空蝉

白雨の候
滴れば虚ろに消ゆる蝉時雨  ぞうりむし
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そろそろ夏が終わる。
今年の夏は、地域に限らずどこでも、にわか雨に祟られていたような印象がある。突然降り出す雨、それと同じくらい不意に已(や)む雨。ちなみにこうした雨のことを驟雨(しゅうう)というが、変わりやすく、それゆえに読みにくい空模様は、夏よりもむしろ秋に喩えられる。「女心と秋の空」とは、誰もが知る慣用だが、古くは「男心と秋の空」だった。男が女に振り回されるか、それとも女が男に振り回されるか、そうした恋模様を如実に映しているようで面白い。
今年は、驟雨の気配が去るとともに夏が去っていくようで、夏が秋を先取りしていたかのような感じがする。雨がやめば蝉時雨が降り注ぐ。雨が降れば蝉時雨は已む。だが、夏が終われば、雨が已んでも蝉時雨はもう戻ってはこない。
空蝉(うつせみ)というのは、俳句の季語としては蝉の抜け殻を表すが、『源氏物語』などを読んでいるとそこでは空蝉は抜け殻というよりも蝉を表しているようだ。いずれにせよ、そこに空しさや儚さの俤(おもかげ)が立つ。しかし、さらに時期を遡れば、そこにはまた異なる意味があったようだ。

《 もともと「うつせみ」は蝉とは関係のない言葉で、音を借りただけなのである。大野晋説によれば、「うつしおみ」から「うつそみ」となり、「うつせみ」に転じた。この世の人の姿をして、目に見える存在ということで、目に見えない神に対する、この世の人の意で用いられ、また枕詞となって、「世」「人」「命」にかかる。人間の命のはかなさ、人間存在の空しさということが、仏教の無常観の滲透とともに、この語のニュアンスとして付け加わって来た。 》(山本健吉『日本大歳時記』)

とある。
今年、私は空蝉に去って行った夏の俤を見ている。これは、二十余年生きてきて初めて観た幻像であった。

ぞうりむし
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写真一口説明

セミの抜け殻を見ていたら、セミの見ている景色を知りたくなった。
そんなに大きくない木にくっついていたのだが、こう見ると木のスケール感に圧倒される。

すきっぱら