芸術写真の時代―塩谷定好展(8/20-10/23)

実に記事としては7年ぶりの投稿で、この間実にいろいろなことがありました。
私の情報発信はすっかりtwitterに移行してしまい、研究的な情報交換も他のSNSなどで行うことが多くなりました。
twitterと統合するかどうするかは、まだしばらく考え続けたいと思います。

7年前の記事の書籍の発行元である中島(中嶋)謙吉といえば、数多くの写真家を自らの持つ媒体を通じて世に出した人物として知られています。
高山正隆、山本牧彦などは比較的よく知られていますが、同じく芸術写真の時代を象徴する写真家である塩谷定好は、これまであまり展覧会などが催されなかったことから、広く一般に知られてきたとは言いがたいものがあります。

それがこのたび、「芸術写真の時代 塩谷定好展」として2016年8月20日から10月23日まで、東京の三鷹市美術ギャラリーで本格的な回顧展が開かれることとなりました。
http://mitaka.jpn.org/ticket/160820g/

開催初日の8月20日14時からはは塩谷定好写真記念館の塩谷晋館長によるギャラリートークも行われるとのことです(要申込)。
ぜひお近くにお越しの際は、皆様足をお運びください。

【参考】
塩谷定好写真記念館(鳥取県琴平町)公式サイト
http://teiko.jp/

『営業肖像写真入門』(1934)


肖像写真家にして著名な芸術写真家、成田隆吉執筆の営業写真館における肖像写真撮影法『営業肖像写真入門』。
ネット経由で5000円ほどで購入。


『営業肖像写真入門』
1934(昭和9)年6月15日発行、1円80銭
著 者 成田隆吉
発行者 中島謙吉(東京市板橋区板橋町3丁目287)
印刷者 萩原芳雄(東京市牛込区山吹町198)
発行所 光大社 (東京市板橋区板橋町3丁目287番地)


著名な芸術写真家であり、『芸術写真研究』(1922(大正11)年5月〜1940(昭和15)年(中断あり)、アルス→光大社)の編集を担当した中島謙吉(1888(明治21)〜1972(昭和47))が1928(昭和3)年に立ち上げた光大社は、アマチュアから職業人まで幅広い対象に向けて最新の写真技術を紹介する書籍を発行しました。真継不二夫(1903(明治36)〜1984(昭和59))、高山正隆(1895(明治28)〜1981(昭和56))ら、当代屈指の写真家が光大社から写真関連の書籍を刊行しています。
成田隆吉(1895(明治28)〜?)もその一人で、本書序文によれば「営業を志す者の為の指針といふ目的で書かれた書物は乍遺憾一つも見当らない」ことから中島謙吉の提案で二年がかりで本書は執筆されました。


本書の特徴は、何と言っても豊富に掲載された口絵写真に書き込まれた各写真のライティング図(採光図)にあります。
図にはカメラと被写体の位置関係、窓の位置、照明の位置と各照明の明るさが示されており、当時成田が新宿と京橋のスタジオで使用していたマツダ写真電球250〜500ワットのものがその使用個数とともに記載されています。成田の優れた肖像写真がどのようにして撮影されたのかがわかる貴重な記録と言えます。


このほか、本書では採光と現像、修整に多くのページが割かれていますが、特に修整については入念な記述がなされており、当時のスタジオで施された写真修整技術がどのようなものであったのか、その詳細を知ることができます。


著者の成田隆吉は1895年に茨城県水戸市で生まれ、その後中学まで秋田で暮らしました。1910年頃からベス単カメラを使って撮影を行うようになり、東京美術学校に入学後、1914(大正3)年に同校の臨時写真科に移籍しました。卒業後は小川一眞の写真館で修行、さらに東京美術学校臨時写真科の講師や時事新報社の写真係などを経て1924(大正13)年11月に自らのスタジオ「日の出屋写真部」(新宿角筈)をオープンし、翌年には芸術写真団体「洋々社」(中山岩太らが所属)の結成に加わりました。
本書の冒頭に「中島氏と私が識り合になつたのは七八年前だから…」とあるので、「洋々社」で活動を始めてほどなくして二人は知り合いになったのでしょう。出会いの契機は「或る雑誌に掲げる一文を私に所望された事」と記されています。


成田について惜しまれるのは、彼の戦後の活動が没年も含めて不明なことです。
どなたか情報をお持ちでしたら、ぜひお寄せください。


また、光大社については、1991(平成3)年にJCIIで作品展「光大五人展の軌跡」が開催されています。1928年に写真書籍専門出版社として出発した同社を源流とする光大派のあゆみを知ることができます。
http://www.jcii-cameramuseum.jp/museumshop/salon_books/windows/salon-books/L0000/L0005.html
後継の桐畑会(1936(昭和11)年設立)は現在も活動を続けているようですが、機関誌『光大』も健在なのでしょうか?
http://www.jcii-cameramuseum.jp/museumshop/salon_books/windows/salon-books/L0020/L0024.html


なお、この記事を書いている過程で発見したのですが、
以下のサイトはとても貴重な戦前の書物についての記録ですね。

奥付検印紙日録
http://d.hatena.ne.jp/spin-edition/


【参考リンク】
■日本カメラ博物館(JCII) http://www.jcii-cameramuseum.jp/

『旅の写真撮影案内』 (1937)


戦前の「芸術写真」を代表する人物、福原信三が著した旅行エッセー『旅の写真撮影案内』。
古書店で1,000円ほどで入手。


 『旅の写真撮影案内』
   1937(昭和12)年7月10日発行、70銭
   著作者  福原信三
   発行人  星野辰男
   印刷人  島連太郎
   発行所  東京朝日新聞発行所(東京市麹町区有楽町2丁目3番地)
   印刷所  三秀舎      (東京市神田区美土代町16番地)


1926(大正15)年に『アサヒカメラ』を創刊した東京朝日新聞社から発行された「アサヒカメラ叢書」シリーズは吉川速男(1890(明治23)〜1959(昭和34)年)や森芳太郎(1890(明治23)〜1947(昭和22)年)、金丸重嶺(1900(明治33)〜1977(昭和52)年)ら戦前・戦後に活躍した写真界の著名人を著者として発行されました。
1933(昭和8)年から発行された「アサヒカメラ叢書」は、菊半截版サイズのいわゆる「文庫本サイズ」で統一され、同年発行の「朝日文庫」とともにこの時期の朝日新聞社を代表する小型書籍と言えます。
「アサヒカメラ叢書」は19冊の発行が確認されていますが、本書はその19冊目にあたります。


発行人の星野辰男(1892(明治25)〜1968(昭和43)年)は長野県の出身で、「ルパン全集」の翻訳出版でも知られています。星野は文部省を退職後に東京朝日新聞社に入社、『アサヒグラフ』『アサヒカメラ』双方に創刊時から深く関わり、1927(昭和2)年から『アサヒカメラ』の編集長を務めました(翌年からは松野志気雄が編集長)。

印刷所の三秀舎は1900(明治33)年創業の現在まで続く印刷業者で、『白樺』などの印刷を行った企業でもあります。創業百有余年、現在でも神田で営業を続けています。
印刷人となっている島連太郎は三秀舎の創業者であり、1936(昭和11)年に福井県越前市花筐(はながたみ)の今立町に島会館という建物を寄贈した人物です。

島会館は現在取り壊し案が出ているようですが、何とか保存・活用できないものでしょうか。

島会館の写真と今後の活用募集についてはこちら↓

http://www.city.echizen.lg.jp/mpsdata/web/5789/20615j.pdf
(花筐自治振興会だより第26号(2008年6月15日))
【PDFファイルがダウンロードされます】


本書は福原信三(1883(明治16)〜1948(昭和23)年:2008.5.4の記事も参照)が既に写真界・実業界において名をなした後の54歳の時に著したもので、資生堂の社長在任中(1928〜1940)に書かれています。
同年には写真集『布哇(ハワイ)風景』を日本写真会から発行しています。
しかし本書は一般向けに書かれたため、さすがに当時の日本人にとって遠い地である海外には触れず、国内の景勝地を巡って折々の風景を綴っています。

序文には、

「…便利なる交通機関を利用してのことであるから、結局輪郭描写となり且便宜上名勝地のみを選びたりとはいへ、…」

とあるように、当時ほぼ全国に整備されていた鉄道網を活用して「美を探」る旅をしてきたことが記されています。
武蔵野から始まって外房、大島、東海道、富士箱根、伊豆と徐々に南下する福原の旅は、九州に至り、また山陰や北陸、北海道にも及びます。
福原の独特の描写を生かした各地の写真が口絵にしか見られないことは残念ですが、武蔵野の旅はやがて『武蔵野風物』(1943、靖文社)に結実したのではないでしょうか。

ちなみに、撮影技術論は本書ではほとんど見られません。旅行先のどこで写真を撮るか、どこに目を向けたか、ということが本書の眼目のようです。


【参考リンク】

■三秀舎 http://www.kksanshusha.co.jp/

越前市 http://www.city.echizen.lg.jp/index.jsp

『近世写真術』 (1903)


東都写真会から発行された写真術学習書『近世写真術』。
表紙がかなり汚れているので内表紙を掲載。
古書市で3,000円ほどで入手。


 『近世写真術』
   1903(明治36)年5月31日発行、1円
   著作者  金澤 巌
   著作者  加藤精一
   発行者  大木良輔    (東京市日本橋区米澤町1丁目7番地)
   印刷者  多田栄次    (東京市神田区小川町1番地)
   印刷所  合資会社愛善社 (東京市神田区小川町1番地)
   発行所  東都写真会出版部(東京日本橋区米澤町1丁目7番地)


発売所として神保町の東京堂書店が挙げられているほか、特約所として大阪・名古屋の業者が並び、さらに丸善や便利堂など各地の有名店が売捌書肆として掲載されています。おそらく本書は小西本店(後、小西六、現在のコニカミノルタ)のネットワークを通じて全国で販売されたのではないでしょうか。

東都写真会の所在地も小西本店(日本橋区本町2丁目)と目と鼻の先ですし、著者の加藤精一は小西本店と深いつながりのある人物なので、本書には小西本店の名前は出ていませんが、可能性はありそうです。
ただし、本書発行者の大木良輔は大木写真器械部を経営しているため(巻末に広告が掲載されています)、東都写真会と小西本店の関係を理解するには注意が必要かもしれません。
巻末には東都写真会の会則が掲載されているのも注目です。


加藤精一(1882(明治15)〜1950(昭和25)年)は、関東における芸術写真運動の中心的役割を担った人物のひとり。埼玉から14歳で上京した際にカメラを購入したのがきっかけで写真の道に進んだと言われていますが、本書はそれから約七年後、21歳のときに出版されたものです。東京高商(現在の一橋大学)在学中の頃のことでしょうか。
卒業後は小西本店に入社し、『写真月報』(1894(明治27)年創刊)の編集に従事します。


「今日の写真は単に物体の形象を捉写するの技術に非ず、完全なる一の芸術として見るべきものなり、而も今日に至る迄、写真を説明するに芸術の意味を加へたるものは殆んどあらず、加之従来の写真術書は唯機械的に其技術を教へて、写真に関する智識を与ふるものに至ては一も之れ無し、」(p.1)


と断言するように、前編(本書全体の10%程度)では金澤巌が写真術についての総論を、後編では加藤がレンズと絞り、現像、印画法など撮影から印画までの一連のプロセスを解説しています。
実際には技術解説に終始しており、「芸術写真」とは何か、というよりも、こうすれば「芸術写真」が作れる、という「芸術写真技術解説書」の趣です。


この本が出版された翌年、加藤は秋山轍輔らとともに「ゆふつヾ社」を結成、「芸術写真」を明確に志向するようになります。ゆふつヾ社を基礎として1907(明治40)年には東京写真研究会が結成され、1910年以降展覧会「研展」がほぼ毎年開催されるようになりました。ピグメント印画をはじめとした「芸術写真」に欠かせない技法が、この団体を中心に発信されていくことになります。「芸術写真」運動は、小西六の営業販売戦略という側面も無視して語ることはできません。
ちなみに、加藤自身も、1907年の東京勧業博覧会にゴム印画を出展して一等賞金牌を受賞しています。

1915(大正4)年、30代になった加藤は東京美術学校の臨時写真科で教鞭を執り、その後も小西写真専門学校を設立、教授・理事長を務めるなど、写真の教育において大きな足跡を残しました。


なお、もうひとりの著者の金澤巌は、本書では「薬学得業士」と記されており、幻灯に関する著作などを残していますが、写真史上は生没年も不明の謎の人物です。
また、印刷所となっている愛善社は、明治期の同名の出版社がありますが、これも詳しいことはよくわかりません。


ところで、小西六写真工業株式会社の有名な社史『写真とともに百年』(1973)では、ゆふつヾ社は東京写真研究会に「発展的に解消」(同書 p.199)されたことになっていますが、以下のようなケースもあったようです。


秋元家の人々 10代目三左衛門 秋元良尚
http://www.tohkatsu.or.jp/user/kosyou/akimoto/yosimasa/akimoto_yosimasa.htm


これによれば、明治34年頃に写真撮影をしていた流山の秋元良尚は、八木村芝崎(現在の流山市芝崎)の吉野誠と写真を通じて懇ろになり、さらに同好の志を集め、八木村の「木」と、流山町の「山」をとって「木山会」という写真の会を結成したそうです。写真は自盛堂の石版で絵葉書に仕上げられ、流山の土産物としたとされたとか。
この「木山会」は「東都写真会」に加入、東京の写真展にも出品していたようで、こうした人々もいずれは東京写真研究会に「発展的に解消」されていったのでしょうか。


【参考リンク】
コニカミノルタ(写真事業は他社に譲渡) http://konicaminolta.jp/

『最新印画法全書』 (1923)

上田写真機店から発行された「写真術自修教科書」シリーズの一冊『最新印画法全書』。
古書市で2,000円ほどで入手。


 『最新印画法全書』
   1923(大正12)年5月25日発行(第4版)、2円
   編輯兼発行者 上田銀蔵     (大阪府泉北郡濱寺町船尾720番地)
   印刷人    荒川松之助    (大阪市東区南本町2丁目38番地)
   印刷所    上田写真機店印刷部
   発売所    上田写真機店   (大阪市南区安堂寺橋通4丁目)
          上田写真機店支店 (朝鮮京城南大門通3丁目)


桑田商会と並ぶ戦前の大阪写真界の雄、上田写真機店から数多く出版された写真術講習書籍のひとつ。
上田写真機店は写真材料商として写真術の普及に尽力し、この種の書籍を書き下ろすだけでなく、本書のような翻訳物を多数出版し、同時代の写真術の日本国内への導入者としての役割を果たしました。
「写真術自修教科書」シリーズはこのほかに、『写真原板修正術全書』『写真原板現像法全書』『戸外写真術全書』『室内写真術全書』などが発行されていたようです。
奥付には「売捌所全国各地写真材料店」とあることから、全国の写真材料商の店先で売られていたことが推測されるほか、発売所に上田写真機店の京城支店が挙げられていることから、いわゆる「外地」でも販売されていたことがわかります。


写真の中表紙に「亜米利加美術写真学校自修教科書」とあるように、本書はアメリカ合衆国のPennsylvaniaにあったスクラントン美術学校(Scranton, American School of Art and Photography)で使用されていたテキストを翻訳して出版したものです。
全33章構成で、第一章「印画法の原理」から始まって、前半は印画紙に関する種類別の概要、後半は各種印画法の説明が図版入りで掲載されています。
これ一冊で当時の一般的な印画法が理解できるすぐれものですが、それらが当時の写真界でどの程度実践されていたのかは、今となっては不明な部分もあります。

ちなみに、スクラントン美術学校では「実用写真術完全自修文庫」(全8巻)を発行していたらしく、そのうちの第4編を基礎として編輯されたのが本書です。
原著者はJ.B.Schrieverとありますが、著作権・版権が当時きちんとクリアされていたのかどうかはわかりません。
(ブログ「Photo Historyhttp://www.photographyhistory.net/にいくつか彼の書いたものがアップされているほか、スミソニアンに彼の著作がいくつか所蔵されています。)


翻訳を担当した上田竹翁(本名:寅之助、1866(慶応2)〜1941(昭和16)年)は文人であると同時に雑誌『芸術写真』の主幹を務めた人物で、写真術に関する数多くの翻訳書を手がけました。
上田写真機店を創業した上田貞治郎は次兄にあたり、自らも社員としてその経営を助けました。
ウィキペディアにも項目があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E7%94%B0%E7%AB%B9%E7%BF%81

これによると、1887(明治20)年に『新訳和英辞書』(青木嵩山堂)という日本人の手によって作られた最初の本格的な和英辞書を編纂した方でもあるようです。


上田写真機店は若き日の入江泰吉も一時社員として働くなど、関西の写真史(あるいは日本写真史)を語るうえで欠かせない写真材料商ですが、戦後途絶えてしまったのが惜しまれます。


【参考リンク】
■上田貞治郎写真コレクション(大阪市立大学 都市文化研究センター)
  http://ucrc.lit.osaka-cu.ac.jp/photograph/jsp/index1.jsp

『いろは引写真薬局』 (1907)


明治末の写真に関する薬品名や技術を知る上で欠かせない基本文献『いろは引写真薬局』。
某所で3,000円ほどで入手。国立国会図書館にもあります。


 『いろは引写真薬局』
   1907(明治40)年7月18日発行、1円
   著述兼発行者 芦野(蘆野)敬三郎 (東京市芝区三田通町19番地)
   印刷人    田中勝次      (東京市日本橋区本町2丁目11番地)
   発兌所    淺沼商会      (東京市日本橋区本町2丁目16番地)


著者の芦野敬三郎は理学士で、『科学芸術 純正写真術』(博文館、1903/1910)『写真製版術全書』(淺沼商会、1904)という編著書もある人物。
数学関係の書物を多数ものしており、1896(明治29)年には『初等代数学教科書』を内田老鶴圃からやはり編著者として出版しています。

また、東京天文台国立天文台の日食観測隊にも参加していたようです。

1896(明治29)/8/9 北海道
 寺尾寿、国枝元治、水原準三郎、中野徳郎 (観測地:北見枝幸
 菊地大麓、芦野敬三郎、平山信 (観測地:厚岸)
 結果:曇
  http://solarwww.mtk.nao.ac.jp/jp/expeditions.html


「この書には一通りの写真術、写真製版術等にかかはる種々の手続を行ふ時に入用なる薬品(くすり)、材料(しろもの)を残らず書き集め一々その様子と学問上の性質と写真上の効果(ききめ)を示せり」(p.1)

とあるように、イの部「いんどごむ」から始まってスの部「すとろんちうむ塩」まで、その「略説」「効用」「試験」が記載されています。

さらに付録として「処方帳」「和英仏量衡表(写真用)」が掲載されています。
これもなかなか便利。


【参考リンク】

■淺沼商会 http://www.asanuma.gr.jp/

『写真芸術』 (1921)


写真史研究者、特に「芸術写真」の分野に関心のある者にとって価値ある雑誌『写真芸術』の創刊号。
某所で5,000円ほどで入手。


 『写真芸術』(月刊、発行期間:1921.6〜1923.9)
   1921(大正10)年6月1日発行、60銭
   編輯発行兼印刷人 安成三郎   (東京市京橋区南金六町15番地)
   印刷所      博文館印刷所 (東京市小石川区久堅町108番地)
   発行所      東新商店出版部(東京市京橋区南金六町15番地)


福原信三の写真「巴里とセイン其一」や、大田黒元雄の「写真小論」など、この時期のアマチュア写真の世界を語るうえで欠かせない数々の記事が掲載されています。


編集の安成三郎(1889(明治22)〜1957(昭和32)年)は秋田出身の柳田国男(郷土会)門下で、福原信三の個人秘書を長年務めた人物。「福原信三の手」とも言われるほど密接な関係だったようです。
発行所になっている東新(東神)商店は写真材料商であり、ここに置かれた写真芸術社(1921〜1926年)が発行の中心となりました。本誌巻末にも広告が掲載されています。
(写真芸術社については、松濤美術館学芸員の光田由里さんが書かれた『写真、「芸術」との界面に』(青弓社、2006)などが面白いです)


安成三郎については、東京・青山にあるギャラリー「ときの忘れもの」の綿貫不二夫さんのホームページに掲載されているエッセイ、「安成三兄弟」(1995.3)に詳しいです。
http://www.tokinowasuremono.com/essayg/yasunari.html

このエッセイにも記されているように、秋田・大館の郷土史家である伊多波英夫さんが安成三郎について詳細な調査を行っており、40年にわたる研究の成果を大著にまとめられています。

伊多波英夫『安成貞雄を祖先とす〜ドキュメント・安成家の兄妹』無明舎出版、2005、3,780円。
(ISBN 4-89544-406-6)
http://www.mumyosha.co.jp/docs/05new/yasunari.html


また、興味深い資料として、以下のサイトには安成三郎の名刺が掲載されています。
書き込みの通りなら、1955(昭和30)年当時のもの。
http://kikoubon.com/yasusabumei.html
晩年、彼は「結城素明芸文家史蹟研究所」を名乗っていたのでしょうか。


【参考リンク】

資生堂 http://www.shiseido.co.jp/
■福原信三・路草写真展(資生堂
     http://www.shiseido.co.jp/s9704sin/html/
■神保町系オタオタ日記
     http://d.hatena.ne.jp/jyunku/20060411