ソメイヨシノの親探し1 染井吉野のことはソメイヨシノに訊く

2000年代 世の中は本格的な分子生物学の時代を迎えて、今まで行き詰っていたソメイヨシノの親探しも新たなステージに突入したようです。

多摩森林科学園
多摩森林科学園勝木俊雄さんが染井吉野の遺伝子(SSR部分で)を比較分析したところ、エドヒガン47%、オオシマザクラ37%、ヤマザクラ11%、不明5%という結果が出たそうです。
この結果から勝木さんは、ソメイヨシノの片方の親はエドヒガン、もう片方の親はオオシマザクラヤマザクラが交雑したものではないかと推測しています。オオシマザクラヤマザクラの交雑種は人里でよく見られるので、人里での偶発的な自然交配と考えるのが一番無理が無いと考えているようですが、人為的な交配で作り出された可能性も否定してはいません。
これは、今まで推測されていた「伊豆半島での自然交雑説」と「染井の植木職人の作出説」の後者を少しだけ客観的に後押しする成果だと思います。
※2015年時点での分析結果なので、サンプル数の増加などで結論が変わる可能性は残っています。DNAの解析結果では、母親はエドヒガン、父親がオオシマザクラ系?のようです。

千葉大学
2009年、千葉大学の中村郁郎さんが上野公園のコマツオトメを遺伝子解析したところ、ソメイヨシノと共通する遺伝子を確認したことで、コマツオトメがソメイヨシノの親であると発表しました。
この説は、メディア報道等でかなり広まり、ソメイヨシノコマツオトメ(エドヒガン系の栽培(園芸)品種)とオオシマザクラの交配種との記述を現在も良く見かけます。
発表の詳細内容は、コマツオトメのようなエドヒガン系栽培品種を母種、オオシマザクラを父種として交配されたです。
この時、コマツオトメと言うエドヒガン系栽培品種がメジャーに出回っていた印象を受けましたが、実際はコマツオトメは上野公園に1本の原木があるだけです。(他の場所にも若い木があるようですが、増殖経緯は未確認)

2008年、千葉大の安藤敏夫さんらが両者の葉緑体遺伝子の塩基配列が異なることから、コマツオトメがソメイヨシノの親ではなく、片親が共通の兄弟の関係であるとの新たな結果を得ています。
そして2015年、中村郁郎さんが自家不和合性遺伝子に注目して解析した結果、コマツオトメの周辺に植えられているエドヒガン系の桜がソメイヨシノの兄弟であると発表しています。

この結果から中村さんが出した結論は、桜の成長状況を見るために交配者が実生から育てたこれらの兄弟の原木をコマツオトメトと共に周辺に植えたのではないかと。当然その中には、ソメイヨシノの原木も含まれていて、植栽位置から管理番号136番のソメイヨシノが原木の可能性が高いと。
さらに踏み込んで、今回の遺伝子解析で得られた「交配育種の証拠」から明治時代の分筆・園芸家の前田曙山が記した、「江戸中期の染井の植木職人が作出した」との伝聞 (曙山園芸 1911) を挙げて、交配者は、伊藤伊兵衛政武 (1667〜1757) である可能性が高いとの推測で締めくくっている。

凄い成果だと興奮しましたが、注意事項に以下の記述がありました。

本研究で解析した上野恩賜公園ソメイヨシノの樹齢は,樹木医の一般的な推測によると
100 年程度だそうです。しかし、実際の樹齢は、切って年輪を数えないと分かりませんし、ソメイヨシノの原木の生長を観察した人もおりません。明治時代に入ってから、上野公園でソメイヨシノの選抜育種が行われたとすると、確実に記録に残っていると思います。また、戊辰戦争の際は,鐘楼堂の周りは焼け残ったとの証言もあります。そのため、ソメイヨシノが育種されたのは,少なくとも今から約150 年前の明治維新 (1867 年) より以前であったと考えられます。

コマツオトメを含め、周辺にある兄弟桜の樹齢が150年以上である事が説の前提となります。
現在時点で、植栽の記録が残っている長寿のソメイヨシノは、弘前明治15年に植えられた樹齢134年と小石川植物園明治8年に植えられた樹齢140年です。

上記の伊藤伊兵衛政武(1757年没)が亡くなって、2016年で259年です。政武が晩年に自ら実生を育てたとすると原木の樹齢はさらに上がって若くても259年になってしまいます。

ここから考えることが出来るのは、大雑把に以下の内容です。

  1. 上野公園にある原木候補のソメイヨシノを含め兄弟は、樹齢259年以上である。
  2. 上野公園にある原木候補のソメイヨシノを含め兄弟は、実生から選抜された園芸品種の子孫を明治初期辺りに植えたものである。
  3. 上野公園にある原木候補のソメイヨシノを含め兄弟は、伊藤伊兵衛政武とは異なる人物が交配し、明治初期辺りに植えたものである。
  4. 上野公園にある原木候補のソメイヨシノを含め兄弟は、実生から選抜された園芸品種の接ぎ木子孫を明治後期に植えたものである。

1.については、兄弟桜の幹を全て観察して見ましたが、小石川植物園の推定樹齢140年と比較しても樹齢250年は正直厳しい印象です*1。これは将来的に木が枯れた時に年輪を調べれば決着が着きますが可能性は、イメージとして1パーセント。
2.と3.についても、1.と同様で樹齢150年もちょっと厳しい印象です。可能性は、イメージとして30パーセント。
4.樹木医の一般的な推測(樹齢100年ぐらい)と一致させた内容で、兄弟桜を全て観察した印象とも一致しています。可能性は、イメージとして60パーセント。

明治8年に「園丁の内山富次郎らが染井村から苗木を担いで運んで植えた」という記録がある小石川植物園の樹齢140年以上と思われるソメイヨシノ

*1 樹齢は、個体差や生育環境の違いが大きいので幹の太さや見た目では正確な判断は出来ないとは思いますが・・・

4.はソメイヨシノと異なる兄弟園芸品種を誰かが明治後期まで維持管理していた事になります。
これはこれでしっくり来ないのですが、上野公園の植栽に係わっていた園芸業者で出生を知っている人物がこだわりを持って維持していたのでしょうか。

千葉大学の結果は、遺伝子解析による客観的な事実に留めて、以降の推測は文献調査等に優れた別の人にバトンタッチした方がより真実に近づく印象を持ちました。

また、他の文献では、1858年に寛永寺御用達「桜香園の河島権兵衛」が上野寛永寺に咲きかけたソメイヨシノを植えた。なんて言うのもあるようです。花の様子については、「ヤマザクラとは異なり、芽吹きより先に花が開き、枝ごとに段々と群れ咲いた。また、ヒガンザクラに似ているが、花びらはやや大きく、淡いピンクの一重咲きであった」とあります。
「この新種のサクラは、たちまち江戸に知れわたり、人気となった。最初に植えられた上野寛永寺ソメイヨシノは、十年後の慶応四年五月、彰義隊とともに消えてしまった」ともあります。
これも焼け残った説と焼けた説がありますね。両者とも説の出所が未確認ではありますが・・
※河島権兵衛はソメイヨシノの交配者候補にも名前が上がっている人物です。

明治10年前後からソメイヨシノを植栽した文献が見当たるようになるので、この時期に供給出来る状態になっていたことは間違いないようです。最も古い植栽の記録としては、1844年〜1854年に墨田堤に吉野桜を植えた文献*もあるようです。
(*東京市役所編纂「東京市史稿 遊園編」墨田川叢誌の墨田の桜にのみに記載あり。向島のことを記した他の文献には植えた記述は見当たらない。はっきりしている植栽は明治16年です)

伊藤伊兵衛政武、または他の植木職人が育種選抜したものが一世紀後の明治初めに大量生産され始めたのか?(江戸中期作出説)
それとも江戸末期に何処かの植木職人が育種選抜したものが明治初めに大量生産され始めたのか?(江戸後期作出説)
多分、このどちらかだと思うのですが、真実はどっちなんでしょう!?

年表

2016 (平成28) 現在
1980 (昭和55) 36 年前
1960 (昭和35) 56 年前
1945 (昭和20) 71 年前 太平洋戦争終戦
1940 (昭和15) 76 年前
1920 (大正9) 96 年前
1914 (大正3) 102年前 小石川の染井吉野の写真
1901 (明治34) 115年前 松村任三による学名登録
1900 (明治33) 116年前 ソメイヨシノ命名*1
1882 (明治15) 134年前 弘前最古のソメイヨシノ
1881 (明治14) 135年前 新宿御苑での植樹記録
1880 (明治13) 136年前 飛鳥山での植樹記録
1875 (明治8) 141年前 小石川植物園での植樹記録
1868 (明治1) 148年前 上野戦争(戊辰戦争)
1860 (安政7) 156年前 ロバートフォーチュンの来日
1844 (天保15) 172年前 吉野櫻最古?の植栽記録
1840 (天保11) 176年前
1820 (文政3) 196年前 伊藤伊兵衛衰退
1800 (寛政12 216年前
1780 (安永9) 236年前
1760 (宝暦10) 256年前
1757 (宝暦07) 259年前 伊藤伊兵衛(政武)没
1740 (元文5) 276年前
1730 (享保15) 286年前 岩崎文雄の発生説
1720 (享保5) 296年前
1700 (元禄13) 316年前
1680 (延宝8) 336年前
1676 (延宝4) 340年前 伊藤伊兵衛(政武)生誕
1660 (万治3) 356年前
1640 (寛永17) 376年前
1620 (元和6) 396年前
1600 (慶長5) 416年前

*1 植物研究家の藤野奇命が明治23年に初記載、明治33年に日本園芸会雑誌に掲載

追記:「上野が、すき」のウェブページの「Special Talk 第3回 上野の桜を守る人々」には、

この上野のソメイヨシノをつくったのは、駒込の染井村にあった「伊藤伊兵衛」という植木屋だといわれています。「伊兵衛」というのは、染井の植木屋が代々襲名した名ですが、東京農工大学の相場芳憲先生の話によると、ソメイヨシノができた当時というのは、すでに染井の植木屋が衰退していたというんですね。おそらく、ソメイヨシノの生みの親とされている「伊藤伊兵衛」もつぶれていて、「伊兵衛」の看板も売られてしまったと。その後、染井は伊兵衛が栽培に成功したツツジで有名になるのですが、元の植木屋が衰退した後にできた、このツツジ屋が、伊藤伊兵衛の名前を語ってソメイヨシノをつくったのではないかということでした。

の記述がありましたが、上記のとおり明治一桁台から植栽の記録が残っているので遅くても明治の直前にはソメイヨシノが誕生していないと後の記録と合致しないと思われます。この時期にあたる1860年に染井村の様子を書き残している英国人のロバート・フォーチュンの記録からは村全体が衰退している感じはありません。
ただし、1818年に狂歌の太田蜀山人が「伊藤伊兵衛の子孫は衰えて植木も少なし」の記録を残しています。相場芳憲先生は、ソメイヨシノの作出年代を1820年1830年頃に想定しているのでしょうか。

補足
ソメイヨシノの作出者で引用されているオリジナルの文献は、以下の物と思われます。
曙山園芸(前田曙山)
「傳へ聞く所によれば、徳川氏の中世に、染井に一老槖駄があった。極めて種樹の術に妙を得て居る、木に竹を接ぐ位の巧妙手腕があったかも知れない。此男が永年の丹精を凝してひとへ櫻の新種を造り出したのが、今の上野向島に在る吉野櫻である。天性怜悧なる彼は、此櫻を造り出すと共に繁殖につとめて、数年ならずして数萬本を圃に植え出すやうになった」
船津静作のノート
「傳へ言所によると大島櫻を母として作り出したとうふが其技術者は都下染井の戸花伊藤某なる者」 船津静作は1858年生まれで巣鴨の植木商で高木孫右衛門と深い交流を持っていた。

ソメイヨシノの作出者として、伊藤伊兵衛と河島権兵衛の名前が上がっていますが、作出者不明が正確なところです。
伝承も元々推測が混ざっている印象です。情報として、著名な伊藤伊兵衛の存在があり。「あの人なら素養が十分なので交配した可能性があるだろう」との方向に推測が自然と進んで行ってしまったのではないでしょうか?
河島権兵衛については、寛永寺御用達「桜香園」としてソメイヨシノを販売していた記録があるようなので、これも「自分で作出した新品種を売っていたのだろう」との方向に推測が自然と進んで行ったのではないでしょうか?

平塚晶人さんの本にも書いてありますが、「ソメイヨシノの起源の研究は、古くて新しいテーマであり、明治の末以来100年にわたって語り尽くされ、材料も出尽くした感がある。今後、交配者が残した日記でも発見されない限り、完全な決着を見ることはないだろう。そして、そういうことはおそらくないと思われる」なのでしょう。
ソメイヨシノの原木がいつどこでどうやって生まれたかについては、ソメイヨシノを売り出した染井の植木商が誰よりも良く知っているはずなので、その聞き取りから始まっている。調査した三好学たちが染井に行った明治の末には、当初から売り出しにかかわった古老たちはすでに没していて、答えられるものは誰もいなかった。たかだか40〜50年前のことが分からないとはおかしなことだが、当時の研究者たちは案外あっさりと矛を収めている」
この時の淡白さが、ここまでこじれてしまった最大の原因のようです。

参考文献:
千葉大学 学会発表論文
NHK サイエンスzero ソメイヨシノの起源に迫る
日本のサクラが死んでゆく 平塚晶人
桜 有岡利幸
曙山園芸 前田曙山
園遊舎主人のブログ 「江戸のサクラとお花見  その3」
ウェブページ「上野が、すき」 「Special Talk 第3回 上野の桜を守る人々」
ウェブページ「としま未来文化財団」おもしろ豊島区史 連載第3回 「植木の駒込」を代表、伊藤伊兵衛

おまけ
祐天桜 樹齢250年から300年と言われる品川区清岸寺の桜
元からの幹は朽ちかけているが、勢いのあるひこばえが出て花を咲かせています。
大木の形を保って広々と枝を広げている姿ではありません。
枯れ死が心配され、住友林業さんが組織培養に成功して増殖した若木が側に植えられています。