東亰堂備忘録(とうけいどう びぼうろく)

本日から、「東亰堂備忘録(とうけいどうびぼうろく)」をはじめてみました。


日々の購入した古書や気になった情報などを掲載するブログとして使っていく予定です。
主な更新は週イチくらいになれば…自分を褒めてもいいんじゃないかな、と。

主な興味の対象は写真・視覚資料、現代から幕末明治までを行ったり来たりしています。
デジタルからダゲレオタイプまで(時にはYouTubeから絵画まで)。


はてな」のサービスに馴れるために、当面はデザインやサービスの変更などいろいろ試してみたいと思いますので、まずは暫定オープン。
うまく使いこなせたら、実名に変えるかもしれません。

あと、「はてな」ご利用の方はご存じの通り、画面の端に出ている各種の情報内容は、ブログ主の管理するところではありませんので(たぶん)、ご理解ください。

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さて、「東亰」というのは、はてなダイアリーのキーワードにも載っています。

「東京のこと。明治初期のことば。」

かつての江戸東京博物館館長、小木新造さん(故人)が日本放送出版協会から1980年に出版された『東亰時代』(2006年に講談社で文庫化、以下頁数は文庫のもの)でその説明をされています。
それによると、東京という言葉は「慶応四年七月の詔書によってはじめて誕生した東西二京論に立脚する新造語」(pp.35-36)であり、それに「とうきょう」という音をあてる場合もあれば、「とうけい」と読むこともあったこと、さらに「東亰」という文字も使われ、明治初年から「とうけい(または「とうきょう」)」という使われ方をしていたこともあったと記されています。

小木さんはこれを単に言葉の異同の問題とせず、「本書が東亰の文字を選択し、「とうけい」と読ませ、明治初期ないし明治前期を主題として『東亰時代』とするには、それなりの理由がなければならない」(p.36)として、その「理由」を以下のように示します。少し長くなりますが、引用します。

「(前略)東京の都市構造や住民意識をみてくると、これまでのように、天下の総城下町、江戸から、一挙に近代一国の首都東京へ移行したとみる通説は一考を要するであろう。先にみたように、江戸以来の焼家の建設はいっこうに改まらず、近代消防制度も未完成、いったい首都の都市機構はどのように近代化されたのであろうか。(中略)こうしてみると、封建都市江戸の延長線上にあって江戸でなく、近代としてありながら病める東京ではない、それらと区別してかからねばならない姿が浮かび上がってくるのである。
 私はこの明治初年から明治二十二(一八八九)年前後までの東京を「東亰時代」と名付けたいのである。(中略)
 「東亰時代」の下限を明治二十二年前後としたのは、その時期が人口構成や住民意識のうえで大きな変化がみられること、江戸文化への研究がはじまった年とが奇しくも重なることによるのである。(中略)明治二十二年には野口勝一・山下重民らによって『風俗画報』が発刊され、また「江戸会」が発足した。(中略)そのことは同時に、東京の変貌が著しく、いまにして江戸文化の研究・保存を考えなければという焦燥感が出はじめたことを裏書しているのである。(後略)」(pp.244-246)


東京が「東亰」と呼ばれることもあったこの独特の時空間に標題をいただき、つらつらと見知ったことを書き綴りたいと思います。


ところで、東京大学総合図書館には、

The Calendar of the Imperial College of Engineering (Kobu−dai−gakko), Tokio.
For 1884-5. 1885-6.

という資料が保管されています。工部大学校の時間割や規則などを記した英文の大学要覧で、このカレンダーの表紙・標題紙における「東京」の英文表記は、1883年度まではTokei、1884、85年度がTokioになっています。
http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai97/conder.html

1883年度ということは、明治16年度。「とうけい」の音は確かにこの時代、お雇い外国人たちの間にも息づいていたようですね。



東亰時代―江戸と東京の間で― (講談社学術文庫)

東亰時代―江戸と東京の間で― (講談社学術文庫)