無心

秋の日を見上げる布袋天に哭く ぞうりむし

この写真の布袋を見たとき、言いようのない感覚を覚えた。現代では、布袋といえば陽気な笑顔を湛える恰幅のよい老人のイメージを思い浮かべるであろうが、この布袋は、そのようなイメージとはいささか趣が異なっている。おそらくは笑っているのであろうが、そうでないと言えばそうでない。表情があるようでない。実に捉え難い表情をしている。しかも、よく知られているような老人ではなく、この布袋にはどこか若い俤(おもかげ)がある。実物を見れば、また違った感想を持つかもしれないが、少なくともこの写真の布袋について言えば、表情も年齢も全てがよくわからない。
これに句をつけようとしたとき、私は久しぶりに動揺を誘われた。小賢しい細工なぞは全てこの布袋に退けられてしまうような気がした。そこから、句とはなんだろう、詩とはなんだろうというところまでつい考えてしまい、筆が進まなかった。そうした中途半端さを許さない厳しさが、この布袋にはある。
勿論、いちおうそれなりの工夫は一通り頭の中で試してみた。歳時記には、布袋の名を冠した季語がいくつかある。夏、水辺に薄紫の花を咲かせる布袋葵(布袋草)が、おそらくは最もよく知られたもので、それ以外にも、春の布袋草、即ちラン科の熊谷草、あるいは冬菜の一種である布袋菜というものもある。春、夏、冬には、それぞれ布袋の名を冠した植物がある。ならば、秋の布袋草にあたるものをこの際探して、それを句に仕立ててみようと。しかし、このような工夫の末生まれたものが、写真の布袋の雰囲気に釣り合うものとも思えず、結局は構想半ばで投げ出してしまった。他にも、色無き風という秋の季語を、この布袋の表情の無さと釣り合わせようと試みたりもした。だが最終的に、私は布袋のこの捉え難さそのものと改めて向き合わざるを得なくなった。そうして一切の工夫を諦めたところに句が生まれた。だが、これは布袋の姿をそのままに写した写生句ではない。

ぞうりむし

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写真一口説明:

愛知県常滑市、陶彫のある散歩道。第二弾。
一見何の変哲も無い道沿いに、ひょっこりと置かれている陶彫たち。
「笑ウ角ニハ福キタル」

上を向いて、嬉しそうに笑っている布袋さん。
大きく開けられた口は、大笑しているようにも見える。
しかし、じっと見続けていると、ぽっかりとあけられた口から、魂のようなものが飛び出してきそうな感じも受ける。
薄めの灰色一色で作られたこの布袋さんには、ただの陶彫とは思えないほどの生々しさがにじみ出ている。
もしかしたら、本当に魂が宿っているのではないか。

そんな少し不気味な布袋さんが、白壁をバックにして据えられていた。
真っ白な壁を多めにフレームに入れ、陶彫作品の体から下の部分を切り取った。そこに、白壁を照らす光の筋が入ることで、三種類の白色が画面にメリハリをつけている。

見る者の意識が陶彫へと向けられる効果が出るのは言うまでもない。
それにプラスして、どことなくうら寂しい雰囲気を出すとともに、写真に写りこんでいる情報量の少なさのために、見るものの目を一瞬引きつける効果も期待している。

やきもの散歩道 http://www.tokoname-kankou.net/annai/spot/db01.html#sanpo
陶彫のある散歩道 陶彫作品一覧 http://www.toko.or.jp/cyuo/toucho/index.html

すきっぱら