充たされざる者(カズオ・イシグロ著 ハヤカワepi文庫 2007)

「あなたは明らかに、誰かがとても忙しく、厳しいスケジュールで仕事をしていて、何時間もこの町でうろうろしている暇はないかもしれないなどと、考えもしない。実際、言わせていただくなら、この壁はまさにこの町の象徴だ。あちらにもこちらにも、まったくもってばかげた障害物ばかり」(Ⅲ−26 p685)

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

充たされざる者 (ハヤカワepi文庫)

※以下の内容には『充たされざる者』のネタばれが含まれます※
この本のことを考えるときに、まず念頭に置かなければならないのは、非常に長い本であるということ。文庫版でだいたい950ページくらいだった。あぁ・・終わりのクロニクル用のブックカバーとか売ってたなぁとか、そんなことを。こういう本ってなんで分冊しないのかわたしにはよく分からんのです。
内容は、「BOOK」データベースの内容がだいたいそのままずばりなんでそっくりそのまま引用しときますと

世界的ピアニストのライダーは、あるヨーロッパの町に降り立った。「木曜の夕べ」という催しで演奏する予定のようだが、日程や演目さえ彼には定かでない。ただ、演奏会は町の「危機」を乗り越えるための最後の望みのようで、一部市民の期待は限りなく高い。ライダーはそれとなく詳細を探るが、奇妙な相談をもちかける市民たちが次々と邪魔に入り…。実験的手法を駆使し、悪夢のような不条理を紡ぐブッカー賞作家の問題作。

さらに細かい個人メモ的なおさらいをしてみます。この作品の整理には登場人物ごとにさらうのが一番得策かと思われたんでそれでいきます。
ライダー:<初日>ホテルに着く ゾフィーとボリスに会いに 道に迷ってシュテファンに連れられる ホテルで映
       画に ブロツキー主賓の晩餐会(ここでブロツキーの犬が死ぬ) シュテファンの演奏を聴く
    <2日目>ボリスと9番を探しに・・・ 記者がサトラ―館前で写真撮影 クリストフの会合 ボリスと9番を
       探しに フィオナと、トルデを訪問 ゾフィー・ボリスとカーヴィンスキー・ギャラリーへ 家でパー 
       ティー
    <3日目>ミス・コリンズを訪ね 演奏曲を練習(ブロツキーの犬への追悼にも)+葬式に参列 ハンガリ
       ン・カフェでグスタフたちと過ごす→仮眠 (ここからⅣ) 迷ってミス・ホフマンと会う 「木曜の夕べ」
       会場 グスタフが倒れる ゾフィー迎えの道中にブロツキーがケガをしているところを見る 本番シュ
       テファンの成功とブロツキーを見る 混乱 ミス・シュトラットマンと会う 電車で朝食を [了]
グスタフ:娘ゾフィーとのぎこちない関係を気にしている ポーターを誇りに思い、アピールする
ゾフィー:ボリスの母、そしてライダーとは夫婦だと思われる 二人との生活が上手くいっていないと気にしている
ホフマン:ホテルの支配人「木曜の夕べ」企画者 芸術センスがないことを妻に結婚当初から負い目を感じている
シュテファン:ホフマンの息子 芸術センスについて両親の期待を一身に背負う 「木曜の夕べ」本番では成功する
ブロツキー:本当は力がある指揮者 ミス・コリンズとの離婚からアル中になり一転町の厄介ものに「木曜の夕
      べ」では返り咲く心構えでいる。そしてミス・コリンズとの復縁をねらう
ざっとこんなもんかな 
この本はまさに悪夢のように不安になったり苛立ったりするのだけれど、これらは感覚的には糸がもつれ合ってる時の苛立ちに似ている。ライダーを中心として、右も左も思い思いの策略や期待、ビジョン、そして憎悪をライダーや周囲に向けて交差させてゆく。こうやってダマが大きくなってますます身動きは取れず、ライダー自身も一寸先の予定さえ展望できない、そんな悪循環が気味悪く表現されている。
この苛立ちをさらに加速させている要因は、登場人物の要領を得ない喋りかけだろう。「ええとですねライダー様・・・実は相談したいことがございまして・・・えぇ分かっています、忙しい身でいらっしゃるだろうから無理にとは言わないんですがね・・・はは!(←ホフマンの常套句)つまりですね、率直に申し上げましてこの件に関しましてはあなたに十分なご理解をいただく必要があると感じております、さよう・・・」というようなかんじで・・・
今すぐに出発しなければ、今度こそ上手くやらねば、というときにいきなり新しい人が舞い込んできてこのような話をいつまでもいつまでも続けるというかんじで。
ただしライダーにも話をこじらす原因が無いわけではなく、お人よしなのかこんな話を親身に考えてしまうし、こらえ性がないのか上手くいきかけては変なタイミングでそれまで我慢してきた怒りを爆発させてしまう。ディスコミュニケーションもたいがいにしてほしいわ、ほんと。ただ、シュテファンやミス・コリンズなんかは割とまともに話ができていたような印象があって、よく考えるとみんな、一部を除けば何もわざわざおかしなことをしようという風ではないんだよなぁと。みんな話が合わないのはお互いにイライラしてるからかもな。読者もイライラしてるわけですからね、救いようがないんだけど。これ原作だとどんな喋りになってんだろ・・・
翻訳者さんがあとがきで、会話シーンは苦労したと言っていたけど、まあ、そうだろうな。素晴らしいと思いましたよ、「実験的手法」という但し書きさえあればね。
結局「木曜の夕べ」は大失敗に終わるんだけれど、その原因がいまいちよくわからない。直接的にはブロツキーが演奏しきれなかったのが悪いんだろうけど、何かこう、悪を特定できない、そしておそらく全員に原因があるタイプの崩壊だったのだろう。そしてこの物語で唯一の成功者シュテファンの、舞台での大成功の後がまた良くて、ついにピアノに触れなかったライダーに対して、次のヘルシンキがあるじゃないか!と、完全に立場が逆転してる。
そしてこの話のなかで一番気に入った部分は、この名前も分からない町にある不思議なヴェールをまとったような不思議さなのです。まず、なぜかライダーは予定がわからない。町に入ったとたんに記憶が分離されてしまったかのような浮遊感。さらになぜか大勢の昔馴染みに会ったり、父親の車があったりする、そしてぐるぐると市中を引き回されたにもかかわらず、偶然にも次の目的地が近かったり、さっきいた場所に戻っていたりする。時空の距離的な問題になんらクリアーな解決法を示してくれないために、時空に関する三半規管をぐるぐるぐるとかき乱されて酔ってしまったような状態の中、読者はこのヴェールの中をうんざりする会話と共に進んでゆかねばならない。
木曜の夕べ当日にも、ライダーは仮眠をとるのだけれど、目が覚めると、思っていたよりずっと時間が経っていない。こういった状況にすべてが収れんしているように思うんだけど、実際現実でも寝てて目が覚めた時って、これと同じような体験をしているように思う。起きた瞬間の無我というか、むしろ期待と不安が一つになったような状況がね。だけどあの普段なら気分の悪い、メランコリーのような状態でいつまでもいたいような時があるのが不思議なんだけれど。
<追記>同日
終わり方について何も言及してなかったので一言
遂に両親も現れず、演奏もできなかったライダーは(ココが最大の関心事)合理化をすることにしたようだ。
わたしはあたりの光景を見回して、この町で持ちかけられるさまざまな求めに対処する自分の能力をあれこれ心配してきたことがいかに無意味だったか、実感した。これまでと同様に、私の経験と直観をもってすれば、十二分にやっていけることが分かったのだ。もちろん、わたしはこの夜にある種の失望を感じてはいたが、それでも改めて考えると、そんなふうに思うのは間違いだと納得できた。結局、町がよそ者に指図されずに何らかのかたちで平穏さを取り戻すことができるなら、それにこしたことはないのだ。(Ⅳ p919)
そしてそれでも落ち込むライダーをなぐさめてくれるのは電車の中で会った電気技師である。これがまた格言めいた良いことを言うので、ある意味この退屈で冗長な物語が寓話化して現実性が氷解することで物語が終わったということもできるかもしれない。
「なあ。いつも最悪に思えるのは、それが起きているときさ。だが過ぎ去ってみれば、何であれ思っていたほど悪くはないものだ。元気を出しなさい」(Ⅳ p934)