Hatena::ブログ(Diary)

萩の塵拾い

2016-10-29

この世界の片隅に』先行上映を観て 16:01

 2001年夏、アニドウなみきたかし)から会報が来て(メールだったかもしれない)、『アリーテ姫』を片渕須直が作ったから観に行け、と言ってきた。すごく丁寧に作られているとても細やかなアニメ、というようなことで絶賛しているが、私は「えー、いまいち行きたくない」と思ったのだった。というのも、この原作『アリーテ姫の冒険』がとんでもないクズ作品であるにもかかわらず、「フェミニズム童話」の傑作などと言われているのを片腹痛い思いで眺めていたからだ。しかし、なみきたかしが絶賛するなら、アニメーションとしては凄いのだろうと思い、しぶしぶ観に行った。おそらく有楽町

 で、冒頭から相当な改変。姫は城を抜け出して庶民の暮らしを眺めに行く。生活するために働く人々のさまざまな手作業が丁寧に描かれていく(アニメーション制作は4℃)。この世界を愛し、自らの未来に胸躍らせて、私になにが出来るだろうと考える聡明な姫の造形は、非常に魅力的で、フェミニズム童話のヒロインに相応しい。そして話が進むに連れ、原作にケンカを売るかのような展開に。(後に片渕監督のコメントを見ると、翻訳が原書とは違ったとのこと。私はその点、未確認。)あまりのおもしろさに快哉を叫ぶ。そうだ。これこそがフェミニズムファンタジイだよ!

 ここで片渕須直の名前は頭にしっかりと刻まれた。

 ウィキペディア片渕須直が関わった作品を見てみると『名犬ラッシー』以外は、コンテ作に至るまでほぼ見ているのではないかと思う(単なる偶然だが)。

 それで、クラウドファンディングの情報が流れてきた時、反射的にお金を出した。最終的に、もしかしたら作品にならないかも知れない、という可能性は考えたが、がっかりするようなものを作られてしまう、というようなことは、まったく考えなかった。

 それから原作を読んだ。なるほど。『アリーテ姫』のように、自分の居場所から引きはがされて初めて、自分の道をたどり始める少女の成長物語だった。ヒロインはいくつかの分岐点で、自ら道を選んでいくのだけれども、逃げない道を選ぶ。やっぱり『アリーテ姫』と重なった。ファンタジイではないし、舞台が広島と呉で戦時中だから、凄惨だけれども、とことん前向き。これも同じ。

 うーん、片渕須直って、公式には男みたいだけど、実は女なんだな(笑)。先行上映の舞台挨拶で、お金がなくなって、一家四人の一食分が100円という状況になったこともあった、大根の皮干して食べた、などと語っていて、ああ、やっぱり(笑)。

 それはともかく、クラウドファンディングの出資者向けに進行状況が送られてきて、現実の再現ということにとても意を砕いているのだな、ということはわかった。そして、先行上映で見たそれは、漫画がそのまま自然に動く、美しいアニメーションだった。物語もそのままなので、『アリーテ姫』の時のような大きな驚きはないけれど、アニメならではの色、形、動き、そして映画だけの音があって、「嗚呼」と思うことがしばしばあった。

 ストーリーとして感動的だというのは、原作者・こうの史代が凄いのであって、アニメ製作者の手柄ではない。少なくとも、原作の魅力を損なわないというのは最低ラインだから(それをできていない作品が多数あるということは、ここでは何の関係もない)、そこのところに力点を置くのは、何か違う感じがするのだが、しかしそうすると、なかなか言葉が出て来ない。

 先行上映のあと、山梨に帰れないかも知れないと思ったので、友人宅に泊めてもらった。そこで明治期の工芸の話になり、清水三年坂美術館の本物そっくりの、象牙を刻んだ筍の話が出た。

http://www.sannenzaka-museum.co.jp/news.html

なるほど。アニメはこの筍だ。

筍の実物(現実の出来事)があって、その美しさに魅了されて画家は絵を描いた(こうの史代の漫画)。その絵を見て、筍ってこんなに美しいんだ、と思った彫刻師は、絵と実物を見ながら、筍を彫った(片渕監督のアニメ)。

 アニメの中ではより立体的に過去の風景が再現される。多くの人は、よりリアルに過去を感じることだろう。人々が現に生きていた、その世界を、私たちは自分の過去の風景の一つとして、記憶することができる。そんなことは言えるだろうか。

 先行上映の時に、このアニメはみなさんのおかげで出来たのだから誇ってくれと言われたのだが、アニメを誇りに思うのは、やっぱり違う気がする。私が作ったわけじゃない。ただ、片渕須直に注目して、ちゃんと支援できた自分は誇りに思ってもいいんじゃないだろうか。素晴らしいアニメーションが作られることに、わずかながら力を貸せたことを。

#この世界の片隅に こうの史代ファンの方へ。このアニメは原作のファンを決して裏切らない。「このアニメになって良かった」と言ってもらえるような作品だと思う。公式ガイドブックに掲載された、こうの史代のメッセージは「皆さんと一緒に泣いたり笑ったり出来る日を楽しみにしています!」

#この世界の片隅に こうの史代の原作のすべてがアニメに活かされたわけではないから、このシーンが、このセリフが抜けてる、ということはあるだろう。もしも抜けてて悲しかったら指摘して。原作にはこんなところもあったのだ、と知ってもらえる。

#この世界の片隅に アニメを通してこうの作品を読み直して、改めて気づかなかった細部に気づいたり、やっぱりここが素晴らしいと思ったり。アニメ化で原作の読者も増えると思うから、原作のファンには、漫画ならではの魅力も発信してもらいたい。

#この世界の片隅に ヒロインすずは昭和元年生まれ。なお健在の私の義母と同じ年だ。義母は大阪に住んでいたが、避難していて、そこから大阪が赤く染まるのを見たという。そして沖縄戦で兄を失くしている。団塊の世代から私ぐらいまでの世代にとって、すずの物語は母親の物語でもあるのだ。

#この世界の片隅に 戦争末期の広島と呉が舞台。東洋一とも言われた軍港、そして海軍工廠のある呉。大きな空爆目標の地である。そして広島になにが起きるか、知らぬ日本人がいるだろうか。この作品は海外でも観られることになるだろう。けれども、日本にいる私たちが観るのと、それは違うだろう。→そんな作品なのだから、海外で評価されて、日本では評判にならなかったというのでは、本当に悲しい。

#この世界の片隅に 片渕須直は戦前日本の航空機関連について詳しいそうで、戦闘機が飛ぶと、舅が「良い音させとる」とか言うわけだ。軍事面でも考証の見直しをおこなったということで、原作との違いを、この方面にまったく疎い私でも、一、二箇所は指摘できる。

#この世界の片隅に ミリオタにも見所の多い作品なのではないだろうか。アニメと原作の違い、アニメにおける軍事方面の表現などについて、詳しい分析を期待したい。わたくしにはまったくわからない方面。

#この世界の片隅に ミリオタばかりじゃない、料理研究家やら戦前の風俗研究家やら……どうですか、この表現は?と聞いてみたい思いに駆られる。自分は文芸以外は、本当に知らないなあ。見た目がどんなものだったやら、まではリアルに考えてはいない面もある。

#この世界の片隅に この日常を生きるすべての人に観てほしい。日々を生きるのは、辛くて苦しくて、でも幸いであるということを感じる。そんなアニメであると思うけど、特別に観てもらいたいと思うのは、戦争をしたい人たち、人を平気で戦地に行かせる人たちかもしれない。

#この世界の片隅に フェミニストにはまず『アリーテ姫』を観てもらいたい。それから、『この世界の片隅に』を観に行ってほしい。主体的に生きることのままならない状況で、いかにして自分を守り、育てながら生きていくのか。こんなことが描かれているアニメは滅多にないのだ。

(この部分について★著作権放棄

永瀬唯が通りますよ永瀬唯が通りますよ 2016/10/29 17:47 製作関連のイベントがあって、爆弾投下前の爆心地付近の美術動画が紹介されたおとのこと。
史料をぎっしりぎっしり詰め込んである本棚の超広角画像を見て思わず。

「広島の下水道局の歴史書がありますね」
「ええ」

満場のみなさんはお気づきになっていないだろうが、その美術ボードにはしっかりとただしごく小さくマンホールの蓋が描かれてあったのであります。

胸に縫いつけるIDタグは初期にはなかった血液型の項目が敗戦ちょっと前には加わってます。

「アメリカとかソ連と違って、日本では血液バンクシステムは確立していないのにねえ」
「ええ、そうなんですよ」

かかるがごとく片渕須直さんの過去の個人(架空)の印象風景再生へと向けられるエネルギーはすさまじいのです。

2016-08-25

『ちえりとチェリー』 父の娘の物語 18:20

 物語のモチーフの一つに〈父の娘〉なるものがある。

〈父の娘〉はもともとユング心理学の中に登場した概念で、父親心理的に寄り添いすぎていて、父権的な父親の価値観を内面化しており、父親が望むような「息子」になろうとする。同時に、愛する父親の恋人でもあろうとして葛藤に巻き込まれる。〈父の娘〉はしばしば母親とは対立するので、女性性が未成熟のまま、成長する。「パパのお嫁さんになる」と言うような「幼い女の子」のまま、大人になるということである。

 このような〈父の娘〉は物語の中にも、しばしば見受けられる。父親のことが大好きな娘が、父親を体現する存在になろうとするストーリー。ヒロインは父親の跡を継ぎ、一見するとかっこいいヒロイン(男顔負けの)を演じている。だが、果敢な行動の隠れた動機が「父親に認められたい」という、情けないものであったりする。例えば『コンタクト』や『トゥームレイダー』のヒロインがそうだ。二人とも死んだ父親に会うことに命をかける。大人の女性としての自立性が疑われる、ある意味で病的なキャラクターと言える。

 さて、『ちえりとチェリー』は、父親にかわいがられ、父親をことのほか愛する娘であるちえりと、父親代替物とも言うべきイマジナリー・フレンドのチェリーの物語である。これもまた〈父の娘〉の物語の一つと言えるだろう。しかし、『ちえりとチェリー』は上に掲げた『コンタクト』や『トゥームレイダー』と決定的に異なる。すなわち、これは〈父の娘〉から脱却する物語なのである。

 以下、少し詳しく見ていこう。

 ちえりの父親は、「いつもいっしょ」だとちえりに約束したものの、5年前に亡くなっている。ちえりは「約束を違えた」と父を恨むことはない。父の葬儀の時に見つけたウサギのぬいぐるみを、父親形代としているからだろうか。ちえりは11歳(たぶん)になった今も、父を愛し、「お前の想像力は世界一」という父の言葉を支えに、空想の世界で慰めを得て、生きている。〈父の娘〉のパターン通り、母親とは対立的である。母親の方は、そろそろ現実と向き合ってほしいと思っているが、ちえりは頑なに内面に閉じこもっているという感じだ。

 そんなちえりが、出産で苦しむ母犬の世話をすることによって、生まれては死にする生命の理(ことわり)に目覚める。そして、目を背け続けていたい、恐怖そのものであった父の死と対決し、これを克服するというストーリー展開になっている。味気ない解釈をすれば、生も死も一つのものとして呑み込む母性原理を獲得する道筋ということになるだろうか。

 さて、〈父の娘〉を心理学的に考える場合、父親が娘を支配し続けようとするか、娘を外へ送り出そうとするかで、娘の行く道は異なっていくという。支配は一面では守護でもあるので、父親は娘を守っているつもりで、父親の支配の内に引きとどめることもあるだろう。

 昔話に登場する〈父の娘〉を見てみると、例えば「かえるの王子」の王様は、出て行くのを嫌がる娘を送り出す父であり、「美女と野獣」の父親は、送り出すのを渋って娘を危機に陥れる父である。「美女と野獣」では、娘の方が出て行く決意をして、運命を切り開いていく。

 ちえりはどうか。クライマックスで、父を体現するチェリーは「ちえりは、おとなになるんだ」と言って、ちえりを外の世界へと押し出そうとする。ちえりは「おとなになんかなりたくない」と言って泣く。「かえるの王子」のパターンのように見える。しかし、実のところ、これはちえりの内面の葛藤を外在化させたものなので、ちえりは、究極的には「美女と野獣」のように、自らを外へと押し出そうとしていると言える。ちえりは自ら成長するのだ。

 作品の始めの方で、庭の敷石が海に浮かぶ島となり、何もない場所に椰子の木が一気に成長し、ありきたりの日常の風景が、幻想的な空間へと変貌する。それと同じように——魔法のように——ちえりは自らを励まし、成長させる。

 インナースペースで展開されている葛藤の物語を、ファンタジイとして具現化したこのアニメでは、単純には割り切れない人の心の複雑さが、そのまま描かれている。心の中にはさまざまなものが巣くっている。恐怖の「どんどらべっこ」もまた、ちえりの一部。落ち着きのないねずみも、誇り高い猫も、みなちえりの分身だ。チェリーがそうであるのは言を俟たない。

 ちえりに成長を促すチェリーは、おそらく、ちえりの父親が生きていたらするであろうことをやっている。しかしチェリーはちえり自身なのだ! ちえりは、きわめて深く父親を内面化しているとも言え、その意味ではちえりは、紛れもなく〈父の娘〉であり続ける。だが、同時に、父親にすがって生きることをやめ、一人の少女として自立するのである。

 最後に用意された母親のと和解シーンは、ちえりが病的に〈父の娘〉である状態から脱却を果たしたことを象徴する。「これからもずっと私の……お母さんだから」とちえりは、母の娘であることを宣言するのだから。(しかしこのせりふには違和感がつきまとう。母親の立場から言わせてもらえば、子どもに言われるようなことではない。普通に「お母さんの娘だから」ではいけなかったのだろうか。)母親はそれを受けて、ちえりが〈父の娘〉でもあることを認める。ここで、ちえりという一人の少女が完成したと言えるだろう。

 大切な人の死を乗り越えて成長していくというテーマでこの作品を眺める時、間然するところのない、感動的な作品であることは、誰もが認めるところだろう。

〈父の娘〉というテーマで見ても、この作品は興味深い。言葉を尽くせた気がしないが、さまざまな見方を許容する深度を持った『ちえりとチェリー』について何か言っておきたいと思い、今回は書いてみた。

2016-07-03

『神の聖なる天使たち——ジョン・ディー精霊召喚一五八一〜一六〇七』 10:51

 ジョン・ディーエリザベス朝の魔術師占星術錬金術をよくし、イングランドの宮廷に仕えたこともある。水晶玉を用いて天使とエノク語で交信し、隠された宝の探索をおこなった。厖大な蔵書の持ち主で、ディーの家は私設図書館の趣であったた。数年にわたって大陸を放浪し、女王エリザベス一世のスパイだったという説もある。

 一般に理解されているジョン・ディー像は、このようなものではないだろうか。オカルトの大家然とした、謎めいた人物。

  このような一般のイメージはともかく、研究家によるジョン・ディー像は、世界の神秘を神からの啓示によって解き明かそうとする、十六世紀的な科学哲学者ということになるようだ。広範な知識を持ち、科学的にものごとを考えることができると同時に、キリスト教という宗教と骨がらみで、その思考法から抜け出せず、神秘的な世界観を持っている……近代以前の世界の、典型的な学者像と言えるだろう。

 一方、ファンタジイやホラーの中で、ディーはしばしば本物の魔術師、真性のオカルティストとして登場し、幾多の不思議をなす。例えばラヴクラフトは、英訳版『ネクロノミコン』の訳者をジョン・ディーであるとした。児童文学のファンタジイ大人向けの伝奇ファンタジイでも、本物の魔術師ジョン・ディーが登場したりする。ディーは歴史上に実在した人間の中で、魔術を弄する人物として描かれる頻度が最も高い人物と言えるかもしれない。フィクションジョン・ディーをこのように扱うため、一般人の中のジョン・ディー像はより一層、曖昧模糊とする。

 さて、ディーの「魔術師」としてのイメージ。それを最も強く印象づけるのは、彼が天使と交信したという「事実」である。ジョン・ディー自身が、詳細な天使との交信記録、いわゆる『精霊日誌』を後世に遺しているのだ。『精霊日誌』の実際がどのようなものであり、天使との交信がいかなるものであったのか、その内実に迫ったのが横山茂雄著作『神の聖なる天使たち——ジョン・ディー精霊召喚一五八一〜一六〇七』(研究社、2016)である。

 内実と言っても、『精霊日誌』の内容を逐語訳的に紹介しているわけではない。『精霊日誌』がそうした紹介には適さないということもあるのかもしれないが、著者が注目しているのは、『精霊日誌』の内容そのものではなく、むしろ精霊交信する人間の側だからだ。従って本書は、『精霊日誌』の内容を検討するだけでは収まらない。ジョン・ディー自身はもちろんのこと、霊媒として天使との交信を実際に行ったエドワードケリーをはじめ、天使召喚に関わったさまざまな人々の動向が、ほぼ時間を追う形で解説されてゆくのである。

 本書を一読すれば、ディーの『精霊日誌』に関わるすべてが、奇々怪々と思えることだろう。そしてその奇々怪々の中から最も鮮烈に浮かび上がってくるのが、人間の心の不可思議さではあるまいか。

 俗説に従えば、「天使との交信」は、霊媒役を務めたエドワードケリーによるペテンであり、学者肌のジョン・ディーは騙されたのだ、ということのようだ。しかし著者はそのような単純な見方に異を唱える。エドワードケリーはただの詐欺師ではないし、ジョン・ディーも騙されやすい真面目な学者というわけではないと。「天使の交信」では、一筋縄ではいかない摩訶不思議なこと(と言っても超自然的なことというわけではない、理性では律しきれない何かということ)が起こっているのだと主張する。そして「天使との交信」におけるエドワードケリーが、単純な詐欺師などとは到底呼べないことを、説得力をもって語っている。

 ケリー精霊召喚をめぐる一連の行動について考えてみると、まず、詐欺行為にしては見返りがあまりにも薄い。ジョン・ディーは確かに価値ある蔵書を持ってはいたが、金銭的には逼迫しており、優良なカモとは到底言えない。また、「エノク語」による天使との交信は、繁雑をきわめ、期待されるこけおどし効果を遥かに超えている。ケリーは天使との複雑なやりとりに「頭が灼けるようだ」と悲痛の声をあげている。これほどの労苦の果てに、大きな金銭的見返りがなく、ケリーは天使に借金を頼んでいる始末である。

 しかも、ケリー交信をやめたがっているのに、ディーがそれを許さない。さらに、ケリーは、自分が交信しているのは天使ではなくて、悪魔ではないかという疑いを持っているのに、ジョン・ディーはそれを認めようとはしない。

 著者はこのような一連の情報を『精霊日誌』などからすくい取り、ケリー精霊召喚がただの詐欺行為などではないことを示す。著者はは執筆動機の一つとして、エドワードケリーの名誉回復ということを挙げているが、それを充分に果たす内容と言えるだろう。

 ケリージョン・ディーのもとに現れたときにはすでに二十代半ばで、霊媒としては年齢超過気味である。しかしケリーは結果を出した。実際に幻視体質だったのだろう。もっとも幻視の実質が何であるかは分からない。無意識のうちに明晰夢を見る技術だったかも知れないし、過度の想像力を持っていたのかも知れない。ともあれ、ケリーは、自分の見たヴィジョンに巻き込まれる形で、ジョン・ディーの熱狂に影響されつつ、聖霊との交信を続けていく羽目になったのではないか。ケリーとディーは、もろともにオカルトの妖しい力に翻弄されて数年を過ごすが、ついに熱狂の一時期は終熄を迎え、二人は袂を分かつことになる。ディーは別の霊媒を使って精霊召喚作業にいそしみ、ケリープラハ錬金術師として名を上げるも、最後には犯罪者として死を迎えるのである。

 本書は、『精霊日誌』の内容の錯雑ぶりや不可解さとは裏腹に、一気呵成に読み進めることのできる、エンターテインメント的研究書である。篤実な研究書であることは、参考文献からもうかがい知れるが、20年以上にわたって書き継がれてきた『精霊日誌』関係のエッセイを一覧することでもわかる。最初期の原稿では、ケリーの経歴は一般的な説に則ったものだ。しかし本書においては、それらは訂正され、ケリーの真実の足跡(と思われるもの)が、明らかにされている。不明の部分は不明のままであるため、ケリーの経歴はやはり瞭然としたものではないのだが、風評的言説は取り除かれ、よりケリーの真実に肉薄したものとなっているのだ。

 オカルティズム、エリザベス朝、天使といったキイワードに惹かれるような読者であれば、本書を充分に楽しむことができるだろう。

 さて、私が本書で最もおぞましく感じたのは、スワッピングを命じるみだらな精霊をなおも天使と信じ続けるディーの熱狂でもなければ、難解きわまるエノク語の暗号操作を、無意識の領域を駆使して成し遂げるケリーの狂気でもなかった。実は、エピローグに当たる部分、ジョン・ディーの息子アーサー・ディーについて記した部分なのである。

 ディーの息子は、ボヘミアへの旅にも同行し、霊媒をいやがるケリーの代わりに、霊媒を務めたりもした。大したヴィジョンを得られなかったようで、霊媒を務めたのはごく一時的なことだったようだ。その彼が後に、エッセイ『医家の宗教』で知られるトマス・ブラウンと知己になり、彼に語ったという言葉が、本書には記されている。「金属変成を目の当たりにした、紛うことなく何度も見た」と。錬金術文献の抜粋要約からなる著書『化学の束』の序文には、「私は七年間というもの錬金術の真実の直接の目撃者であった」とも記している。

 ……こうして、オカルティズムへの熱狂が再生産される、と私は感じた。この世ならぬ力に吸引される、人間の業の深さを、強烈に思い知らされ、暗然とさせられたのである。