学会本部の手入れや幹部の逮捕はないと約束した件について。

 八木「記憶はないんですよ」

 ニセ調書の撤回を申し出たときに、内線電話で説得してきた件について。

 八木「私はそういう言葉を使ったのかどうか記憶ありませんよ」

 逃げの一手である。

 どちらが検事で、どちらが被告かわからない。

 八木は口に手を当て、ぼそぼそとしゃべるので、裁判長が「もっと、はっきり答えてください」と注意する場面もあった。


◆「勝負は裁判だ。裁判長は必ずわかる」

▼検察調書は「却下」


 拘置所の看守も次々に呼ばれ「取り調べ中も手錠を外さなかった」という複数の証言があった。

 一方の検事たちは、口をそろえて「手錠は外した」という。

 これほど検察側の言い分と公判供述が食い違う審理も珍しい。

 真実は、ひとつである。そして、どう裁判官が判断するかである。

 大阪の裁判所には、東京とは違った自由な気風が維持されていた。個性的な名物裁判官も手腕を発揮していた。「戦後の大阪の裁判所が裁判官の独立を尊重する、きわめてリベラルな空気の漂う場所だったことは多くの裁判官・元裁判官が証言するところである」(『裁判官のかたち』毛利甚八

 大阪事件当時、戸田会長は池田室長に語っている。

「勝負は裁判だ。裁判長は必ずわかるはずだ。裁判長に真実をわかってもらえば、それでいいじゃないか」

 まさに、その通りの展開となったのである。裁判は、いよいよ大詰めを迎えた。

 第八十回公判(同年十一月一日)。

 裁判所は、重大な決断を下した。

 検察が池田会長を起訴した?唯一の根拠″であった四通の調書すべての採用を「却下」したのである。

 取り調べが常軌を逸脱したものと認め、そこで取られた供述調書に証拠能力はないものとした。

 検察の目論みは雪崩をうって崩れた。


大阪地検は控訴を断念


 第八十一回公判(同年十一月十五日)。検察側の論告求刑である。この期に及んでも検察側は厳しい求刑を突きつけてきた。

 池田会長に禁固十カ月。鳥養に禁固八カ月、山田に禁固六カ月などである。戸別訪問による量刑は略式起訴(公判を行わないで刑を下すこと)による罰金刑が通常で、禁固の求刑自体が異常だった。

 第八十三回公判(同年十二月十六日)。池田会長は最終陳述で四点にしぼって証言した。

 第一に、学会が選挙運動を行うことは憲法に保障された国民の権利であること。第二に戸別訪問の違法性について、他国では認めている国もあるほど可変的なものであること。第三に大阪の土地柄を悪用し、大阪の検事が極めて横暴な態度であったこと。第四に、恩師・戸田会長から、裁判長にわかってもらえばいい、との励ましを受けた事実などを簡潔に述べた。

 特に裁判長を大きくうなずかせたのは、戸別訪問の違法性について各方面で議論されている点であった。議会制民主主義の先進国・イギリスでは戸別訪問が選挙運動の主流であり、草の根のデモクラシーを育んできた一面がある。

 判決の日(昭和三十七年一月二十五日)―――。

 田中裁判長から池田会長の無罪が宣告された。

 検事席。公判を担当した高藤検察官は、判決を下した裁判長に丁寧に頭を下げた。その後、池田会長のもとに駆け寄り「このような結果になるのではないかと思っていた」と述べている。

 異例のことであろう。冤罪のでっち上げに焦った取調検事と、実際の法廷で処理する公判担当検事とでは、後者のほうが、よほど冷静に事件が見える。

 この日、大阪地検の公判部長は「当然控訴することになるだろう」と新聞にコメントしたが、結局は断念した。

 関西の会員が無罪判決にわきたったことはいうまでもない。

「池田先生は絶対に無実や!」―――室長の大阪拘置所からの釈放をうけて、あの雨の大阪大会で叫んだ願いが現実となったからである。


▼雨の大阪大会



 北西の空から翳ってきた。

 暗幕を張ったような空から、大きな雨粒が土佐堀川の水面を激しく叩いた。

 稲光が空を切り裂き、頭上で雷鳴が破裂する。

「どえらい雨や。こりゃ、帰られへん」

 大阪・北浜の証券街で一日の勤めを終えた証券マンが窓の外を見た。ビルの裏を流れる土佐堀川の向こう岸に視線が止まった。

 同僚を窓際に呼んだ。

 対岸にある中之島の公会堂前で、雨に打たれた群衆が立ちつくしているではないか。

 その数は、数千人にも見える。傘のない人が大半である。?いったい、何が起きたんや″

 無罪判決からさかのぼること四年半――昭和三十二年七月十七日。午後六時十分ごろ雷が鳴り出し、やがて激しい雷雨が襲った。

 池田青年室長(当時)の不当な逮捕に抗議する大阪大会が、中之島の中央公会堂で始まっていた。

 木下文子は、夫とともに二人の子を連れて午後三時に来たが、すでに場内から人があふれていた。

 公会堂に向かって左、土佐堀川に面した川べりに並んだ。背中に一歳の娘。左手に四歳の息子。

 帰るわけにいかない。この日正午すぎに大阪拘置所を出た池田室長が、大阪大会に出席する。後方にみるみる列が伸びていく。

 場外に取り付けられたスピーカー。開会直後からの雨で用をなさない。

 雷鳴。大地を打つ雨音。土佐堀川で豪雨が蹴ねる水音。

 場内の様子も聞こえないのに、だれ一人、立ち去らない。頭から新聞紙をかぶったり、子どもの耳に水が入らないよう頭をタオルで巻いたりしている。

 スピーカーから、ひときわ高い大拍手。明朗な青年の声。内容はまったく分からないが、場内の興奮が最高潮に達したことは間違いない。

 木下はピンときた。

?池田先生や。元気やったんや″

 雨粒と一緒に、涙が頬を伝った横顔を不思議そうに見上げる息子。

「お母ちゃん、どうしたん?」

「ううん、大丈夫よ」。強く手を握り返した。

 川べりでずぶ濡れの人も、場内の会員と同じく室長の出獄に感極まっていた。

 公会堂の中は過熱気味である。ふくらみきった風船のように、会員の感情は爆発寸前だった。

 無理もない。高く長い大阪拘置所の壁をぐるぐる回り、室長を返せ、と声にならない声をぶつけてきた人ばかりである。

 戸田会長も東京から関西本部に電話をかけ、送話口で怒鳴った。

「早く大作を牢から出せ!」

「まだ出ないのか!」

 一〇分に一度、頻繁にかかってくる日もあった。すさまじい剣幕におののき、だれも電話に出たがらない。

 ついに大阪に乗り込んできた戸田会長は直接、大阪地検に釈放を求めている。

 世間も注目していた。公会堂の二階正面には、記者席。十数人の記者が陣取り、場内では報道関係者がシャッター音を響かせていた。

 制服の警官はいないが、私服の刑事とおぼしき男が目を光らせていた。

 ぐらぐらと沸騰点を超えたような場内で、もっとも冷静なのは戸田会長だった。

 登壇する直前の池田室長に、ひそかに告げている。

「いいか、調子に乗って話すんじゃない。きょうは敵を攻撃するような発言は控えなさい」

 甚深の配慮から生まれた忠告だった。

 東京大会(七月十二日)に続く大阪大会である。室長の釈放をもって、やむにやまれぬ民衆の抗議は一定の成果を得たと言っていい。

 図に乗って挑発しては、かえって反対勢力の結束が高まる。マスコミの目も忘れてはならない。

 戸田会長の助言には、絶妙のバランス感覚があった。

 民衆の敵とは徹底的に戦うが、民衆からの犠牲は出さない――これが将の中の将である戸田会長の采配だった。

 池田会長は今も「これが師匠だよ。これが本当の指導者だ。権力との戦いを甘く考えては絶対にならない」と回想する。

 戸田会長は事件の奥底にある深淵を鋭敏に感じ取っていたのかも知れない。大阪事件の背後には、戦前からの宗教・思想弾圧の黒い霧が色濃く立ちこめていたのである。


▼思想検事の系譜


 その男は、遠く蔵王の山並みを望む墓に眠っている。

 山形市内にある寺の一角。

 墓碑には、山口弘三と刻まれている。創価学会牧口常三郎初代会長を取り調べた主任検事である。

 戦前、特高警察が検挙した思想犯を取り調べ、起訴する検察官は「思想検事」と呼ばれた。

 山口は戦前の思想検事の中で?四天王の一人″に数えられるエリートだった。

 大型スパイ事件として知られるゾルゲ事件に関わったほか、主に宗教事件を担当した。

 創価学会への弾圧当時、牧口会長は山口を逆に折伏し、取り調べは遅々として進まなかった。

 戸田理事長(当時)も一括の事件として取り扱われたので、主任検事は同じ山口であったと思われる。

 牧口会長は昭和十八年十一月二十日に山口に起訴され、予審(戦前特有の裁判制度)に送られた。獄中で他界したのは、その一年後である。

 戦後、思想検事の多くはGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって公職追放された。山口も検事の座を追われ、郷里の山形県へ。弁護士として、その余生を送った。

      *

 思想検事歴の短い者は追放を免れ、戦後の検察界に二つの流れが生じていく。

 一方は戦前の中心だった思想検事の生き残り組である。片や戦後に台頭した経済検事(脱税などの経済事件の摘発に従事)である。

 この両派は、激しい勢力争いの火花を散らしていく。

 思想検事閥の領袖となったのが、岸本義広である。

 戦前は血盟団事件などの右翼対策に従事した。戦時中、東京地検の次席検事(昭和十九年八月)、検事正(二十年三月)になっている。

?帝都東京″の治安対策をしながら、創価教育学会弾圧事件の公判の進行状況について、報告を受けるべき立場にあった。


▼仇を討った無罪判決


 岸本に代表される思想検事閥が、戦後の検察界で何をしたか。以下の三点を特筆したい。

 第一に、公職選挙法の整備である。この法律の基礎をつくった人物こそ岸本本人である。


◆事件の背後に、思想弾圧の黒い霧。


 第二に、公安取り締まりの強化である。昭和二十六年、最高検察庁次長検事の座にあった岸本は、その後、旧知の間柄の藤井五一郎公安調査庁長官と治安対策にあたった。

 学会が地方選挙に初めて打って出た昭和三十年。藤井は「創価学会破壊活動防止法で取り締まらなければならない」と発言している。

 この?藤井発言″も、岸本らの発想を強く反映してのものである。

 池田室長は、この発言を掲載した新聞社に乗り込み、訂正記事を掲載させている。

 第三に、すさまじい派閥抗争と報復人事である。昭和三十年に法務事務次官になった岸本は人事権を掌中にした。主要ポストを自らの配下の人間にすげ替え、経済検事閥を追いやった。

 その岸本派の竹原精太郎が大阪地検検事正の時代に「大阪事件」は起きたのである。当然、ボスの岸本と直接、間接に連絡を取り合う関係にあったと考えられる。

 思想検事の系譜からたどるならば、戦前の学会弾圧と大阪事件は決して別々のものではない。

 昭和三十一年に初めて国政選挙に打って出た創価学会

 治安当局は、日本共産党と同様、学会を戸別訪問容疑などで全国的に取り締まったが、国連加盟で恩赦。

 その矢先にあった大阪地方区の参議院補欠選挙である。「今度こそ」と検察当局が色めき立ったことは想像に難くない。

 大阪事件の法廷で池田会長が対峙していたのは、目の前の検察官だけではない。その背後には、戦前から昭和の時代を貫く闇が広がっていた。

 池田会長の無罪判決は、狂気の思想弾圧で獄死した牧口会長、同じく獄に繋がれた戸田会長の仇を討つものでもあったのである。


▼領袖の失墜


 検事たちのその後である。

 思想検事閥の領袖だった岸本義広は、検察ナンバー2の東京高検検事長に就任。ライバルの馬場一派と検事総長の椅子を激しく争ったが、敗れてしまう。

「岸本は遂に総長になることを諦めて、自民党から立候補することを決心した。彼の肚は、代議士となってやがては法務大臣を狙い、上から馬場系統を叩きつける念願にあったのかもしれない」(『現代官僚論』松本清張

 昭和三十五年十一月に行われた総選挙で岸本は旧大阪五区から出馬した。岸和田市などを含む現在の泉南地域である。

 札束の飛び交う汚い選挙だった。

「岸本は在職中の行き掛かりから派閥の仲間に呼びかけて乱暴な選挙運動を強行し、彼につながる検事たちは当選―大臣―『わが世の春』を夢見て選挙運動を活発に声援した」(『汚れた法衣』澤田東洋男)

 岸本は最下位当選を果たしたが、選挙違反に問われた。

 「かつての部下の取り調べを受け、十八人に四百三十二万円をばらまいた、という買収容疑」(『不当逮捕本田靖春)だった。

 池田室長を手錠姿のまま外を歩かせた猪川利夫検事からも取り調べを受けている。

 起訴された日は、三十六年七月十七日。奇しくも室長が大阪事件で身柄を解放された日から、ちょうど四年後である。

「現行の選挙違反取締方針の基本の実質的な起草者は、他ならぬ最高検次長検事時代の岸本である」(同)

 仏法の「還著於本人」という言葉が思い起こされてならない。

 次の総選挙に再出馬したが、落選した。三十九年三月に一審判決。執行猶予つきながら禁固一年三カ月の有罪だった。

 岸本は控訴審のさなかの四十年九月、静養先の山梨県の温泉地で、心臓麻痺により失意のうちに生涯を終えている。享年六十八。

 刑事被告人のため、死去にあたっての叙位、叙勲の沙汰はない。


▼検事たちのその後


 戦時中、数馬伊三郎という予審判事(裁判所で検察官の役割をした人)がいた。牧口会長、戸田理事長を取り調べ、多くの会員を脱会させた。

 牧口会長の死去後、彼は、戸田理事長を取り調べていたが、極度の神経衰弱に陥り、裁判官の廃業を余儀なくされたという。

「大阪事件」のきっかけとなった買収関係の担当は、田部井淳検事である。学会員の取り調べにあたったことを長く気に病んでいた。

 神戸地検などを経て、東京の法務省本省に栄転となった。東京高検在任中に、咳き込むことが増え、背中や胸に痛みが走った。前途を嘱望されていた矢先、肺がんで急逝。五十歳の若さだった。

 池田室長から虚偽の供述調書三通を作成したのは野村幾太郎検事である。彼は東京に転勤して、最高検検事になった。妙に疲れやすく、病院に行ったのは働き盛りのころである。肝不全から昏睡状態になり、息を引き取った。五十七歳。

 高圧的な態度で室長を取り調べたのが、猪川利夫検事である。大阪地検特捜部長、福岡地検検事正などを歴任したが、弁護士業に転じてからは、短かった。余生を楽しむこともなく他界。六十四歳。

 柿本宏検事、渡部義彦検事もすでに鬼籍に入っている。

 学会側で裁判対策の中心者であった北条浩(当時、副理事長)をして「特に悪いのは八木と猪川」といわしめた一人が、八木源弥主任検事である。

 理由は不明だが、神戸地検の総務部長を最後に、五十歳の若さで検察官を退任した。畑違いの職に左遷され、早々と検察界での出世を諦めたからとも言われる。

 その後、大阪弁護士会に弁護士登録し、事務所を開業した。

 すでに九十近い高齢。当時の検察関係者における唯一の生存者である。

 現在「八木源弥弁護士事務所」には、鍵がかかったままである。ビルの管理者に聞いても、訪れる人はいない。法曹関係者の間でも音信が途絶えている。

 そればかりか、近隣とも関係を絶っている。

 家人は「入院しています」とだけ告げて、逃げるように姿を消した。固く閉ざされた門が開くことはなかった。


▼「ワシの目に狂いはない」


 大阪事件を審理した田中勇雄裁判長は退官後、弁護士、調停委員として働いた。

 すでに他界しているが、同事件や池田会長に、どのような印象を抱いていたのか。複数の法曹関係者から聞くことができた。

 まず、池田会長の人物像。

「ワシ(田中)の目から見たら、池田会長は他の人と違う。輝いている。この人は将来、ものすごく偉くなる人。まあ、見ててみい。ワシの目に狂いはない」

 もちろん裁判官に最も問われるのは「公平性」である。私情をはさんではならない。この点について元判事の意見。

「池田会長の経歴は全部、検事が調べています。判事たちも当然、記録を公平に読んだはずです。そのうえで田中さんは、池田会長という人の?人間″を見たのではないでしょうか」

 次に、事件当時の社会状況。

 街頭では、学生と労働者が赤旗を振り回していた。暴力団の抗争も激しい。裁判所には案件が山積みされ、公判は荒れに荒れた。

「?裁判官が何や。裁判所がなんぼのもんじゃい″という時代です。特に労働者と学生は、暴力団よりも態度が悪かった」

 だからこそ、学会員の姿が際立った。田中裁判長は懐かしそうに振り返ったという。

 「学会の皆さんは、礼儀正しいですな。驚きました。名前を順番に呼んだら、自分たちで整理して、どんどん席に座る。あんなの初めての経験や」

 さらに、無罪判決について。

 田中裁判長の信念は、裁判とは法の解釈をもてあそぶのではなく「決断こそ大事」。次の点が判決の決め手だった。

「(検察の指摘する)池田さんが指示したという日より以前に、戸別訪問の動きがあった。池田さんが会合で話すよりも前なんです。これでは、あかんじゃないか。それで検事の調書がいっぺんに崩れた」

 いかにも簡単そうに聞こえるが、無罪判決には大きな決断を要したはずである。田中裁判長の法曹界の友人が語ってくれた。

 「あの時分、検事が起訴したら、まず有罪です。検事だって命懸けですから。よほど池田さんという方に特別な輝きがあったのでしょう。田中さんみたいな経験のある方が裁判長をやった。その裁判長に潔白を感じさせる人格の力があった。そういうことだと思います」

 田中裁判長は退官後、こんな言葉を漏らしている。

 「偉そうなことを言うようですけど、ものすごく池田会長が立派になられ、いつも驚いています。時間があれば、お会いしたい。あの時は裁判長という立場で話したが、今、個人対個人の次元で会うと、まったく声も出ないほど、話ができないんではないかな……」

 その目に、狂いはなかった。