筒井清忠の『昭和期日本の構造』(講談社学術文庫/1996)よりピックアップ:


東条英機中佐(当時)も参加した木曜会(1928年3月1日)で、「将来戦争」について有力な原因を根本博少佐が報告しています:

「草は原始地では同一種類のものが繁茂し他種の草の介在を許さない。その草が衰えかけると隣の草が漸次侵蝕してくる。民族の将来もまたこの草のようなものとなるのであろう」。


「結言、我が日本の人口問題解決地は東部シベリアなるべし」。


討論に入り、深山少佐が口火をきった。


「シベリアは寒冷だ。満州を取ったらどうだ」


根本が答える。


「満蒙は取る。その上にシベリアを必要とするのだ」


東条の下書きをもとにした木曜会の戦争方針が「判決」としてまとめられた。


「判決。帝国自存の為満蒙に完全なる政治的権力を確立するを要す。・・・」

(by pick-up)この会合の3年後、満州事変を起こしました。日本の過去の戦争を正当化しようという人々が、アジアの植民地解放のための戦争だとか自存自衛のための戦争だったなどと主張することがあるが、そんなものでないというのは思想でも、中国人などに対する残虐行為でも明らかです。東條英機の言う自存とは妄想的人口論による侵略の言いかえに過ぎないのです。


1928年12月6日の木曜会で、坂西少佐は「満蒙把持というのは領土的野心を暴露し、一面不利を生じる。だから、内外に宣明して恥じることのないモットー・標語を定める必要があると信じる」と発言している。また、上司を戦争に同調させるためにも標語が必要だと考えた。こうして作られた宣伝標語を、今でも信じこんでいるのか、侵略でないと主張している人がいます。



毎日新聞(2003年12月27日)のコラムよりピックアップ:

ジャーナリストの岩見隆夫は、戦前から戦後にかけて政治家であった河野一郎の1932年の選挙で書かれた政見を紹介しています。この選挙は満州事変から5ヵ月後のことです。


河野政見はこう書く。

<満蒙問題解決が不徹底に終われば、我が国はついに支那大陸からの撤退を意味する。これはとりも直さず、我が国が明治維新以前の小島帝国に退転することになる>それでは年々80万人増加する6000万人の国民の生活は保持できない、

と。



(by pick-up)人口問題を動機とした侵略論は軍部だけではなかったのです。


http://ffeck.tsuchigumo.com/altruism.html